ある水没都市にて
朝が嫌いだ。腹立たしいほどに清々しい。カーテンのない窓から射し込んだ朝の光が部屋を明るく照らす。
俺は隣で眠るサクラを揺り起こす。毎朝が同じ行動で始まる。
「サクラ、朝だ、起きろ」
高層マンションの一室、キングサイズのベッドをサクラとふたりで分かち合っている。俺は寝相が良いほうだと自負している。ベッドの隅で丸くなってほとんど動かないから、猫にも好かれていた。対するサクラは、どうしてそうなるのか、寝相が悪くて仕様がない。いっそ筋を違えてしまうのではないかと心配になるほど、アクロバティックな寝相を披露してくれる。
俺はサクラを残してベッドから這い出して、窓辺で大きく伸びをした。高い天井に合う広い窓。そして、海。
窓を開けてベランダに出る。仕掛けた網を引っ張り上げて釣果を確認する。今日は小ぶりな魚が三匹。俺はベランダの柵の隙間から足を放り出した。この十七階も、今は水面に一番近い。足首まで水に浸かった。また水位が上がっている。
始まりは、海底火山の噴火が続いたことだったように記憶している。大きな噴火の連続によって天候が変わって世界中で大雨が続き、追い打ちをかけるように海洋プレートの大地震が発生した。そうして海溝の奥で、『それ』が目覚めた。ウミヘビだとか、節足動物だとか、とにかく誰もが何かに分類しようとした。けれど、そんなものは無意味だ。数千メートルの体長がある生き物と、ほかの何が仲間だというのか。
遠くの水平線にそれの背中が見える。甲殻類のような殻に覆われた金色の生命体。身体のシルエットはウミヘビとも似ているし、顔はイルカとも似ている。似ているだけだ、人類が名前を付けた何かであるはずもない。
もし仮に、それが一匹であれば、状況はまだいくらかマシだったかもしれない。けれど、深い海溝から出てきたのは一匹ではなかった。数千匹のそれが、世界中に放たれた。遠い国も同じように次々と水に沈んでいったらしい。
あふれだした水が街を飲み込んで、沿岸部はことごとく海に沈んだ。富裕層は内陸部へと逃げ延びたが、一般市民の多くは水没都市に残された。俺もそうした一般人のひとりだ。富裕層が残した高層マンションを拠点にして、今日もなんとか生きている。
内陸部では最低限文化的な生活が続いているらしい。街が水没してしばらくは、内陸部から船やヘリコプターが取り残された人たちを救助するためにやって来た。しかし、誰もがみな平等に救われるわけじゃない。定員には限りがあって、優先される存在があるのも事実だ。健康な若者に差し伸べられた救いの手ではなかった。救助出来なかった人たちに向けて、支援物資が届けられたこともある。食料や生活必需品の入ったボックスが空から配布された。それで、どうなったかというと、救援物資をめぐって争いになった。群れる者たちが派閥抗争を繰り広げて、こんな世の中になっても支配関係というのは出現するのだなと、いっそのこと感心した。
俺は、争ってまで物資に縋りつく生き方は、自分には向いていないと思った。海面に釣り糸を垂らして過ごすほうが俺には合っている。廃墟と化した高層マンションに辿り着くことが出来たのは幸運だった。五階から始まったここでのサバイバルも、もう一年になる。
九階に住んでいた頃の話だ。内陸部から配信されているラジオが五月の新緑を告げていた。カーテンレールを改造したお手製の釣り竿でのんびり釣りを楽しんでいると、手漕ぎボートが流れてくるのが見えた。それ自体は珍しいことではない。どこかの池のスワンボートの群れが大海原を目指していくのを見送ったこともあるし、客船か何かの蛍光オレンジの救命ボートも見かけたことがある。そういった野生のボートはいつだって無人だったから、俺はいつも通り、海へと流れていく手漕ぎボートを見送ろうとした。だが、手漕ぎボートには子供が乗っていた。子供ひとりだった。
見過ごせなかった。
