ラミアと霧の王国〜吸血鬼の少女は歳を取りたいと願う〜
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第1話
ラミアは、年を取らない。
このラミアという名前には、女の吸血鬼という意味合いもあるらしい。自分の名すら忘れていたが、ラミアが大好きだった長老がそう名付けてくれたから、きっと自分の名は元々ラミアなのだと思った。
日頃は暗い野山を彷徨い、腹が減ると時折人里へと降りる。人々はラミア様がいらしたと歓迎してくれ、土産に誰のか分からない血を瓶一杯に詰めて渡してくれるのが常だ。その分、ラミアは集落の死にかけに若干の血を分け与える。ラミアの血は、人々の病を治す不思議な力を持っていたのだ。病も傷も瞬く間に治るが、ラミアと同じ様になる訳ではない。
昔、試しにひとりの若者に試して欲しいと言われたので吸血をしたことがあった。その男は、吸血鬼へと瞬時に変貌すると、理性を失い、集落の人間を片っ端から襲い始めた。ラミアは戦ったことなどなかったが、人間たちが助けてくれと泣きつくので、仕方なく戦ってみた。そうしたら、あっさりと勝ってしまった。
戦いを始めてすぐ、その男は朝日と共に灰になってしまったのだ。何故ラミアは灰にならないのかは謎だったが、人間たちが推測するには、ラミアは本物で男は偽物だったからではないかとのことだった。
それ以来、人間の血を吸うのは止めた。
人間が皆健康になると、ラミアはまたふらりと野山へ戻ろうとする。人間たちは、皆揃って待ってます、と優しく送り出してくれる。それがここ十年間のラミアと人間たちの間での習慣だった。
今回は、急ぎ用があり集落へと向かっているところだった。人間が分け与えてくれた白いふわふわのドレスは、雨風で大分黄ばんでしまった。しかも、暗い中歩いている時に小枝に引っ掛けてしまったらしく、足の部分が裂けてしまっている。これは早急に新しい服に変えねば、また山賊に襲われかねない。やはり服をねだろう、とラミアは思った。出来れば無駄な殺生はしたくはなかった。
ラミアの見た目は、女一歩手前の少女に近い。十四、五才程度の、ほっそりとした肢体。金の艶のある髪に、蝋の様に白く滑らかな肌は、人間たちが美しいといつも褒めてくれる。光加減によっては金色に光る赤い眼は、かつてこの地方に君臨した人外の王と同じだと、十年前に老衰で死んだ集落の長が話してくれた。
その王国は、四十年ほど前に滅びたのだという。原因は定かではないとのことだが、山の奥に静かにそびえる城からはある日突然人々が消えたそうだ。城下町も同様で、行商で入り込んだ集落の男が、どの家を覗いても今の今まで夕餉を食べていた途中の様な状態のまま放置されており、襲撃でも受け逃げたのではないかと語ったという。暫くの後、再びその城を訪れると、深い霧で覆われ辿り着くことが叶わなかった。
ラミアが人間の集落を訪れたのは、その頃だった。
ボロボロな格好で集落に辿り着くと、その場で倒れた。長老がラミアを連れ帰り、三日三晩看病をしてくれたそうだ。
ラミアはここにどこからどうやって来たかも、倒れて看病してもらったことも一切記憶にない。ある日突然、霧が晴れる様に意識が広がった。そこからラミアの記憶は始まっている。
目を覚ましたラミアを見て、泣いて喜ぶ老人。出された食事は喉を通らず、ラミアも老人も困り果てていたところ、滋養にと鹿の生肉を集落の猟師が分けてくれた。その血が滴る肉片を見て急に食欲が湧き肉に付着する血に吸い付いたのが、食事が血液であると判明したきっかけだった。
人のいなくなった王国の王は、吸血鬼だったのではという噂があったという。ラミアは、その王の血縁なのではないか。長老はそう推測した。だが、ラミアには人を襲いたいという欲求がない様だ。陽の光に弱いと噂があったが、ラミアは陽の光の下でもあっけらかんとしている。どういうことだろうと長老は首を捻ったが、可愛らしく素直で記憶のないラミアを、正体が分からないからといって集落から追い出すことが出来ないくらいには、もう情が移っていた。
ラミアは記憶はなかったが、文字が読めた。書くのも全く問題ない。識字率は決して高くない集落において、これはかなり貴重であった。ラミアは、代筆の仕事をする様になった。
いつまで経っても年を取らないラミアを、人々は始めの数年は気味悪がった。だがある時、ラミアと近所の少年が倒木の下敷きになったことがあった。ラミアは咄嗟に少年の上に乗って庇ったが、少年の足は潰れ今にも死にそうだ。ラミアも酷いものだったが、大人の助けで倒木から抜け出た途端、傷口は段々塞がっていった。仲のよかった少年の最期を看取ろうと抱き抱えた時、ラミアの血が少年の口にぽたりと入った。
その瞬間、少年の足は見る見るうちに繋がった。青ざめていた頬は赤く染まり、暫くすると立ち上がれる様になった。
ラミアと同様、陽の光を浴びても問題ない。ラミアと同族になったのかと思われたが、少年はすくすくと育ち、今では集落の長となっている。
このことから、ラミアの血には人間を治す力があると判明したのだ。それ以来、誰かが怪我をすると、ラミアの血を求められる様になった。血を分け与えた後は、体内の血が減って暫くは貧血状態となり起き上がれなくなる。だが、年を取らないラミアが受け入れられるには、この行為を続けるしかない。ラミアはそう思って、嫌な顔ひとつせず繰り返した。
それを見ていい顔をしなかったのが、ラミアの保護者となっている長老だった。集落の人間を助けることは、大事なことだ。だが、その度にラミアが苦しむ。長老は、死にかけ以外はラミアの血を分け与えることを禁じた。人々の反発はあったが、長老は頑として譲らなかった。
