角に花咲く嵐の季節
初夏の風が浜辺を吹き抜けた。俺は砂浜に座って、波間に光る妹の尾びれを見ていた。
どこかの馬鹿が異世界への扉を開いたせいで、こちら側の世界にも異世界の風が流れ込んだ。その影響が仮に、ふわふわとした可愛らしい生き物が増えただけだったのならまだ良かったものの、残念ながらそういったファンシーなことにはならず、あらゆる動物がその姿を歪に変形させてしまい、街中は怪物であふれかえっているのが現状だ。これは異世界の風に含まれている超自然的な物質に感染して身体の構造が変化してしまうという症状で、今のところは異世界病と呼ばれている。簡単に言うと、呪いだ。
たとえば、俺の母親はパートの帰り道に変異して、薄っぺらい鳥のような何かになって、そのまま天高く飛び去っていったらしい。らしい、と言うのは妹から聞いた話であって、俺が目撃したわけではない。けれど、その後も母親は帰ってこないので、その薄い鳥は母だったのだろうと思う。愉快で陽気なひとだったが筋金入りの方向音痴であったから、今頃はどこか遠くの空を楽しく飛んでいることだろう。せめてそうであってくれ。
父親は全身が真っ黒な煙になった。ふわふわと漂っていたが、何を悟ったのか、やがて春風に乗って姿を消した。これは俺の推測でしかないけれど、父は恐らく、自分の煙が有害な物質であることに気が付いたのだと思う。父が大切に育てていた観葉植物が枯れていた。おおらかで優しいひとだった。母を探しに行ったのかもしれない。叶うのならば、また巡り合ってほしい。
中学生の妹は人魚になった。普段は家の風呂場の浴槽に水を張っているが、家庭用の風呂ではやはり窮屈なので、こうして週に何度か海へ連れていく。海辺の町で良かった。妹は海を気ままに泳いでいた。その姿は人間だった頃よりも楽しそうに見えた。
砂浜に座って妹の帰りを待つ俺の頭には、二本の角が生えていた。こめかみの辺りから、後ろの斜め上に向かって伸びるというのは、ミミズクの耳のようだ。ねじれた角の形は図鑑で見た山岳地帯のヤギと似ているが、青緑と黄色の縞模様は非現実的な色合いだ。俺の外見的な変異はこの角だけで、症状としてはかなり軽い部類に入るだろう。日常的に困っているのは、頭が重たくなったことと、前開きの服しか着られなくなったこと、それから寝返りが打ちづらくなったことくらいだ。運任せの症状を他人と比べるのは気が引けるものの、スライムになってしまったとか、常に周囲が凍っているとかいった症状と比べたら、元の姿のほとんどを保っている俺は幸運だったと思う。
「つーぐみーちっ」
名前を叫ばれて俺は天を仰いだ。晴れた空をサクラが飛んできた。俺は太陽の眩しさに手で影を作った。この砂浜は高台にある高校の真下に広がっている。サクラはきっと校舎の屋上から俺の姿を見付けたのだろう。スピードを落としてサクラはゆっくりと砂浜に降り立った。羽ばたきで砂が舞い上がる。
「その角、見付けやすくて良いよね」
サクラはそう言ったが、目立つのはサクラのほうだ。サクラの背中には大きな翼が生えた。灰色の四枚の翼は、遠くからでもすぐにサクラだと分かる。立派な翼で羽ばたけば、人間ひとりを抱えて飛ぶことも出来る。ちょっと試させて、と言われて遊覧飛行に無理矢理連れられたから知っている。あれは生きた心地がしなかった。
「今日も遊泳中?」
海開き前の田舎の海を妹は独り占めしていた。サクラの翼は水を含めばどれほど重くなるだろうか。水鳥の翼ではないようで、サクラの翼は水をあまり弾かない。何の翼だろうねぇとサクラは笑って気にも留めていない様子だったが、きっと毎日の風呂だって難儀だろう。
俺はサクラの問い掛けには答えず、質問を返した。
「サクラは、海に還したほうが良いと思うか?」
