第19話 覇王の否決
この大柄な老人がそんな態度を取ると、まるで冬眠から目覚めた熊さんが餌を求めて徘徊しているように感じる。
彼の怒りはどこ吹く風といなしながら、自然の脅威は怖いねえ、なんてアレクセイは大神官を諫めてやる。
「まあまあ、二週間ほど時間を稼いでくれたら、それでいいよ。あとは」
「お前なんぞに任せられるか! 戻ったらすぐにここに来い! 真っ先にだ! 陛下どころか王国を騙すことになるのだからな! まったく‥‥‥国家転覆罪を適用されて即死刑に処されてもおかしくないのだぞ」
「まあ、そうならないように、騙していきましょうよ。大神官様」
「はあ――――っ‥‥‥。その面の皮の厚さを少しは譲って欲しいものだ」
身も心も力を使い果たしたようにして、大神官は椅子にぐったりと座りこむ。
そんな彼を慌てて離れて様子を見守っていた侍女たちが支えに走った。
「では、あいつらのことを宜しく。偉大なる大神官様」
アレクセイは他人事のように言うと、神殿を後にする。
そして、妙に拳が痛むのに気づいた。
白い、歯がそこにめり込んでいた。
「あの時、殴ったからか。やれやれ」
朝、と呼ぶにはもう遅い時間だった。
あれからきっかり二時間を費やして神殿に根回しを完了し、ようやくその部屋を離れたのは午前十時すぎだった。
王宮は小高い丘の頂に立っている。
太陽がその分、平地よりも高くなっているはずだったが、見上げた空はそれほど明るくなかった。
「くそっ。また怪我が増えた」
自分で自分の怪我を治療するのは、騎士の習う治療系魔法の初歩の初歩だ。
故郷を出てから王都に馬を走らせて五日。
最速でたどり着き、また同じようにして故郷に戻らなければ、大変なことになる。
王宮では許可なしに魔法を使うことを禁じられていたが、こっそりとやって黙っておくことにした。左手の中指に刺さったはずのその痕は、あっという間に癒されていく。
さすが女神様の本神殿がある場所だ。
さっさと治った自分の左手の具合を確かめるようにして左右に振ると、アレクセイは紅の瞳に畏敬の念を込めて女神の神殿を眺めていた。
「戻るか。とりあえず」
新たな目的が、やるべきことが待っている。
だがその前に呪いの期限を延長しなければ、こちらの命が危うい。
俺も難儀な家系に生まれたもんだ。
アレクセイは苦笑する。
どうかいつか生まれてくるはずの我が子には、この呪いが及ばないようにしてくれよ、女神様。
そう心で願うと、禁じられているというのに彼の全身は青い燐光に包まれいく。
王国の端から端。
馬で五日の距離をひとっ飛びに移動する。
王宮内では使用することを禁じたルール完全無視で、アレクセイの肉体はあっという間に消えてしまった。
年寄りはいつも小うるさいものだ。
戻ってみたら、なにをどうしたのものか。
大神官はさっさと国王陛下との会談を済ませて、のんびりと自室でお茶をたしなんでいた。
午前中にあれだけ喚いた暴虐の徒はどこにいったのか、その成りをひっそりと潜めている。
嵐の前の静けさのようで、なんだか、君が悪かった。
「じーさん、何をやったんだ」
「別に」
しれっとして、大神官は生クリームがたっぷりと載せられたケーキを頬張っている。
糖分過多で寿命を縮めるぞ、と毒づいてやったが無視された。
「陛下はな、今回の件。大きくはしたくないそうだ」
「……内々に処理をするってか? 王族の問題だけ?」
「そうだな。本当ならば神殿との関係性を強固にしたいとの思し召しだったが、お前の聖教国論には興味を示しておいでになられた」
「つまり‥‥‥どうするってんだ」
わしはな、とポーツマスはアレクセイに向き直る。
そこには大神官としての威厳が備わっていた。
「己の主を貶められてまで、王族に尽くしたいとは思わないのだよ。アレクセイ」
この場合、主とは聖女のことだろう。
神の代理人は、この世の聖人そのものだ。
神を侮辱されて黙っている信徒はいない。
王太子は信仰を辱めたのだ。絶対にしてはならないもの。触れてはいけない聖域に、愚かにも足を踏み込んだ。
それも土足で。
聖女マルゴットが、王族との縁戚関係を破棄すると処断したのも、当然だと言えた。
そして、三王国を含むこの大陸の西部地域の諸国は‥‥‥どこも女神教の信奉国ばかりだ。
そのすべてを敵に敵に回したにも、等しい行為だ。
となれば‥‥‥。
「謝罪をこめて、国内の領地を割譲。女神教が治める宗教国家の樹立を支援する。そういうことですか」
「そんなところだな。王国の人口は四百万。それに対して大陸の信徒は数億を超える。もちろん、他種族を含めた話だが」
「まったく敵になりませんやね」
ところで、と大神官は険しい顔つきになった。
「その聖女様を受け入れるお前のことだ。問題は」
「あー……俺?」
「そうだ。マルゴットを愛していると言ったな」
いやまだそこまでは言っていない。
しかし、それに等しい行いはしていると思う。
その自覚はあるし、責任もひしひしと感じていた。
これから始まる、新しい国への希望もそこには含まれている。
自分がそれをすべて守り切れるか、と問われたら不安しかない。
だが、それを言うことは‥‥‥。
「まあ、だめだな」
「何がだめなんだ。お前はどういう立ち位置で生きるつもりだ、アレクセイ。聖女様がお前の好意を愛として受け入れてくれるとは限らないんだぞ」
「その時は仕方がない。俺はただ、聖女様の盾として、戦うことしかできない男だ」
「むう‥‥‥わしが生きている間は、手を貸してやろう。しかしな、アレクセイ。お前のすべきことは王になることではないのか。聖女様も信徒も莫大な利権も、大陸を制覇できる強大な権力もその手中に収めることが出来る」
わしが若ければ、覇王を目指すかもしれん。と、大神官は言った。
覇王。
それは大陸を統一すると言われた、伝説の王のことだ。
いつか現れるという六人の影の王とともに、世界の六つの大陸と地下の魔界すらもその手にして彼は新たな歴史を切り開くと、そんな伝説がある。
そうなりたいのか、と問われればアレクセイだって武人だ。
野心もある、欲望もある、天下統一。なんて素晴らしい響きなんだ。
惚れ惚れするくらい、その抗えない魅力に溺れるだろう。
そして、野望を果たせずに死んでいく。
人生はだいたい、そんなものだ。
アレクセイはそう信じていた。
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