そうして助けた子供がサクラだ。内陸部へ向かう途中で家族とはぐれてしまったらしい。実際のところ、そういう人はかなり多い。安息の地を求めて内陸部を目指す人、先に救助された家族を追って内陸部へ向かう人、物資を求めて漂う人。様々な事情の人たちが水面を進む。そして、様々な理由で挫折する。大雨、竜巻、魚の群れ、そして、それの襲撃。進んでも留まっても、どちらにせよ危険はついてくる。それなら俺は、自分の好きなように過ごしたい。
サクラは自称では中学生だということだがそれは虚偽申告で、本当は小学生だと俺は思う。まあ、背伸びをしたい年頃なのだろう。分からんこともない。だが、もしサクラが本当に中学生だというのなら、もう少し朝はちゃんと起きてほしい。
俺はサクラを内陸部のほうまで連れていこうとしたが、サクラは俺の申し出を拒絶した。ここに残る、俺と一緒に留まると言って譲らない。サクラの家庭事情を詮索するつもりはないが、こんな状況ならなおさら家族が離れ離れになってはいけないと思うし、子供にはやはり保護者が必要だと思う。内陸部への旅は厳しい航海になるだろうから、出来るならば協力して内陸部を目指したかった。
結果、俺が脅されて折れるという顛末になった。折れるというのは、譲歩するとか妥協するとかそういう意味もあるが、実際、物理的に俺の指は折れたのだ。夜中、眠る俺の手をサクラが金槌で強襲した。あまりにも突然の強烈な痛みに、思いがけず涙がこぼれた。その夜以来、俺はサクラを内陸部へ送り届けることをきっぱりと諦めて、内陸部から救助が来るまでサクラを生かすことへと人生の目的をシフトチェンジした。
今日もまだ奇妙な共同生活が続いている。この場合、俺は誘拐罪に問われるのだろうか。やめてくれ。
さて、そのサクラは、布団にくるまったまま、まだ起きるつもりはないらしい。俺はサクラを放っておいて、朝食を準備することにした。
ライフラインは全滅していたが、カセットコンロは手に入れた。廃墟を探索して物資を手に入れるのは、サバイバルには当然なことなのだが、空き巣をしている居心地の悪さがあった。この嫌悪感や罪悪感を忘れてしまったら、もっと図太く、もっと楽に生きられるのかもしれないが、非常時にあっても人間としての誇りは忘れたくないと思う。あるいは、これ以上どうしようもない人間にはなり下がりたくなどないという、幼稚な抵抗かもしれない。いずれにしても、カセットコンロのおかげで、魚を焼くことが出来るし、調味料を拝借したから味付けも出来る。
それにしても高層マンションを拠点に出来たことは不幸中の幸いだ。衣食住には困らないし、質も高い。こういった場所の住人たちは我先にと一目散に内陸部へ疎開したから、荷造りをする暇もほとんどなく、たくさんの物資が残されている。
もちろん、物資を探してここまでやってくる人たちもいた。最近はめっきり来なくなってしまったのは、彼らが内陸部へ辿り着いたからだと思いたい。丁寧な来客には俺も親切に対応したし、乱暴な侵入者には俺だって応戦した。こっちにはサクラがいるのだ、子供を危険にさらすわけにはいかない。俺は赤の他人だが大人なので、サクラを守る義務がある。
大人といっても、俺はまだ二十歳そこそこの大学生だった。どこにでもいるありきたりな大学生で、良くも悪くも平凡な人生を歩んできた。それなのにこの仕打ち、と嘆いたところで仕方がない。水没そのものは、ほとんどすべての人類に対して、ほとんど平等に降りかかってきた災難だ。街が水没したのは誰の責任でもない。避難に優先順位があることだって当然で、俺だってきっと自分の席を譲るだろう。こうなってしまったのは、もはやどうすることも出来ないことだから、過去に縋って嘆きながら生きることや、ありもしない未来に期待を寄せるようなことはやめて、目の前にある今をどう乗り越えていくかを考えるようにしている。
そうでなければ、いつ折れるとも知れない心だ。
俺が朝食を終えて、身支度を整えて、出掛ける準備をしている頃になってようやくサクラが起きてきた。
「おはよー、紹廸」
この少年は俺のことを紹廸と呼び捨てにする。最初は生意気だと思っていたが、今は呼び方なんてどうでも良い。この水没都市で、俺のことを紹廸と呼ぶのも、この少年のことをサクラと呼ぶのも、互いにひとりしかいないのだ。どちらかが居なくなれば、消えて無くなる名前だ。好きにしてくれ、何度でも呆れるほど、何度でも飽きるまで。
