陽炎
世界というものが、はたしてどのようなものであるのか、俺はそれを間違いなく言い表すことの出来る言葉を知らない。けれど、俺が死ねば、俺の世界は終わるのだ。
夏休み、田舎にある曾祖父母の家に行くのが好きだった。青々と波打つ稲穂、遠い入道雲、山の上の送電塔。都会では見られない田園の風景が、今でも瞼の奥に焼き付いている。
帰省ラッシュで混雑する盆休みより先に、母親と列車に揺られて田舎へと向かい、仕事のある父親はいつも後から合流した。
駅からは古臭いバス、それから田畑の間を歩く。雑木林の角を右に曲がると、水田の奥の右手に小高い山があって、そこには稲荷神社がある。朱色の大きな鳥居の前を通って、次の角を左。ぽつぽつと離れて建つ農家の、手前から二軒目が曾祖父母の家だ。曾祖父母は俺たちを歓迎してくれた。
近隣に同世代の子どもは居なかったが、俺はたいして気にならなかった。縁側でスイカを食べたり、庭で昆虫採集をしたり、隣家の犬と遊んだり、ひとりでも夏を満喫していた。おおらかな時代だったということもあるだろう。大人たちは俺のことをいつも遠くから見守っていた。
サクラに出会ったのは小学一年生の夏休みのことだった。その年はランドセルを見せびらかしたからよく憶えている。
小学生になって行動範囲が広がった。四軒隣りの稲本さんの家の前から、神社の前まで。それより遠くへ行ってはいけなかったけれど、それでも俺にとっては冒険だった。
父親のおさがりの野球帽を被って、スケッチブックを持って、荒いコンクリートの道を駆けた。夏休みの宿題に、俺はなぜかサギの絵を描こうとしていた。サギを探して神社の前まで来ると、鳥居の陰から同い年くらいの男の子が俺を見ていた。盆休みに入れば周囲の家々にも帰省してくる子どもたちの姿があったけれど、まだ早い時期だった。麦わら帽子を被っていても、その子が整った容姿をしていることは分かった。けれど、幼かった俺にとってはそんなことはどうでもよくて、何も不思議に思わず、その子に話し掛けた。
「サギ、みっけた?」
その子は笑って俺の後ろを指差した。振り返ると、稲穂の海の奥でシラサギが頭を出していた。俺は鳥居の土台に腰を下ろしてスケッチブックを広げた。それからしばらくシラサギを描いていると、いつのまにかその子が隣に座っていた。
「おれ、つぐみち。お前は?」
「サクラって呼んで」
その子はサクラと名乗った。
「つぐみちってどんな字?」
サクラに聞かれて俺はスケッチブックの表紙を見せた。
「紹廸」
母親に書いてもらった紹廸という漢字をサクラは興味深そうに見た。俺はシラサギを描きながらサクラと話をした。
それから毎日、俺はサクラと遊んだ。サクラとの待ち合わせはいつも神社の前で、俺たちは連れ立って小さな世界を探検した。虫や鳥を見付けて図鑑で名前を調べた。用水路に葉っぱの舟を浮かべて競争した。俺はサクラと夏を謳歌した。
ある日、台風が近づいているのだとテレビの天気予報で言っていた。朝からサクラと遊び、昼前に家へ帰ろうとしたとき、ひと際強い風が吹いて俺の帽子が飛ばされた。父親のおさがりで俺には大きかった帽子はいとも簡単に吹き飛ばされて、風に巻き上げられながら神社の森の中へと入っていった。俺とサクラは帽子を追いかけたけれど、風が強くて見失ってしまった。
「どうしよう」
帽子を失くしたことも、森の中へ入ったことも、どちらも怒られると思った。俺が途方に暮れていると、サクラが自分の麦わら帽子を俺に被せた。
「ぼくのをあげるよ。紹廸の帽子は探しておいてあげる」
サクラに手を引かれて森を出た。
「ナイショにしよう、ふたりだけのヒミツ」
そう言うとサクラは小指を差し出した。俺も小指を出して指切りをした。サクラの麦わら帽子は、何かの花の香りがした。
家に帰った俺を見るなり、出迎えた曾祖母の表情が変わった。
「つぐちゃん、その帽子、誰に貰ったん」
問いただすような口調に、俺はすっかり委縮して、弱弱しい声で「男の子」とだけ答えた。けれども曾祖母の追及は続いた。
「どこで会うたん、名前は何て言うん、どんな子やった」
「じ、じんじゃの、まえ」
「自分の名前は教えたんか」
俺はとうとう泣き出して答えられず、頷くことしか出来なかった。