そして、ラミアに言った。
「ラミア、お前がここにいる限り、皆お前に期待する。だが、私はお前を傷付けたくはないのだ……!」
「おじいちゃん……」
ラミアの大好きな長老が、嘆いている。この特異な体質を、何とか出来ないか。治癒能力はいいとしても、せめて人並みに年を取ることは出来ないか。初めて思った瞬間だった。
考えに考え、集落に来て二十年程経ったある日、ラミアはとある決心をする。
「おじいちゃん、私、その王国に行ってみる」
城の中には、図書室もあるかもしれない。そこに、ラミアと同種の様に思われる人外の王について情報がないだろうか。そう思ってのことだった。
「私は血さえあれば食事は要らないし、それがなくなったら戻ってくればいい。死にそうな人を治したら、また王国を探せばいい」
「ラミア、それはあまりに危険だ! ラミアの様な華奢な女の子がひとりで歩いていたら、どんな奴が襲ってくることか!」
だが、ラミアは知っていた。自分が人間よりもはるかに強いことを。人間の動きは緩慢に見える。自分の動体視力は非常に優れており、人々の為に狩りをしたりもしていた。
「お願い、おじいちゃん」
ラミアの意思は固かった。ラミアが一回言い始めたら譲らないことを、長老はよく知っている。暫くして深い溜息をつくと、危険に突っ込まない様にと口を酸っぱくして繰り返した。
それから、ラミアの王国探しが始まった。王国がある方面は分かっていたが、行ったことがある者がもういない。かつて行商に行った男は、数年前にもっと大きな町へと移住してしまった。
まっさらな紙を持ち、地図を書き込みながら進んだ。山の中を探しに探した。別の集落まで出てしまうこともあり、その時は王国の話を聞いて周り、大まかな方面を把握した。そうして出かけては収穫なく戻り、死にかけの人間に血を分け与え、また探しに出るを繰り返した。
そんな中、長老が倒れた。ラミアは王国を探すのを止めた。長老にラミアの血を分け与えても、長老は弱っていく一方だった。
「老衰には勝てないんだよ。もういいから、愛しい子」
長老はかなりの高齢だ。何故傍にいてやらなかったのか。王国を探し始めて五年の時が経ったが、霧の王国はどこかを彷徨っているのか、それこそ霧をつかむ様に存在をあらわにしない。その間に、少しずつ長老は死に向かっていたのだ。ラミアは後悔し、王国探しを断念した。それよりも、この大切な老人と共に過ごす優しい時間を取った。
それでも五年、一緒に過ごすことが出来た。最後の方は、寝たきりになった長老が喜ぶ様な花を取ってきたり、楽しい話をしたりして過ごした。
ラミアの目には、見えていた。長老の命の炎が、もうあと僅かで消えることが。悔いなく生を全うして欲しい。ラミアの願いはそれだけだった。
そして、ラミアは長老を見送った。ラミアを心から愛してくれた長老を、涙を流しながら弔った。
そして残ったのは、人外である自分と、他人である集落の人間の距離感だけだった。
長老が、これまでラミアと集落の人間の間を繋いでくれていたのだ。そう思い知ったのは、集落の長となったかつては少年だった男が、
「ラミア、そろそろまた旅に出るのかい?」
と聞いてきた時だった。男は、ラミアの味方だ。だが、年を取らないラミアの存在を不気味と思っている者は多い。特にこの十年は、最初の五年は殆どおらず、最後の五年は長老につきっきりで、呼ばれでもしない限り皆の前に顔を出さなかった。
人間の十年は長い。昔は受け入れられていたラミアは、彼らの中で遠い不思議な存在となっていたのだ。集落の人間は、男を通してラミアの身の振り方を確認してきたのだった。
ラミアは再び旅に出ざるを得なくなった。前の様に、いやそれ以上に死にかけではない人間にも血を分け与えることで、集落に居場所を確保しつつ。
長老が天に召されてから、十年が経った。そんな時、ここではないかという場所を見つけた。これまで、こんな場所があることに気付かなかった。それは一見、ただの割れた大岩だった。その隙間を通ると、深い谷が眼下に広がっていたのだ。一面霧に覆われ、全く先が見通せない。今入ってしまおうか、そう思ったが、持ってきていた血の残りが少ない。これは一旦血を分けてもらいに集落へ戻り、そして再びここに戻り踏み入ろうと決意した。
もし中に誰かいたら、こんなボロボロの服で会ったら怒られるのではないか。話も聞いてもらえないのではないか。そう思い、ラミアは急ぎ集落に戻った。
集落は、死に絶えていた。
何故、どうして。ラミアは混乱に泣き叫びながら、生き残りを探した。皆、明らかに人間の仕業と分かる切り傷を負って死んでいた。だが、若い女性の死体はない。
それで分かった。最近この辺りに進出してきた山賊が、女を攫う為に集落を襲撃したのだ。ラミアの味方の男は、生き延びているだろうか。ラミアは走った。途中、長老と長年過ごした家は無人だった為か無事に残っているのを確認出来た。男の家に飛び込む。白くなった髪を血で染めた男が、ぴく、と動く。
「ラミア……」
腹に大きな穴を開け、それでも男はぎりぎり何とか生きていた。ラミアが血を分け与えようと刃物を探すが、男が止めた。
「ラミア、俺はもうさすがに無理だ……血はいい、この傷を治す程の血は、お前が起きられなく、なる」
「で、でも……!」
確かに、この怪我では助かるかも微妙だ。しかも、ラミアが数日は寝込む量の血も必要となる。
「それより、奥の部屋に、俺の孫が……。寝てて助かった、ラミア、助け……」
ボロボロと、男の目からもラミアの目からも涙が流れる。ラミアは急ぎ奥の部屋へ行くと、まだ三歳の男の子がすやすやと寝ていた。ラミアは細い腕にそっとその子を抱くと、男の前に連れていく。
