第2章 勤労令嬢と死者の国

第12話 記憶の旅


 泣いている。

 透けてしまいそうなほどの淡い金髪の、小さな男の子が。

 小さな肩を揺らして、泣いている。


『どうしたの?』


 ジリアンが声をかけるが、返事はない。


『だいじょうぶ?』


 もう一度声をかけて、今度はその肩に触れようとした。

 その手が、男の子の肩をすり抜けていった。


『え?』


 途端に、周囲の景色がパッと目に入ってきた。といっても、視界のほとんどが真っ白な何かに覆われている。


『これは、……雪?』


 しんしんと雪が降り積もり、その向こうで白い波がザブンザブンと音を立てながら寄せては引いている。どうやら、ジリアンと男の子は雪の降り積もる海岸にいるらしいと分かった。


『ねえ』


 再び少年に声をかけるが、やはり返事はない。


(私の声は聞こえていないし、触れることもできない……。これは夢なのかしら?)


 それにしても、妙な夢だ。

 ジリアンはこんな場所に来たことがないし、この少年にも心当たりがない。


「ハワード!」


 不意に、背後から怒鳴り声が迫ってきた。


「このクソガキ! さっさと工場に戻れ!」


 怒鳴り声を撒き散らしながら近づいてきた男が、小さな男の子の髪を掴み上げた。

 男の子は声を上げるでもなく、ただ虚ろな瞳で海の向こうを見ていた。


 榛色の瞳が、ドロリと歪んで見えた。



 次の瞬間、溶けるようにして周囲の景色が変わった。今度は小さな部屋の中で、金髪の男の子──ハワードが、うずくまっていた。部屋の壁には鉄格子がはまっていて、これが牢獄だということはすぐに分かった。


 ──ガチャン。


 鉄格子の向こうから、乱雑に投げてよこされた器には一欠片のパンと汁だけのスープ。ハワードは黙々と、まるで作業のようにパンを咀嚼し、スープを喉の奥に流し込んでいた。


 男の子は、少しだけ大きくなっていたようだった。



 次の場面は薄汚い路地裏だった。

 また少し成長したハワードが、レンガの壁を背にして座ったまま眠っていた。ただし、今度は一人ではなかった。同じようにやせ細った小さな女の子と寄り添っていた。

 朝日が昇ってハワードが目覚めても、隣の女の子はピクリとも動かない。


「ねえ、朝だよ。起きなよ」


 少女はハワードの声に応えることもなく、ただ彼に寄り掛かるようにして静かに座っていた。ハワードがモゾモゾと身体を動かすと、少女の頭がゴトリと音を立てて固い地面に転がった。その様子を見ていたハワードは、一瞬だけ目を伏せてから、すぐに元の場所に座り込んだ。

 そしてまた、ドロリと歪んだ榛色の瞳で虚空を見つめていた。



 それからも次々と場面が切り替わっていき、その度に男の子は成長していった。身体は成長していくのに、その環境は一つも改善しない。


 孤独で、苦痛を強いられる日々だ。


(どうして、私にこんなものを見せるの!)


 ジリアンは声を上げて叫びたかった。何度も何度もハワードを助けようと手を伸ばすのに、何もかもがすり抜けていく。堪えきれない悲しみがジリアンを襲う。


(誰か、この子を助けて……!)




