第13話 彼らの敵は


 ジリアンの前には、ただの黒いモノが蠢いていた。


【ヨク来た。ジリアン・マクリーン。……『ヴィネ』ノ末裔ヨ】


 その声はゾワゾワとした悪寒を伴ってジリアンの鼓膜を揺らし、彼女の全身の皮膚を粟立たせた。


「あなたは、だれ?」


 黒いモノが、ニヤリと笑った気がした。


【我ニ名ハ無イ】

「それじゃあ、何と呼べばいいの?」

【必要無イ】

「どういうこと?」

【我ハ個デハナイ。名ハ必要ナイ】


 意味が分からず、ジリアンは再び首を傾げた。では、今彼女が会話している相手はいったい何だというのか。


【貴様ハ、仕事ヲ……】

「はいはい。人使いが荒い」


 ジリアンの隣にいたハワードが肩を竦めて、そして踵を返した。


「待って! 私はどうなるの!?」


 ハワードを引き留めようとして伸ばした腕は空を切った。いつの間にか、ハワードはずっと遠くに移動していたのだ。


【貴様ハ、ココニ留マル】

「どうして?」

【邪魔ダカラ】

「邪魔?」

【貴様ダケガ、ト違ウ】

「そのって、一体なに?」


 問答している間にも、ハワードの姿が遠くなっていく。


「待って!」

「またすぐに会える。そこで大人しく待っているんだ、ジリアン」


 次第に小さくなっていった声は、ついに聞こえなくなった。真っ暗闇の不思議な空間で、黒いモノとジリアンの二人きりになる。


「……教えてちょうだい。予定とは何なのか。私が違うというのはどういうことなのか」

【イイダロウ……】


 黒いモノが、ズズズと不穏な空気とともに大きくなって。そして、ジリアンの身体──ハワードの言を信じるならば、今は魂だけで身体はないが──を包み込んだ。


【全テヲ、教エテヤロウ】




 次にジリアンが目を開くと、ジリアンの身体は遥か空の上にあった。雲の高さから、魔族たちの住む大地を見下ろしている。


【カツテ、コノ地ニハ精霊ダケが住ンデイタ。ソコニ、最初ノ『ヒト』ガ産ミ落トサレタ】


 ジリアンの視界に映る景色が目まぐるしく変わっていく。二人の『ヒト』が子どもを産み育て、そして寿命を迎える。


【『ヒト』ノ魂ハ大地ノ摂理トハ違ウ。新タニ魂ノ行キ場ヲ決メナケレバナラナカッタ】


 そして、海の底に『死者の国』が築かれた。


【神ハ怒ッタ。ソシテ危惧シタ。『ヒト』ノ『欲望』ハ、『魂』ダケニナッテモ消エナイカラ。イツカ大地ヲ壊シテシマウ、ト】


 争う魔族たち、そして魔族と人族。彼らの持つ『欲望』が争いを呼び、そして大地を汚していく。


【ダカラ神ハ予言シタ】

「予言?」

【『死者の国』ニ封ジタ『欲望』ガ溢レル時、全テハ消エテ大地ト精霊ダケガ残ルダロウ、ト】

「それが、予定されていること……」

【全テハ、神話ノ御代ニ決マッテイタ】




 また景色が代わって、ジリアンは再びあの場所で黒いモノと向き合っていた。


「決められていることだと言うなら、その時を待てばいいだけだわ。あなたはハワードに何をさせようとしているの?」


 ジリアンの疑問に、また黒いモノが笑ったような気配が伝わってくる。


【我ハ『欲望』。神ノ思イ通リに消エルコトナド、受ケ入レラレナイ】

「神が決めた予定に抗おうとしているということ?」

【ソウダ。予定ヲ早メテ、地上ヲ『欲望』デ満タス。ソシテ、新タナ摂理ヲ築ク。『欲望』コソガ、大地ノ主トナルベキナノダ】


 ジリアンはぎゅっと手を握りしめた。この黒いモノの言うとおりならば、それこそが人が生き残る唯一の方法なのだろう。大地の摂理と相反する魔族も人も、生き残るために『欲望』を受け入れ、そして『欲望』に従うしかないというのか。


「……私が予定外だというのは?」


 ジリアンの問いに、黒い気配が揺れた。まるで、怯えているかのように──。





 * * *





「状況は最悪だ」


 王の執務室で、国王と二人の王子に状況を説明したのは王立魔法学院に勤めるコルト・マントイフェル教授だった。彼は魔大陸から招いた教授で、褐色の肌と赤い瞳、そして先の尖った耳が特徴的な、エルフ族。