「ああ、無事だ、よかった……!」
男が、笑う。そしてそのまま目を閉じた。
ラミアは、身体の震えを止めることが出来なかった。ああ、王国など探しに出なければ、山賊などラミアが一蹴したのに。
男は、助かるのか微妙な自分が生き残れなかった場合、ラミアも暫くは起き上がれなくなり、幼い孫が飢えてしまうのを恐れたのだろう。その為に、自分の命よりもラミアを優先した。
「――必ず、大人になるまで育ててみせるから……!」
ラミアは、息絶えた男に涙ながらに約束する。まずはこの子を被害のない長老の家に連れて行くことにした。人間の死体は、放っておけば集落に狼がやってくる。その前に、まとめて焼いてしまうしかない。子供を安全に守るには、それしか方法がなかった。
ラミアは、覚悟を決めた。
◇
「ミーア、これ食べられる?」
ラミア、とうまく発音出来ない男の子は、名をフィルといった。もう喋られる年齢に達していたので、色々なことが会話で済む。赤ん坊の世話などしたことがないラミアにとって、フィルが幼児だったのは助かった。
「フィル、それは毒きのこだから駄目よ」
「えー。フィルわかんないよう」
「いい? このひだが赤いのは毒なのよ」
「ふうん。ミーア、物知りねー」
「ふふ、そうかもね」
ラミアはこれまで、血しか飲まなかった。だが、フィルは一緒に食べたがった。一緒じゃないと嫌、そう言われれば、無理をして食べ物を口にするしかない。
始めは吐き気すらあった飲食だったが、やがて段々慣れてきた。最早唯一の人間の生き残りであるフィルから血をもらう訳にもいかず、そうであれば他から栄養を取るしかない。どうしても血が飲みたくて焦燥感に襲われる時は、自分の血をコップに注ぎ飲んだ。
他の町に行き生活することも考えたが、やがては成長しないラミアに奇異の目が向けられるのは必須だ。その時、一緒にいるフィルにどんな被害が及ぶか分かったものではない。
幸い、ここには住める家がある。飲める湧き水もある。死人のものだが、服も家具もある。そして豊かな森が広がり、果物も狩りをすれば肉も手に入る。
フィルを連れて、あの山道を登り失われた王国に行くことは無謀のひと言だった。しかも、霧の奥に何が待っているかなど分かったものではない。いずれフィルが大きくなり伴侶を必要とした時、その時は別の町へと連れて行き、そこで別れよう。その時こそ、ラミアは幸せな死の方法を探す為に王国へ行くのだ。
すでに母親のことも祖父の存在も朧げな記憶になってきたこの子に、与えられるだけの愛情を与えてやれるのは自分だけだ。かつて長老が自分に与えてくれた様に、この子に注いでやるのだ。
そして、それは苦でもなんでもなく、むしろ次から次へとラミアから溢れてくるものだった。
ラミアは、幸せだった。
◇
「ラミア、それは俺が取る」
ラミアが背伸びして取ろうとしていた木の実を、フィルがヒョイと後ろから手を伸ばして取った。
フィルは、ラミアの身長を超えていた。年齢でいえば、十四才。見た目はラミアと同い年の、少年から青年への移行期にある。栗色の髪を後ろにひとつで縛っている姿は、かつての少年の姿によく似ていた。町に行けば、甘い笑顔で女性の目を惹くであろう。このままいけば、いずれは立派で見目麗しい男になるのだろうと思わせる雰囲気があった。
声変わりも終わり、さすがに一緒のベッドに寝るのはどうかと思い、別々の部屋で寝る様になったのが三年前の話だった。だけど、時折泣きそうな顔をして枕を持ちラミアの寝室に来ることがまだあった。そんな顔をされてしまえば、ラミアには拒否など出来ない。見た目はもう男なのにと思うと何だかおかしかったが、ラミアの中では、いつまでも小さく幼いフィルなのだ。例え背伸びしようが、男らしいところを見せようとしようが、全てが可愛く思える。だからそういう時は、優しく抱き締めて寝てやることにしていた。
フィルには、ひと通りのことは教えてきた。時折、予行練習を兼ねてあまり関わりのない大きめの町にフィルを連れていき、買い物の仕方、人との距離感など、少しずつ教えていった。
フィルは、それら全てを素直に吸収していった。元々が素直な性格の子だ。ラミア以外にも人間がいると知った時は怖がっていたが、今では買い物中に店主と笑いながら会話を交わす様にまでなった。
――別れの時も、もうすぐそこに迫っている。
それはラミアにとっては心が引き裂かれる様な痛みを伴う考えだったが、このまま成長しない異形のラミアと共にいても、フィルにとっていいことは何もない。大人になるまで育てる、それが男との約束だった。
この辺りでは、十六才で大人とされる。次の次のフィルの誕生日を過ぎたら、生活の場を町に変えよう。そしてフィルが職を得、慣れてきたところで、ラミアはフィルの元から去るのだ。フィルは始めは寂しがるだろうが、働きだせばそこで知り合いも増える。やがては恋人も出来るだろうし、そうなった時にラミアが一緒にいてはうまくいくものもいかないだろう。
今は最後のこの幸せな時を、記憶に刻もう。ラミアは思った。
◇
「ラミア、ただいま! 今日、親方に褒められたよ!」
「フィル、おかえりなさい」
町に引っ越しをして、一年が経った。最初、なかなか職が見つからなかったが、大家がフィルくらい素直な子ならいいかも、とそれまで弟子を取ろうとしなかった偏屈な家具職人を紹介してくれた。フィルはすぐに家具職人の親方になじみ、毎日楽しく通ってはその日何をしたかを教えてくれる様になった。
「お腹空いた! 今日のごはんは何?」
「フィルの好きなきのこのシチューよ」
「やった!」