曾祖母は庭に出ていた曾祖父を呼んで、母親を呼んで、しまいには近所の人たちまで集まって、大人たちだけで何かを話し合っていた。真剣というよりは、切羽詰まったような雰囲気に、俺は自分が場違いだと察して、冷めたおにぎりを縁側の隅で食べた。
その夜、母親に手を引かれ、まるで逃げるように曾祖父母の家から自宅へ帰った。そんなことは初めてで、誰に聞いても理由を説明してはくれず、俺は何が何やら分からなかった。サクラの麦わら帽子がどうなったのかも知らない。
以来、田舎には行っていない。
それから、十年。
大学入学を控えた俺は、高齢の曾祖父母に制服姿を一目でも見せておこうと思い立ち、春休みを利用して田舎を訪れた。両親には曾祖父母のところへ行くとは言えず、友達と泊まりに行くと伝えた。嘘をつくのは心苦しかったが、本当のことを話せば反対されてしまうと思った。曾祖父母の年齢も年齢だから、今を逃せばもう会えないかもしれない。だから、俺は家族には秘密で出掛けた。
夏休み以外の季節に訪れるのは初めてで、記憶の中とは違った景色が広がっていた。けれども大きく変わることもなかった。バスは相変わらず古臭くて、稲穂が揺れていた田んぼにはまだ水が張られておらず殺風景だった。
雑木林の角を右に曲がれば、右手の奥に稲荷神社のある山が見える。
俺は足を止めた。
雑木林の角を右に曲がった。稲荷神社のある山が、左手にあった。
記憶違いなわけがない。小学一年生まで、俺の夏はこの世界だけだった。間違えるはずがない、忘れるわけもない。俺はゆっくりと歩いた。神社の前を通って、次の角を左。曾祖父母の家は無い。俺は振り返った。無い。
どこまでも広がるような水田、遠くに霞む山々。知らない景色が広がっていた。いや、知っている、知ってはいるのだ。けれど、この景色は、こうじゃない。見覚えのある山や田畑といったパーツを違うふうに組み合わせて出来上がった風景だった。本来ここにあるべきものがここには無く、そこにあるべきものがここにある。パッチワークのようだった。
俺は道を行ったり来たりした。狐に化かされたとさえ思った。しばらく歩いて振り返ると、歩いたはずなのに神社の前に戻っていた。どこまで歩いても、振り返ると鳥居の前まで戻される。走っても同じだ。振り返らずにどこまで行けるか。そもそも何も無いこの先に、辿り着く場所はあるのか。俺はただ、大好きな曾祖父母に自分の成長した姿を見せたかっただけだ。こんなことになるなんて聞いていない。
何度も戻されて、息が上がった。この空間に閉じ込められたらしいということは嫌でももう理解していた。俺は鳥居を見上げた。記憶の中と変わらない朱色の鳥居。
この神社が起点となっているのなら、何かがあるに違いない。どうしようもなくなった俺の願望に過ぎないのかもしれないが、もうこれ以外に手掛かりが無かった。俺は鳥居を潜って石段を上がった。
春だというのに、蝉の声が聞こえていた。森の木々の緑は色濃く、木漏れ日は春の陽射しの強さとは違う。ああ、もう駄目かもしれないと思った。
強い風が吹いて顔を上げると、石段の先に見覚えのある人影があった。
日焼けを知らない肌。綺麗な膝小僧。風に攫われて失くした野球帽。うっすらと笑う、その少年。
「帽子、あったよ」
あの夏と同じままの姿でそこに立つ存在が、俺と同じ命の在り方をしているとは到底思えなかった。それなのに、俺はなぜか、そんなことなどどうでも良くなって、冒険が目前に迫るワクワクとした好奇心が湧き上がってくるのを感じていた。
同時に、大切だったはずのいくつもの思い出が、掠れ、色褪せ、途切れ、零れ落ちていくのを感じた。俺は何のためにここへ来たのか、待っている人がいるのではないか、将来の夢は何だったか、俺は、このためにここへ戻ってきたのではなかったのか。
ああ、そうだ、俺は。
「サクラ」
俺が名前を呼ぶと、サクラの手が俺の腕を引いた。小さな手に温度は無く、掴まれたところから俺の体温が奪われていくように思えた。
「ねぇ、紹廸」
可愛らしい顔をした少年が、俺に問う。
「今日は何して遊ぶ?」
サクラは満面の笑みを浮かべていたが、俺にはその声が、とても寂しい音に聞こえた。
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