影より深く、闇より近く


「なぁ、サクラ」

 公園の芝生の上に屈んだおれは、足元にまとわりつく黒猫を撫でながらサクラに尋ねた。夏休みの陽射しは強く照り付けて、濃い影を落としていた。

「おれの影獣、どうしたら出てくるかな」

 足元の黒い影は、陽炎のようにゆらゆらと揺れるだけだった。ベンチに座るサクラはスケッチブックから顔を上げずに答えた。

「恥ずかしがり屋さんなんだよ」

 おれは黒猫を抱き上げてサクラの隣に座った。サクラのスケッチは夏休みの宿題で、サクラはこの公園ではない、どこか遠くの海の絵を描いていた。おれの膝の上で黒猫が丸くなる。

「おれも早く影獣に出てきてほしい」

「そう? そんなに焦らなくたって良いのに」

「だって二組のハッシーは馬で通学しているだろ? おれも影獣に乗ってみたい」

「ああ、それでヘルメットを持っていたのか。丹波先生の羊とか、りっちゃんの鳥みたいな可愛い影獣が良いんじゃない?」

「えぇー、おれはカッコイイのが良い」

 おれがそう言うと黒猫が不機嫌そうにニャッと短く鳴いた。

「ああ、拗ねた」

 サクラがいたずらっぽく笑う。おれは慌てて黒猫をなだめた。

「大丈夫、トワもカッコイイよ。おまけに賢い。サクラにぴったりだ」

 黒猫のトワは満足そうにゴロゴロと喉を鳴らしていた。向こうの空にもこもことした雲が見えていた。蝉の声が耳の奥まで響いている。

「トワ、羽がある」

 おれはトワの背中に小さな羽があるのを見付けた。昨日までは無かったように思う。

「翼のある馬がいるなら、翼を持つ猫もいるでしょ」

 サクラは当然のことのように言った。

「じゃあ、翼のあるヘビは?」

「蛇? うーん、龍ってこと? 世界の誰かの影にはいるかもしれない。明日は図書館で影獣図鑑でも見てみる?」

「明日はプールに行く約束じゃん」

「それ明日だったっけ? そっか、それならまた、今度」

 そう言いながらサクラはスケッチブックを閉じた。おれは公園の大時計を見た。もうすぐ十二時になる。

「あっという間にお昼の時間だよ、紹廸。まだ描き終わっていないのに」

「夏休みの宿題、もうそれだけだろ? 時間はまだまだある。あ、今日はカレーだって」

 おれたちは帰り支度を始める。

「おいで、トワ」

 サクラが呼ぶと、トワはおれの膝からピョンと跳ねて、サクラの影の中にちゃぽんと沈んだ。サクラの影が水面のように揺れる。

「あんまり他の影獣の話をすると紹廸の影獣も拗ねるよ」

「でも、こいつ、全然出てきてくれないから何なのかも分からない」

 おれは自分の影を見詰めた。声を掛けると少し揺れるが、それだけだ。おれの影から何かが姿を現したことは今まで一度も無い。

「案外、紹廸が気付いていないだけかも? 紹廸が眠っている間には、ひょっこりと出てきているのかもしれない」

「じゃあおれが寝ている間、サクラが見張っていてよ。で、影から出てきたら起こして」

「嫌だよ、ぼくだって夜は眠たいもの」

 そんな話をしながらおれはサクラと団地まで帰った。おれとサクラの家は団地の隣同士の部屋で、同い年なこともあってすぐに仲良くなった。おれの家は共働きで、サクラの家は母子家庭で、だからおれたちふたりは、ほとんどいつも一緒に過ごした。一緒に登下校して、放課後や休みの日にはふたりで遊ぶ。家族よりもずっと家族のようだった。サクラの影獣のトワもおれにはよく懐いている。

 たぶん、おれとサクラはこれからも、ずっと一緒なのだと思う。どこまで行っても、いくつになっても、おれたちは一緒にいると思う。そんな気がした。


 そうして俺たちも大学生になった。

 講義を受ける俺の足元でトワが丸くなっている。小学生の頃は膝の上に乗っていたトワも大きくなって、黒猫というよりはむしろ、黒豹のようだ。それでも俺にまとわりついてゴロゴロと喉鳴らす様子は昔から少しも変わっていない。