食卓に向かい合わせに座り、シチューとパンの食事を始める。ラミアは、もう血を飲まなくなっていた。思うに、これまで血を欲していたのは、身体がそれに慣れていたからなのだろう。最初に集落に行った時も、記憶にないが、きっとその前まで食事が血だけだったのだ。フィルと食事をしている内に、美味しいとまで思える様になってきた。もしかして血を飲まなければ年を取るかとも期待したが、残念ながらそれはなかった。相変わらず、ラミアは大人一歩手前の女の子のままだ。フィルと並んでいると、フィルの方が年上に見える。この家も、親を亡くした兄妹という名目で借りることが出来た。
フィルが、勢いよくシチューを掻っ込みながら仕事のことを話していたが、急に真顔に戻る。
「……仕事は楽しいんだけどさ、最近親方が、親方の娘と遊びに行けってしつこいんだ」
「アメリだったかしら? 可愛らしいいい子よね。今度のおやすみの時にでもいってらっしゃいな」
ラミアがそう答えると、フィルがスプーンを置いた。じっとラミアを睨みつける様に見ている。フィルのこの表情はよく知っていた。言わなくても分かってよ、そういう時の顔だ。
「……ラミア、俺は」
「フィル、食べちゃいましょう」
「ラミア、聞いて、俺は」
「フィル」
フィルは更に不貞腐れた顔になると、無言になり一気にシチューを口に入れ、パンを持ってドスドスと不機嫌さをあらわにして自室へと消えた。
「……無理なのよ、フィル」
始めは、そんな可能性は考えてもみなかった。これまで、保護者としてずっとフィルの面倒をみてきたのだ。まさかフィルが自分に対しそんな感情を持つことになるとは、思ってもみなかった。
フィルとて、ラミアが明らかに他の人間とは違うことは分かっているだろう。どうして年を取らないのか、直接尋ねられたことはないが、分かっている。それは感じることがあった。
――もう、潮時なのだ。フィルが町に慣れるまで、そう思いこれまで一緒に過ごしてきた。だが、もう一年だ。そろそろ、何故変わらないのかを疑い始められてもおかしくはない。
そして、明らかに自分の存在がフィルの将来の幸せを阻害している。
ラミアは顔を手で覆う。一緒にいたかった。だけど、もう無理だ。
一旦、フィルと長年過ごした集落に戻ろう。あそこから、霧の王国へ向かうのだ。もう、血がなくても進める。保存食を持っていけば済むのだから、いつでもいける。
決めたのなら、今すぐ行こう。決心が揺らぐ前に、このままズルズルとフィルの想いに引き摺られていく前に。
ラミアは立ち上がると、閉じられたフィルの部屋のドアをコンコン、と叩く。暫くして、フィルの声が答えた。
「……なに」
「フィル、話があるの」
「アメリと遊びに行けって話なら、聞かない」
フィルは頑なだ。出来れば、最後に顔を見ておきたい。ラミアは、唇をぎゅっと噛み締め、涙を堪えた。
「……違うの、フィル」
「何が違うの」
フィルが怒っている。別れの時くらい、笑顔で別れたい。これまでの楽しかった生活が、幸せだった記憶が、ラミアの頬に温かい涙を流す。
「……フィル、私は、人間じゃない」
「――ラミア?」
ラミアの嗚咽混じりの声に、フィルは気付いたらしい。慌てた様にドアに走り寄ってくると、ドアを大きく開けた。手にはパンを握り締めたまま。
「ラミア、待って、何で泣いてるの」
ワタワタと慌て、ラミアの肩を掴もうとし、パンを持っていることに気付き、パンをベッドに放り投げて戻ってくる。ラミアの肩を両手で掴むと、自分よりも大分背が低くなってしまったラミアの顔を心配そうに覗き込む。優しい子だ。ずっと優しい子だった。きっとこれからも優しい男になり、その優しさを他の人間に向けるのだ。
自分以外の女性に。
「フィル、私は年を取らない化け物よ」
「ラミア、俺はラミアを化け物だなんて思ったことは一度も」
「私は死なない、年を取らない、人の血を糧とする吸血鬼なのよ」
「ラミ……」
フィルの前では、一度も血を吸うところを見せたことはなかった。怖がると思ったから。化け物だと思われたくなかったから。せめてフィルの前でだけは、ひとりの他の人と同じ人間でいたかったから。
だが、それももう限界だ。もう、これまで通り何でもない顔をしてフィルの隣にいるのは不可能だった。
「……お別れよ、フィル」
ラミアが泣き顔に笑みを浮かべ、言葉を絞り出す。
「何言ってんだよ! 嫌だ! 絶対嫌だ!」
フィルが、ラミアの細い身体を抱き締めた。まるで、こうしたらラミアがどこにも行かないだろうと思っているかの様に。
「もう無理なの。フィル、貴方は人間だから、人間の世界で生きるのが幸せなのよ。分かって」
「何勝手に人の幸せを決めてつけてるんだ! 嫌だ、嫌だ、絶対嫌だ!」
フィルの力は強く、いつの間にこんなに大きくなったんだろうと思う。一緒に年を取っていけたら、どんなにかよかっただろうかと思う。
ラミアは、渾身の力でフィルを押した。
「フィル、私は年を取る方法を探しに行くの。貴方と出会う前に、ずっと探していたの」
「年を取る……方法?」
フィルが尋ねる。ラミアは笑顔でそれに頷いてみせた。
「ええ。だから、それを見つけたら、その時はまた貴方に会いに行くわ。でも、いつになるか分からないの。だから、とりあえず一旦ここでお別れ」
「――俺も行く!」
言うと思っていた。だが、駄目だ。
「折角親方と上手くいってるんでしょう? 駄目よ、仕事は大事にしないと」
「仕事よりラミアの方が大事だ!」
無理だ、無理だ、フィルとこれ以上一緒に生きていくのは、フィルの不幸にしかならない――。
突き放そうと、抱き締めようとするフィルの胸を押す。だが、フィルはそんなラミアを掻き抱く。絶対に行かせない、逃さないと言わんばかりに、強く。
