第4話 過ぎ越し方


 社交界デビューを果たした日から、とある侯爵より熱烈なアプローチが続き三年。

 マイラは18歳の誕生日にハリソン家に嫁いだ。


 その見た目の美しさと優秀さで引く手あまたのマイラを射止めたのは、ハリソン侯爵家の長男。

 7歳年上のデイヴィット・ハリソンだった。


 完璧なエスコート、大人の余裕、落ち着いた印象を見せる彼が、想いを寄せるマイラに対してまるで初恋と言わんばかりの一生懸命さに惹かれた。


 若くして嫁いだマイラの不安をよそに、ハリソン家の使用人はみな優しくて「主人の想いが届いて本当に嬉しい」と心から喜び迎え入れてくれた。


 マイラ・ハリソンとなって一年後、デイヴィットによく似た赤茶色の髪と、マイラにそっくりな青い瞳を持つ男の子が誕生した。

 産まれたばかりの赤ん坊を抱いたデイヴィットは、初めてマイラの前で涙を見せた。

 そしてそんな彼を見て、マイラの瞳からも幸せの涙が溢れた。


 小さな産声を出す小さな息子をそっと抱きしめ、その温かさと柔らかさを確かめるデイヴィットは頬を染め、目尻を下げる。

 そして最愛の妻へ、感謝と愛を伝えた。


「なんて愛しいんだろう。天使みたいだ」

「マイラ、本当にありがとう」

「二人とも、愛しているよ」


 それがデイヴィットの日課となった。

 ハリソン家は幸せだった。

 胸がいっぱいになるほど、毎日が幸福に包まれていた。




 ***



 

 ──数か月後。


 ナタリア国では珍しく、連日雨が降り続いた日の夜。

 主人の帰りを待つマイラに、執事のレイモンドが顔を歪ませながら報せを届ける。


 デイヴィット一行が辺境視察から帰る途中、雨による地滑りに巻き込まれ死亡した、と。


 マイラは冷たくなった愛する夫を拒絶するかのように、初めて出会った日から数年間の思い出が次々と蘇ってくる。頭の中ではずっと、デイヴィットが愛を囁いている。


 葬儀を終えたあとも、愛する主人がこの世にいないという現実を受け入れらず、マイラの心と身体はボロボロだった。

 食事も喉を通らず、着替えや入浴も自力で出来ず、何をしていてもデイヴィットを想い涙を流す日々が続く。

 マイラの筋力は日に日に衰え、はじめは味覚、そして聴覚、嗅覚が鈍くなっていった。

 

 そんなマイラを救ったのは、ハリソン家の使用人と、産まれてまもないアルジャーノンだった。

 執事レイモンドの采配で、使用人たちはマイラに毎日優しく声をかけた。

 それも独り言のように、マイラが返事をしなくても良いような声かけを。

 そしてマイラが起きている限り、アルジャーノンをそばに置いた。

 まだ赤ん坊のアルジャーノンが声を上げ、ママを必要とするその実感がマイラを生かした。

 自分が不潔で子が病気になってはいけないからと身なりを整え、食事をとるようになった。

 天気が良い日は使用人たちが、マイラを車椅子に乗せて外に連れ出した。

 暖かな日差しを浴び、風を感じ、たくさんの草花の香りを嗅がせた。

 星が綺麗に輝く日には、夜空を見上げ星座を数えた。

 雨の日にはピアノを触り、美しい音色を奏でた。

 マイラの味覚、聴覚、嗅覚が以前の状態に戻った頃には、アルジャーノンを抱いて、自分の脚で庭園を散歩できるようになっていた。


 身体が以前の状態に戻っても、デイヴィットを想うと涙が溢れ止まらなくなる。 

 視界にはデイヴィットの面影がちらついて離れない。

 しかし「それでいい」と、レイモンドは言った。


「私は、先代の頃からハリソン家に仕え、まだ幼かった旦那様を……時には自分の子のように、大切に見守っておりました。私も、他の使用人も、旦那様との思い出を振り返ると胸がいっぱいになり、たくさんの涙が溢れます。きっと、それはこれからも。でも、それで良いと思うのです」

 レイモンドはマイラを優しく見つめる。


「あの優しい旦那様のことですから、愛する奥様が身を亡ぼすことなど望んではおりません。私も、旦那様が奥様を亡ぼす“亡霊”となってしまうのは耐えられません」

「……そうね……」

「急なお別れでしたので、旦那様は今頃、天国で心配されているかもしれませんね。私は執事長ですから、主人の憂いを晴らすために尽力したいと思うのです。奥様は、どう思われますか?」

