夜明け前より暗い場所



 佐倉由汰と俺は幼馴染だ。幼稚園から中学校の途中まで一緒だった。クラスが離れても、俺たちは毎日ふたりで登下校した。放課後はどちらかの家で遊ぶのが恒例で、ほとんどの時間をふたりで過ごした。

 ところが、俺たちが中学二年生のある日、夏の訪れを待たずして由汰の両親は事故で他界した。あまりにも突然のことに葬式の間、俺たちはふたり、部屋の片隅で肩を寄せ合って、やり場の無い哀しみを堪えていた。

 たぶん、そこから由汰の人生が狂い始めたのだと思う。

 母方の叔父さんの家に引き取られて、佐倉由汰は一ノ瀬由汰に名前が変わった。隣の県に引っ越したことで、俺たちは離ればなれになったけれど、ずっと連絡は取り合っていた。夏休みにはキャンプもしたし、テーマパークにも行った。修学旅行の土産も交換した。県が違うから高校で一緒になることも無かったけれど、それでも俺にとって由汰は一番の親友だった。由汰にとっても俺が一番だったとしたら、こんなに嬉しいことはないだろうと思った。

 高校一年生の春の終わりに、今度は由汰の叔父さんが病気で亡くなった。春先に病気が見付かった時には手遅れで、あっという間のことだった。雨の降る中での葬儀だった。由汰の家に遊びに行った時、叔父さんと叔母さんは俺にもよくしてくれたから、俺だってとても苦しかった。由汰は俺の制服の袖をずっと掴んでいた。

 高校二年生の夏休みに、俺たちは海水浴に出掛けた。住んでいる街にはどちらも海が無くて、少し離れた海までふたりで電車に乗って出掛けた。

「ねぇ、紹廸」

 列車に揺られている時に、由汰が言った。

「僕のこと、サクラって呼んでくれる?」

「別に構わないけど、なんで?」

「だってもう、そう呼んでくれる人も居ないでしょ。僕が佐倉由汰だった記念に」

 佐倉由汰から一ノ瀬由汰に変わってからしばらく経っていた。今さらだと感じたけれど、きっと思うところがあったのだろう。

「誰かひとりでも呼んでくれる人が居てくれたら、佐倉由汰はまだここに存在し続けられる気がするんだ」

「そういうものか? 下の名前ならまだしも、名字だぞ」

「僕にとっては、そういうものだよ。あ、カタカナで良いよ、そのほうがあだ名っぽくて呼びやすいでしょ」

「カタカナで呼ぶって、何」

「僕は紹廸のこと、漢字で呼んでいるよ」

 ふぅん、と俺は曖昧な相槌を打った。そうして俺の中では、由汰からサクラになった。呼び方はどうであれ、佐倉由汰も一ノ瀬由汰も、由汰もサクラも、俺の中では同じ人間だった。

 海に着いた。駅のすぐ前が海だった。少し穴場だったからか、海水浴客の姿は少なかった。

 簡素な更衣室で上着を脱ごうとしたサクラの身体に痣があった。それは、何も知らない俺が見ても、明らかに殴られた跡だと分かった。暴行の痕跡だ。その痣がひとつやふたつではなくて、けれどもどれもが服を着ていれば見えない位置にあって、俺はそのまま無言でサクラのパーカーのファスナーを首元まで上げた。誰に、どうして、いつから。疑問は幾つも浮かんできたけれど、俺はそれを言葉に出来なかった。水着に着替えないままで俺とサクラは砂浜にレジャーシートを広げて、海の家で借りたビーチパラソルを砂に突き立てた。

 それからどうしたかと言えば、俺とサクラはパラソルの日陰でジッと海を見ていた。サクラも何も言わず、俺の隣に座っていた。

 黙っていたところで、何にもならない。俺はようやく口を開いた。

「俺が海に誘った時、断れば良かったのに」

 海に行きたいと言った俺に、サクラがただ一言、やめておこうと言えばそれで済んだ話だ。そんなことくらいで不機嫌になる俺ではないし、それはサクラも分かっているはずだった。俺にとって重要なのは海ではなくて、サクラと遊ぶことだから、行先が海であろうが、山であろうが、映画でもカラオケでも、美術館でも神社でも、サクラと一緒ならどこだって良かった。いくら頻繁に連絡を取り合っているとはいえ、年に片手で数えられる程度しか会えないのだから。