「――ラミア! 好きなんだ!」
フィルが、胸の中にいるラミアに聞かせるには大き過ぎる声で、叫ぶ様に言った。
――ああ、とうとう言ってしまった。
ラミアは、目を苦しげにつむる。
ラミアの華奢な手が、フィルをもう一度押し返そうとする。だが、その腕には先程までの力は込められなかった。もしかしたらそうなのだろうか、もしそうだったら、本当だったら嬉しい。心のどこかで、そう願う自分がずっといた。
だが、フィルの自分に対する気持ちは、親子の愛情に近いものな筈だ。だからきっと自分の勘違いで、そんなことはないだろう。そう言い聞かせ、化け物の自分には誰かに愛される資格などないと繰り返し心の中で唱えた。
なのに。
聞いてしまった。聞かなければ、きっと悲しいながらも振り向かずに進めたものを。
「ラミア、俺はずっとラミアのことが好きだったんだよ、気付いてなかったの?」
フィルが、あの小さかったフィルが、ラミアを見下ろしながら優しく頭を撫でる。
「え、あ、も、もしかしたらって……」
「ラミア、気付いてくれてたんだ! 俺、ラミアといられると思ったから働いた。ラミアがいなくなったら、仕事は辞める」
フィルの言葉に、ラミアは目を見開いて慌てて諭した。
「馬鹿、何を言っているの! ようやく人の世界に馴染んできたっていうのに!」
ラミアがドン! とフィルの胸を叩くと、フィルが真顔になる。
「……そんなもの、ラミアがいないならいらない」
「――え」
長いこと二人だけで暮らしていたのが裏目に出たのか。自分の選択は間違っていたのだろうか。これまで長いこと生きてきたのに、子育てなどしたことがなかったから、やり方を間違えたのか。
ラミアが愕然としフィルを見上げると、フィルの顔がすい、と近付いてきた。
「え……っ」
フィルの唇が触れた自分の唇を咄嗟に指で押さえると、フィルは切なそうな表情でラミアを見下ろす。
「……信じてよ、ラミア」
何か言おうと思った。だが、出てくるのは涙だけだった。フィルの手が、溢れた涙を掬い取る。
「一緒に行く」
フィルの言葉に、ラミアは無言でフィルの胸に抱きついたのだった。
◇
「ラミア、懐かしいね」
「一年誰もいないと、こんな風になってしまうのね……」
二人は、懐かしの集落に足を踏み入れていた。だが、それは半分森に呑まれかかっていた。
「俺たちが歩くだけでも違ったのかもな」
「そういうものなのね……」
あちらこちらに雑草が生い茂り、道は半ば消え失せている。道とは、人が歩き続けなければ消えていくのだと、ラミアは初めて知った。
「今日はここで一泊して、明日朝に出発しましょう」
「うん、分かった。――ラミア」
ラミアが顔を上げると、フィルが間髪入れず軽く口に触れる。あの時を境に、フィルからは家族としての愛情表現は消え、代わりに恋人としての接触が増えていった。ただ、ラミアは年齢こそ不詳であるが、見た目は幼い。それ以上のことはどうなのだろうという迷いがラミアにあるのが分かっているのだろう、フィルは口づけ以上のことはしてこなかった。
「ラミア、家はどうなってるかな」
「行ってみましょう」
フィルはラミアの手を取ると、嬉しそうにラミアを引っ張っていった。
◇
「ラミア、沢山寝られた?」
「ええ、お陰様で」
一緒に寝たいというフィルの願いを、「明日は歩くからしっかりと寝た方がいい」、と心を鬼にして断った昨夜。お陰でよく寝られた二人は、霧の谷底がある大岩の割れ目へと向かっていた。フィルが少し不貞腐れ気味なのは、気付かなかったふりをしておきたい。
フィルの面倒をみる様になってから、この森の奥へは一度も踏み入っていない。地形で覚えていた道だったが、時が経てば形も変わる。本当にこの道でいいのだろうかと不安を覚えつつ、ラミアは記憶を頼りに先へと進んだ。
フィルは、体力がある。元々この山の中の集落で飛んだり跳ねたりして過ごしてきた上に、今となればラミアよりも体格も良く、何より若い。ラミアは見た目は若いが、気持ちの上ではそこまで若いつもりはない。動体視力は人間以上ではあるが、動いてなければ体力は落ちる。
よって、気が付けばフィルがラミアの手を握り、ラミアに道がどちらかを尋ねつつ引っ張ってくれていた。
「ラミア、食べる量が少ないから。もっとちゃんと食べないと駄目だよ」
「そ、そうね……」
ひとりでこの辺りを彷徨いていた頃は、ほぼ休みなく歩けていた。それから考えると、かなり体力が落ちている。運動の差はあれど、決定的に違うのが――食事だった。
前も思ったことだ。血を飲まず、人間の食事だけを取っていたら、もしかして年を取る様になるのではないか。そう期待したが、なりはしなかった。だが、この体力の落ち具合から考えると、もしかしたら大分人間に近いところまで、実は来ているのではないか。
――人間になりたい。
こんなにも、切実に思ったのは初めてだった。年を取っていくフィルと、同じ時を刻んでいきたい。同じ速度で年を取り、集落にいた人たちの様に家族を作り、そして長老の様に誰かに看取られて死にたい。
フィルに出会う前までは、ただ平穏な死を迎えられればそれでよかった。死ぬことが出来ればそれでいい。そう思っていた。
だが、フィルに好きだと言ってもらえて、それまで抑え込んでいた欲がもこもこと膨らんだのだ。これは、贅沢なことなのだろうか。ただ、人として平凡な幸せを経験し、人として死にたいということが、あまりにもラミアにとっては難しいことだった。
フィルの力強い手に引っ張られながら、ひたすら前へと進んで行くと。
目的の大岩の前に、辿り着いた。
◇
「ラミア、俺が先を歩くから」