 人はこの世に生れ落ちた時、影の世界から一匹の生き物を受け取る。それが影獣だ。死ぬまで一緒に生きる相棒、一番の友のような存在だ。宿主の影に棲む生き物たちは、真っ黒な身体と真っ赤な瞳を持っている。宿主の影から出ている時には影獣に触れられるから、馬や牛のような生き物の形をしていれば影獣に乗って移動することも出来る。誰もが自分の影に影獣を持つ。けれど、俺はまだ自分の影獣を知らない。

 チャイムが鳴って講義が終わる。今日の授業はこれで全部だ。

「帰ろうか、トワ」

 俺はトワの頭を撫でた。トワは赤い瞳を細めた。学生たちと一緒に影獣たちも大学のキャンパスを歩く。小鳥の影獣は肩に止まるのを好む。威嚇し合う影獣たちを引き離そうと頑張っている姿もあった。じゃれ合う影獣の中に、尻尾が二本ある犬の影獣がいた。こういった人間の常識とは少し異なる姿の影獣というのは珍しいけれど、見掛けたらラッキーというほどでもない。特に都会になればいろいろな形の影獣と出会う。

 真っ黒な身体では境界が分かりにくいけれど、トワの成長とともに背中の翼も大きくなって、広げると空も飛べる。神秘的な姿はどこかの神話に登場してもおかしくはないと思えた。

 まるで俺の影獣のようだが、トワはサクラの影獣だ。サクラは同じキャンパスのどこかにいるだろう。影獣は宿主から遠く離れて存在することは出来ない。万一、離れ離れになってしまった時は、影獣たちは暗がりを移動しながら宿主の元へ戻る。だから夜になれば、遠くにいってしまった影獣たちも帰ってくる。

 影獣たちは自由気ままだ。宿主の傍を離れない影獣もいれば、宿主のことなどお構いなしに行動する影獣もいる。宿主の言葉に従順な影獣もいれば、言うことを聞かない影獣もいる。いろいろな人間がいるように、影獣にも様々な性格がある。ただひとつ共通しているのは、宿主に危機が迫ると宿主を守るような行動をする。これは長年の研究で明らかになった影獣の性質のひとつだ。

 サクラから俺のほうに来るとメッセージがあったので、俺はトワと一緒に木陰のベンチでサクラを待った。俺の足元に座るトワは、サクラの影の中から出ている時間のほとんどを俺と過ごしている。俺の護衛を務めているとでも言いたげな気高い横顔だ。

 俺の影獣はまだ一度も出てきていない。さすがに俺も、もう他の影獣に憧れることもなくなった。俺にも影獣がいるのは確かなことだったから、それ以上は別に望まなくたって良いと思えた。俺の影獣は出てこない、そういう性格なのだろう。

 有名人の力は影獣の人気にも影響する。たとえば流行りのアイドルの影獣がウサギだったら、合コンではウサギの影獣を持つ人が人気になる。ただ、影獣を自由に出すことを嫌う人や、呼ばれてもいないのに出てくるのを拒む影獣もいる。宿主と影獣の関係は本当に様々だから、親しくない人と影獣の話をすることはほとんど無い。初対面で影獣の話をするのは失礼だ。

 ドッグランでは本物の犬と一緒になって影獣の犬が走っている。魚やイルカの影獣は普段は宿主の影の中を泳いで時々顔を出すくらいだが、海に行けば自由に泳いでいる。影獣同士を戦わせるという娯楽もある。これは影獣の権利を守る団体から非難されているが、特に若者の間では影獣を競わせることで宿主としての力を誇示するような流行がある。喧嘩っ早い人間と同じで、血気盛んな影獣もいるのだ。

 人混みの中をサクラがやって来た。教科書を手に持ったままだ。

「お待たせ」

 サクラはトワの頭を撫でてから、リュックをベンチに置いて荷物を整理した。

「教室で片付けてから来たって良いのに」

「飲み会に捕まりたくないんだよ」

 今日は金曜日だよ、と心底嫌そうにサクラは言った。サクラは友達も多く、あちこちから慕われている人気者だが、飲み会には参加したがらない。本人曰く「そこまでの仲じゃない」ということらしい。送別会でもない限りは出席しない。ちなみにサクラは酒に強いから酔いつぶれるということはない。

