心はお爺ちゃん

「ところで、お前、名前は決まったのか」


 それが目下の悩みだったことを思い出し、ジカルドは買ってきたばかりのちゃぶ台に缶を置いた。


「酒、はどうだ。そのままが一番いい」

「それでいいよ。字はそのままか」


 フォルトナはルーズリーフと鉛筆を持ち出した。学生ならば紙とペン、そんな配慮で購入した。


「しかし、お前を呼ぶたびに飲みたくなっては仕方がない」

「じゃあ水だな」

「姓は漢字で二つ使うものが多いらしいから、もう一つつけよう」

「とらわれる必要もないがな」


 ぐいっと缶を煽るフォルトナは怠惰そのものである。紙上の水の字が踊っている。


「水、水、水といえば」

「樽だな」

「そうだが、しかしこっちではあまり使われんみたいだがな。水を溜めずともあの蛇口をひねればいいのだから、便利だな」


 ジカルドはフォルトナから缶を奪う。酒には強いと思っていたが、この体はジカルドのものであって、そうではなかった。姿形も違うし若干の性別の差異もある、アルコールの限界量もだいぶ下がっていた。

 くらりとしながらも名前を探し続けた。


「蛇口か。それでいいだろう。革命的な名だ」


 フォルトナは軽く缶を振って中身を確かめ、すするように飲み干した。


「姓は決まったから、次は名だ」

「明日にしないか。疲れた」


 布団に横になるとフォルトナはすぐに眠った。ジカルドも酔いのせいか、ちゃぶ台につっぷすと、寝息が聞こえてくるまでに十秒もかからなかった。

 神の目敏さか、それとも感覚的なものか、フォルトナはちゃっかり時計を買っていた。

 午前八時にアラームが鳴った。予定はないが、この目覚ましの機能を使って見たかっただけである。あくびをしながら目を覚ました。


「へえ、いい鶏だ」

 フォルトナは農民や商人などから支持を受ける一般的な神である。その暮らしぶりにも理解があり、農村部の人間たちは鶏の鳴き声で起床することを知っていた。


「起きろ」


 彼女の起こし方は普通ではなく、ジカルドの腹に一撃を入れた。


「む」


 刮目と同時に跳ね起きて部屋の隅に背を預けた。


「ここは戦場ではないし、この世界ではそれが日常でもないぞ」

「あ、ああ。だが反射だ」


 睡魔をすでに死んでいる。ジカルドは昨晩のままの蛇口の文字に目を落とす。


「名を決めなくては。明日には、俺は学生なのだろう」

「ああ。女学生だな」


 フォルトナは這うように風呂場へ向かった。その間、ルカの名を捨てるに恥ずかしくない名を模索した。


「いっそルカにしてしまおうか」


 しかし、やはり。そんな逡巡が繰り返され、一向にまとまらない。


「俺を象徴する何かが」


 考えながら小用に立ち、布団へ潜り込んだ。


「俺、か」


 風呂場でシャワーを浴びるフォルトナは、ジカルドの名前のことなど頭になく、ただ水流の心地よさにうっとりとしている。


(これだけは神といえどほだされぬわけにはいかんな)


 その至福のひと時をぶち壊す、下品な笑い声。


「おいフォルトナ、決まったぞ俺の名が。わっはっはっは!」


 ろくなものじゃない。直感だった。

 真新しいバスタオルで雫をぬぐい、これも新たに買ったジャージに着替えて出て見ると、ジカルドは興奮したように、股座はジャージに収まってはいるが、顔は火照っている。


「言ってみろ。ただし、私の入浴を妨げたのだから、それなりなものでなければただで済まさないからな」

「安心しろ。俺は女だが、ある一箇所は男なわけだよな」


 思い出したくはないが、自然とそれが浮かんでしまう。かぶりを振って打ち消した。


「中間な訳だ。頭に繋がるこの首と、胸毛もないこの乳房には首が二つ」

「それは男女ともにそうだろうが」


 苛立ちと羞恥を抑えられないフォルトナは、ジカルドのはだけた胸から目を晒す。このままだと下まで脱ぎそうだった。


「もう一つ首があるじゃないか」

「馬鹿ァ! それ以上言うならその首どこでも落としてやるぞ!」


 泣き出さんほどの剣幕である。ジカルドに背を向けて布団に潜り込んだ。

 激怒されるかさらりと躱されるのだと本気で信じていたジカルドは、まさかこんな反応が返ってくるとはと、急にしおらしくなってすり寄った。


「ほ、ほんの冗談だ。な、俺が悪かった」


 彼は死するときにも諧謔を忘れない男であり、さらには積み上げた歳月の分だけ老獪であり、自分が折れることを知っている。そもそもが憎まれはしても憎みはしない性格で、人当たりは良い方なのだ。


「許せよ、この手の冗談は控えるからさ」


 ぽんと肩に手を置くと、フォルトナは触るなとはねのけた。


「この通り勘弁してくれ。な、また一緒になって名を考えてくれないか」


 謝罪の意など微塵もありはしないが、形だけは誠心誠意頭を下げた。土下座がその最上級系なのは、どの世界でもそうらしい。


「神様よ、頼むぜ、あんたに見捨てられたら俺はもう終わりなんだから」


 見苦しいにもほどがあるが、だからこそフォルトナもちらりと振り返った。人の心に入り込む魔性の微笑みは、男の姿であればそのギャップにやられ、女の姿では惚れ惚れするような可愛らしさがあった。


「頼む。俺にはあんたが必要なんだ」


 財布として、相談役として、何より生活の安定させるためには一人より二人の方がいい。そんな魂胆ではあるが、今まで神に願うことをしなかったこのルカ・ジカルドが平伏低頭している姿に心を動かされた。


「次にやったら、神の怒りがお前を八つ裂きにするからな」


 溜まった涙をゴシゴシとこすり、ひとまずは許したフォルトナだが、彼女はまだ知らない。こんなことが幾たびもあろうとは。

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