母が広い空へ飛び立ったように、妹も海で生きるほうが生存に適した環境なのだとは俺だって分かっている。
世界中に呪いが拡散して、最初の半月ほどはパニックになった世間も、やがては異世界化に順応するようになった。けれど三ヶ月が過ぎようとする今、呪いが進行すると理性ではもはや制御出来ないという事実が判明して、世界はまた混乱している。人間だった頃の自我を保っているのは、人間に近い外見をしている者だけだ。怪物に変異した者の思考は、その外見に引っ張られるらしい。肉食の獣になれば、動く者に襲い掛かる。たとえ相手が親しい者だったとしても。相手が誰だったのか分かっていても、食欲を抑えられない。人型や草食者たちと肉食者たちとの、食うか食われるかのサバイバルが始まっていた。
互いに人間でなくなったとしても、かつて人間だった事実は消えない。だからこれは共食いと呼ぶべきなのだろう。
「本人の望むようにするのが一番だと思うけれど、それってそんなに無責任なことかな」
サクラはそう言った。俺は答える。
「それは無責任だろ、やっぱり。俺は兄貴だし、人型だし。妹を海に放つなんて」
「面倒を見るべきだとしても、いつまでも引き留めてはいられないでしょ」
「俺は……」
「自分の答えが出ているくせに、どうして僕に聞いたの」
その言葉に俺は何も言い返せず黙った。
妹は人魚になった。海藻を好んでくれたら良かったが、妹は肉食だった。釣り人を海に誘い込んで食ったし、イルカと似た水生生物になった近所の子も食った。もうすぐ本格的な夏が来る。海を訪れる人も増える。妹はきっと喜ぶだろう。
俺は長い息を吐き出してから立ち上がった。サンダルを脱いで波打ち際まで行って、妹を呼ぶ。しばらくすると妹は近くの水面から顔を出した。俺の手の届かないところに顔を出すのは、まだ帰りたくないという意味だ。俺はその場にしゃがみ込んだ。
「さよならしようか」
俺の言葉に妹は笑った。歓喜の笑みだった。ギザギザの歯が光っていた。
「行っておいで、もう、自由だ」
別れの言葉も返さずに、妹の姿は波間に消えた。俺は立ち上がって妹の姿を探したが、もう深くまで潜ってしまったのだろうか、妹は見当たらなかった。次に会った時、俺には妹が分かるだろうか。妹は俺のことが分からないだろう。俺はしばらく波打ち際に突っ立っていた。
「紹廸」
サクラが俺を呼んで、ようやく俺は海から視線を外した。
「明日は学校においでよ」
俺は俯いた。波が寄せては返す。砂が足の指の間に挟まって不快だった。
「何もやることがないのなら、僕の夏服の背中にスリットを開けるの、手伝って。気分転換になるかも」
顔を上げて水平線を見詰める。妹はどこまで辿り着いただろう。海の中に怪物は居ないのだろうか。けれど、妹なら上手く生き延びるだろう。俺よりずっと度胸のある子だから。
「……考えておく」
角が重い。俺はサクラを残して砂浜を去った。
海から歩いて十分ほど。家に帰っても、誰かが待っているわけではない。母は空に羽ばたき、父は春風に攫われて、妹は海に見送った。ひとりになった家は静かで、今までよりもずっと広く感じられた。
日常が続いていくのだと思っていた。どこまで行っても平凡な、ありきたりな日々がいつまでも、これからも続いていくなんてこと、信じていたわけではないけれど、そうじゃない人生を疑ってこなかった。
どこの誰が異世界なんて望んだのか知らないが、その異世界という場所は、ここよりもずっと良い場所だという確証はあったのだろうか。今頃は異世界で新しい人生を楽しく過ごしているのだろう。よくある話で、異世界の救世主になっているかもしれない。まさか、自分の故郷の世界がこんなことになっているなんて想像もしないはずだ。無責任だと責めるつもりはないが、俺もお人好しじゃない。その大馬鹿者が異世界で苦労していてほしいと願う。あと一歩で手が届かずに挫折してほしい。掴んだその手が離れてほしい。理不尽な仕打ちに泣き崩れてほしい。