「あの馴れ馴れしい空間が好きじゃないんだ。あ、この本、返却しなきゃ。帰り、図書館に寄って」

「期限は大丈夫か?」

「それはうん、大丈夫、週明けまで。でも忘れそうだから気が付いたときに返却しておく」

 サクラのリュックからはいろいろなものが出てきて、またそれらが雑多に詰め込まれていく。幼馴染だから知っているが、サクラは完璧に見えて、案外、そうでもない。まずは、片付けが出来ない。料理が下手。それから、朝に弱い。つまりサクラの生活能力はちょっと残念だ。だが、誰にでも得手不得手があって、俺は朝に強くて料理もそれなりに出来るから、家事は俺が担当する。代わりにサクラは俺の勉強の面倒を見る。俺たちの生活はそういうふうに成り立っている。持ちつ持たれつだ。

 俺とサクラは同じ大学の違う学部に入ったことで、ルームシェアを始めた。ひとつには、俺たちの地元からは通える大学が無かったから大学に進学するにはどうしたって一人暮らしをしなければならなかったことがある。「大学生になったらルームシェアしようよ」とサクラが言い出したことで、俺は志望校を上げることになった。サクラとの共同生活は、それまでと変わらないから良いとして、受験勉強は大変だった。

 それから、小さいころから俺の家に入り浸っていたサクラには生活能力が備わっていない。それも大きな理由だ。俺が甘やかしすぎた。サクラがこうなった責任は俺にもあるのだから、俺がサクラの面倒を見なければならないのは当然の結果だろう。互いの両親は、それはもう喜んでいた。俺の両親は特待生で入学したサクラの頭の良さを我が子のように誇らしく思っているし、サクラのおばさんは一人暮らしに耐え切れない自分の息子の代わりに俺の自活能力を頼りにしている。

「今日の晩ご飯、何か買って帰るものはある?」

「あー、昨夜の残りの煮物があるけど、それはそれとして、コロッケが食べたい」

「いいね、買って帰ろう」

 トワを真ん中に挟んで、俺たちは並んで歩いた。金曜日の夕方のキャンパスは、浮かれる若者で賑わっている。彼らはこれから街へ飲みに出掛けるのだろう。俺たちは図書館に寄って、少し遠回りをして商店街でコロッケを買って帰る。それからネットで映画を観る。今週はサクラがタイトルを決める番だ。大学三年生の初夏、夜ごと遊びに繰り出す彼らと比べれば地味かもしれないが、俺の生活はそれなりに充実している。


 週末はいつもより少し遅くまで寝る。この頃になるとサクラもずいぶんと自力で起きられるようになった。俺がコーヒーを飲んでいると、けたたましいアラーム、沈黙、アラーム、沈黙、そしてサクラが眠そうに部屋から出てくる。

「おはよ」

「んー……」

 はよ、と掠れた声が返ってきた。おそらく俺は朝型で、サクラはロングスリーパーなのだと思う。トワはその日の気分次第だ。今日は俺より先に起きていたけれど、昨日は最後に起きてきた。

「サクラの今日の予定は?」

「夕方からバイトぉ。紹廸は?」

「俺は昼前から夕方までのシフト」

「明日は?」

「暇」

「僕も」

 サクラは家庭教師のバイトをしていて、俺はカフェでバイトをしている。バイト先も揃えておけば良かったかもしれないが、俺とサクラの得意分野はまるっきり違っているので、それぞれの長所を活用出来る場所を選んだ。

「そっか、じゃあいつも通りトワは家に帰ってから僕に戻して」

 トワはサクラのことももちろん好いているが、俺にも同じくらい懐いているので、俺たちが別々に出掛ける時には俺に付いてくることが多い。ただ、あまり離れるのも良くないだろうから、俺が家に居る時はサクラへ戻すことにしていた。トワもそれはよく心得ている様子だった。本当に賢い。間違いなくサクラの影獣だ。

 時々、思う。

 サクラとトワは、影獣が実体化しない俺の護衛なのではないか、と。俺はおおよそ、サクラとトワの不在を知らない。俺の人生は必ずそこにサクラとトワが居る。年を重ねるにつれて疎遠になるなんてこともなく、俺たちは完璧な幼馴染だった。完璧すぎるほどに。俺の影獣が姿を現していれば、この関係も違っていたのだろうか。それとも俺たちは昨日も明日も理想的な幼馴染だろうか。出来るならば、どうか何ひとつ変わらないでくれと願う。