『君は、本当にお人好しだな』


 不意に聞こえた声に振り返れば、そこには大人の姿をしたハワードが立っていた。


『あなたが、どうしてここに?』

『こちらのセリフだ。ここは私の記憶の中。どうやって入り込んだんだ?』

『そんなの知らないわよ。気がついたら、ここにいたんだから』

『……どうやら、私と君の魂が錯綜しているらしいな』

『魂が、錯綜?』

『そうだ。生きたままでは「死者の国」には行けないからな』


 その言葉に、ジリアンの背に冷たいものが伝った。


『私は、死んだの?』


 この問いかけに、ハワードはニヤリと笑った。


『死んだ魂は「意思」と「欲望」、そして「理性」に分かれる。この3つがバラバラになれば自我を保つことはできない』

『よくわからないわ。つまり、どういうことなの?』

『君も私も自我を保っているのだから死んでいない、ということだ。ただ、「死者の国」へ行くために魂だけになっている』

『じゃあ、身体はどうなっているの?』

『殺すつもりなら、とっくに殺している。安心しろ。……それよりも』


 ハワードがジリアンの後ろを指差した。


『なかなか重要な場面だ。見逃さない方がいいんじゃないか?』


 ジリアンが振り返ると、そこには、また少し成長したハワードがいた。

 真夜中の海岸で、海に向かって佇んでいる。雪は降っていない。代わりに、夜空には不気味な赤い月が浮かんでいた。


「ねえ、早く連れて行ってよ」


 少年のハワードがつぶやき、そしてザブンと音を立てて海に向かって歩き出した。波に足を取られながら、どんどん深い方へ進んでいく。


『ダメ!』


 ジリアンが手を伸ばすが、やはりすり抜けていく。


『これは私の記憶、過去の出来事だ。変えられない』


 大人のハワードがジリアンの手を引いた。その瞬間、海の向こうで何かがうごめいた。


『何?』

『……「死者の国」が、私を呼んでいる』


 次の瞬間、少年のハワードの姿が消えた。



 次の場面は、不思議な場所だった。

 そこは真っ暗な空間で、見上げればずっと上の方に水面が浮かんでいて、その向こうに月が見える。まるで、海の底だ。それなのに、身体は自由に動くし息もできる。


 ジリアンと大人のハワードが見つめる先を、少年のハワードが歩いている。二人もその後ろをついて歩いた。


『ここが「死者の国」?』

『そうだ。……私が初めて呼ばれた日の記憶だ』

『呼ばれた?』

『そう。彼らに』


 大人のハワードが暗闇の向こうを指差した。そこには何もない。ただただ、妖しい気配だけが蠢いている。


『あれは、何?』

『棄てられた「欲望」の塊だ』


【我ラヲ解キ放テ】


 黒い気配が言った。


「……僕がそれを叶えたら、君は僕に何をしてくれるの?」


 少年のハワードが問う。


【コノ世ノ全テヲ】


 少年のハワードが考え込んだ。


「壊すこともできる?」

【デキル】

「じゃあ、やるよ。どうすればいいの?」


 黒い気配が、膨張する。


【『理性』ヲ手ニ入レロ】

「『理性』って?」

【地上デハ黒イ姿ヲシテイル】

「ヒントが雑だなぁ。でもいいよ。やる」


 少年のハワードはこともなげに言ってから、黒い気配に右手を差し出した。


「だから、ちょうだいよ」

【何ヲ欲スル?】

「力。君の願いを叶えてあげるんだ。そのために必要な『力』をちょうだい」

【強欲ダナ、合イノ子ヨ】

「合いの子?」

【人デモナク、悪魔デモナイ。呪ワレタ子ヨ】

「それが僕?」

【ダカラ選バレタ】

「なるほどね。僕は、そもそものか……」

【我カラ得ルモノナドナイ。オ前ガ持ッテイル『力』ガアレバ、事ヲ成スニハ十分ダ】

「僕が持っている、力?」


 少年のハワードが、黒い気配に飲み込まれていった。



 次の場面は、古びた工場だった。

 最初の場面でハワードを怒鳴りつけていた男性が、血まみれで横たわっている。


「あっけないものだ」


 少年のハワードが自分の頬を撫でた。すると、目の前で骸となった男性へと姿を変える。


『あれは、「仮面ペルソナ」?』

『そうだ』


 ジリアンの問いかけに答えたのは、やはり大人のハワードだった。


『「死者の国」から地上に戻った私は、自分にはそもそも「力」があることを知った』

『それが、あの古の魔法? オセの血と共に引き継いだ力というわけ?』

『そうだ』

『それで、人を殺して、成りすまして……。それを繰り返して今の「ハワード・キーツ」になったということなの?』


 ジリアンが振り返ると、大人のハワードがニヤリと笑っていた。


『その通りだ』

『あなたの目的は何なの?』

『聞いていただろう?』


 ハワードが大きく手を腕を開いて恍惚とした表情を浮かべた。


『この世の全てを、壊すことだ』



 また周囲の景色が変わった。

 今度は周囲に死体の山。それに向かって少年──青年に成長したハワードが指を動かす。すると、死体がカクカクと不自然な仕草で動き出した。


「また殺しそこねた」


 青年のハワードが呟いて、乱暴に指を払った。すると、不気味に動いていた死体がバラバラと地面に倒れていく。


「クリフォード・マクリーンを殺しそこねて、戦争は終結。……なかなか予定通りにはいかないものだな」



 また、場面が変わった。

 場所は少年のハワードが黒い気配と対峙していた『死者の国』と同じだ。真っ暗闇の中、遥か頭上で水面が揺れている。


 だが、今度の場面は、これまでとは様子が違った。


(重い……!)


 ジリアンの身体に、重みが戻ってきたのだ。


「どうやら、時間切れのようだな」

「時間切れ?」

「私の記憶を覗き見するのは楽しかったか?」

「まさか」

「おや。それは残念だ。……まあいい。ここからが、本番だ」


 暗闇の中で、ハワードが笑っている。


「ようこそ、『死者の国』へ」

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