アルデバランの追想


 東欧戦線。午前五時四十一分。

 遠くの空に昇る日の出とともに、守護者の投げた槍が悪魔の心臓を貫いた。呪詛と似た悪魔の断末魔が朝焼けの中に響き渡り、やがて静寂が訪れた。辺り一面が悪魔の死骸に埋め尽くされた大地に、疲れ果てた守護者は崩れ落ちるようにして仰向けになった。東洋の顔立ち、黒い髪、黒い瞳、若い横顔にはまだ微かに幼さが滲む。守護者の青年はここより遠く極東の島国、ジパングの出身だった。白々としたまだ薄い青の空にいくつかの星の名残。凛とした朝風の中に花の香りを感じて、確かに春だと守護者は深く呼吸した。

 ゆっくりと呼吸を整えて、守護者は立ち上がった。疲労を堪え、周囲に散らばった武器を集め始める。守護者は悪魔に突き刺さった武器を引き抜いた。黒い血が飛び散った。大小の剣、槍、銃、ナイフ。両手には武器を抱え、盾を背負い、守護者は疲れた身体を引きずりながら歩いた。少し離れたところに折れて横たわった大木に腰を下ろすと、胸元のポケットから取り出した弾を銃に装填し、悪魔の死骸に向けて放った。途端に青い炎がメラメラと燃え上がった。悪魔は影となり、影は白い煙となり、煙は天に昇る。煙の行方をぼんやりと眺めて守護者は深い息を吐いた。

 どこからともなく勝利を祝う鐘が鳴り響いた。制圧完了。天界は高みの見物と決め込んでいるらしい。天使の代わりに人間を悪魔と戦わせる、いわば代理戦争のようなものだ。人間に与えられた試練なのか、それとも天界の娯楽なのか。

 何でも構わないが、今はとにかく眠りたい。夜通し戦い続けて、もうくたくただ。守護者は目を閉じた。鐘の音を合図にして友軍が到着するだろう。そうすればキャンプまで連れ帰ってくれる。眠りはすぐに訪れた。深い眠りの狭間で、故郷の夢を見たように思う。もう何年も帰っていない祖国は思い出の中で留まったまま、何も変わらない景色が広がっていたから、それが夢なのだと嫌でも思い知った。けれども、あれほど大切に抱いて心の支えとしていた思い出さえ、色褪せて曖昧になっていることを感じる。

 ジパングは冬のはじめに陥落した。


 魔界の扉が破られた時、天界は地上に天使を遣わすことはせず、代わりに人間へ武器を授けた。人間たちは天界から与えられた武器を手に取って、魔界から溢れ出てくる悪魔たちと戦わなければならなかった。しかし、天界の武器は人間が容易に順応できるものではなく手に余った。各国は軍を投入したが悪魔相手に苦戦を強いられ、防衛線は後退する一方だった。

 そんな中、天界武器を操ることの出来る人間が、地上にも僅かながら存在することが判明した。彼らは守護者<ガーディアンズ>と呼ばれ、世界各地の戦いへと駆り出されていった。年齢も性別も国籍も関係なく、本人の意思も切り捨てられ、守護者たちは前線で戦い続けた。最初は苦戦していた守護者たちも、経験を積むうちに戦況は少しずつ変わった。守護者を中心とした作戦がうまく回り始め、扉の突破から四年、ジパングは領域内の悪魔の殲滅に成功した。

 ジパングが抱えていた十一の守護者たちから三名が他国へ加勢するために派遣された。ひとりは南米戦線へ、ひとりはオセアニア戦線へ、そしてユーラシア戦線へと送られたのが当時十四歳の少年だった。大陸に渡り西へ西へと進んでいった。時に多くの犠牲を払いながら、西を目指して戦い続けた。気が付けば六年の月日が流れていた。故郷へ一度も帰還しないまま、少年時代は戦火の中に過ぎ去って、今度の五月に迎える誕生日で二十一歳になる。

 名前を尋ねられた時に「ツグミ」とだけ答えた少年のことを皆が「ブラックバード」と呼んだ。黒髪の少年にツグミの中でもクロウタドリを重ねたのだ。

 森の中に設けられたキャンプの簡易テントの中でブラックバードは泥のような眠りから目を覚ました。外から聞こえてくる物音は平時の様子だった。ブラックバードはテントから顔を出した。もう日が高く昇っていた。部隊は次のポイントへ向かって移動するために設営撤去を始めていた。ブラックバードは欠伸を噛み殺しながら自分の荷物を片付けた。