「デイヴィット様の……心配事……」

 レイモンドの投げかけに、マイラはデイヴィットに成り代わったつもりで考えた。


「……そうね。あの方はどこまでも優しくて、愛情に満ち溢れた方だから。きっと私が弱っている姿を見て、今頃ひどく心配していることでしょう。そして、愛する息子に父の姿を見せ育てられなかったことを、心から悔しく思っていることでしょうね」

 マイラは目尻に涙を溜めて、愛する主人を想い頬を染めた。

「ええ、そうですね」

 レイモンドもまた、深い皺の入った目尻に涙を溜めた。



 それからマイラは、ハリソン家の女侯爵として立ち上がる。

 亡き夫と愛する息子、そしていつでも支えてくれるハリソン家の使用人のために。

 デイヴィットに代わって、愛する息子に父の仕事を見せてあげられるように。

 大きくなったアルジャーノンが、父のような立派な侯爵になることを願って──




 ***




 執事長のレイモンドは、朝早くから“主人”の部屋へと呼ばれていた。


「入って」


 扉を開けると、白の刺繍が映えた紺色のドレスを着こなし、窓辺に立つ主人がそこにいた。

 ピンと伸びた背、まとめ結い上げられたプラチナブロンドの髪。凛とした立ち姿は隙がなく、でもどこか儚げで一枚の絵画のようだった。

 すっかり元のマイラ様に戻られた、と感極まるレイモンドにマイラは告げる。


「しばらくの間このタウンハウスを離れて、ハリソン家の領地に滞在しようかと思うの」

 マイラの提案に、レイモンドは同意した。


「良い考えだと思います。ハリソン家当主の急死に加え、マイラ様が当主を継がれるという大ニュースに、王都中の貴族が興味を示しております。当分王都を離れた方が、お身体を休められるかと」

「レイモンドなら、そう言ってくれると思っていたわ。私、デイヴィット様からハリソン領のことをあまり詳しく聞かされていないのよ。だから、レイモンドの知っていることを教えてちょうだい」

 執事長は優しく微笑み、静かに話し始めた。



 ハリソン家が保有する領地には緑多くの山々が連なり、海のように大きな湖が広がる。ナタリア帝国一、自然が豊かな土地である。

 一般的な貴族の領地には多くの民が暮らし、その土地で特産を作り金に換え、領主に税を納める。そして領主である貴族は民から徴収した税金のうち、一定の額を国に献上している。

 しかしハリソン領は、他の領地と異なり民がいない。

 自然保護のため、国が一般人の出入りを禁止としており、領地に入るには許可が必要だった。

 自然保護…というのが表向きの理由。そこには一部の人間にしか知らされていない理由があった。


 “ハリソン領には多くの人外が暮らしている”


「……なっ!! 人外ですって!?」

「はい。人外の存在は、この屋敷に仕える使用人の中でも、デイヴィット様付きの一部の者にしか知らされてはおりません」

「えっと…ごめんなさい。人外って…なに?」

「人外とは、人ならざる者。多くの種族がいるようですが、その存在は明らかにされておりません。私も直接見たことは無いのですが、そうですね、デイヴィット様のお話によれば、人間のような姿だったり、動物と近しい姿をしていたり様々なようです」


 困惑しながらも真剣な表情で聞くマイラに、レイモンドは続ける。


「土の中で暮らす者、空を舞う者、影に潜む者もいるとか。自然を好み、人の前には姿を現さないとされています。しかしデイヴィット様は、友好的な人外達とは会話をするとも仰っておりましたよ」

「人外と……話す……? 人外なんて、童話の世界にしかいないと思っていたわ」

「その感覚が一般的ですね」


 人外が住む土地を管理するハリソン家も、他の領主と同様に決められた額を国に納めている。

 民のいない領地の財源はというと、その豊かな山で採掘される鉱石だ。中には多くの宝石も含まれる。

 ハリソン領の鉱山では、人が暮らす上で有用な資源となる鉱石が採掘でき、希少価値の高い宝石もゴロゴロと大きな塊で眠っている。

 鉱山に埋まる鉱石や宝石は、決められた採鉱地で一定の分だけ確保していた。

 歴代続くハリソン家の財力を、取り尽くしてしまわないようにするためだ。


 “結婚の記念に”とデイヴィットからプレゼントされたサファイアのネックレスが、マイラの胸元で濃いブルーの輝きを見せる。


「鉱山での採掘作業はどうしていたの?」

「採掘作業の一定期間だけ、国に申請をして業者を呼んでおりました。領主館の近くにはゲストハウスも用意されていますので、彼らの寝泊りはそこで。人外達は基本、人へ干渉することはありませんから、大きなトラブルも起こったことはありません」

