プロローグ4 蛮なる男、ジカルドちゃん

「うわぁ!」


 五分もしないうちにジカルドは飛び起きた。畳の上に運ばれていて、近くでフォルトナもきゃあと叫んだ。


「驚かせるな。悪い夢でも見たのか」


 その表情は柔らかい。異常なほどに柔らかい。おもちゃを与えられた子猫のようだ。


「お、おう。なんだか妙な」


 声が、高い。上ずっているのではなく、慣れた己の、狼のようだと恐れられた骨太の声が、馴染みの情婦リサに似た高音なのだ。


「ひっ」


 悲鳴でさえもそうである。ジカルドはおもわず喉を抑えたが、その出所の起伏のない滑らかさに総毛立った。


「あっはっは。それくらい怯えれば、あの場も盛り上がったのに」


 すっかりくつろいでいるフォルトナは、見た目相応にくるくると笑った。

 はたから見ればこの二人、ただの女学生である。ローブ姿であるとか、己の姿に悶えるとか、そういうものを除けばだが。


「俺は一体どうしたというんだ。なんだ、呪いか、あの男を馬鹿にしたからその報復か?」


 ジカルドは何度も鏡像と自分とを往復し、必死になってルカ・ジカルドとの共通点を見出そうとした。

 かろうじて、瞳の色が黒いことがあげられたが、これは別に彼だけの特徴ではない。

 口元が少し似ていた。その程度の微妙な、見方ひとつで変わる些細なことにすら救われた気がした。


「新しい人生を始めるにあたり、八十のままじゃ支障が出る。だから若い体を与えられたのだ。歳は十六、しかし強靭さは生前のお前と同じだ」


 これからの伸び代だってあるぞ、とフォルトナは言う。


「じゃあかつての俺でいいだろうが。なぜ、お、お、女になっているのだ」


 事実を認めたくないのか、さりげなく手鏡を裏向きに置いた。


「前は男だったから次は女にしよう、と。まあそれだけの理由だ」


 この体に決めたのはまた別の神らしく、詳細は知らないと言う。


「さ、私はお前の慌てふためく姿を見れて満足。お前は疑問を解消しスッキリ。そうだろう?」


 キリキリと締め付けるような頭痛がした。しかしもはや引き返す場所もなく、そもそも命を失ってからは流れ作業のような転生であり、抗うことはできなかった。


「釈然としないが、どうすることもできないんだろう?」

「うん」

「これでいいさ。我慢、というか、慣れることにする」


 ようやくジカルドは受け入れた。女として生きるとは、とその先々にある未知の生活様式を想像すると、自分をここまで連れてきた目の前の神である少女が急に頼もしくなった。

 フォルトナは襖を開け、ダンボール箱を引きずり出した。開けるとまた複数の箱があって、そのうちの一つをジカルドに渡した。

 手のひらに収まる螺鈿の箱だ。神秘的に淡く輝いている。顎で開けろと指示された。


「この世界での、お前のこれまでの人生が全てが入っている」

「これまで?」

「突然に十六歳で産み落とされるわけがないだろう。脈々と続く命の一つとして、ジカルド、お前がいるんだ。育まれたこと、学んだこと、それらを詰め込んだものがそれだ。つまり神の奇跡として時間の矛盾を解消し、新しい人間をここに創り出す。その箱を開けた時、お前は生まれるわけだ」

「ほー。よくわからんが、開ければいいのか」


 ふたを開けたその瞬間、ジカルドは覚悟を持って行うべきだったと理解した。

 脳へと叩き込まれる十六年の軌跡、一秒、一分、一時間、凝縮された年月がことごとくぶち込まれ、


「吠えるなら箱に口を当てろ。近所迷惑だからな」


 と、フォルトナは箱にジカルドの顔を埋めさせた。ちょうど口だけを隠し、音は一切漏れてこない。しかしジカルドの表情と全身の痙攣は、音がなくとも苦しみが聞こえてくるようで、獣の断末魔のような狂わんばかりのおぞましさがある。

 ジカルドの脳内は、知らないながらも己の人生を、理解を超えた思い出をインプットしていく。そして世界の倫理や常識、事象に気象、果ては瑣末なルールまで。いつ覚えたかはわからないが、なんとなく知っていることできること、そういったことまでが膨大な情報量で入り込んでくる。