「おそらく、『欲望』はハワード・キーツの手を借りて少しずつ人の心を支配していった。本来、『欲望』そのものに知恵はない。それをハワード・キーツが補完しながら、少しずつ、だが効率よく人の心を支配していったのだろう」


 マントイフェル教授が、苛立たしげにつま先で床を鳴らした。


「20年戦争の最中、『黒い魔法石リトゥリートゥス』の存在が公になった頃だろう。あの頃から、『欲望』が動き出した」

「それじゃあ、『黒い魔法石リトゥリートゥス』に関する事件は?」


 アレンの問いに、マントイフェル教授が深い溜め息を吐いた。


「全て、『欲望』の仕組んだことだろう」


 アレンもジェラルド王子も息を呑んだ。


「そもそも、『黒い魔法石リトゥリートゥス』は『ヒト』の魂を構成する一つ『理性』が転じたものだ。『理性』を地上につなぎとめて、円環の中に溶けていった『意志』と、『死者の国』に封じられた『欲望』を制御する役割がある」

「『黒い魔法石リトゥリートゥス』が消費されれば、その均衡が崩れるということか」


 ジェラルド王子が言うと、教授が頷いた。


「それに『黒い魔法石リトゥリートゥス』は『ヒト』の欲望そのものを駆り立てる」

「大きな力を手にしたいと望むのは、人の性ということか」

「そうだ」

「では、あそこに迫っている軍勢は?」

「『欲望』に支配されたのだろうな。もはや、手遅れだ」


 執務室に沈黙が落ちる。彼らが向き合う敵は、そもそも一個の人格などではない。人智を超えた『欲望』、そして神の予言などという大きな敵を前に、成すすべはない。


「エルフは、知っていたのか? 神の予定とやらを」


 その沈黙を破ったのは、国王だった。鋭い視線でマントイフェル教授を睨みつける。


「エルフは魔大陸で最も古い種族だ。古くから、いつか来る予定の日を避けるための方法を探していた」

「エルフは、なぜそれを黙っていた。もっと早くに知っていれば……」

「何ができた?」


 マントイフェル教授が、国王を睨み返す。


「いつか滅ぶと知らされたとして、『ヒト』に何ができた? だから、我々はこのことを秘してきた」

「では、今になって語るのはなぜだ?」


 この問いに、マントイフェル教授は答えなかった。だが、国王はその沈黙から何かを読み取ったらしい。


「エルフは、神の予定を覆す方法を見出したのだな?」


 ややあって、教授が頷いた。それにアレンとジェラルド王子が身を乗り出すが、教授の深い溜息がそれを遮った。


「まだ未完成だ。だが、彼女さえ……ジリアン・マクリーンさえいれば、叶う」


 再び執務室に沈黙が落ちる。彼女は、ここにはいないのだ。敵は、その隙を待っていたとも考えられる。


「なるほど。……では、やるべきことは分かったな?」


 国王の問いに、二人の王子が頷いた。


「はい」

「すぐにでも動きます」


 マントイフェル教授が驚きに目を見張った。


「この状況で、どうするつもりなんだ?」


 この問いには国王がニヤリと笑って応えた。いっそ獰猛ともいえる気配を放つ国王の姿に、マントイフェル教授がじりっと後ずさる。


「神とやらも『欲望』とやらも、『ヒト』を舐めているな」


 ──ガコンッ!


 教授の背後で、何かが外れる音が響いた。さらに足元では絨毯が蠢き、暖炉からは蝶番の軋む音が響く。


 部屋に隠されていた秘密の通路から現れたのは、4人の魔法騎士だった。ダイアナ・チェンバース、ルイス・ウォーベック、イライザ・アルバーン、そして、クリフォード・マクリーン。


「なぜ、ここに……!?」


 彼らは『欲望』に支配されて、今まさに魔法騎士団を率いて王城を攻めようとしているはずだ。

 さらに、部屋の中央にブワリと魔法の気配が立ち上った。床に赤く輝く紋章が浮かび上がる。


「これは、『バラム』の紋章!」


 一瞬にして赤い光が部屋を満たし、消えた時には、そこには3人の人物が立っていた。


「うむ。ホットラインを準備しておいて正解だったな、国王よ」


 ニヤリと笑ったのは魔大陸の皇帝で、その隣にはマルコシアス侯爵。彼の腕の中には、真っ青な顔で眠るジリアン・マクリーンがいた。


「さあ、役者がそろったな。……反撃だ」

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