「なるほど」

「……っと、仕事の話に及びましたが、お仕事は一旦保留にしてひとまず領地でゆっくりと過ごされてはいかがですか? あそこは静かで自然も多いので、幼いアルジャーノン様にとっても良い環境かと思われます」

「そうね」


 そうしてマイラは、領地への滞在を実行に移した。




 ***




 タウンハウスを空けるわけにもいかないので、一部の使用人を残してマイラ達一行は領地へと向かった。

 急な貴族達の訪問にも対応できるように、執事長のレイモンドは置いてきた。本当は少し心細かったのだが、高齢のレイモンドに長旅は酷かと気遣ったことは秘密だ。


 途中、何度か宿泊しながら馬車に揺られること数日。ようやくハリソン領に入ったことを告げられた。


「奥様、もうすぐですね。不安なお気持ちもあるかもしれませんが、何でも仰ってくださいね」

 馬車の中で、メイド長のオリビアがアルジャーノンをあやしながら声を掛ける。

「ありがとう、オリビア。オリビア達の仕事もあるでしょうけど、今回使用人の皆にもゆっくりさせてあげたいと思っているの。オリビアも羽を伸ばして自然に触れてみてちょうだいね」


 オリビアが周りを見渡せば、今回連れてきた使用人たちは長年デイヴィットに仕えてきた者ばかり。オリビアもメイド長になる前は、デイヴィット付きのメイドを長年務めていた一人だ。

 オリビアは、亡き主の思い出を胸にマイラに頭を下げた。



 その直後、一行はそこで信じられない光景を目撃することになる。



 王都のように整備された道ではなく、緑が生い茂る森の中をひたすら進む。

 山は越えずに迂回する。

 獣道ばかりで馬車が通れるような道が無いためだ。

 この山の後ろに広がる大きな湖の湖畔に、領主館が建っているそうだ。

 到着の目途が立ったところで、一行は休憩を入れることとなった。


 木々の合間を抜ける風が気持ち良い。

 鳥や鹿、ウサギやリスなど野生動物も多く暮らしているようだ。

 マイラはアルジャーノンを抱き、木陰で緑の空気を感じていた。


 すると突然、迂回している山に“雷”が落ちたのだ。


──ピシャーン!!! ……バリバリバリバリバリバリ!!!!


 天気は快晴。あたりを見回しても落雷が起きるような雲は一つもない。

 異常気象と思われるこの雷は、信じられないことにその後何度も落雷を重ねた。

 すさまじいほどの轟音を響かせて、地面を揺らせる。いや、その落雷は実際に地面を“割っていた”のだ。

 目の前で山が割れる。地滑りによってなぎ倒される木々。

 轟音に怯え泣くアルジャーノンを抱きしめるマイラもまた、困惑を隠せなかった。


 「一体何が……起こっているの」


──ドドドドドドド


 突如、感じたこともない振動がマイラ達を襲う。

「奥様!! 危ない!!!」オリビアが叫んだ。

 地面に亀裂が入り、木は根から浮き上がり次々と倒れていく。

 目の前で起きた大きな地割れによって、マイラとアルジャーノンは従者たちと引き離されてしまった。

 しかし天災は止まらない。山の上から木や岩が転がってくる。

「奥様ッ! ここから離れてください!!」

 従者の一人が叫んだ。

 毛布でくるまれたアルジャーノンを抱え、マイラはひたすら走った。


 (どこか、安全なところに……!! どこか、どこ‥‥!? どこに行けば……!)


 

 “こっちだ”



 誰かの声が聞こえた気がしたが、振り返っても誰もいない。

──ピシャーン!!!……バリバリバリバリバリ!!!!

 止まらない落雷に身体が震える。



 “こっちだ”



 轟音の中ではっきり聞こえるその声を辿ると、岩肌に掘られた穴を見つけた。


(はぁ、はぁ、はぁ……、ここは……坑道かしら)


 坑道の奥は暗くて何も見えなかった。

 マイラは坑道の入り口に近い場所でうずくまり、時間が過ぎるのを待った。

 続く落雷の轟音にアルジャーノンが少しでも怯えないよう、毛布で耳をふさぐようにして抱きながら。


 どれくらいの時間そうしていただろう。

 落雷の音が消えしばらく経ったころ、坑道の外に何かが舞っているのが見えた。

 マイラはブーツの紐に緩みが無いかを確認し、泣き疲れて眠るアルジャーノンを抱えて外に出た。


「これは…! 雪……!?」


 晴天の落雷から一転、今度は雪が舞っていた。

 一年中、心地よい気候が続くナタリア国で雪など積もるはずがない。四季はあっても冬は肌寒くなる程度のものだ。

 しかしこの短時間で、雪の勢いがさらに増しているのは気のせいではないだろう。


(このままではいけない。従者を見つけてここから避難しないと)

 マイラはアルジャーノンを抱え、小走りに走り出した。

 

 舞い散る雪は、その質量を増やしやがて吹雪となる。

 たちまち目の前は白く染まり、右も左もわからない。


(なんて寒さなの……! 怖い……)

 体験したことのない寒さと恐怖で震えが止まらない。 

 するとそこに、赤く光る何かが見えた。

(あれは……! もしかして誰かいるのかしら……!)