電池で動くラジオから内陸部の放送が聞こえる。アーティストの新曲が流れてくるたびに、別に好きだったわけでもないが、あの人たちは内陸部へ逃げられたんだなぁとか、内陸部ではまだ文明が続いているんだなぁとか、そういったことを考える。嫉妬とは違った感情だ。むしろ、感情と呼ぶのもおかしい。自分とは遠く離れた世界の出来事だ。言ってみれば、ファンタジーな話でしかない。
たとえば、土の手触り。蝉の声。芝生。飛行機雲。蟻の行列。潮の匂いのない風。まだら模様の木漏れ日。霜を踏みしめる音。これまでの二十年の人生、地上で暮らした歳月のほうがずっと長いはずなのに、俺はもう地上を忘れ始めている。幻想、幻影、空想、ただの過去。もうあの頃の俺とは違う。同じ存在とは呼べない。
「今日はどこで何するの」
サクラが尋ねる。少し焦げた魚も文句ひとつ言わずに食べる。
「午前中は菜園の世話」
「ぼく、菜園好きだよ」
ベランダで家庭菜園をしている部屋があって助かった。近くのビルの屋上庭園から土を運んで、菜園の部屋を作った。
「午後は向こうのマンションの探索」
「あの傾いたマンション?」
「そう、あれ」
迫りくる水流や、それの襲撃によって倒壊した建物は無数にある。頑丈な建物は崩壊せずに傾いたまま留まっていることもある。そうした建物を探索して、新しい物資を手に入れて生存確率を上げる。傾いた建物に立ち入るのは危険だが、資源は無限じゃないし、探さなければ手に入らない。
サクラを乗せて漂流した手漕ぎボートは、今では俺たちにとって唯一の交通手段になっている。そして、欲望を捨てるための器でもある。舟に乗らないものは諦める。そうしなければどこまでも欲深くすべてを手に入れようとするだろう。
「夜は?」
「それの観察」
それは夜行性らしい。深海で暮らしていたのだから、明るい場所よりも暗い場所を好むのかもしれないが、そうならばこんな浅瀬に留まらないで、さっさと海の底に帰ってほしい。それにとっては寝返りのつもりでも、少し身体を動かすだけで周囲の建物が崩壊する。元気なのは良いことだが、泳ぎ回るとそれだけで水の流れが変わるし、海底の地形も変わる。大きすぎる、頑丈すぎる。たとえ人類の文明が繁栄していなかったとしても、この惑星はそれが生息するには脆く小さすぎる。
朝食の後片付けをしてから、俺とサクラは上階の菜園へ向かった。収穫できるものはあるだろうか。野菜を育てるのは難しいと心得るには十分な時間を過ごした。収穫を期待しているわけじゃない。地面が、恋しいだけだ。束の間でも安心を手に入れたいだけだ。
最初は鉢植えだった。今は日当たりの良いリビングをそのまま畑にした。屋上庭園の土が野菜作りに最適でないことくらい知っているが、腐葉土なんて何よりも贅沢品だ。それに、あの屋上庭園も、もう水に沈んだ。
雨がよく降るから雨水には困らない。階下から潮騒が聞こえるだけで、菜園は静かだった。二十一階、春が来る頃には水の中に沈んでいるのだろうか。
内陸部の季節は秋だという。こちらの季節は、海。一日中、一年中、ほとんど一定の温度を保っている。それが何に起因しているのか気象学はさっぱりだが、春の終わりのような穏やかな気候だった。もしこれが楽園だというのなら、ほかにもっと良い場所があると思う。停滞が理想郷か。生ぬるい優しさなんて、箱庭にはピッタリじゃないか。
昼には缶詰のカレーを食べた。菜園で収穫した少しのベビーリーフをふたりで分けた。
食後にしばしの惰眠を貪ってから、探索へと繰り出した。
「たぶん明日あたりから、またしばらく雨だから」
俺がボートを漕ぎ、サクラが周囲を偵察する。水面は静かで、水の中には魚の群れが見えた。澄んだ水の底で沈んだ都市の名残が眠っている。
「今日のうちに探索しておかないと」
月の半分は晴れ、半分は雨だ。小雨から始まって、大雨になり、豪雨でまた海面が上昇する。やがてまた晴れ間が広がる。雨季と乾季が一ヶ月に凝縮されている。その繰り返しで一年が成立している常春の海だ。