「僕だって紹廸と海に来たかった」

 拗ねたような声でサクラが言った。海に行きたいと言ったのは俺だったが、この海水浴場を選んだのはサクラだった。

「海が良かった」

 真夏だというのに、サンダルを履く足の爪先まで、サクラの肌は白いままだった。不健康ではなかったけれど、夏から浮いているような感じがした。サクラは俺に知ってほしかったのだろうか。佐倉由汰を見付けてほしかったのだろうか。

「俺が聞いたら、由汰、サクラは、ちゃんと答えてくれるか?」

「聞かないままで傍にいてほしいって、我儘かな」

「それがサクラの我儘なら、全部話してくれっていうのは俺の我儘だろ」

「かもね」

 寄せては返す波が、太陽の日差しを浴びて輝く海面が、腹立たしいほどに綺麗で、とても遠い世界のことのようだった。

「俺たちの我儘の間を取ったら、たぶん、サクラが自分の話したいことを全部話してくれたら、それで良い感じのところに落ち着くんじゃないかと俺は思うんだけど、どう?」

「良いね、それ」

 サクラは少し笑った。

「去年の夏前に、叔父さんが亡くなったでしょ?」

「うん」

 波打ち際の賑わいとは正反対に、サクラの声は穏やかだった。元気が無いとも言えるし、落ち着いているとも言えるような、そんな声だった。

「それで、僕の両親と叔父さんの遺産が、あるにはあるから、お金には困らないけれど、やっぱり、叔母さんひとりでは上手くいかないこともあって」

 慎重に言葉を選びながらサクラは話した。それは、俺に上手く説明するためではなくて、サクラ自身が傷付かないように言葉を探しているように思えた。

「今年に入ってからかな、たしか、それくらいの頃、叔母さんの職場の同僚の男の人が家に来るようになったんだ」

「うん」

「最初は本当に仕事仲間として、その同僚が困っている時に叔母さんが手助けしたとか、そういう感じだったらしいんだけど、なんていうか、その人、叔母さんが好意を寄せているって勘違いしたみたいで」

 砂を握り締めて、放して、掬い上げて、落として。サクラは手持ち無沙汰そうに砂を弄んでいた。

「こう、一度そうだと思い込むと、思い込みすぎるタイプの人なのかな。その人は叔母さんに言い寄っているらしくて」

 サクラの眼差しは憂鬱そうだった。

「叔母さんも、はじめのうちは、丁寧に断っていたみたいなんだけど、全然、効果が無くて。むしろ、どんどんエスカレートしていっちゃって。会社にいる間だけだったのが、家にまで押しかけてくるようになって。何度追い払っても、毎日のように来るんだ」

「それって、ストーカーだろ」

「うん、会社にも警察にも相談したよ。でも、注意だけで、それ以上のことは何も。世渡りが上手い人っているでしょ、そういうタイプなんだよ。表と裏を使い分けているから、周りから見ても裏の顔が見えないの。表側しか見えないように出来ているから、裏側で実際に起こっている出来事なのに、誰も本気では信じてくれない」

 憂鬱な眼差しの先に、楽しそうな家族連れや、初々しいカップルの姿があった。あれが、表側、光の当たる場所。サクラの居る場所は裏側、日の当たらない場所。

「叔母さん、参っちゃって。この夏から休職中で、今はしばらく実家に戻ってゆっくりしているんだ。でも僕は、学校、休めないし。転校するのも、だって、そうしたらもう叔母さんが職場に復帰出来ないって言っているみたいでしょ、そんなの」

 薄情者、と乾いた声でサクラは呟いた。被害者である叔母さんが逃げなければならない現状をサクラは嘆いている。けれど、立ち上がって戦うにはあまりにも非力だ。

「そいつ、今は? 叔母さんが実家に戻って、それからは?」

「会ったよ、学校帰りに。家も僕の高校も、もうバレてしまっているから、そのうち会うかもしれないって思ってはいたんだ。思ってはいたんだよ、でも、こんなことされるなんて」

 そこでサクラの言葉が途切れた。続く言葉は無く、俺たちは静けさを分かち合った。

 ここがサクラの話せる場所の境界線なら、俺の我儘もここまでだ。けれど、本当は話したいのに、言葉にするのが恐ろしいのであれば、俺たちはどうにかしてまだこの先に進まなければならないのかもしれない。まだ進むか、ここに留まるか。俺はどうするべきか迷った。サクラに掛ける言葉を選びきれずにいた。