 微かな希望を胸に、赤い光を頼りに進む。

(アルジャーノン……! なんとしても貴方を護るわ)


 遠くに見えていた赤い光は、随分と近い距離にあったようだ。

 発煙筒か何かかと思われた赤い光は、人間の頭くらいの大きさをした“瞳”だったのだ。

 閉じかけられたたその赤い瞳がマイラを捉える。


「……ッ!」


 マイラは息を飲んだ。

 白い身体が吹雪のベールに覆われているため、その全体を把握することはできないが、とても巨大な“何か”であることはわかる。


(こんな獣……見たことない。まさかこれが……人外……!?)


 土地勘もなく、吹雪がいつ止むかもわからない状況で、マイラは初めて人外と出会った。

 人外は人間に干渉しないとはいえ、この状況。その大きな口で丸飲みされてもおかしくはない。



──「デイヴィット様は、友好的な人外達とは会話をするとも仰っておりましたよ」



 レイモンドの言葉が脳裏に浮かぶ。

 愛する我が子、アルジャーノンを自分の命に代えても護りたい。


「あっ、あの、どうか……!」

マイラは必死だった。


「どうか、お願いします……! この地に住まう高貴なお方。初めて訪れたこの土地で、天災によって、仲間とはぐれてしまいました。貴方のお力を貸していただきたいのです。私はどうなっても構いません。我が子だけでも…助けたいのです!!」


 目の前の人外は、無言でマイラを見つめる。

 そしてその腕に抱かれた小さな命を見つけ、大きな牙を持つその口がゆっくりと開かれた。


『……【悪魔竜】の抗争に、人間を巻き込んでしまったのか。悪いことをした……』

 太くしゃがれた声で、その人外はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「!?」

(天災ではなく、人外同士の抗争だった!?)

 その人外をよく見ると、ところどころに大きな傷を受けているようだ。


「貴方……もしかして……死ぬの?」

 マイラは恐る恐る、目の前の人外に近寄った。


『……私は【始祖の悪魔竜】。伝説と謳われた最強の【悪魔竜】も、これですべて潰えてしまった。始祖である私が……すべてを終わらせたのだ。そしてこの命も……もうじき尽き果てることだろう……』

「そんな……!」

『人間よ、最後に【悪魔竜】の力を与えてやろう。……そして私の願いをお前に託す』


(【悪魔竜】の……力……!?)