頼むから、容易く幸せになんてならないでくれ。
眠りから覚めた。角のおかげで仰向けに眠るのが難しくなった。寝返りを打とうとするたびに目が覚めてしまうから、浅い眠りを繰り返す。昼前の風がカーテンを揺らしていた。俺はノロノロと着替えた。制服に袖を通すのはとても久しぶりだった。
角が生えてから三か月。自分自身について分かったことは幾つかある。たとえば俺は、水さえあれば生きられる身体になったらしい。毎朝コップ一杯の水。それだけで一日の食事が完結する。麦茶や牛乳、味噌汁、いろいろと飲んでみたが、持続性は同じだったし、洗剤でも漂白剤でも問題なかった。すべて同じ味だった。たとえそれが人間にとっては毒であったとしても、液体であれば何でも良いのだろう。飲んだ水分を体外に排泄することはないので、摂取した水分は体内ですべてエネルギーに変換されるようだ。この世界で生き残るには、好都合すぎる身体だった。
ほかに分かったことといえば、俺は怪物から襲われないということだ。窓を開けたままにして寝ても、何かが家に忍び込んで俺を食い散らかすことはない。実際に今も、手ぶらで町を歩いている俺はあまりにも無防備だが、肉食獣のような捕食者たちは俺の横を通り過ぎるだけだ。中には明らかに俺を避ける怪物もいる。怪物の血液も、血液が存在するかはさておき、液体であれば俺の食事になるのだろうとは思うが、可能な限りは水を飲んでいたいと思う。
高校へ続く坂道を上がる。晴れた空の下に海が広がる。この空のどこかに両親が、あの海のどこかに妹が、俺を忘れて生きているのだろう。生き延びてくれているのなら、何だって良い。もう何になったって構わない。
今日はひどく頭が重かった。通い慣れた坂道に息が上がった。人間よりも大きな蝶の群れが路地から出てきて坂道を悠々と下っていった。
正門を抜けると、校庭を巨大なウミウシと似た怪物たちがゆっくりと這っていた。生徒か先生の誰かなのだろうか。ウミウシを横目で眺めつつ校舎に入る。靴を履き替えようとしたが、生徒玄関の靴箱はめちゃくちゃになっていた。俺は靴のまま廊下を歩いた。
校舎の中は荒れ果てていた。怪物たちが暴れたのだろう。窓は割れていたし、壁には大きな穴が開いていた。赤黒い跡が廊下に続いていた。
三年四組が俺の教室だった。二階から三階に続く階段が崩落していたので、廊下の端まで遠回りをして奥の階段から上がった。一組の黒板で無数の瞳が瞬きをしていた。
「あれ、ツグ君だ、二か月ぶりくらい?」
「元気ぃ? ウチらは元気よ。相変わらずカラフルな角ねぇ」
教室に入ると、秋村さんと澤田さんが話をしていた。秋村さんは向こう側が透けているほかに見た目の変化は無く、澤田さんは全身が鱗で覆われていた。俺が最後に登校した時には、ふたりともまだ変異していなかったように記憶している。妹もゆっくりと変わっていったから、変異のスピードには個人差があるのだろう。秋村さんと澤田さんは姿かたちが変わっても、親友同士、相変わらず楽しそうだった。
「サクラを見ていないか?」
「サクラ君なら屋上だと思うよ。てか、ツグ君さ」
秋村さんが俺を指さした。正確には俺の右の角だ。
「角に花が咲きそうだよ」
俺は自分の角を見ようとしたが、自分の頭から生えているものはなかなか見えない。澤田さんが鏡を貸してくれた。なるほど、確かに右の角に蕾がひとつあった。青緑と黄色の隙間から生えている。
「何だろね、これ」
「咲いたら分かるんじゃない?」
「異世界の花だから、喋るとか?」
