第18話 人生最悪の日
大神官は忌まわしげにアレクセイをにらみつけた。
彼のことが王族との対立でいきなり混乱の最中にほうりだされた神殿をうまく利用して一儲けしようとする、悪徳商人のように見えたのかもしれない。
好きな女を手にするために、私財も人脈もなげうってしまうような男は、創作の世界にしかいない奇特な人種に思えたのかもしれない。
しかし、アレクセイは本気だ。
真面目に、マルゴットを愛し、慈しみ、その人生の全てを捧げてもいいと思っているし、そうしようとしている。
愚かに見えるその様を余人は笑うだろう。
そんなことはどうでもいい。
「俺は! 彼女が、聖女様が‥‥‥好き、なんだ。ポーツマス」
「はあ……お前みたいな野生児に誰が好き好んで孫のように可愛いマージを与えるもんか」
「ひどいな、それ!」
「酷くないわ! 賭け事と戦争にしか興味を示さない良い噂の無いお前に、誰があの子をやりたいと思う? おまけになんだ、呪いの代償を寄越せだと? あの子に、お前の背負う宿命を背負わせるつもりか? それでもお前は夫になりたいと望む男か? 呪いの代償は聖女様ではなく、女神様に‥‥‥ふむ」
言いたいことだけを叫び、室内に控えていた侍女たちの表情を強張らせたままに、大神官は黙ってしまった。
「女神様に、か‥‥‥。そう言えば、なぜ三王国のなかでこのパルシェストだけが本神殿を持ち、その王族が特権のなかの特権を謳歌しているのか。そこについては長らく謎にされてきた。お前が留学したロイデンでも良かったはずなのだ。むしろ、魔導工学に関しては彼の国のほうが、我が国より、よほど進んでいる」
なぜだ、と思案する。
疑念を次々と口にして、自分の精神世界でその論考に入ってしまった大神官を現実に引き戻すのは、生半可なことでは成し得ない。
「あーあ‥‥‥陶酔しちまった。このじーさん」
しかし、老人の耳は健在だった。
「舌を引っこ抜くぞ、若造が」
「おっと。大神官様らくしな言動はおっかないですな。それで、どうします? 参加、それとも拒絶?」
どちらにしても自分は独立しますがね、とアレクセイは不敵に微笑んだ。
王国は広い。その国境線も他国や海と接していて、それなりに緊張を緩めることのできない地域も存在する。
だが、常在戦場。
年がら年中、戦争をやって、槍の穂先を交え、攻撃魔法がドンパチと花火のように舞い上がるそんな現場は、彼の領地。
グレイスター辺境伯領しかない。
当然、王国のどんな騎士団がどれほどの練兵を積み、訓練の果てに王国最強の名をほしいままにする第二王国騎士団や、近衛第一騎士団であってさえも‥‥‥本格的に戦端を切り開けば辺境伯軍二万にかなうとは、露ほどにも思えない。
大神官はそこまで俗世間に疎くなかったし、自分たちは最強とのたまう理想家どもの集団には興味を持てなかったからだ。
「それはまるで最後通告のようだ。受け入れなければ、聖女様をこの神殿からさらっていきそうな勢いだな、アレクセイ」
「それは大きな誤解だよ、ポーツマス。俺は人さらいじゃない。だけど、女神様の託宣をあんたが試すには、悪くないんじゃないか?」
「お前っ。わしに女神様と対話をしろと申すか」
アレクセイは肩を竦めた。
左目をつむり、励ましてやる。
「女神様に本当の意味で選ばれた彼女が現れるまで、あんたがそうして来たんだろ?」
俺は知っているぜ、と口角を上げた。
昔から悪戯好きのやんちゃ坊主で、散々手を焼かされてきたポーツマスは、この世の終わりのような顔をして天を見あげる。
まさか、本当の孫のように可愛がってきた教え子の一人に、こんな目に遭わされるなんて思ってもみなかった。
神託で拒絶をされたら、どうすればいい。
もしそうなれば、神殿がこの王城の隣に建立されて以来の、一大事件になりかねない。
アレクセイは独立を示唆している。
それになびく貴族も、有力者たちも多くいるだろう。
彼は田舎者のだめ貴族との噂はあるものの、王都にも国内外にも人脈を通じている。もし、ロイデンあたりと裏で共謀して王都を責められたら、王国はまさしく崩壊する。
「あと数年待てなかったのか。せめて」
「そうなったら死んでいる可能性だってある。いまだからいいんだよ」
「人生最悪の日になった気分だ」
この後、大神官は女神から神殿を辺境伯領に移築するようにと、神託を受け、この世の終わりだとぼやいて、倒れそうになるのだった。
女神様に祈りを捧げその神託を得たのだろう。
ポーツマスがとろんとこの世の至福の時を味わっているような陶酔に浸っていたら、その表情がいきなり絶望に彩られ、土気色に変わる。
まるで、魔獣にでも遭遇した農民のような反応だと、アレクセイは思った。
大森林とパルシェストの合間には広大な農地が存在する。
そこに森林の奥から、普通の人では到底かなわない、高位の魔獣が飛来することがあるのだ。その多くは気分転換というか、戯れというか、魔獣も高位のものとなれば人語を理解し、こちらの社会体系を知っているものもいる。
彼らはただ暇つぶしにきては気まぐれで田畑を焼き尽くし、村を襲い、家畜を食い尽くして、暴虐の限りを果たしては消えていく。
自然の災害ならぬ、魔力の災害。
魔災と呼びならわされるそれらに出会った農民のような顔を、ポーツマスはしてから、ゆっくりと目を開いた。
「それで、どうだった?」
開口一番、要点を質問するアレクセイに、大神官はじっとりと大嫌いな存在を見るような目をした。
「お前は嫌いだ」
「はあ?」
「この歳になるまで問題なく勤め上げてきたというのに、引退間近になってこんな大問題を持ち込んできたお前なんぞ、大嫌いだ! 絞め殺してやりたいくらいだ」
「いや、それは‥‥‥まずいだろ?」
壁に張り付いて大神官の言葉に恐れをなしている侍女たちがいる。
彼女たちを見て、あ、と声を漏らすとポーツマスはしまったという顔をした。
「……やはりお前は疫病神だ! 女神様の御判断は――分かるだろう」
「まあ、だいたい。何を言われたかは理解できた。とりあえず、このまま進めていいんだな」
「好きにするがいい。陛下にはわしからお伝えしておく」
「じゃあ、聖女様の受け入れ準備もしておくよ。だが」
なんだ、と大神官は首を傾げた。
この上でまだ追加の注文をするのか、面倒事を押し付けていくのかという、非難が見て取れた。
「俺は転移魔法で一度、領地に戻る。二週間の期限を引き伸ばす必要があるからな。それから根回しだ。あいつらも預かってもらう必要があるしな」
「……あんなごろつきどもなど、街の下水にでも放ってしまえ」
「大神官とは思えない凶暴な発言は、いただけないよ。女神様のお膝元だぞ」
「知るか! わしはこのスタイルで三十年、やって来とるんじゃ。いまさら変えようがあるか‥‥‥」
それまでの心に蓄積された怒りをぶちまけるように、ポーツマスは叫んでいた。
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