 舌も動かし辛いのか、話すのも苦しそうだ。目の前にある命の灯が消えようとしていることがわかる。

 目の前の人外は、最後に力を与えると言った。

 その力を得ると、自分は一体どうなってしまうのだろう。

 何が起きるかわからない。

 わからないことばかりだが、マイラは真っすぐ掌を差し出した。


『恨むなよ、人間』


「この子を助けるためなら、なりふり構っていられないわ!」


『最後に……』


「え?」





 ***




 辺り一面を白銀の光が覆い、その暖かな光で雪を溶かす。

 大きな翼を羽ばたかせ、一体の【白銀の悪魔竜】が空を舞った。

 白銀の鱗で覆われた腕に、すやすやと眠る小さな命をそっと抱きしめて。


 時間をかけて馬車に揺られた道のりも、上空から見下ろせば大したことのない距離に感じる。

 湖畔に建つ館を目指して、大きな翼を羽ばたかせた。


 領主館にはすでに数人の従者が到着していた。

 竜人姿から変態を解いたマイラに従者は大層驚き、腰を抜かす者もいた。

 マイラは従者にアルジャーノンを預け、すぐさま他の従者の救出に向かった。


 【始祖の悪魔竜】に比べると、小柄な身体はやはり竜人だからだろうか。

 小回りが利く身体と【悪魔竜】のパワーを生かし、救出作業に役立てた。

 望遠レンズのような視力を持つ目で、上空から従者を探す。

 なぎ倒された大木や、地滑りによって滑り落ちた巨大な岩も片手でひょいっと持ち上げた。

 救出を待つ従者たちは、聞きなれたマイラの声がしたと安堵するのも束の間、そこにいたのは見たこともない竜人で随分と驚愕していたが。


 従者全員の救出を終え、領主館に戻ったマイラはホールに皆を集めた。

 冒頭に、全員があの災害を乗り越えたことを労い称えたあと、マイラがはぐれていた数時間の間に起きた出来事をすべて話した。

 マイラが置かれた過酷な状況と、その決断に至った心を想い、皆が涙で震えた。


 マイラはもう一度人外の姿に変態し、「人外となってしまった自分に無理して仕える必要はない。必要とあらば仕事を斡旋するので安心してほしい」と告げると、メイド長であるオリビアが口を開いた。 

「奥様が助けにきてくださらなければ、私はあの吹雪の中、巨大な岩に阻まれて声も届けられずに死んでいたことでしょう。こうして全員が無事でいられたのは、紛れもなく奥様のご決断のおかげです。私達はこれからも、変わらぬ忠誠をここに誓います」

 オリビアと共に深く頭を下げる一同に、マイラは瞳の強張りが自然と緩む。

「ありがとう」

 同時に変態を解いたマイラの身体を、女性陣が慌てて端切れで隠す。

「お、お、奥様っ! 人の姿に戻られるときは、場所をお考えくださいませっ!」

「この姿になると、せっかく厳選して持ってきた服がどんどん無くなってしまうわね」

 いつもと変わらない軽口を叩くその人外に、恐怖心を抱く者はもういなくなっていた。




 ***




 こうして【白銀の悪魔竜】となったマイラは、愛する息子と従者とともにハリソン領地での暮らしを始めた。


 あの天災が夢だったかと思えるほど、ハリソン領は噂に聞いていた通り居心地のよい場所だった。

 湖に吹く風は柔らかく、重なった緑が木陰を作り気持ちが良い。

 森の中を散策すれば、果物がなる木や小動物に出会うことができた。


 料理長は自ら湖にボートを浮かべて、釣りに出かける。

「奥様、大漁ですよ! 今日のメインディッシュはこの魚でムニエルを作りますね!」と嬉しそうだ。


 メイドたちは王都から持参した野菜や花々の種を植え、自由に菜園づくりを楽しんでいる。

「奥様~! カボチャに人参、ラディッシュにトマトも植えてみましたよ。収穫が楽しみですね」

 楽しそうに笑う彼女たち。


 夜になれば、空一面に散りばめられた星がきらめく。

 空気が澄み切っているためか、星が幾分近くに見える。


(この素敵な景色を、デイヴィット様も眺めていたのかしら)

(今思えば、あの落雷の中で私たちを呼んだ声は、デイヴィット様だったのかしら)


 亡き主人に想いを馳せる。

 臥せっていた頃はただただ悲しくて、現実を受け入れることができなかった。しかし、今は違う。

 会いたいと思う気持ちに変わりはないが、デイヴィットが触れた場所、接した人たち、見ていた光景を眺めては「私も今、貴方が見ていた景色を見ていますよ」と心で伝える。

 今頃、空で輝く星たちと一緒に、きっと私たちを見守っていてくれている。

 心配性で愛情深いデイヴィットに、「安心してください」という想いを込めて。


 そうして朝になれば、冷たい水を染み込ませた布で顔を拭き、湖からのぞかせる太陽の光を全身に浴びる。髪の先、指の先まで太陽のパワーを頂くように。


「良い天気ね! さぁ、今日は何をしようかしら!」


 五感を働かせながら過ごす日々が、マイラの心身を癒していった。




***




 ハリソン領では人外を見かけることもあった。

 人の言葉で話す動物や、童話に出てくる小人や妖精の姿をした【精霊】達。

 爬虫類のような者や、人型で骨の面をかぶった【魔族】達など。

 突然現れ、突然消えていく。人に姿を見せるかどうかも自由自在なようだ。

 マイラが人外となったからか、人の姿のままでも人外達と交流をはかることができた。

 「あなたの種族は?」

 「どこから来たの?」

 「今は何をしているの?」

 話しかければ人外達は答えてくれる。


 人外達が生活する上で、人間はいてもいなくても変わらない。

 その大気に存在する光を、闇を、水を浴びて、のびのびと暮らしていた。


(なるほど、人間とは基準も次元も異なる。これが“基本人に干渉しない”根底にあるのね。)