サクラを拾った頃はまだ舟で行き来する人たちを見かけたが、最近はまるで世界に俺とサクラのふたりだけが取り残されたように静まり返っていた。内陸部を目指すことは、正しいことだと俺は思う。内陸部に辿り着けば、安全が保障されているはずだ、少なくともこの水没都市よりはずっと。毎日の食事を心配する必要は無い。危険を冒さずに物資を手に入れられるだろう。廃墟を物色する罪悪感も抱かない。ビルの合間から見える金色のそれに怯えずに済む。
それが分かっていて、なお、この水没都市に留まっているのは、サクラに脅されたからというだけじゃない。小学生のサクラと大学生の俺では体格も筋力も違っているのは明らかで、サクラがそうしたように俺だって、サクラの寝込みを襲って縛り上げて、ボートに乗せて漕ぎ出せば、内陸部を目指すことくらい出来るのだ。
けれども、内陸部に思いを馳せれば馳せるほどに、行きたいという思いが褪せる。どうにかして辿り着きたいとは思えなかった。衝動も情熱も無い。憂鬱になるだけだ。今の暮らしに満足しているわけではないけれど、この日々を放り出してでも内陸部へ行きたいとは感じない。潮風に心が錆びる。
サクラの存在を言い訳にすれば、それで楽になれる弱い心だ。進むことを恐れているだけだ。留まる理由が出来たことに安堵している。停滞が許されたと勘違いしている。けれど、俺がやるべきことは、本当に成し遂げるべきことは、サクラを無事に内陸部まで送り届けることだろう。この海で漫然とした日々を繰り返すことなんかじゃない。
それでもなお変化を拒む、弱い心だ。
傾いたマンションのベランダに舟をロープで固定して、割れた窓から侵入する。生々しい生活の残骸が転がっている。テーブルの上で埃を被っている乾燥して小さくなった食事。詰め込もうとして諦めた荷物が散乱している。本棚から床に崩れ落ちた本と家族写真。住人は両親と高校生の娘の三人家族だったのだろう。
キッチンや洗面所を物色して使えそうなものを持ち帰る。インスタント食品やカセットコンロはありがたい。電池や医薬品も必要だ。余裕があれば衣服も欲しい。欲深さに嫌気がさす。
ベランダの仕切り板を蹴破って、隣の部屋に入る。生活感の無い部屋だった。三十代男性の単身といったところだろう。レトルト食品に期待したものの、キッチンはほとんど空っぽだった。自炊はせず外食と宅配で済ませていたのだろう。水のストックがあるのは助かった。俺たちは次の部屋へ向かった。
そうして三階分の探索をして、今回の成果は上々だった。これでまたしばらく衣食住に困ることはなさそうだ。サクラは文房具をリュックに詰めて、片手には猫のぬいぐるみを大事そうに抱えていた。
傾いた太陽が橙色に染める水面を俺たちはまた手漕ぎボートでゆっくりと帰った。ラジオを流しながら、収穫物の整理をする。賞味期限の近いものから消費していかないといけない。ラジオから十年くらいまえの歌が流れてきた。
ここに、たとえば手放しがたい幸福感があれば、俺もこの生活を終わらせまいとして必死になるのだろう。逆に逃れたいほどの不幸があれば、俺は内陸部へ向かって舟を漕ぎ出すのだろう。けれども、この海に漫然と広がっているのは、茫漠な倦怠感だけだ。諦めの気持ちに近い。
あるいは内陸部に大切な人たちが居るとしたら、俺は迷わず彼らを追いかけるだろう。だが、俺の大切な人たちは、家族とか友人とか、そういった親しい人たちは皆、もう手の届かない場所にいる。高波に攫われて、それに食われて、溺れて、倒壊に巻き込まれて。俺ひとりが生き延びたことに対する罪悪感が、俺ひとりだけが助かるわけにはいかないという足枷になっている。
いや、そんなもの、嘘だ。喪失感の所為にしているだけだ。たとえ両親が内陸部に逃げ延びていたとしても、俺にはひとりで内陸部を目指す勇気も根性も無い。かといって、自ら命を絶つ覚悟も無ければ、新しい世界を開拓しようという気概も無い。俺はどこまでもろくでなしで、どうしようもない人間だ。