 出掛けるまで課題に取り組んで、サクラの昼食と俺の夕食になる簡単な食事を用意してから俺は家を出た。来週には梅雨入りするという空はよく晴れて、日向を歩くと汗ばんだ。トワは俺の隣を音も無く歩いた。

 人類がいつからどのようにして影獣と生きるようになったのか、起源はまだ解明されていないが、ずいぶんと昔から影獣は人間と共に在った。世界各地の絵画には影獣が描かれて、いくつもの文献に影獣が登場する。神の奇跡とか、降霊術の一種とか、色々と言われているが、影獣の居ない生活というのはフィクションの世界にしか存在しない。

 影獣に名前を贈る人もいれば、名付けない人もいる。見た目が似ている影獣であっても、どれが自分の影獣であるかは直感的に分かるそうだ。それに影獣は自分以外の宿主の影には潜らない。名前を付けて区別する必要は無いらしい。名前を付けないからといって愛着が無いというわけでもないので、名付けは個人の自由だ。俺の周りは名前を付けている人のほうが多いように感じる。

 トワというのは、永遠の意味だが、サクラが言うにはただ幼い頃からそう呼んでいるだけで、意味は後付けらしい。でも良い名前だと思う。

 俺の影獣にはまだ名前が無い。正体が分からないので名付けようが無い。仮にポチと名付けたものの実際は象だったら、なんてことを考えるとどうにも名前が決まらなかった。クロとかカゲとか、そういった安易な名前は好みじゃない。

 俺も影獣に話しかける。夜寝る前とか、雨の日の午後とか、ノウゼンカズラが綺麗に咲いている時とか。俺の影獣は、黙ったまま、少し俺の影を揺らすだけだった。俺の影の中はそれほど心地良いのだろうか。実体化する影獣が羨ましい気持ちは、それでもやはり少しは残っているけれど、ただ影を揺らすだけでも俺は満足していた。話しかけているのだということは伝わっている、それで構わなかった。

 バイトが終わる頃には夕暮れ時で、オレンジ色の太陽に照らされた長い影が伸びていた。俺は夜の迫る街をトワと帰った。家に着くとサクラは出掛けた後だった。トワは俺の足に擦り寄ってから、大きな翼を広げると、夜の闇に染まる街をサクラの元へ飛んで行った。

 夕食の後は、皿洗いと風呂掃除を済ませてから、俺は残っていた課題に取り組んだ。それから明日の計画を立てた。油、みりん、柔軟剤、買っておきたいものがある。午前中に買い物しておこうと、俺は台所や洗面所の収納を開けて買い物リストをメモしていた。

 そんなことをしていると、インターホンが鳴った。俺は手を止めた。インターホンに応答すると、宅配便だった。何か届く予定はあっただろうか。実家が何か送ってきたのかもしれない。俺は印鑑を片手に玄関扉を開けた。

 瞬間、息が止まった。身を守るより先に、飛び掛かってきた影獣が俺の腕を噛んだ。俺は勢いのまま廊下のフローリングに倒れた。立ち上がる猶予も与えられずに、鋭い爪が俺の頬を掠めた。顔を隠しているから分からないが、どこの言葉か、外国語が玄関先で飛び交っていた。聞きなれない言葉だったが、焦っている様子なのは俺にも分かった。俺を襲ったのは狼か、大きな犬か、そんな形の影獣だった。宿主の指示を待っているが、肝心の宿主は、その仲間たちと一緒に狼狽えている。俺は、今しか無いと思った。

 俺は立ち上がって、ベランダに向かって走った。途中、テーブルの上に置きっぱなしだったスマートフォンを手に取った。狼が追いかけてくる気配を感じたが、追いつかれるより先に、俺は窓を開けて、ベランダの柵を飛び越えた。

 三階。下はツツジの植え込み。無傷では済まないが、逃げ道が他には無かった。この高さは怖い。けれど、訳も分からないまま侵入者たちに捕まりたくはなかった。バリバリと小枝が折れた。痛い。痛いが、どうにか堪えた。ベランダから怒号が降ってくる中、俺は裸足のまま夜道を駆けた。