 よく観察していると、人外も種族同士で交流を図ったり、子育てをしている者も見かけた。



 マイラが散歩していると、突如湖に姿を現したのは【水竜】(アクアドラゴン)。

 彼女の名前は“レフィーネ”と言うらしい。

 蛇のように長い胴体を持ち、透き通る水のような鱗が全身を覆う。

 突然現れた【水竜】は、もの珍しそうにマイラに話しかけてきた。


「あら貴方、人の姿をしているけれど、【悪魔竜】なのね。しかも始祖から血を賜ってるんだ。へ~珍しい!」

「レフィーネ、貴方ってば……すごく美しいわね!貴方の周りに虹ができてるわよ」

「えへへ……そうでしょ。この虹は、私を飾るアクセサリーみたいなものよ」


 レフィーネとの会話は貴族の茶会を思わせる。

 どこか懐かしさを覚えながらも、人外を知ることのできる有意義なものだった。

「この間の【悪魔竜】の抗争! ほんっと迷惑しちゃうわよね。山削って、雷に雪でしょ? どんだけパワーあるのよあの始祖(おじいちゃん)! 【悪魔竜】の闇属性に合わせて、風と雷の属性まで持ってるなんて聞いたことないわよ。あの抗争ね、噂によると種族の中に狂い者がいたみたいよ。同族殺しなんて勘弁してほしいわ~。ま、【水竜】のテリトリーを荒らされなかったから良かったけど」


 レフィーネの話によると、人外でも竜は希少種で、他にも【炎竜】(フレイムドラゴン)、【雷竜】(サンダードラゴン)など他にも竜は存在しているらしい。

 そして中でも【悪魔竜】は最強の強さを誇るそうだが、過の抗争以来【悪魔竜】の姿を見た者はいないそうだ。

 あの時、【始祖の悪魔竜】が『すべて潰えた』と言っていたのが本当であれば、マイラが最後の【悪魔竜】になったのだろう。


 レフィーネたち【水竜】は海や湖を統べる存在だそうで、「何かあったら呼んでよね。希少な竜同士、助け合いましょ!」と、人の姿をしたマイラにも平然と言ってのける。

 慣れない土地、そして人外になったばかりのマイラにとって、レフィーネの申し出は有難かった。




 ***




 マイラがハリソン領に来てから、約二年の月日が流れた。

「ママ~ッ!」

 その小さな両手をいっぱいに広げながら、たたたっと駆け寄ってくるのは二歳になった愛しい息子。

「おはようアル。今日も愛らしいわね」

 毎日自然と触れ合いながらすくすくと成長する息子を、マイラは温かい眼差しで見つめる。


「坊ちゃん、今日は何して遊びましょうか?」

「マイラ様、今年もカボチャが見事な出来栄えですよ~」

「よーし、このカボチャで今日は坊ちゃんの好きなポタージュを用意しますね!」

 従者たちもすっかり領地での生活に慣れた様子だ。


 この二年間、マイラは領地のことを調べ上げた。

 どのような地形でどこに道が通り、炭坑はどの山に作られていて、何が採掘できるのか。

 そして人外はどんな種族がいて、領地のどのあたりに生息しているのか。

 時にはマイラ自身も人外の姿となり、「住み心地は悪くないか?」「必要なものはあるか?」と人外に対して領主らしい会話も行った。


 そしてマイラは、この二年の間に数回、単独で王都に帰還していた。

 社交の場には基本顔を出さないマイラだが、ハリソン侯爵として領地で採掘された鉱物と宝石を献上する必要があったためだ。

 仕事を済ませた後はすぐに領地に戻るので、従者の付き添いは断った。

 馬車を使えば数日かかる道のりも、【悪魔竜】の姿で空を飛べば、小一時間あればたどり着く。


 タウンハウスで待つレイモンド達のことも気がかりだった。

 手紙では人外になった経緯を伝えていたが、実際にこの姿を見るとどう思うだろう?

 必要とあらば、仕事の斡旋も……と考えたマイラだったが、その不安は杞憂であった。

 タウンハウスで手紙を受け取ったレイモンドたち従者は、愕然としていた。

 若くしてハリソン家に嫁ぎ、すぐに主人を失くすこととなり、療養のために向かった領地で人外になってしまったマイラを思うと涙が溢れた。

 それでも心を折らずにアルジャーノンを育て、従者たちにまで気を配るマイラを誰が見捨てようものか。

「おいたわしや奥様……、この度は災難でございました。そんな中、私たち従者を見捨てず命を救ってくださって……心より感謝いたします」

 従者を代表して頭を下げたレイモンドに、マイラは言った。

「私とアルジャーノンを支えてくれる貴方たちには、私の方こそ常々感謝しているわ。貴方たちに何かあれば私が許さないし、それだけの力を私は得た。何かあればすぐに駆け付けるから、もうしばらくこのタウンハウスは任せるわ」