「やばぁ。ツグ君は静かだから、花も無口かもよ」
「頭に無口な花が咲いているとか、可愛すぎでしょ」
「俺に花が咲いたところで可愛くはならないだろ」
俺は鏡を返した。
「ツグ君、お昼ご飯はどうする? 今日はみんなでチャーハンを作ろうって話」
お肉はないけどねぇ、と澤田さんが肩を竦めた。
「せっかくだけど、俺、食事は要らないんだ。だけど、俺でも手伝えることがあったら、何でも言ってくれ」
「え、ツグ君はご飯を食べないってこと? ダイエット中なの?」
「厳密に言うと全く要らないってことはなくて、少しの水だけで生きられる」
「えぇー、何それ、ズルい」
秋村さんは足をバタバタさせて不満を訴えた。
「ふたりは毎日、学校へ?」
「ウチら、学校に住んでんのよぉ。家には帰れないから。ウチはママが大きな蜘蛛になったの。本当に、じいちゃんの軽トラより大きいんだもん」
澤田さんはそう言って笑った。秋村さんが澤田さんに続く。
「アタシのとこは、お姉ちゃんと柴犬のコテツが合体しちゃって、家族みんなのこと食べちゃった。アタシは透けているから食べられなかったけど。ほら、見て。透け具合を変えられるようになったの」
秋村さんは自分の身体を透かしたり、濃くしてみたり、加減が出来るのだと教えてくれた。身体が透けると、実体も薄れるらしい。ほとんど透明に近い秋村さんの手を澤田さんの手がすり抜けた。
「ね? だからアタシは食べられなかったの。今は護身? 透けていたほうが安全だから、ちょっと透明になっているってこと」
安全という言葉が、俺の頭上を通り過ぎた。秋村さんたちが学校で身を寄せ合っているのは、出歩けば捕食者に襲われるからだ。人型の変異は圧倒的に弱者だ。
「みんな結構、学校に集まってきたんだぁ。集団でいたほうが安心でしょ。もうかなり減っちゃったけどねぇ」
「ウミウシ、見たでしょ」
「ああ、校庭の」
「……ツグ君が無事でいてくれて、良かった」
良かったねぇ、と秋村さんと澤田さんは顔を見合わせて笑った。変異前と変わらず笑うふたりの姿に安心した。俺はふたりに別れを告げて屋上へ向かった。屋上へと続く階段は、何かが滑り落ちながら段差を削ったようだった。瓦礫を乗り越えて屋上の扉を開けた。
タイルに穴が開いていたり、フェンスが曲がっていたり、屋上も荒れていた。俺は校庭を見下ろした。ウミウシの数が増えていた。
サクラは屋上の片隅で海を眺めていた。四枚の翼は折りたたまれている。俺には気が付いていないらしい。俺はサクラの名前を呼んだ。
「サクラ」
「あ、紹廸。来てくれたんだ。今日も海かと思った」
俺は足元に気を付けながらサクラに歩み寄った。
「もう海へ行く理由がないだろ」
「うん、そうかも」
サクラは少し名残惜しそうに海を見た。
「教室で秋村さんと澤田さんに会った」
「あのふたり、相変わらずでしょ」
「学校に寝泊まりしていると言っていたけど、サクラは?」
「僕? 僕は学校に泊まったり、家に帰ったり、寝床はあちこちだよ」
サクラは横目で俺を見て言う。
「女子ふたりを残すなって顔。でもほかにも学校に住んでいるひとは居るよ、運動部は今日も体育館でバスケしている。それに僕は夜目が利かないから、日が沈むと役に立たない」
あれを見て、とサクラは移動した。俺は黙ってサクラに続いた。俺たちは校庭のウミウシを見下ろした。
「あー、また増えている」
「ウミウシ?」
「そう。分裂で増えるんだ。近付いたものは何でも食べるよ、それが自分の分身でも。食いしん坊だよね」
ウミウシたちがずるずると這った跡の地面はキラキラしていた。まるでナメクジだ。
「今のところ、動きがゆっくりだから近寄らなきゃ無害だけど、それもいつまで続くか分からないよ。食べるものがなくなれば生息範囲を広げるはず。実際、校舎にも何度か侵入しているし。何より、分裂するたびに動きが速くなっている」