 ブラックバードが最初に適応した天界武器は一本のナイフだった。護身用にも心許ないようなナイフだったが、ブラックバードがひとたび握ればナイフは悪魔の心臓を求めた。どこに刃を突き立てれば良いのか、頭の中に情報が流れ込んだ。鍛錬を重ねてナイフの扱いを身体に叩き込んだ。まだ声変わりもしていない少年が、たった一本のナイフを片手に悪魔と戦った。その戦果が見込まれて、次から次へと所有者のいない天界武器を与えられた。時には自分の背丈よりも大きな武器もあった。銃を撃てば反動で尻もちをついて、盾を構えても吹き飛ばされた。だが、それも過去の話だ。背が伸びて筋肉も付いた。声も低くなった。もう十年も戦っていれば、嫌でも身体が戦い方を憶えている。戦場に立てば、身体が自然に動く。浴びた返り血はどれだけ洗っても落ちないように感じた。どちらが悪魔かこれではもう分からないなと自嘲気味に笑った。

 次のポイントへ向けて輸送車に揺られる。荷台の天界武器がガチャガチャと音を立てた。遠くに見える山々の向こう側で白い煙が上がっていた。あちらの守護者も制圧が完了したのだろう。目的地に着くまで、ブラックバードは毛布を抱えて眠っていた。戦いを重ねるにつれて疲労が増していくのは、単純に連戦続きだということもあるが、悪魔の群れの数が増えていることも原因だった。悪魔は数で圧倒しようとしているらしい。

 実際にジパングは数の暴力に屈したのだと聞く。殲滅完了からずっと平穏を保っていたジパングは、戦いが続く大陸よりもずっと攻めやすい場所だったのかもしれない。現れた悪魔は空を覆いつくすほどの数だったとも聞くし、ほとんど姿を見せない超大型の悪魔が何十体も出現したとも聞いた。ジパング陥落の一報がブラックバードの耳に届いたのは、熱砂の砂嵐にまみれた中東戦線の最終局面だった。遠く離れた祖国の滅亡は、どこか別の世界の話のような響きをしていた。他国の加勢に派遣された三人の守護者がジパングに留まっていれば陥落が防げたとは思わなかった。残った守護者が平和にかまけていたとも思わなかった。だが、悪魔にとって平穏の味はとても美味だったことだろうとは思った。

 ブラックバードの部隊は二日掛けて次のポイントへ到着した。久しぶりの市街地戦だった。市街地を見下ろす丘に住民たちが命からがら避難していた。部隊もそこに合流した。地図を広げて地理と状況を確認する。古い街並みが残る旧市街を中心に形成された街は、入り組んだ細い路地が多い。街のあちこちから煙が上がっていた。悪魔の攻撃によって街が破壊されていた。壁に囲まれた旧市街の出入り口は東西と北の三ヶ所で、北は封鎖する。東に兵士を配置し、ブラックバードは西に回り込んで悪魔を挟み撃ちにするという算段だ。市街地戦はいつもこういった作戦になる。

 ブラックバードは市街地戦に適した天界武器を選別した。狭い通路では大型の武器は身動きが取りづらい。しかしコンパクトな武器では殺傷能力が落ちる。銀色に輝く天界武器がブラックバードの前に並ぶ。精鋭部隊に預ける武器も選んでおく。精鋭部隊はブラックバードが武器を奪われた際や弾切れを起こした際に備えて、天界武器を戦場のあちこちに配置する役目を担っている。

 住民たちがブラックバードに祈りを捧げていた。曰く、天使に代わって悪を裁くものだという。守護者は死後、天界に迎え入れられるらしい。ジパングで共に戦った仲間たちも、ユーラシアの戦地で散っていった仲間たちも、今は天界で平穏を手に入れたのだろうか。もう戦わなくて良いのならば、それに越したことはない。