 従者を想う真っすぐなマイラの気持ちに、一同は心を打たれたのであった。



 こうして、女侯爵としての仕事も軌道に乗り出した頃。

 マイラはいつものように朝日を浴びながら湖のほとりを散歩していると、虹をまとったレフィーネから声がかかった。

「ちょっとマイラ、こっちに来て!」

 駆け寄ったマイラは驚いた。岸には一人の男性が打ち上げられていたのだ。

「この人間、アンタのとこの従者じゃない?」

「いいえ……、私の従者ではないわ」

 歳は20代と思われる、体格の良い男性だった。

 しかし声をかけても返事はなく、意識が無い様子だ。

 よく見ると身体には剣で刺されたような傷が複数あり、かなり血を流しているようで真っ青な顔色をしていた。


「大変! 脈がかなり薄いわ。急いでお医者様のところに運ばないと」

「というかこの人間、もうじき死ぬよ」

 命の灯を感じ取った様子で、レフィーネは言った。

「こういう時、【悪魔竜】の能力の使いどころじゃないの? マイラの血を与えれば【悪魔竜】として身体が再構築されるから、傷はすべて治る。でもって、マイラと同じ竜人の出来上がりだよ。彼が死んだら能力は使えない、つまり今しかない。まぁ、やるかどうはマイラが決めれば? 私はこいつが死んでも知らんこっちゃないし」


(私の血を与える……? あの時【始祖の悪魔竜】が、私にした時のように……?)


 その時、それまでかろうじて感じていた彼の脈拍がスッと消えた。

 マイラは咄嗟に自分の指をガリッと噛み、血が滴るその指を彼の口内に割り入れた。


 その途端、白銀の柔らかい光が一帯を覆う。

 たちまち彼の身体は漆黒の鱗に覆われ、骨が歪む音とともに頭から二本の角、そして黒く大きな翼と尾を生やした。

 意識を戻した彼は、黄金色の瞳でマイラを見つめる。

 「俺は…」


 彼の身体の傷は、すっかり消えていた。

 元々【悪魔竜】は復活性が非常に高いようで、マイラが自分で噛んだ指の傷も数分のうちに癒えていた。

 そして彼は、記憶喪失のようだった。

 自分が誰なのか、なぜ傷を負っていたのか、許可が必要なこの地になぜ入ったのか……彼はすべてを忘れてしまっているようだ。

 彼の目に嘘は無かった。


 マイラは、自分の血を与えて人外にした責任もあり、彼の記憶が戻るまでハリソン家で保護することに決めた。

 得体の知れない男性を預かることに抵抗もあったが、人外にしてしまった以上、その力を暴走させてもらっては困る。

 何かあった時に備えて、マイラの監視のもと管理したほうが良いという判断だった。

 この二年ですっかり人外にも慣れたハリソン家の従者たちは、マイラの申し入れを快く受け入れた。



 名前が無いと不便なので、マイラは彼を“アーサー”と名付けた。

 褐色肌に金色の瞳、そして恵まれた体格を持つ彼には、大地を思わせる名が似合う。


 アーサーは、気がつけばアルジャーノンの遊び相手になっていた。

 優しく微笑む表情を見れば、子供が好きなことがわかる。

 アルジャーノンもすっかり懐いている様子だ。

 はじめは少し警戒されていたアーサーも、料理長に連れられて狩りや釣りを行ったり、メイドに混ざって農作業を手伝ったり、炭坑での力仕事も率先して手伝う仕事っぷりを見せた。

 マイラの単独行動を心配する従者たちからも「マイラ様に付いて、何かあればアーサー様が助けてやってくれ!」と頼み込まれる始末だ。


 共に暮らすうちに気づいたことだが、彼は一通りの礼儀作法がしっかりと身についていた。

 文字の読み書きをはじめ教養もあることから、彼はどこかの貴族の出ではないかと考えた。

 しかしナタリア帝国で貴族が行方不明になったとあらば捜索令状が出るだろうし、新聞等で情報が出回っていてもおかしくない。

 だがここ最近でそんな話は耳にすることもなく、王都に行った時にそれとなく探りは入れてみたものの該当は無かった。


(もしかしたらアーサーは、他国の人間かもしれないわね……)

 

 マイラにとってアーサーは、“人でありながら人外でもある”特殊な事情を分かち合える貴重な存在だった。

 口数は少ないが、働き者で誠実、優しいアーサーをパートナーとして受け入れていった。

 そしてアーサーもまた、家族や従者、そして人外にも愛情深く接するマイラに惹かれていったのであった。




***




 アーサーに血を与え【悪魔竜】にしたことで、また一つ【悪魔竜】の能力を知ることができた。


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【悪魔竜】の能力: 