「……僕はね」

 沈黙を破ったのはサクラだった。

「紹廸を困らせたいわけじゃないんだよ。迷惑を掛けたくないし、負担になりたくない。でもそれ以上に、紹廸に失望されたくない。ごめんね、でも、幻滅しないで、お願い、お願いだから」

 サクラは砂に汚れたままの手で顔を覆った。

「僕のこと、見捨てないで」

 そう言ってサクラは泣いた。子供みたいに泣きじゃくった。

 佐倉由汰は、いつだって優等生だった。品行方正で成績優秀。お手本のような子供だった。誰にでも親切で、愛嬌はあるのに嫌味は無くて、出会った時からずっと光の当たる場所で踊り続けているようだった。けれども、それでいてサクラは、いつだって一歩先を進みながらも、振り返って俺の手を引いて歩いてくれた。幼稚園の砂場遊びから始まって、小学校の虫取りも、中学校の勉強も、俺はサクラが一緒に歩いてくれたから、ここまで辿り着けた。

 俺はレジャーシートに転がった。

「サクラの人生に対して俺は何の責任も持てないけれど」

 荒波に揉まれてすっかり摩耗したシーグラスが濁った鈍い光を放っていた。

「でも、出来るならばお前が幸せでいてくれたほうが良い」

 不貞腐れたようにサクラに背を向けて寝転がったまま言う俺は、まるで我儘を言って親を困らせる幼い子供のようだった。

「僕だって同じだよ。紹廸には幸せに生きてほしい」

「同じなわけがないだろ、お前は分かっていないよ」

 俺は首だけでサクラを振り返った。サクラは俺を見ていた。その眼差しが慈愛に満ちているように思えて、俺はいっそのこと悲しかった。それに、悔しかった。

「幸福を諦めたお前に、幸せになってくれと言われたって。それで俺が幸せになれるわけなんてないだろ」

「うん、ごめんね」

 幸福が何かも知らない俺たちだった。それでも、今のこの時間が居心地の悪いものだとは分かっていた。青く、拙く、幼い俺たちだ。世間も社会も世界も知らない。明日、自分たちの足だけで歩けるわけもない、そんな不甲斐ない存在だ。でも俺たちなりに苦しさを感じていたし、幸福を求めていた。

 本当のところ、幸福なんてものは求めていなくてただ、ただ普通であればそれで良かった。大きな絶望が無い代わりに、大きな幸福も無いような、起伏の少ない人生で構わなかった。ありきたりで、ありふれて、かけがえのないなんてことは一切無くて、取るに足らない人生で十分だった。そういう人生が良かった。悲しみと喜びの総量が最終的には同じになったとしても、出来るならば、悲しみは両手で抱えられる程度で留めてほしかった。それ以上は要らなかった。たとえこれから先にどれほどの喜びが待っているとしても、終わりの無い期待は絶望と同じか、それより苦しい。だから、いつか訪れるかもしれない幸福なんて、そんなもの、生きる理由にはならない。

 俺たちはふたり寄り添って潮騒を聞いていた。


 その男が再びサクラと会えば、何かしらの行動を取ることは分かっていた。何より、男がまたサクラの前に現れるということが分かっていた。

 この数年で一番大きな台風が近付いていた。雨も風も唸りを上げていた。誰も外を出歩かないような酷い天気だった。川は大雨で増水していた。

 サクラを執拗に追い回す男が橋の上に現れた時、俺は夜の闇と雨に紛れて男に体当たりした。不意打ちで尻餅をついた男を欄干の隙間から力任せに落とした。男が上げた悲鳴は雷雨に掻き消され、助けを求めて伸ばした手もすぐに濁流の中へと消えた。俺は履いていた靴を川に投げ込んで、用意していた長靴に履き替えた。レインコートと手袋は別の場所で捨てる。

 目撃者は、サクラだけだ。

 俺は放心したまま立ち尽くすサクラの手を引いた。サクラはめそめそと泣きながら俺の後ろを歩いた。どこかの家の庭から飛んできたバケツが、道を転がっていった。

 嵐の夜を選んだ。覚悟とか勇気とか、そういった類いの希望に溢れたものを俺は持たない。磨いて光り輝くようなものも、誇れるものも。失いたくないほど惜しいものなんて少しだけで、その些細なものを守るために俺は、無いものをかき集めて、どうにかしようと足掻く。