サクラの言わんとすることは分かった。
「バスケしないのか、サクラは」
「しないよ、体育はそんなに好きじゃないし、飛べるのはズルい。羽も邪魔だし」
「海辺の俺を見張るのに忙しいから?」
「もう海へ行く理由もないんでしょ」
サクラはそう言うと、折りたたんでいた翼を広げて、また閉じた。
「右の角に花の蕾が生えた」
「あ、本当だ。気が付かなかった。可愛いね」
「俺に花が咲いたところで可愛くはならないだろ。あ、これ、秋村さんたちにも同じことを言ったな」
俺はサクラを促して体育館へ向かった。
「何が有効?」
「分からない。でも弾力があるんじゃないかな。サッカー部の一年生の子が、鋼鉄になった腕で殴っていたけれど、衝撃は吸収されたみたいだ。めりこんだ腕が抜けなくなって食べられた」
「燃やせるか?」
「やってみたことはない。火をつけるだけじゃ駄目かもしれない。燃え上がらせるものが必要かな」
「中身は液体?」
「多分。獲物を体内に取り込んで溶かしているんだと思う」
「通った跡が残るんだから粘り気はあるかもしれないな」
体育館への途中に調理室の前を通ると秋村さんと澤田さんが昼食の準備をしていた。ほかにも何人か一緒にいた。炊飯が終わるのを待っているらしい。
サクラの言った通り、体育館では十人ほどでバスケをしていた。腕が六本あるのは早川だろうか。それはちょっとズルいな、と思った。
「え、ツグじゃん!」
「マジかよ、久々!」
俺に気が付いてバスケが中断する。次々と俺の周りに集まってきた。
「元気そうだな」
「すげぇ角、重そう」
「バスケしようぜ、ヒマだろ?」
「いや、俺たちはウミウシを狩る」
体育倉庫から棒高跳のポールを引っ張り出した。強度は多分、大丈夫だろう。
「狩るって、一体どうするつもりだ?」
「うーん、まぁ、ちょっと頑張る」
呆気にとられるみんなを残して、俺はサクラと外に出た。ウミウシたちはゆっくりと這っている。確かに、最初に見たときよりも動くスピードが速くなっていた。
「名残惜しい?」
サクラが俺に尋ねた。俺は少し考えて頷いた。サクラは俺の後ろに立って、脇の下から腕を入れて、俺の身体をしっかりと固定した。
「絶好の飛行日和だよ」
そう言ってからサクラは大きく羽ばたいた。足が地面を離れる。身体がふわりと浮いた。四枚の翼は羽ばたきを繰り返し、あっという間に校舎より高いところまで到達した。体育館から出てきたみんながもうあんなに小さく見える。この浮遊感にはどうしても慣れない。
「真上」
俺たちは上空から一匹のウミウシに狙いを定めた。他よりも大きい一匹だ。
「準備は良い?」
「ああ」
「それじゃ、離すよ」
サクラの腕が俺から離れた。自由落下が始まる。俺は空中でポールを構えた。
ブツン、グジュリ、と嫌な感触。重力を味方につけて、俺はポールをウミウシの脳天に突き立てた。ポールがしなって折れた。振り回された俺は吹き飛ばされて地面を滑った。ポールが突き刺さったところからウミウシの体液が噴水のように噴き出して周囲に飛び散った。やはり体液には粘り気があった。甘い香りがした。それは、ウミウシの体液から発せられた匂いではなかった。
「ははっ」
自分の変異について分かっていることが幾つかある。たとえば、水分だけで生きられること。たとえば、捕食者の標的にならないこと。それから、角に花の蕾が出来ること。その蕾は怪物を傷つけることで花開くということ。開いた花からは甘い香りが放たれて、その香りはあらゆる怪物にとって有毒であるということ。