 だが、ブラックバードは天界へ招かれたくはなかった。もし、自分が戦死して天界へ行ったとして、天界では地上の惨劇をただ見守ることしか出来ないのだとしたら、己の無力を嘆き非力を呪い、やがて悪魔と成り果てるだろう。世界を残して死にたくはなかった。

 戦場では愛なんてものは何の役にも立たない。勇気も覚悟も蛮勇も、圧倒的な悪魔の前ではあまりにも意味をなさない。結局のところ、力に太刀打ち出来るのは力だけだ。天界は地上に悪魔と戦う武器を与えたが、身を守る鎧は与えなかった。本当にそれが真実だとしたら、そんなの、あんまりだ。

 日暮れとともに作戦が始まる。昼間には姿を隠してしまう悪魔を狩るためには、夜を待つしかない。ブラックバードは石畳を走り、瓦礫を飛び越えた。月明かりを反射した天界武器がきらめいていた。音もなく悪魔の背後に回り込み、ナイフで心臓を一突きする。空を飛ぶものは銃で撃ち落とす。繰り返す戦いで部隊の練度が高くなったとはいえ、一般的な武器は時間稼ぎにしかならない。悪魔に止めを刺すためには天界武器が必要だ。ブラックバードは闇に紛れて悪魔を強襲し、東側へと旧市街を駆け抜けた。

 青い炎が上がり、鐘の音が響いた。夜明け前に制圧が完了した。ブラックバードは路地裏に座り込んだ。深く息を吸って、長く吐き出す。戦うことは精神的な疲労よりも身体的な疲労が上回る。最初からそうだったのだろうか、もう忘れてしまったが、じわじわと寿命を削っているような感覚があった。それが、人間が天界武器を使うということの代償なのかもしれなかったが、真相は分からなかった。

 路地裏を出ようとして、ブラックバードはふと足を止めた。しばらく耳を澄ませると、おもむろに瓦礫の山に近寄っていった。何かを探すように瓦礫をかき分ける。立ち上がったブラックバードの手の中に黒い子猫が収まっていた。

「どうした、ひとりか」

 子猫はまだ生後一ヶ月ほどだった。薄汚れてひどく痩せているところをみると、悪魔に占拠された街で生まれ、騒乱の中で親兄弟とはぐれたようだ。ブラックバードは子猫を懐に仕舞い込み、武器を回収して帰還する。いつのまにか子猫は寝息を立てていた。胸が温かかった。キャンプに戻る頃、東の空に朝が来た。


 子猫はすくすくと成長した。ちょこまかと歩き回り、どこへもついて行っては、ブラックバードに抱き上げられ、懐に放り込まれた。懐では満更でもない様子でゴロゴロと喉を鳴らしていた。さすがに戦場へ連れて行くことは出来ず、ブラックバードは子猫をキャンプに預けて戦いに赴いた。くたびれて帰還すると、なぜ置いていったのかと責めるように鳴いた。この頃すごく疲弊しているブラックバードは子猫の遊び相手を務める体力も残っておらず、すぐに眠りに落ちた。すると子猫は鳴くのをやめて、眠るブラックバードの毛繕いをしてから自分の毛繕いをして、それから布団の中に潜り込みブラックバードに引っ付いて眠るのだった。

 戦闘後は疲労で倒れる自分に代わって子猫の世話を焼いてくれる兵士たちが子猫の名前を尋ねてはじめて、名前を付けていなかったとブラックバードは思い出した。あれでもない、これでもないと考えているうちに、隣国との国境へ着いた。そこで隣国の部隊へと任務が引き継がれる。ここで東欧戦線から中欧戦線に切り替わる。兵士たちとの別れは案外あっさりとしていて、それもそのはず、悪魔たちに勝利を収めてここまで辿り着いたのだ。自国へ戻っていく兵士たちの顔には希望の笑みが浮かんでいた。

 隣国に入り、まずは状況と作戦を伝えられる。この国ではブラックバードのほかにも五人の守護者が戦っていたが、大型の悪魔が確認されている北西部の戦況が芳しくないということで、ブラックバードは北西部へ向かうことになった。

 数日間は戦闘をせずに街で過ごした。久しぶりの穏やかな休息だった。ベッドがあまりにも心地良くてすぐに眠ってしまった。子猫はブラックバードの胸の上で喉を鳴らしていた。束の間の平穏。瞼の裏には波のように、遠い記憶が寄せては返した。