「駄目よ。何が襲ってくるか分からないし、この霧ではフィルは見えてないでしょう?」
「ラミアは見えてるの?」
「多分、貴方よりはね」
大岩の先には、人工的な石の階段が続いていた。緩やかで幅広のものだったが、いかんせん所々崩れている。しかも、視界は最悪だ。ラミアの動体視力の良さがなければ、とっくに二人とも、時折ぱっくりと口を開けている穴に落ちていただろう。
かなりの段数の階段を下ると、やがて平坦な地面がある場所へと降り立った。上の方よりも霧は薄く、うっすらと漂う霧の中に、朽ち果てた家屋が並んでいるのが確認出来る。これが、人が突然いなくなったとされる城下町だろうか。前方を見上げるが、霧の所為で城の姿は確認出来ない。
「……フィル、何が出てくるか分からないから、私の後ろを歩いて」
「でも」
フィルは、ラミアが怪我をしてもすぐ治ることを知らない。ラミアが人間よりも強いことを知らない。
「フィル、私は怪我をしてもすぐに治るの。ただ、貴方が怪我をしてしまったら、私の血を与えないと治らない。私が血を与えると、私は動けなくなるから」
「……分かった」
ちっとも納得していない様な声色だったが、無理矢理に前に出ることはやめてくれた様で助かった。
「……何かいる?」
「いえ、何も物音はしないわ」
普通だったら、廃屋には野生動物が住み着いたりする。だが、ここは霧の所為で光が届かない場所だからだろうか、人間はおろか、動物の気配すら感じられなかった。
死都、そう呼ぶのが相応しいのかもしれない。ラミアは思った。
警戒しながら、大通りらしき広い道を進む。時折、髑髏が道端に転がっているのが見えた。フィルがこれを見ていなければいいがと思い、まだまだ自分はフィルを小さな子供扱いしているのだな、と可笑しくなる。
かなりの距離を、そうして歩いた。やはり生き物の気配は一切ない。すると、正面の霧の中に、暗い色が見え始める。
「ラミア、あれって」
「ええ、多分お城ね」
前に進むと、黒く錆びた大きな城門が姿を現した。それはしっかりと綴じられているが、横に小さなドアがあるのが見える。通用口だろうか。
二人は警戒しつつ進む。通用口らしきドアは、ノブを軽く捻ると難なく開いた。頭を突っ込み、中の様子を伺う。
「……松明が点いてるわ」
「え? 人がいるのかな?」
「そうみたいね」
高い天井の所々にかけられた燭台には、燃え盛る松明が掲げられていた。石造りの内部は、一歩入るとひんやりする。二階に上がる螺旋状の階段が左右に設けられていたが、上の方は明かりがなく、暗くて先が見えなかった。
だが、正面の奥には、通路に沿って松明が列をなしている。誰かいるのならば、あちらだろう。
「――行きましょう」
「ラミア、気を付けて」
「ええ」
用心しつつ、奥へと進む。途中から、血が凝った様な色の絨毯に変わり、それまでカツカツと立てていた足音が消えた。
暫く通路を進むと、やがて二人は天井の高い広間へ出る。円形の壁に沿って、松明がゆらゆらと揺れていた。
奥の中央は、玉座であろうか、豪奢な椅子が一脚こちらを向いて置かれている。
そして、その横に寄り添う様に並べられていたのは、棺だった。
――中に、誰か入っている。
白い服、胸の上で組み合わされた手が見える。ラミアは、ゆっくりと棺に近付く。すると、背後から同じ様に棺を覗き込んだフィルが、素っ頓狂な声を上げた。
「どういうこと!? ラミアがいるぞ!」
「私……ではないわよ?」
「分かってるよ! ラミアよりは年が上みたいだけど、でもそっくりだなあ」
フィルの言う通り、棺の中に仰向けで寝かされているのは、ラミアを少しだけ大人にした女性だった。肌は血色が悪く真っ白で、胸の上にある指は細く今にも折れそうだ。そして。
「……杭?」
フィルが、恐る恐るといった風に上から覗き込んだ。女性の胸には、元は銀色だったのか、腐食し黒くなっている金属製の大きな杭が一本突き刺さっている。周りに滲む血はまだ赤く、まるで今杭を打たれたかの様な状態だった。
「……どういうことだ?」
「分からない……でも、この人と私は……」
あまりにも似過ぎている。何故だ、どういうことだ。女性をただ見つめていても、答えは出ない。ラミアは棺の横に膝を付くと、杭にゆっくりと手を伸ばす。
「――何をしている!」
男の怒声が鳴り響き、ラミアはパッと手を引っ込めた。フィルが、ラミアを庇う様にして立つ。声は、先程ラミアたちが入ってきた方向から聞こえた。誰か、他に人がいたのだ。
「その杭に触れてはならん!」
突然、上空から黒いマントが降ってきたかと思うと、目の前に若い男が風の様に舞い降りてきた。青黒い髪を後ろにひとつ結ぶその男の端正な顔に、ラミアは既視感を覚える。
「……会ったことが……ある?」
いつ会ったのだろうか。記憶にはないものの、記憶の奥底から「この顔は知っている」と何かがラミアに伝えている。
ラミアの声に、男がラミアを見下ろし、ハッとした表情を見せた。
「……ローザ?」
「ローザ?」
何故か聞き覚えのある名前に、ラミアは目を細め男を見つめる。ローザとは、自分のことだろうか。
「あの……私のことをご存知なのですか?」
男は、ラミアの言葉に顔を歪ませた。目頭をすらりとした指で押さえると、やがてこくりと小さく頷く。
「ああ……お前は、五十年ほど前にここから逃した、私の娘のローザだ。その姿は、あの時のままだ。間違いない……!」
ここから逃した。霧が発生したその時に、この国に一体何があったというのか。
すると、横で口をあんぐり開けていたフィルが、ハッとして姿勢を正す。
「ラ、ラミアのお父さんですか! 俺、フィルです!」
「うん? 君は一体?」