ウミウシたちが次々と倒れていく。毒の香りに悶絶しながら泡を吹く。やがて、苦しみの中でウミウシたちは動かなくなった。死骸からは体液が排出されて、校庭に水たまりが広がった。すべてのウミウシが死んだことを確認して、俺は立ち上がり、角から花を引き千切った。星の形をした青い花だった。俺は花を投げ捨てた。
俺はきっと、怪物の中でも、とびきり怪物だ。いろいろと試したから分かる。あらゆる攻撃が通用しない。俺の骨格は獣の牙よりもずっと頑丈で、皮膚は強い消化液でも溶けない。
ああ、嫌だな。うんざりする。
ウミウシの体液を浴びた制服は少し溶けていた。俺は校庭の隅の洗い場で砂と体液を流した。どうせもう夏服に衣替えだ。この制服は潔く諦めよう。もう授業が再開されることもない。
サクラが舞い降りた。
「あのウミウシ、誰だったんだ」
「学校の外から来たみたいだ。でも、あの悪食にはクラスひとつ分くらい食べられたよ」
体育館の前に呆然と突っ立ったままの同級生たちが、俺のほうへ駆け寄ってくることはなかった。校庭の上空を鳥の群れが旋回していた。
俺は校舎に戻らず、そのまま正門から外に出た。来た道を戻る。スキップするような軽い足取りのサクラがついてきた。
「どこへ行くの」
サクラの問いには答えず、俺は眼下に広がる海を見ながら歩いた。行く当てはなかった。けれど、どこか遠くへ行きたいと思っていた。誰も俺を知らない場所。誰も居ない場所。どこか遥か遠くの、いっそのこと向こう側、異世界へ。
「俺にも翼があったらな」
こぼれた独り言をサクラは逃さなかった。サクラは羽ばたいて俺を追い抜いた。
「紹廸が空を飛べたなら、僕の立場がないよ」
ふわりと宙に留まるサクラが俺を振り返って言う。四枚の翼はまるで宗教画に描かれる天使のようだった。頭の上に輪は浮かんではいないけれど、たとえば中世の人間たちの前に姿を現せば、きっとみんなが畏敬にひれ伏すだろう。
その瞳で、何もかもを見通しているように思えた。過去も未来も、俺の心だってきっとサクラは見透かしているのだろう。けれど、天使になる前からサクラは、どこか達観している同級生だった。高校二年生で初めて同じクラスになった。昔からこういう奴だったよ、と中学時代の同級生たちは言う。クラスの輪の中心にいるはずなのに、いつのまにかどこかへ行っている。誰もと仲が良いはずなのに、親友が誰なのか分からない。交友関係が広いのに、なぜだかいつもひとりでいる。ミステリアスなのだ。それがサクラの魅力であるのと同時に、恐ろしいところでもあった。いつもうっすらと笑っていて、本心で何を考えているのか分からない。相手の心の中には容易く入っていくせに、相手が自分の心の中に入ってくることを許さない。
その佐倉由汰がついてくる。髪を揺らすのが風なのか、それともサクラの羽ばたきなのか、違いが分からなかった。
「お前、どこまで見送りに来る気だ」
俺が尋ねると、サクラは首を傾げて笑みを浮かべた。どうしてそんな馬鹿な質問をするのかとでも言いたげだった。
「僕はどこまでも一緒に行くよ。世界の果てまで一緒に。紹廸が飽きても、離れたいと思っても、離れたくないと思ったとしても」
ひときわ大きく羽ばたいて、強い向かい風に俺は思わず足を止めて、腕で顔を隠した。落ち葉や砂埃が宙を飛んだ。つむじ風が坂道を吹き抜けた。
サクラはニコリと微笑んでいた。
「たとえ世界が、終わるとしてもね」
穏やかな瞳が俺を見詰めていた。ただの気まぐれか、執着か、何なのかは知らないが、サクラは俺を捕らえている。俺はもう、逃げられない。
「行こう、紹廸。今度の終末はもうしばらく続くよ」
海鳴りが響いていた。遠い水平線から嵐が近づいていた。再び歩き出した俺の周りをサクラは楽しそうに飛んでいた。
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