 カーテンの隙間から穏やかな朝の光が漏れていた。ブラックバードが起き上がると、子猫はベッドの上を転がった。それから欠伸をして、ブラックバードの膝の上に座る。

「お前の名前」

 子猫を撫でながら、ブラックバードは静かに言った。

「名前は、サクラにしよう。俺の名前を半分、お前にやるよ」

 ブラックバードの認識票が胸元で揺れていた。

「サクラ。ほかにあげられるものが、俺にはもう、何もないんだ」

 何もないんだとブラックバードは繰り返した。子猫はニャッと短く鳴いて目を細めた。

 佐倉紹廸。それがブラックバードの本名だった。けれど、その名を知る人間はもうどこにもいない。呼ぶ人間だって誰も残っていない。故郷は陥落した。自分と同じように海外へ派遣された二人の訃報を本当は知っていた。一人は海戦で沈み、もう一人は森の野営地ごと焼き尽くされた。今でもまだ現実味がなかったが、もうどこにも存在しないのだ。

 大切なはずの思い出が、どんどん思い出せなくなっている。悪魔との戦いの記憶が、ありきたりな日々を上書きしていく。帰る場所がない、待っている人もいない。このまま戦いに明け暮れて、やがて、過去を思い出すことさえしなくなるだろう。死ぬ前に見るという走馬灯には何が映るだろうか。もはや虚しさも感じなかった。

 ざらざらとした舌がブラックバードの指を舐めた。

「サクラ、お前は長生きしろよ」

 世界を守れと言われたって、そんな大きなものは背負えなかった。人類の未来を託されたって、漠然過ぎて実感が持てなかった。大いなる使命に選ばれた者だと讃えられても、救世主だと祈られても、それが自分自身の本質だとは感じられなかった。天界武器はいつだって、この手にはずっしりと重い。守護者ブラックバードの肩書きが無くなれば、自分には何も残らないと思った。価値も意義も人生も、佐倉紹廸という名前さえも。

 だが、今は、少しだけ変わった。身体を寄せてくる小さな毛むくじゃらの生き物はとても温かい。そこに確かな命があると分かる。世界を守る重圧は重過ぎるけれど、この小さな命を守ることなら出来るかもしれない。手の届く範囲の狭い世界が、自分でも守れるのではないかと思えた。

 部隊は北西部へ向けて進行した。のどかな田園風景が広がっていた。

「あれが牛、向こうは羊。あの青いのはヤグルマギクの花」

 ブラックバードの指先をサクラは大きな目で追った。小さな尻尾がぶんぶんと揺れた。

「あれは雁の群だろう。それはアゲハ蝶の仲間。向こうの森はトウヒの木かな。あれは戦闘機、憶えなくて良い」

 夜には満天の星空が広がった。ブラックバードとサクラは星空を見上げていた。冷たい夜風が肌寒い。

「北斗七星、しし座のレグルス、うしかい座のアークトゥルス、おとめ座のスピカ」

 ブラックバードは広げた図鑑に灯りをかざし、夜空と見比べる。

「アルデバランはもう見えないか? 俺、おうし座なんだよ」

 星空の中にアルデバランを探すが見付けられなかった。

 十代前半で守護者の素質を見出された。それからは一日のほとんどを訓練に費やして、勉強も娯楽も後回しだった。さすがにそれではあまりにも不憫だと、本が差し入れされた。教科書、図鑑、百科事典。飽きるほどに読んだ。ほかに楽しみがなかったからだ。そんな本も大陸へ渡る時にほとんどを手放した。手元に残した本もずいぶんと擦り切れてしまったが、今でもこうして読み返しては、自分では掴めなかった青春という季節に思いを馳せた。


 北西部の戦いは苛烈を極めていた。街道の要所が悪魔の手に落ちて、先で戦う本隊への補給が途絶えていた。周辺国からの応援部隊もあったが、前進と後退を繰り返し、今は膠着状態だった。野営地へ向かう道中、着の身着のままで避難する市民の列と擦れ違った。ブラックバードを見付けると誰もが皆、手を組んで祈りを捧げた。