変化は疲れるだけだ。期待するだけ無駄だ。それならば省エネの現状維持で勘弁してくれ。生きているだけで尊いんだろう。俺は、明日も無様に生きるしかない。
「紹廸」
缶詰の賞味期限と睨みあっている俺の背中にサクラが声を掛けた。俺は首だけで振り向いた。
「内陸部へ行きたい?」
サクラは時々、この質問を投げかけてくる。
ラジオからは定期的に内陸部への移住を促す放送が流れてくる。そこは安寧が約束された土地なのだという。水没都市は過去のもので、未来は内陸都市にしか無い。人間らしい生活を取り戻すために陸地に集って生きていこう。そういった放送が繰り返される。自分たちは理想郷を築いたつもりなのだろう。そしてアヴァロンやシャングリラのような名前を付けるのだろう。あちらがユートピアで、こちらがディストピア。
「行かないよ、俺は」
俺はいつもそう答える。本当は、行けないのであっても、行かないのだとまるで自分の意志で楽園を拒んでいるように言う。それでサクラは納得するのかというと、そういうわけにはいかない。サクラは俺の虚栄などお見通しだ。小学生のくせにと言うのは乱暴かもしれないが、サクラは外見と精神年齢が釣り合わないように感じることがある。大人びていると表現するよりも、達観しているという言葉のほうが近い。さらに言えば悟っているよりも、未来を予知していると言われたほうがしっくりくる。
お前は人生何周目なんだ。俺は一周目だ、疑いの余地も無い。何度も繰り返しているのにこの出来栄えだとすれば、俺はきっと生きるのに向いていない。来世にも期待しないでくれ。
「僕が行きたいと言ったら、紹廸は連れて行ってくれる?」
その質問に、俺は缶詰を床に置いて、身体ごと振り向いた。サクラは窓際に立って俺をじっと見つめていた。
「連れて行くよ」
「向こうでも一緒に暮らしてくれる?」
「……それは、どうだろうな」
俺は答えを濁した。ずるい大人だ。大人のふりをした、大人にもなれないただの中途半端な存在だ。
「それじゃあ、紹廸」
サイズの合わない大きなシャツ、変声期を迎えていない声、猫のぬいぐるみ、幼さの残る手足。
「僕が君を連れて行くよ」
サクラ、俺はお前のことを何も詮索してこなかったけれど、根掘り葉掘り聞いたほうが良かったのだろうか。どういう生活をしてきたのか、家族のこととか、学校のこと。何が好きで、何が嫌いか。趣味とか特技とか、やりたいこととか。箸の持ち方が綺麗なことも、ひとりじゃ眠れないことも、ひとりきりで漂流していたことも、俺が寝た後に何をしているのかも、いつだって何も聞かずに気が付かないふりをしてきた。たとえばお前、本当は果物が食べたいんだろ。知っていて俺は何も言わないことを選んだ。
「……サクラ、俺は、さ」
俺は言葉を紡ごうとして、しばらく黙って、口を開いて、また口をつぐんだ。言葉は出てこなかった。俺はサクラのことを知るのが恐ろしい。この出会いが偶然じゃなかったのだと思い知るのが怖い。結末を先延ばしにしているだけで、問題は何も解決していない。永遠にこの海で暮らせるわけなどないのだから、早々に内陸部へ移動するべきだろう。分かっている、分かっている。
結局、俺もサクラもそれ以上は何も話さず、ラジオと波音だけが聞こえていた。
夜、灯りをひとつ持って、舟を漕ぐ。ビル群の奥に住み着いているそれの観察に行く。頭上の満天の星空が水面に映って、もうひとつの宇宙が海の中に広がっているようだった。手を伸ばせば届きそうなのに、決して触れられない、光だ。
あれが過ぎた季節の名残、夏の大三角。冬の星座が見えるにはまだ時刻が早い。秋に見えるのは確か、アンドロメダ、ペガサス、フォーマルハウト。それに、魚座があるとサクラが言ったのを憶えている。秋の星空は明るい星が少なくて地味だと図鑑を広げてサクラは言っていたが、街の灯りの無い空は、高く澄んで潔いほどの星空だ。
それは長すぎて、頭の先と尻尾の先まで、全身像はとても見えない。星の光を浴びて、金色がキラキラと光って幻想的だった。甲殻がゆっくりと上下して、それが生きているのだと分かる。もうすぐすれば起きて活動を始めるだろう。観察出来るのはほんの一瞬だけだ。