 入学式、卒業式、長期休暇。学校の記憶がほとんどだが、そこには喧嘩をする自分もいた。この顔で、派手に流血している。

 中学の卒業式を終え、合格した高校へと進む。その間の休暇を楽しんでいる、という現状だった。

 両親は他界していて、親戚からの援助でこの生活をしている。困窮きわまり借金をし、家具はすべて差し押さえられ、遊ぶ金もなく、この安いアパートの一室にいる。

 そういう設定に神はジカルドを置いた。

 ひどい頭痛が治ると、口を当てていた箱がジカルドの手からひとりでに離れた。

 空間に浮かぶメッセージは、たった今理解した日本語である。


「読めるか?」


 肩で息をするジカルドいフォルトナはからかうように訊いた。


「そうじゃなきゃ困る」


 読み上げると、耳障り、というほどでもないが、落ち着かない。

 自分が発した声も、直線曲線入り混じる、妙な文字にも、首を傾げたくなる。


「神の愛と慈悲により、ルカ・ジカルドを改めよ。我らが新たな名を与うるのではなく、己が選択により定めることを許そう。心して名付くが良い」

「ルカ・ジカルドじゃなくて、新しく名前をつけろってこと」

「それくらいわかる」


 ここは日本である。西暦は二千百年。ジカルドの名前は海外のそれだ。


「日本っぽい名前をつけたほうがいいのか?」

「顔立ちは日本人だ。それが無難だろう」

「しかし、俺は名前なんてつけたことがない。子どもはいなかったからな」


 愛を交わしたことはあるが生涯独身を貫いた男だった彼女、命名の経験など愛馬にはロータス、犬にはラグノーフ、剣にはベルと、それが全てである。


「適当にしようにも、その適当がわからんぞ」

「何か相応しいものがあるはずだ」


 悩みに悩み、そして日が暮れてしまった。螺鈿の箱は輝くのをやめ、女二人で呻く。


「好きな酒の名前をもらおうか」


 ジカルドの好きなものシリーズは数十を超えているが、決定には至っていない。


「なに」


 それに付き合うフォルトナ、どうせハズレだろうと思うも、一応は聞いてみる。それくらいに悩んでいた。


「そうだな、よく考えたらアルコールならなんでもいいんだった」

「馬鹿め。好きな動物、好きな食べ物、好きな戦、全部同じ答えだったじゃないか」

「思いつかないんだからしょうがないだろう。それよりお前も考えろ」

「わかっている」


 彼女が考える必要はないのだが、一緒になって頭をかかえるあたり人が良い。


「アレはどうだ、一回死んだから『死んだ』というのは」

「採用だ」

「ふざけるのはよせ」

「お前がいうな」


 そして無言。悪態をつく体力もなくなっていた。


「腹が減ったぞ」


 ジカルドはセーラー服の下から腹に手を当てた。そういう確認にも、


(これが制服? ひらひらして落ち着かねえ)