 自分がどこに向かっているのか、闇雲に走って方角も失っていたが、やがて俺は大学の裏手に出た。茂みに身を隠して息を整える。頬と腕から血が出ていた。足の裏も、膝も、手のひらも、身体のあちこちが痛い。ここまで逃げたら大丈夫だろうか。それともまだ追われているだろうか。

 今になって恐怖に身体が竦んだ。ずっと握りしめていたスマートフォンは、画面に傷が入っているものの無事だった。俺は震える指でサクラに電話を掛けた。

 呼び出し音が一回、二回、三回目でサクラは電話に出た。

『紹廸? どうしたの』

「サク、サクラ……!」

 サクラの声を聞くと安心した。

「今、どこにいる?」

『もうすぐマチダヤだよ』

 近所のスーパーの辺りにサクラはいるらしかった。

『あ、何か買って帰る?』

「違う、違くて、サクラ。部屋には戻るな」

『……え?』

 サクラの声が低くなったのが分かった。

「何か、知らない奴らが襲ってきた」

『紹廸は無事?』

「俺はどうにか逃げて、今は、大学の外の花壇に隠れている」

『この時間、南門なら開いているから、そこから入って、七番棟は分かる?』

「図書館の正面?」

『ううん、西側の五階建て。七番棟は鍵が開いているはず。トワに乗って僕もすぐに行くから、そこで待てる?』

 南門から七番棟、と俺は心の中で確認した。

「分かった。七番棟に着いたらまた連絡する」

 俺は電話を切った。木々の陰から周囲の様子を窺って、安全を確認してから南門へ向かった。途中、何人かと擦れ違ったが、夜の闇の中、俺のことを気に留める人はいなかった。

 サクラの言う通り、南門は開いていた。俺は出来るだけ灯りを避けて進んだ。さすがに、灯りの下では俺が裸足なことも、怪我をしていることも分かってしまう。南門から七番棟までは少し距離があって、ぽつぽつと歩いている学生の姿も見えた。七番棟には主に理系学部の研究室が入っているので、法学部の俺は普段から用事が無い。

 俺は七番棟の傍のベンチの陰に屈んだ。扉は開いているようだが、入り口は明るい。ここから飛び出して大丈夫なのか、俺は悩んだ。俺はサクラに電話した。

「サクラ、七番棟の前に着いた」

『無事?』

「うん、今は七番棟の前のベンチの陰に隠れている」

『分かった、ちょっと待って』

 そう言われて、そのまま少し待っていると、音も立てずにトワが飛んできた。背中にサクラが乗っている。地面に降り立つと、サクラとトワは俺に駆け寄った。

「ああ、紹廸、大丈夫だった?」

 トワが俺の周りを心配そうにぐるぐると回る。

「まあ、どうにか」

「血が出ている、どこを怪我したの?」

「あーっと、あちこち」

 腕の血はもう乾いていた。

「とにかく建物の中に入ろう」

 サクラはそう言って俺の腕を引いた。だが、不意にトワが動きを止めて、真っ赤な瞳で暗闇の奥をジッと見た。耳をピンと立たせて警戒している。サクラは俺と一緒にベンチの裏に隠れた。

「……犬の影獣だった?」

「あ、狼みたいな姿をしていた」

 俺は腕の傷口を指しながら答えた。サクラの表情が険しくなる。

「まさか、そいつが俺の匂いを追ってきた?」

「たぶんね」

 暗闇から狼の影獣が現れた。その後ろに宿主や仲間たちが続く。ここからだとよく見えないが、全部で五人の姿が確認出来た。仲間たちもそれぞれ影獣を引き連れていた。

「紹廸、身に覚えは?」

「あるわけ無いだろ。外国の言葉を話していた。サクラは?」

「僕だって心当たりが無い」

 トワは俺とサクラのふたりを乗せて飛ぶことは出来ない。やはり七番棟に駆け込むのが得策に思えた。

「あ」

 微かな声が聞こえたと思った次の瞬間、俺とサクラはベンチごと吹き飛ばされた。間一髪で避けたトワが俺とサクラの前で影獣を威嚇する。狼に、ライオン、あれは虎だろうか。肉食の獣の影が俺たちを囲んでいた。俺はベンチの下敷きになった右足を引き抜いた。この足ではもう、逃げるどころか、自分の足で立ち上がるのも無理だ。