 ブラックバードに与えられた任務は、大きな川に架かる橋の奪還だった。街を分断する橋を取り戻せば援軍と物資を送り込める算段だった。ブラックバードは教会の塔から橋を見た。見た瞬間に分かった。勝てない、と。

 橋の上空を旋回している悪魔たちは無視しても良い。だが、橋の上の悪魔はどうしたって太刀打ち出来そうになかった。橋そのものに覆いかぶさる大きな躯体は、立ち上がればこの教会の塔よりも高いだろう。指先で弾かれただけで人間の骨など粉々に折れそうだった。踏み付けられたならひとたまりもない。どう戦ったものか、ブラックバードは困惑した。勝つしかない。倒すしかない。ここまで来て、負けることなんて出来ない。後退は許されない。だが、勝機が見えない。

 風が吹けば春の花が揺れた。夕暮れ空を鳥の群れが帰っていく。閉じた瞼の裏側に映るのは、逃げ惑う人々の恐怖に支配された顔だった。もう故郷の景色は見えなかった。遠くへ来た。とても遠くへ来た。思い出も届かないほど、遠くまで。

 ブラックバードはキャンプに戻って天界武器を並べた。祈る先は知らないが、天界がこの戦場を見ているのなら、最後まで目を逸らさずに顛末を見届けろと望む。

 ミィという幼い鳴き声に顔を上げると、サクラが行儀よく座ってブラックバードを見ていた。首輪の代わりに巻いた赤いリボンがよく似合っていた。

「サクラ」

 手を差し出せば、尻尾を立てて寄ってきた。身体を擦り付けてゴロゴロと喉を鳴らした。

「地獄へはお前を連れて行けないんだよ」

 懐へ入ろうとするサクラを抱えると、離せと小さな体を捩って暴れた。

「世界を守ることなんて出来なくたって、サクラひとりくらいなら俺にだって守れると、そう思ったんだけどなぁ」

 ブラックバードはサクラの顎を撫でた。ふわふわの毛並みが愛しかった。

「苦しみは、俺が全部もらっていく。怖い思いをして、痛い思いをして、せめてほかの誰よりも、とびきり苦しんで死ぬ。だからサクラ、心配は要らないよ。俺が残す世界は、今より少しはマシなはずだ」

 サクラは大きな耳をピンと立てて、ブラックバードの言葉を聞いていた。

「賢いな、お前は。良い子、良い子だ」

 そうしてサクラを撫でた手が今は、天界武器を握っている。悪魔の心臓を寄越せとナイフが笑う。大型の悪魔の心臓は、三つ。ひとつは左腕、ひとつは右胸、残るひとつは左目。ああ、うるさい。悪魔の心臓を寄越せとうるさい。

 ブラックバードは橋のたもとに立って悪魔を見上げた。上空の悪魔たちが我先にとブラックバードに襲い掛かってきた。ブラックバードは矢を番えた。放たれた天界武器の矢は銀色に輝いて流星の尾のようだった。矢が突き刺さった悪魔たちは悲鳴を上げた。大型の悪魔の拳が飛んできたのをブラックバードは盾で防いだ。重い衝撃に少し後退したが持ちこたえた。ブラックバードは次の一撃を避けると、隙が生まれた悪魔の太い腕を駆け上がり、左腕の心臓に剣を立てた。黒い血飛沫が上がり、悪魔が喚く。川に振り落とされたブラックバードをすかさず精鋭部隊のボートが救助した。川の水は冷たかった。ボートは一度、橋から距離を置く。小型の悪魔の群れを相手にするのとは、やはり勝手が違う。だが、一つ目の心臓を刺したことで、悪魔が弱体化したのは間違いない。胸と目をどう狙っていくか。ブラックバードは頭の中で作戦を練った。目は狙撃すればどうにかなる。問題は胸のほうだ。フックがあれば悪魔の身体を登れるかもしれないが、ブラックバードの持つ天界武器には鉤縄はない。上から降下するのは、空中での隙が大きすぎる。

 ブラックバードは砲撃部隊と合流した。一般兵の砲撃は囮だ。弾丸の雨に紛れて別方向から天界武器の銃を撃つ。作戦を共有して持ち場に着く。夜空に開いた閃光弾を合図にして一斉射撃が始まった。悪魔は煩わしそうに弾丸を払いのけようとした。そこへブラックバードの放った銀の弾丸が的確に悪魔の左目を撃ち抜いた。悪魔の咆哮に地面が揺れた。