男が、怪訝そうにフィルを見る。ラミアは慌てて立ち上がると、フィルを庇う様にフィルの前に立つ。すると、フィルは何を思ったのか、堂々と宣言した。
「俺、彼女の恋人です!」
父である男の目が、点になった。
◇
父は、名をクルト・フォン・ヴァインシュタインと名乗った。ラミアの本当の名はローザ・ヴァインシュタイン。棺の中で寝ているアントネラとクルトの間に生まれたひとり娘と説明された。
「まさか、記憶を失くしているとはな……」
父が、自嘲気味に呟きながら、温かい紅茶を淹れてくれた。
「気が付いたら、人間の集落の前にいたんです。そこで長老が助けてくれて……」
「騒動の中、近隣にもどこにもいなくなっていたんだ。アントネラが無事に逃したのだろうとは思っていたが、ここは暫くの間混乱の中にあったから、確認が取れなかった」
「混乱……」
やはり、なにか大変なことが起きていたのだ。母がラミアを逃し、ラミアは何かの衝撃で記憶を失ったのだろう。
「探しに行きたくとも、騒ぎが収まるまではここから離れることも出来ずにいた。お前が簡単に死ぬことはないと思っていたが、暫くしても戻ってこないところを見ると、別の場所で幸せに暮らしているのだろうか。そう思い、私はここに留まることにしたのだ」
父は、紅茶を静かに口に含んだ。
「記憶を失くしているのにここを訪れたのには、訳があるのだろう?」
父の眼差しは、優しいものだった。かつて、長老が自分に向けていたものと同じ眼差しだ。
「……はい」
ラミアは、父にこれまでのことを全て説明し始めた。これまで何も聞かされていなかったフィルにも聞いてもらう為に、詳細まで、詳しく。
説明し終わる頃には、外は暗闇に包まれていた。父は、静かにラミアの話を聞いてくれていた。フィルは自分のことを化け物だと思わないだろうか。不安だったが、フィルはずっとラミアの手を握ってくれていた。今この瞬間もだ。
「――成程。ローザは、その男と人間として添い遂げたいというのだな」
「はい」
ラミアが隣のフィルを見上げると、フィルは笑顔で頷く。フィルがいてよかった、心から思えた。
「では、次はここで何が起きたかを説明しよう。ローザは何も覚えていないのだろうが、もし辛かったら言ってくれ」
「はい……」
父は、長年謎とされていた、この霧の王国について語ってくれた。
この国は、吸血鬼一族が王族として君臨する小国であった。城下町に済む人々は純粋な人間であったが、力ある王族に守られ、平和に暮らしていたという。
吸血鬼一族は、皆揃って長寿である。死なないことはないが、人の血を飲み続けることで、若い姿のまま生き続けることが出来る。長寿ゆえ、一族の人数は少ない。
ごく稀に、人間と恋に落ちて一族に迎え入れることはあっても、人間は人間のままだった。吸血行為を行なえば、人間はただ血を求めるだけの化け物と化すからだ。
吸血鬼にとっては刹那的な恋愛となるが、その間に生まれた子供は、血は多少薄まってはいるものの、吸血鬼として生きることが出来た。
ラミア、いや、ローザは、恋に落ちた父と母の間に生まれた、吸血鬼と人間の混血だったのだ。
悠久の長過ぎる時を過ごす内に、生に飽きる吸血鬼もいる。棺に籠もり、何百年も眠りにつく者もいれば、血を飲むことを拒否し、ゆるゆると死に向かう者も中にはいた。
事件は、その血を飲むことを拒否していたひとりの男が発端となった。
「私の弟、ミハイルだ」
父は、くい、とグラスに注がれている赤ワインを口に含むと、悲しそうに続けた。
父の弟であるミハイルは、明るい性格の青年だった。国政にも参加し、父が不在の時には代理ともなれる知力も能力も持っていた。だが、彼はいつも人間の女に惚れる。惚れ、その者が死ぬ度に、長い眠りについては再び舞い戻ってくる。それが幾度か繰り返されていたが、今回はただの睡眠ではなく、血を飲まずにいた状態での睡眠だった。
もう死にたい、血を飲まずに寝たら、そのまま起きずにいられるのではないか。そう考えて眠りについた彼は、百年の眠りの後、不意に目覚めた。
制御しようのない飢餓と共に。
人間が城にいない状態であれば、父や他の吸血鬼が軽々と制圧することが出来たのかもしれない。
だが、ミハイルが起きた時、一番近くにいたのが、人間である母、アントネラだったのだ。
ミハイルは、母を襲おうとした。母は必死で逃げ、父に助けを求めた。父は、腕の中に母を庇いながら戦った。やがてミハイルはふいっといなくなったと思うと、あろうことか人間が暮らす城下町へと赴いてしまったのだ。ミハイルは、人間を片っ端から襲った。吸血鬼が噛みつけば、人間は狂った吸血鬼と成り果てる。そうなった者は、もう元には戻らない。
父は、母とラミアを城に残し、他の一族と共にミハイルと城下町にどんどん広がる吸血鬼を殺しに向かった。
ミハイルは、完全に血に酔ってしまっていた。城に保管されていた銀製の杭を持ち出すと、自分を殺そうとする一族の胸に次々と杭を打ち込み、四肢を引き裂いた。
「我々は、銀製のものに触れると、再生能力がなくなるんだ」
銀製の杭が胸に刺さったままでは、ただの人間と同等だ。その状態で引き裂かれた吸血鬼たちは、次々と命を落としていった。
まだ人間だった者は、国の外へと逃した。だが、殆どは吸血鬼と化し、それまで共に過ごしてきた大切な家族に噛みついては血を貪ったのだ。
それでも何とか殆どの血狂いとなった吸血鬼を退治すると、更に殺戮を求めたミハイルは、再び城へと戻る。城の中にアントネラがいたことを、思い出したのだろう。
父は急ぎ城へと戻り、ミハイルと対峙した。怯える母とラミアに、国の外へ逃げろと叫ぶ。母は、泣き叫ぶラミアを連れ、数千の死体が転がる城下町を走った。