 俺はサクラを決してひとりにはしない。サクラが俺を導いてくれるから、俺はサクラを助けられる。サクラが俺を見てくれるから、俺は呼吸が出来る。

 この手を絶対に離さない。何度も何度も繰り返し、やがて果てさえ尽きるとしても。

 サクラの家に帰っても、まだサクラはしくしくと泣いていた。その頭にタオルを被せて泣き顔を隠した。それから俺は台所を勝手に使って二人分のホットココアを作った。片方のマグカップを突っ立ったままのサクラに渡して、俺はリビングのソファーに座った。窓を強い雨が叩いていた。カーテンの隙間で稲妻が光る。

 計画はサクラとふたりで念入りに立てた。いくつものパターンを考えていた。天候が味方をしてくれるから今夜を選んだ。あの男が俺の存在に気付いてしまったらどうするか、誰かに目撃された場合は、アリバイを偽装するために必要なものは。最終的に今夜を選んで正解だった。誰にも見られることなく片付いた。これでもうサクラと叔母さんがあの男に怯えることは無い。

 それなのにサクラはまだ泣いていた。

「どうして泣くんだ」

 俺はサクラに尋ねた。サクラは嗚咽を漏らした。

「だって、だ、だってぇ」

 言葉が言葉にならない。俺はサクラをソファーに座らせた。安心しているわけでも、喜んでいるわけでもない。それくらいは俺にだって分かるから、それ以上は何も聞かずに俺は黙っていた。サクラは俺の腕にしがみついて泣きじゃくっていた。

 ひときわ大きな雷鳴が轟いて、部屋の電気が消えた。どうやら停電したらしい。

「サクラ、停電した」

 俺は腕に縋るサクラを軽く揺すった。

「懐中電灯はあるか?」

「……どうして」

 サクラの小さな声が、雨音に掻き消されそうな弱々しい声が、俺の耳にはハッキリと届いた。

「つぐ、紹廸は、どうしてそんな、普通でいられる、の」

 懐中電灯を探しに立ち上がろうとした俺は、動くのをやめた。

「だって、僕たち、だって、人を、紹廸は」

 まとまらずに散らばる言葉たちに、俺はサクラの心を聞いた。

「そうだな、俺はたぶん、人を殺した。ああ、きっと死んだだろうな。嵐が去ったら下流で死体が上がる。報道される被害状況の中に、あの男の名前があるだろう」

 俺は暗闇を見詰めていた。

 ふたりで考えた計画でも、実行犯は俺だ。俺があの男を川に突き落とした。殺意は確かに抱いていた。居なくなれと願ったし、死んでしまって構わないと思った。俺がアイツを殺した。情けを掛けなかったし命乞いも聞かなかった。明確な殺意を持って、俺はひとりの人間を殺した。

「俺が殺人犯になったこと、そんなに悲しい?」

 そう問うとサクラは俺の腕を掴む手に力を込めた。

「そんなの、そんなの悲しいに、決まっている」

 はぁ、とサクラは深呼吸してから言葉を続けた。

「悲しいし、悔しい。あんな奴のせいで、紹廸を人殺しに、してしまったこと、僕は悔しいよ」

 自分たちの計画の中ではいつだって俺が実行犯だったから、サクラだってそれくらいの覚悟はあるのだと思っていた。俺は殺人犯になることを一度も躊躇しなかったけれど、サクラにはずっと迷いがあったらしい。

「それはサクラが気にすることじゃないだろ。最初からそういう計画だったし、俺だって自分の意志で選んだんだ」

「でも、それでも、現実は、空想とは違うよ」

 サクラのその言葉で、俺は少し考えてみた。殺人の計画を実行したことで俺たちの妄想は現実になった。終わった今になって、自分たちが何をしたのか、サクラが理解している一方で、俺はただ実感が湧いていないだけかもしれなかった。俺は冷静なわけでも、当然ながら冷徹なわけでもなくて、人を殺したという現実がまだ飲み込めていないだけなのかもしれない。