 盾はジパングを発つ時に譲り受けた。弓矢の扱いは中国戦線で共闘した守護者に学んだ。槍の腕は中央アジアで展開した高原作戦で磨き、熱砂の中で銃を構えて悪魔を待ち伏せした。初めて天界武器を手にしてから十年の月日が流れた。その間、ただ非力な自分のままだったわけではない。託されたいくつもの想いがただ重荷になったわけではない。持ち歩く天界武器の数を見れば分かる。いくつもの別れを繰り返した。だが、それでも歩みを止めなかったのは、もはや意地だった。

 自分は主人公になるような人間ではないと思う。正義感に溢れているわけではないし、特別な才能に恵まれているわけでもない。復讐に燃え上がることもなく、涙なしでは語れないような過去があるわけでもない。ありふれた平凡な人間だ。ただ少し天界武器を扱えるだけの、ただの人間だ。取るに足らない、ちっぽけな存在だ。

 本当は、悪魔を前にすれば足が震える。今すぐにでも逃げ出したくなる。すべてを放り出してしまえたらどれほど楽だろうかと想像する。けれども、一度として放棄はしなかった。理由はいくつもある。責務を果たさなければ故郷に顔向け出来なかった。何の抵抗もせずに殺されたくはなかった。けれども何より心を奮い立たせてきたのは、自分でも何かを成し遂げることが叶うのではないかという期待だった。戦っている間は、自分が役に立っていると安心出来た。世界を救ってきたわけじゃない、いつだって、この戦いは弱くて脆い自分自身のための救済だった。

 装填する弾丸の種類を変える。この戦い方も戦い旅の途中で守護者に教わった。用意するのは氷結剤を込めた弾丸。大型の悪魔に対して有効な手段として考えられた策のひとつだ。手持ちの氷結弾五発の後に威力の高い弾丸を装填する。チャンスは一度きりだ。

 一発目は悪魔の右足に命中した。銃創から氷が広がり、悪魔の右足は石畳に固定される。悪魔の身体は大きくふらついた。

 二発目は脛のあたりに命中した。三発目は下腹に、四発目は胸に氷の花を咲かせた。ブラックバードは体勢を崩した悪魔の身体を一気に駆け上がった。氷結は胸まで登るための足場だった。

 五発目はブラックバード目掛けて振り下ろされた右手を凍らせた。悪魔の叫び声に空気がビリビリと揺れた。

 六発目。最後の一発は右胸の心臓へと撃ち込まれた。浅い、咄嗟にブラックバードは判断して、背中の剣を抜いて心臓に追撃した。断末魔を上げながら悪魔が崩れ落ちる。ブラックバードは宙に放り出された。満天の星空が広がっていた。あれが、北極星。

 ブラックバードの身体は石畳に叩き付けられた。痛みが全身を駆け抜ける。口から血が溢れる。だが、ブラックバードの手はすでに火焔弾の引き金を引いていた。青い炎に包まれた悪魔が地鳴りのような咆哮を上げていた。ひと際大きな叫び声の後、辺りは静まり返った。一秒、二秒、三秒。乾いた鐘の音が戦いの終わりを告げた。

 歓声が巻き起こる中、ブラックバードは治療部隊へと運ばれた。


 ベッドに横たわるブラックバードの胸がゆっくりと上下して呼吸が分かる。枕元でサクラが丸くなって眠っていた。重傷を負ったがどうにか命に別状はなかった。しばらく戦線を離脱することになるが、悪魔はまたすぐにでも訪れるだろう。傷付いた身体を引き摺ってまた戦場に立たなければならない。

 不意にサクラが目を開けた。閉められていたはずの病室の窓が開いている。カーテンが早朝の風に揺れていた。街路樹の白い花が満開に咲いていた。いくつもの白い影がベッドの周りを取り囲んでいた。サクラは毛を逆立てて威嚇したが、白い影たちは気にも留めずに何かを話し合っている様子だった。やがて、白い影たちはパッと消え去った。あとには柔らかな朝風がカーテンを揺らすだけだった。

 サクラはブラックバードに身を寄せた。春がもう終わろうとしていた。

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