その瞬間を、父は見てはいない。だが、大切な弟のミハイルを倒した後、自分の目に飛び込んできたもの、その後に外で殺した元は人間の吸血鬼の存在から、まだ残っていた吸血鬼にやられたのだと悟った。
母は、血に飢えた吸血鬼と化していた。
父の絶望たるや、どれほどのものだっただろうか。それまでの平和な日常が、たった一日で全て消え去った。それでも父は、愛する母を殺すことが出来なかった。ミハイルが持っていた銀製の杭を手に取ると、心から愛する妻の胸にそれを突き刺した。
母は、動きを止めた。
深い眠りについた母を棺に寝かせ蓋を閉じると、全ての残りの吸血鬼を始末しに町へと降り、僅かな生き残りも全員殺した。
そして、陽の光に弱い母の為、自身の強大な力を以て、王国に霧を生み出した。陽の光が届かなければ、母は寝たままだが生き続けられることが出来る。陽の光が届かなければ、寝ている妻の姿を眺めていられる。
父は、その日から血を飲むことをやめた。どうせ人間はいない。何年、何十年、いや何百年かかるか分からないが、そうしていつか朽ち果てる時に、この霧は父の消滅と共に晴れる。その時、母は灰となり消え去る。せめてその時まで、共にいたいと父は願ったのだ。
「……だから、頼むからフィル、君はあまり私に近付かないでくれ」
父はそう言って微笑んだ。フィルはこくこくと頷くと、改めて父に問う。
「ラミアは、もう長いこと血を飲んでいないんです。そうすると、ラミアもいずれ死んでしまうんでしょうか……?」
父は、ふむ、と考え込んだ。
「いや……ローザは、まだ成熟した状態ではない。恐らくは、騒動の衝撃で記憶をなくした所為で、成長が止まってしまったのだろう」
「では、人間の様に成長出来る可能性があるのですか?」
ラミアが聞くと、父は頷いた。
「しかも、ラミアは混血だ。これまでの例だと、人間の食事を取っていれば、ほぼ人間と近い状態で生きて死んでいった。逆に、血ばかりを飲んでいた混血は、より吸血鬼に近くなっていっていたな」
やはり、食事が鍵だったのだ。ラミアは身を乗り出す。
「ただし、ラミアの身体に流れている吸血鬼の血は、始祖の流れを汲む私の血だ。他の吸血鬼よりも力が強く、人間に近付くにはより多くの血を外に出す必要がある」
「血を……出す?」
「そうだ」
父は慈しむ様な眼差しでラミアを見つめた。
「ローザは、これまで何十年と人間の怪我を治してきたのだろう? それで、かなりの血は出て行った筈だ。だが、その後血を摂取してしまい、また吸血鬼に近い状態に戻っていったのだろう」
成程、とラミアは頷く。野山を歩き回っても一向に疲れなかったのは、やはり吸血鬼の血のお陰だったのだ。
血を流すといっても、ただ垂れ流すだけでなく、人間の傷の治癒に変換されて初めて、力が他の存在へと流れていくのだと父は語った。
「……ひとつ、方法がある」
「本当ですか!」
ラミアが思わず椅子から立ち上がると、父は優しい笑みをたたえながら頷いてくれた。
「銀製の杭を、ひとつやろう。これは吸血鬼の再生を止める力を持つものだが、吸血鬼の血を与えられた人間の怪我の治りを阻止する役目も果たす」
父は、銀色に輝く杭を棚から持ってくると、ラミアの前に置いた。
「ラミアの再生を阻止し、人間の治癒も阻止し続けよ。そして血を飲むことを止めれば、いずれ近い内に成長が始まる。そうしたら、杭を抜けばいい」
父の言葉に、ラミアは呆然としつつ横のフィルを振り返る。
フィルはにっこりと微笑むと、ラミアに向かって言った。
「それは俺の役目だね、ラミア」
◇
集落で、二人は仲睦まじく暮らす。もう、無理をして人間の世界に馴染まずともいいから、気が楽だった。
「ラミア、手を見せて」
「フィル、痛そう」
「見た目ほど痛くないよ」
フィルはそう言うと、ラミアの唇に優しい口づけを落とした。ラミアは、幸せそうに微笑む。
一本の銀製の杭が、繋がれた二人の手を貫いている。血はポタポタと垂れ続けていた。痛みは伴うが、死ぬほどではない。ラミアの血がフィルを治癒し、杭の所為で治らないフィルの怪我を、ラミアの血が治癒し続ける。
これが、父がラミアが人間に近付けると教えてくれた方法だった。
「あ、ねえ見てよラミア!」
フィルが、握り締めたラミアの指先を嬉しそうに反対の手で指差す。
「爪が伸びてきてるよ!」
「え……あら! 本当だわ!」
これまで一度も伸びることのなかった爪が、伸び始めていた。
「でも、まだ不安だわ。もう少し付けていましょうよ」
ラミアが不安そうな表情になると、フィルは頬を綻ばせる。
「これが取れたら結婚だろ。半年の間これは不便は不便だったけど、ラミアとずっと一緒だから俺は幸せだし、あとちょっと待つ位全然平気だよ」
「フィル、ありがとう」
フィルは、なんの躊躇いもなく銀製の杭を自分の手の上から貫いた。なのに、ラミアのを貫くのはどうしても出来なくて、ラミアがその杭を深く自分の手に押し込んだのだった。
「ラミア、花畑を見に行こうか」
「ええ、フィル」
ぽた、ぽた、と血を流しつつ、二人は花畑へと向かう。
ラミアは思う。
いつか、いつかこの手が皺くちゃになったら、その時は。
その時は、もうこの杭がなくとも、今と同じ様に皺くちゃのフィルの手を繋ぎ、霧の王国へ行こう。
そして、若いままであろう父と母に向かってこう言うのだ。
貴方たちの娘は、幸せな人生を歩めたのだと。
ラミアと霧の王国〜吸血鬼の少女は歳を取りたいと願う〜 ミドリ/緑虫@コミュ障騎士発売中 @M_I_D_O_R_I
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