 ・血を分けることで、対象に【悪魔竜】の力を与えることができる。

  始祖以外の【悪魔竜】が血を与えた場合は、漆黒の【悪魔竜】が完成する。

 ・【悪魔竜】は他の人外と比べても復活性が高く、傷の治りが早い。

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 アーサーと共に生活するようになって数か月が経った頃、十数名の騎士隊がハリソン領を訪れた。

 鎧を着た恰幅の良い男たちが領主館の前に整列する。

 先頭に立つ一人の男が、黒いマントを翻し門をくぐった。

 磨かれたホールの中央に立ち、男は声を張り上げた。


「ハリソン卿はおられるか」

 濃紺色の髪と瞳を持つ彼は、その鍛え上げられた身体には似つかわしくない人工物のように整った顔立ちをしていた。


 ホールから伸びる階段で、コツン、コツンとヒールの音を響かせる。

「私がマイラ・ハリソンですが、一体何事かしら?」

後ろにアーサーを携えて、堂々とした態度で一礼、マイラが返答する。

(黒のマント……? 帝国騎士団の部隊色は確か赤、青、緑だったはずだけど)


「急な訪問で申し訳ありません。我らは帝国騎士団の“第四”部隊。私は隊長を務めるオスカー・オウエンと申します」

「……第四部隊?」

「我ら第四部隊は公にされていないため、ご存知無いのも無理はありません。我ら第四部隊は国唯一の人外対抗組織、通称“シラヘス”として秘密裏に活動をしております」

(人外対抗組織……そんなものがあったね)

「……込み入った話になりそうなので、こちらへどうぞ」

 マイラはオスカーを応接間に通した。



「人外と深く関わりのある、この地を管理するハリソン卿へのご挨拶が遅れてしまい、大変申し訳ありません」

 丁寧に頭を下げる下げるオスカーは、今回の訪問について話し始めた。


 人外は人間に干渉しないとされているため、公にはせず国の一部の者しかその存在を知らされてはいない。しかしここ数年、王都を中心に、人外による強奪や拉致などの被害が頻発しているという。

 そこで人外に対抗するために作られたのが、人外対抗組織“シラヘス”なのだと。


「信じられない。人外が、人間に被害を?」

「ええ。そして我々は、マイラ・ハリソン侯爵、貴方の噂を耳にしたのです。人でありながら竜の姿を持つと……。貴方のお話を聞かせていただけないでしょうか」


(平たく言うと国からの事情聴取、ね)


 どうやらマイラが【悪魔竜】の姿で王都に帰還していたところを、どこかで目撃されていたらしい。

 元々隠すつもりはなかったので、人外になった経緯やマイラの知る【悪魔竜】の能力、そしてアーサーのことも紹介した。

 オスカーはその無機質な顔を強張らせたり、やや興奮ぎみに目を輝かせながらもマイラの話に聞き入っていた。


「なんと素晴らしい! 我が国王は、人と人外との共存を願っておいでです。マイラ様のそのお力を、ぜひ我が軍へお貸しいただけないでしょうか」

「そう、両者目的は同じというわけね。私も、人外が人に危害を加えるという点については疑問があるの。とはいえアル……子供もまだ幼いし、侯爵としての仕事も私にしかできない。それでも良ければ力を貸すわ。そろそろ王都が恋しくなってきたところですし。ただし……」

「ただし?」

 オスカーが無機質な顔でじっと見つめる。

「もう【悪魔竜】を増やすつもりはないの。いくら国王がそれを望んだとしてもね。この力を暴発させては危険よ。もう、あのひどい抗争の二の舞は踏みたくないの」

「承知いたしました。国王にも伝えておきます。他に、我々が力になれることはありますか?」

 マイラは隣に座るアーサーに目を向けた。

「彼のことを……調べてほしいの。彼が誰で、何者なのか。きっと彼の家族も、今頃ひどく心配していることでしょうから」

 サファイアの瞳が少し揺れる。

「かしこまりました。アーサー様のことで、何かわかれば必ずお伝えいたします」


 オスカーとの対談も終わり、王都に戻る“シラヘス”一行の見送りを終えたマイラは、ハリソン領の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


(この地は私を十分に癒してくれた。色々あったけど、この地に来て良かったわ)


「さぁ皆! 休息は十分取れたかしら? そろそろ私たちも王都へ戻りましょうか!」


 心と身体にエネルギーをたっぷりと蓄えて、マイラ達一行もまたハリソン領をあとにしたのであった。

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