「殺したこと、サクラは後悔している?」

 俺は尋ねた。

「あの男が死んだことは、罪悪感も無いし、後悔もしていない。でも、紹廸が殺人を背負うのは、やっぱり、つらい」

「でも、どうしたって俺とサクラのどちらかは人殺しになったんだ。それなら俺だって、サクラが殺人犯になるよりも、俺のこの手を汚すほうがよっぽど良い」

 俺たちの思いは同じだった。平行線だ。

 明日、とある男の水死体が見付かっても、それが他殺だとは誰にも分からない。俺たちが関与している証拠はひとつも無い。真相は闇の中に葬られた。この世界でサクラだけが、俺が殺人犯だと知っている。俺だけが、あの男がサクラに何をしたのかを知っている。これは俺とサクラの秘密だ。

「これは墓場まで持って行く、ふたりだけの秘密だ。死後の世界で裁かれる時も、俺は絶対に話さない」

「僕たち、地獄に落ちるの?」

 サクラが尋ねた。

「落ちるだろうな、少なくとも俺は。俺は地獄行きの切符を手に入れたから、向こうに行ったらもう一度、あの男を殺せる」

 俺の答えにサクラは溜息を吐いて俺にもたれかかった。肩にサクラの重みを感じた。

「次は僕がやる」

 サクラの声は暗闇の中で低く響いた。


 その年の冬、年が明けてから、俺とサクラは叔母さんの実家を訪ねた。叔母さんの故郷は港町で、大きな船が停泊していた。海水浴に行った海とは全く違う、交易の海だった。

「血の繋がりが無い僕を家族だと言ってくれる人。僕を引き取らなければもっと自由に生きられたのに」

 港の周辺は公園に整備されていて、煉瓦造りの古い倉庫は商業施設に改装されていた。寒空の下を観光客たちが行き交う。俺たちも少し観光した。サクラは真っ赤なマフラーを巻いていた。人混みに紛れてもすぐに分かる。サクラによく似合っていた。

「他人から優しくしてもらうと、時々、どうすれば良いのか分からなくなるんだ。僕には優しくされる価値なんて無くて、何も返せないから、親切にされると余計に苦しくなる時がある」

 サクラの両親が亡くなった時、誰がサクラを引き取るのか、かなり揉めていた。それをサクラが知っていたかどうかは分からないが、押し付け合う大人たちの姿を俺は見ていた。そんな中で、サクラを引き取ろうと言ったのは、本当は叔父さんではなくて叔母さんのほうだった。うちに来なさい、うちの子になりなさい、とサクラに手を差し伸べたのは叔母さんだった。もちろん、叔父さんだって反対はしなかったけれど、夫婦には子供が居なかったから、戸惑いがあったのだとは思う。叔母さんの後ろで叔父さんは随分と、緊張した顔をしていた。けれども結果としては、三人は確かに家族だった。幸せだっただろう。

 だから、叔父さんが亡くなった後、サクラは叔母さんを守りたかったはずだ。叔父さんの代わりとして、そして、何より家族として、サクラは強く生きようと願ったはずだ。それなのにあの男は、サクラの健気な献身を嘲笑い、自尊心を砕いた。死んで当然だというより、もっと正しく表現するならば、俺たちに殺されて当然だと思う。

 海沿いの風の寒さに耐えかねてカフェに立ち寄った。店員のお姉さんは俺とサクラを恋人同士だと勘違いしたらしい。恋人割引で少しお得になった。そういえばバレンタインデーが近いことを思い出した。サクラは何も言わなかったけれど、俺とサクラは決して恋人にはならない。同性だからというわけではなくて、俺たちふたりの間にあるのは恋愛感情に区分されるものではない。

 俺とサクラは幼馴染で、親友で、ここまではよくある話だが、俺たちは共犯者だ。恋とか愛とか、そういう明るい関係ではなかった。俺たちの魂の繋がりはもっと暗く深いところにある。殺人の記憶を共有するふたりだ。生まれ変わっても巡り逢うなんてロマンチックなものじゃない。俺たちは互いから逃れられない。運命は俺たちを見逃してはくれないだろう。