「サクラ」

 すぐ近くで俯せになって呻くサクラの頭から血が流れていた。サクラはよろよろと立ち上がると、トワに手を伸ばした。

「トワ、影に戻れ、トワ」

 サクラの指示にトワは迷いを見せたが、ためらいながらもサクラの影の中に潜った。肉食の影獣たちが距離を詰めてくる。宿主たちの命令ひとつで俺たちに飛び掛かるだろう。顔を隠した黒ずくめの襲撃者たちは、俺たちに何かを問いかけるがそもそも言葉が通じない。穏やかな雰囲気でないことだけは確かだった。

 けれど、どうにかしたかった。理由も分からず襲われて、たとえそれが人違いだったとしても、そうですかと終わるはずもなかった。サクラの指先が小刻みに揺れていた。考え事をしている時のサクラの癖だった。その横顔を血が流れる。このままで良いなんて思えなかった。一矢報いたい。

 何より、サクラに怪我させたことを俺は、赦すわけにはいかなかった。

 唐突に影獣たちが足を止めて、威嚇するように背中を丸めた。襲撃者たちも明らかに動揺している。一体どうしたのか。俺は訝しげに敵を見た。彼らの視線を追って、サクラが振り返った。

「紹廸」

 サクラは乾いた声で俺の名前を呼んだ。続く言葉は無かった。俺は振り向いた。目が合った。いや、おかしな話だ。だが、目が合った。目が、あった。街灯に照らされて伸びた俺の影が夜の闇と混ざり合って、そして、その大きな影の中から、大きな、あまりに大きな赤い瞳がふたつ、ジッとこちらを見詰めていた。瞳ひとつは俺よりも大きいだろう。宝石のように真っ赤で、燃え上がるような瞳は間違いなく、影獣のものだった。

 恥ずかしがっているわけでも、俺の影の中の居心地が良いわけでもなかった。ただ、外に出てくるにはあまりにも巨大だっただけだ。俺が今まで危機に直面した経験が無かっただけだ。影獣が無条件で宿主の影から出てくる、その危機的状況が偶然にもこんな夜に訪れた。

 ズッ、ズズッと、影獣は俺の影から姿を現した。その正体を問われても、俺は答えを持ち得なかった。何とも形容しがたい形、むしろ、形を保たない液体のような、輪郭らしい輪郭を持たない何かが俺の影から出てきた。それは明らかに、化け物と呼ばれる存在だった。

 襲撃者たちは逃げ出した。だが、俺の影獣は逃走を許さなかった。影から這い出してきた何本もの腕が一気に伸びて襲撃者たちを捕らえた。そして、虫を叩き潰すように、花を手折るように、ひどく容易く、俺はそこで目を逸らした。闇夜に断末魔が響き渡った。

 俺は自分自身の影獣に恐怖していた。あの瞳の大きさから考えて、影から出てきたのは身体のほんの一部だ。恐ろしさのあまり声も出なかった。喉を通る息の音だけで、止まれという言葉を発することが出来ない。だが、この影獣が俺の言葉に従うとも思えなかった。

 いつのまにかサクラが俺の隣に座り込んでいた。呆然としたその顔は青褪めている。サクラは、事の重大さを俺よりもよほど理解しているだろう。だが、サクラの指先は動いていなかった。考えることを放棄したのだ。とんでもないことになった。もう何も思い浮かばなかった。

 俺は影獣を見た。俺の影から、夜の闇へ、ゆっくりと這い出していく怪物。闇夜の暗黒は影の領域。俺にはもう、影獣を止める手立てなど無かった。人間がどうにか出来る存在ではないことくらい一目瞭然だ。

「サクラ」

 俺はサクラを呼んだ。サクラは俺を見て、次の言葉を待った。

「ごめん」

「何が」

「俺にはあれを止められない」

「……そっか」

 サクラは疲れたように笑った。それから手の甲で鼻血を拭った。

「どうしようもないのなら、折角だからもう少し、このままでいよう」

 俺とサクラは地面に座ったまま、光の世界へと生まれ落ちる厄災を見送っていた。


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