「俺は」
オールを漕ぐ手を止める。波は穏やかで、舟は流されることなく、ほとんどその場に留まった。
「どこへ行ったって、変われないと思う」
星の光がどこまでも降り注いでいた。
「世界が海に沈んだ時だって、別に悲しくなんてなかった。それほど焦りもしなかった。何が起こったって、生き残った以上、またどうにかこうにか、日常は続いていくんだろうと思ったよ。実際に水没都市でこうして一年暮らしているわけだ。海も陸も、住む場所の違いの話であって、俺の本質は変わらないと思う」
「紹廸は、悔しくないの」
「悔しくはない、悔しくは、ない」
俺はそれに視線を向けた。
「平穏を破壊したそれに、内陸部の選民思想に、俺はもっと腹を立てるべきなんだろうな」
「理不尽に対して憤りを感じるのは当然のことだと僕は思うよ」
ほら、また、そんな言い方をするんだ。小学生のくせに。俺はサクラを一瞥して、またそれに視線を戻した。
「腹も立たないな。思い返せば、惜しむほどの平穏でもなかった。俺の人生に価値を付けたとしても、誰も買い取らないだろう。平凡で、ありふれた人生だった。浸るには丁度良い温度のぬるま湯だった」
でも、と俺はサクラを見た。
「寂しい」
俺はそう言った。サクラは黙って俺を見ていた。
「どこへ行ったって、変われないと思う。腹を立てなくても、悔しいとは思わなくても、寂しいものは寂しい。圧倒的に寂しい。寂しくて、どうしようもない。どうしようもないから、どうしようもないなりに、俺は停滞を選ぶんだ。寂しさを抱えて未来へ行くより、寂しさを抱えたまま過去に生きたい」
サクラは、ひとつ、ふたつ呼吸をしてから口を開いた。
「紹廸はこれで良いの?」
「俺はこれが良い」
「そう、それなら、うん」
帰ろう、とサクラは言った。俺はオールを手に取って、拠点へと向かって舟を漕いだ。帰りの船旅で、サクラは静かに泣いていた。その涙の理由を尋ねてしまったら最後、俺は判断を誤るような気がした。俺は、サクラに多くを尋ねないほうが良いのだろう。何も知らないふり、何も気付かないふりをすることが、俺たちの関係にとっては大事なのだという予感がある。互いに道化を演じるしかない。
「明日は何をする?」
サクラが俺に尋ねた。俺は少し考えてから答えた。
「雨に備える」
「ほかには?」
「洗濯に勉強に、読書。やることはいくらでもある、時間も」
内陸部が世界の中心で、ここは世界の果てだ。向こうが本物なら、こちらは偽物だ。あっちが正義なら、こっちは悪だ。それでもこの寂寞の世界は愛しい。孤立していても孤独ではない。寄る辺は無いが、寂寥の中にも明日は来る。
「何だって出来るさ」
それが目を覚ましたらしい。波が大きくなる。それは何をして長い春の一夜を過ごしているのだろうか。部屋に戻り、手漕ぎボートをしっかりと固定する。波がうねる。今度の雨季が開けたら、上の階に移ろう。
キングサイズのベッドをサクラと分かち合う。それでもなお、分かり合えない。分かり合わない。俺はこの少年の真意を理解してはいけない。緩やかに終わりゆく世界で、束の間の安息を続けていくためには、俺とサクラの関係性に名前を付けてはいけないのだと感じている。
幸福感を得ていなくたって、欠落感に心を蝕まれているわけじゃない。安寧が約束されていなくたって、嘆き悲しむほどの不運に見舞われているわけでもない。それなりの平穏がそこら中に転がっていて、両手で抱えられなくなるくらいには満たされていると感じられる。どうしたって幸せは主観的なものだから、陸と比べて海が困難にあふれているのが事実であっても、俺の感じる幸福は俺にしか定義出来ないはずだ。
俺とサクラは明日もここで生きていく。夜明けとともに、またありふれた今日が始まるだけだ。
寄せては返す波の音が鼓膜の奥に海を広げる。瞼の裏に星の光が焼き付いて離れない。
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