「俺は別に、見返りを求めていない」

 ホットココアの上にはふわふわとしたクリームが乗っていた。スプーンですくって食べると甘さは控えめだった。

「あの時だって、俺がやりたくてやったことだ。頼まれたからでも、代わりに何かが欲しかったわけでもない」

「無償の愛ってやつ?」

「愛なんて綺麗なものじゃないだろ、これは」

「紹廸にとって、愛は綺麗なものなんだね」

 なぜか少し驚いたような顔でサクラは言った。

「いや、どうだろう。愛は綺麗であってほしいという俺の望みに過ぎないんじゃないか。そのほうがしっくりする」

「でも、愛にも色々あるでしょ」

「そのどれもが尊いものであってくれと俺は願っているのかも。だからこれはやっぱり愛じゃない」

 上手くは言えない、と俺は付け加えた。サクラはチャイをちびちびと飲んだ。それからしばらく黙っていたが、マグカップの中身が無くなる頃にサクラは口を開いた。

「紹廸は大学、どうするの?」

「進学するつもりではいる」

「そっか。学部は違っても、一緒のところに行きたいな。叔母さんにどう相談しようかな」

 溜息まじりにサクラは言った。今日サクラが叔母さんのところを訪ねるのは、高校三年生になるにあたって進路の相談と、それから、叔母さんの復職について話すためだった。そんな大事な場面に俺が居ても良いのか分からないが、一緒に来てほしいと言ったのはサクラだった。俺の両親はサクラのことを自分たちの息子よりも余程信用しているから、サクラと遊ぶ時には、行先も目的も特に何も聞いてこない。

 叔母さんの家に向かうバスの時間が近付いてきたので、俺たちはカフェを出た。外に出ると潮の匂いが分かった。迎えに来てくれると言ったけれど、観光しながら行くと断ったらしい。実際に俺たちは自由気ままだった。

 バスの後ろの二人席に並んで座った。最寄りのバス停までは三十分弱だという。サクラは一眠りすると言って俺に身体を預けた。

「ねぇ、紹廸」

 俺にもたれかかったままサクラが言う。寝るんじゃなかったのかと俺は少し笑った。

「僕に何か隠し事していない?」

 テレビドラマでよくある、浮気を問い質すシーンみたいだった。

「何も思い当たることは無いけど、たとえば?」

「分からない。でも、すごく大事なこと」

「すごく大事なことなら真っ先に、サクラに伝えるけど。あー、志望校の話、まだ絞りかねているから」

「それは別に良いよ、決まったら教えて」

 もし、サクラが本当に俺と同じ大学へ行くと言うのならば、俺は志望校のレベルを上げなければならないと感じていた。サクラは進学校に通っているし、何より昔から俺よりずっと勉強が出来る。サクラのレベルを俺に合わせるわけにはいかなかった。勿体ないように思うから。

 それきりサクラは何も言わず、やがて規則正しい寝息が聞こえてきた。俺は窓の外を見た。知らない景色が通り過ぎていく。冬は色の少ない寂しい季節だと思っていたけれど、車窓に広がる街並みは綺麗だった。

 サクラは正しい。

 俺にはサクラにも言えないことが、ひとつある。

 あの男を殺すのは、あの夜が初めてではない。俺は今まで何度も繰り返して、あの男を殺している。何度も、何度も繰り返してようやく、サクラの死を回避した。

 俺があの男の殺害に成功するたび、次の人生では僅かに筋書きを変えられる。それが俺と「ソレ」の取引だ。ソレは、あの男にサクラを殺されて絶望する俺の前に現れた。もういつかも分からないほど前の話だ。ソレは明らかに俺たちとは別の次元の存在だった。神様と呼ぶべき存在かもしれないし、悪魔なのかもしれないが、どちらでも、あるいはまったく他の何かであっても俺は別に構わなかった。

 最初の頃は返り討ちに遭ったこともあったが、今では躊躇うことなく殺せる。そのたびに俺の心の大事なところが錆び付いていくように感じるが、感傷に浸っている場合では無い。俺が目的を果たすよりも先に、ソレが飽きるかもしれない。俺に与えられたチャンスは無限ではなかった。両親を死に至らしめた事故を回避して、佐倉由汰を救うまで、俺のループを終わらせるわけにはいかない。

 繰り返すたびに、人間のあるべき姿から遠ざかっているのを感じる。もはや人間の皮を被った怪物だ。元に戻ることも出来ない。覚悟とか勇気とか、そういった類いの希望に溢れたものも、磨いて光り輝くようなものも、誇れるものも、愛のように綺麗で尊いものも、俺にはもう何も無い。だからもういっそのこと、佐倉由汰を救うために生まれ、死んでいくだけの存在でありたいと願う。

 この手を絶対に離さない。何度も何度も繰り返し、やがて果てさえ尽きるとしても。


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