第9話 初キッス

「では、人もとぎれたのでキスしてください」


 ?

 え?何ですか?


 彼女はうでを組んだまま立ち上がり、いっしょに俺も引っ張って立ち上がらせた。


 え?俺は自分から立ち上がってないよ。

 片手で自分より大きな男を引っ張り上げた?


 いったん組んでいた腕をほどき、真正面に立ち、左右といめの手をつないだ。


 胸の膨らみが俺の胸に当たるまで距離を詰めると、俺を上目使いに見上げてくる。


 可愛い。


 俺は呆然と彼女を見つめ返すばかりだ。でくの坊か。

 え?キスするの?唐突すぎない?


 彼女は固まっている俺を不思議そうに見ている。

「ねえ、誰もいないよ?キスしてくれませんか?」


 無表情に言われましても、そんな色っぽい雰囲気でもないよ。

 あと、目をつぶれ。プレッシャーだ。


「人がいないところなら、キスしてくれると言いました」


 だから、言ってねーよ!


 と、言ったところで聞きそうにない。

 毎回この頭の悪い会話を繰り返すのも面倒だ。

 いや、ちょっとは楽しいと思ってたりする。


 初キッスか‥‥、ドキドキしないな。

 義務感すらするよ。


「せめて目を閉じて」

「あ、はい」

 彼女は目を閉じてあごを少し上にあげた。くちびるをさしだしてくる。


 んー、ごまかすのはまずいか。

 俺が覚悟を決めかねていると、

「どうぞ」と、彼女は催促してくる。


 どうぞはおかしくないか?

 いただきますとでも、言えばいいのか?


 密着しすぎて動きにくい。少し身体を離してから、屈むように顔を近づけた。

 顔をわずかに傾けてくちびるを、彼女のくちびるにふれさす。

 わずかの時間重なった。


 1秒も呼吸を止めていなかった短い時間。


 顔を離すと、彼女は止めていた息を静に吐きだす。少し上気した表情が色っぽい。

 そして余韻を残して、ゆっくりとまぶたをあけ、うるんだ目で俺を見上げた。

 それはいつもの無表情とは違う、幸せそうな表情を浮かべていた。


 俺もつられて微笑みを返す。


 微笑ましく見られた理由に思いいたった彼女は、上気した幸せそうな表情を見られたことに気づいた彼女は、恥ずかしそうに顔を赤く染め始めた。

 赤くなったところは見れていない。


 彼女は瞬時に、俺に抱きついて顔を俺の胸に埋めたから。


 彼女はつないでいた両手を離すと、俺の脇の下に両手を通して、抱きついてきた。

 そんなに嬉しそうな顔を見られるのが恥ずかしいのか?上気した顔を見られるのが恥ずかしいのか?発情してるのがばればれな顔だったからね。


 あるいは、感情を顔に出したこと自体が恥ずかしいのか?


 俺は両手を彼女の肩に添えた。

 ここは彼女が落ち着くまでこのまま待ってやろうと思った。が、‥‥


 ムリ!


 抱きつきかたがキツすぎる!

 さば折りかよ!


 横隔膜が圧迫されて、呼吸できない!

 あばら折れる!


 強すぎだよ!

 力持ちにもほどがあるだろ。


 照れ隠しに殺されてたまるか!


「痛い、痛い!離して!」


 彼女の両肩を押し、身をよじって逃れようとするが、まったく動かない。


「ギブギブ!」

 俺は彼女の肩を強く2回叩いた。

 柔道の試合とかで、降参するときこうするよね。


 彼女は慌てて、手を離した。

 俺は彼女の肩を押して、身体を離す。

 彼女の手があった所を、両手で押さえた。圧迫された痛みが残っている。俺はうつむき痛みに耐えた。

 涙が出てきた。

 息も荒い。不足した酸素を急いで取り戻す。


 ドキドキしてる。

 もちろん恐怖にね!


「ごめんなさい。‥‥痛かった?」彼女の心配そうな声がする。

 俺は涙を拭ってから、顔を上げた。


 彼女の心配そうな顔が見える。あと、意味がわからないと言ったような戸惑い。

 自分の力がどれ程か、自覚がなかったようだ。


 俺は、大丈夫と、言おうとしてやめた。

 強がりが過ぎる。さすがに嘘だろ。


「手加減してね。お願い」俺はできるだけ怒っていないように聞こえるように、優しく微笑んで言って聞かせた。


 ちょっと殴りたい‥‥。


 彼女は中途半端に手を伸ばしかけたが、思いとどめて、両手を下ろした。足の前で手をぎゅっと握りこみ、うつむくように頭を下げた。

「ごめんなさい」と、不安そうに小さく言った。


 俺は彼女に近づき両手を背中に回して少し抱き寄せた。彼女の下げた頭が胸に触れる。

 しばらくそのままでいた。

 彼女が落ち着くまで。


 彼女の緊張がとけてきた。彼女の背中から固さがとれる。握りしめたこぶしをゆるめたのだろう。


「こんどやったら、抱きつくの禁止ね」

「!」彼女の身体がビクッ、とするのがわかる。


「ごめんなさい!」彼女にはめずらしく大きな声だった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 駅に向かって歩いているとき、彼女はうつむき加減でしおれていた。

 抱きつくの禁止はそれほどのショックだったのだろうか?無言で歩く。

 彼女はいつも通り無口だった。いつも通りだね。


 駅まで送ってもらってから、別れた。

 彼女はバイトへ。俺は電車に乗る。


 昨日と同じ様に、彼女は胸の前で小さくバイバイした。


 今日はいろんな彼女がみれた。特に大きな声が出せるのには驚いた。

 照れた表情は特に秀逸だった。直ぐに隠されたけどね。

 初キッスは‥‥。その後が強烈すぎて覚えていない。思いだしたくない。

 トラウマになりそう。


 俺の彼女は可愛い。


 電車の窓の外を流れる田園風景を見ながら、ニヤつきそうになる。

 楽しんでるのか、俺は?

 そうだね、彼女と付き合うのは楽しいと思う。


 今日も彼女は笑わなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る