 と心中で悪態をついている。


「私も。確か、近くにコンビニがあるから、何か買ってこよう」


 フォルトナはすっかり世界に順応している。その知識も理解も応用も現代人と遜色ない。


「買うって、金はあるのか」

「そこは、奇跡の力だ」


 懐からがま口を取り出し、小銭を振り落とした。


「ひい、ふう、みい、六百五十円。何が買えるかわかるか?」

「え? なんだろうな、わからん」

「おにぎりだよ。五個買って、分けるんだ」


 不思議な新世界テストをして連れ立って外に出た。履物は下駄であり、これも神によってもたらされたものだ。


「ちょっと待て、ローブは目立つから着替える」


 玄関から襖に小走りで向かい、衣服を持って風呂場へ。衣擦れの後、ジャージ姿で現れた。中学時代のものである。


「よし、行こう」

「なあ、俺はこれで良いのか?」

「他にはジャージしかないぞ」

「俺もそれを着る」


 出立を決めてから十分ほどでようやく下駄を履いた。コンビニまでは五分ほどだ。


「理解はしているが、不思議な店だな」

「うん。私も実際には初めてだ」


 買い物はやってみるとスムーズで、体が勝手に動くような心地でいる。


「合計で七百四十五円でーす」


 バイトの女の子はそう告げた。

 足りないぞ。と二人の間にアイコンタクトが行われ、


「ツケは、きかないんだよな」

「へ? つ、ツケですか? そういうのはちょっと」

「これ戻したら足りるか?」


 言いながらフォルトナはおにぎりを一つ棚に戻した。


「え、ええと、そうですね。足ります」

「じゃあそれで」


 会計をすませると速やかに店を出た。自分でも不思議なほど、ジカルドは顔から火が出そうなほど恥ずかしく気まずかった。

 帰宅し食事をすませると、また名前を考える。しかしアイデアは浮かばない。気を紛らわせようとフォルトナは何らかのストレッチをしたりしていると、


「俺、便所に行きたいんだが」


 と、ジカルドが言い出した。


「そんなの、行けば良いだろう」

「いや、俺はほら、この面にこの体だろ」

「理解しているんじゃないのか。早く行け。汚すなよ」


 にべもなく会話を打ち切られ、腰をあげる。


「ん?」

「何だ。まさかとは思うが」


 スカートに目をやるも、そこには染みひとつない。少なくともフォルトナが考えたような粗相はない。


「奇跡だ」

「はあ?」


 そそくさとトイレに駆け込み、やたらと笑顔で戻ってきた。


「初めて見たわけでもあるまいに」


 ふっふっふと笑みを浮かべ、ジカルドはしばらく喉で笑った。この時ばかりは狼のような声だった。


「どうだ、女同士、風呂にでも入ろうじゃないか」

「断る」


 唐突な提案だったし、フォルトナはジカルドの男の姿を知っている。彼女はとやかく言うが、まだこの新しい女には慣れていなかった。


「私は神だぞ。人間と一緒に湯浴みなどするか」

「堅いことを言うな」

「うるさい一人で行け」


 仕方なしとジカルドは服を脱ぎ始めた。脱衣所は使わず、居間でした。


「男とか女とかそういうことじゃなくて、基本的にここで服は脱がないだろう」


 フォルトナは興味なさげにしていたが、しかし裸体に見とれた。するするとセーラー服を脱ぎ、乳房が揺れた。


(生意気な)


 それが率直な感想だった。


「フォルトナよ」


 ようく見ておけ。と不気味に微笑みジカルドは一気にパンツを下ろした。


「見るって、はあ? な、なな、それは……」


 しっかりと胸はある。華奢な体、顔も十分すぎるほどに女のジカルド。

 しかしその股には、彼女が彼であった頃の、男としての象徴がぶら下がっていたのだ。


「はーはっはっはっはっは! どうだ、これがルカ・ジカルドの逸物よ! ただの女に甘んじる俺じゃあねえ、新しい命をありがとうよ! おまけにタマまで! タマが二つ、違うな、三つだ、たまでひとつ、タマがふたっつ、おまけのおまけで竿までありやがる!」


 豪快に笑う全裸の女、笑うたびにソレが揺れ、フォルトナは顔を真っ赤にして口をパクパクさせている。


「ふ、不潔! 女の風上にも置けない最低な男! 蛮だ! この変態!」

「けっ、初めて見たわけでもあるまいに」

「馬鹿! 早く服を着ろ! はっ、まさか、それを見せたいがために風呂に!」

「その通り! 気分はどうだ、俺は最高だ。これで便所のたびにモヤモヤすることはねえ」

「恥知らず!」

「ガッハッハ。それじゃあ湯浴みに行ってくらぁ。見たくなったらいつでも言えよ」

「うるさい!」


 シャワーの音、それと牧歌的な鼻歌。ご機嫌なジカルドだが、フォルトナは動悸がおさまらない。俯いて頬を染めた。


「あ、あんなものが付いているのか? 男って危いな」

「おい」

「ぎゃわぁ!」


 ジカルドがずぶ濡れで、床を濡らしながら現れた。その股はご機嫌そのものである。


「タオルがないんだが」


 下卑た笑みである。見せつけるために準備してきたようだ。

 ぎゃわぁ! とまた絹を割く悲鳴、悲しいかな、視線はある一点へ。


「もういっぺん死んでこい!」


 フォルトナは相当慌てていたのだろう、脱ぎ捨ててあった自分のローブを投げつけ、それがご機嫌なジカルドにふわりと乗って、その姿を覆い隠した。


「おっと歯痒い。物干し竿にはちょいと足りねえみたいだな」

「私の一張羅が!? この変態! 蛮なる男!」

「残念、女さ」


 轟々とする嬌声に似た悲鳴、そして高らかな笑声。


「この変態! 変態女! お前なんか、お前なんかぁ!」


 涙を浮かべるフォルトナに満足したのか、ジカルドはまた風呂へと戻って行った。


「良い気分だぜ、まったく」

「最悪だー!」


 神から必敗を望まれる名もなき女ジカルド、ジカルドの最後と最初を見届けた運命の女神フォルトナ、二人の生活はこうして始まったのだった。


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