これがどうか嘘であってくれたなら


 中学校の同級生の結婚式があった。地元の山に最近オープンしたリゾートホテルの結婚式場で開かれた式に俺は幼馴染のサクラと連れ立って出掛けた。駅から式場のマイクロバスに揺られて、幸せの雰囲気に包まれていた。

 異変が起きたのはウェディングケーキをカットしようというタイミングだった。新郎新婦がケーキに向かって仲睦まじく並んで、カメラを携えた友人たちに見守られながら、そこへ突如としてゲストのひとりがケーキに飛び込んだ。仮にそれが演出だったとしても笑えないが、もっと笑えないことに、そのゲストは身体中が生クリームまみれのまま、立ち尽くしている新郎に嚙みついた。鼓膜を貫くような悲鳴が上がった。そこからはもうドミノ倒しのように、噛まれた人間が別の人間を襲い、肉を引きちぎっていた。テーブルの上に飾られていたバラの花が宙を舞っていた。

 何だこれ、と思った瞬間、俺は首根っこを掴まれた。サクラだった。

「逃げるよ、紹廸」

 パニックになった会場とは正反対に、サクラは冷静だった。俺は状況が読み込めなかっただけだ。促されるままにサクラの手を取って走った。会場を出てホテルのエントランスまで辿り着くと、エントランスはさらに酷い有様だった。人間が人間を襲っている。人間を食っている。

「あれ何、何がどうなっているんだ」

 俺はサクラに尋ねた。倒れた人間に何人もの人間が群がって、辺りに血や肉片のようなものが飛び散っていた。

「いわゆるゾンビ。あんまりじっくり見ると気分が悪くなるよ」

 そう言ってサクラは俺の手を引いた。ゾンビ、と俺は頭の中で繰り返した。

 壁際を急ぎ足で抜けて、フロントまで来た。サクラはフロントの近くに倒れている頭の無いホテルマンの上着のポケットを探った。あまりにも淡々としていた。俺はサクラの正気を疑ったけれど、普通のことなんてもうどこにも無いように思えた。サクラは車のカギを見付けると、また俺の手を引いた。宿泊客の荷物を運ぶカートを盾にして、俺たちはエントランスから外に出た。冬の夜風が冷たかったけれど、そんなことを気に留めている場合じゃなかった。逃げ惑う人々、逃げ遅れた人々。ホテルの周辺は阿鼻叫喚の地獄絵図になっていた。

「ツグ! サクラ!」

 名前を呼ばれて振り向くと、高橋やガンちゃんたちがこっちに向かって走ってきていた。式場から庭園を通って逃げてきたらしい。俺たちは噴水の陰に身を隠して合流した。ヒールが折れて転んだ宮田さんは膝から血を流していたし、ハッチの拳は誰かを殴ったらしかった。

「高橋、運転頼む」

 サクラが車のカギを高橋に渡した。

「お前の車、どれだよ」

 高橋の問いにサクラは顎で答えた。視線の先にホテルのマイクロバスがあった。マジかよ、と高橋が呟いた。

 俺たちはマイクロバスに乗り込んだ。

「ねぇ、まだ乗れるよ、逃げている人たち、助けてあげてよ!」

 高橋はそのまま脱出しようとしたが、真里菜ちゃんが泣きそうになりながらそう言ったのでホテルのエントランスに向かってバスを走らせた。

「掴まれ!」

 徐行運転のバスのドアから体格の良いガンちゃんが身を乗り出して、逃げてくる人たちに手を伸ばしていた。俺たちも窓から引っ張り上げた。そうして何人かは救助出来たものの、押し寄せてくるゾンビたちに追いつかれた。ゾンビたちがバスを叩く。その中には見知った顔がいくつもあった。

「もう無理だ、高橋、出せ!」

 ガンちゃんの声に高橋はアクセルを踏み込んだ。車内にはすすり泣きが響いていた。俺とサクラは後方の座席に座った。シートベルト、とサクラが言ったので、俺は言われた通りにシートベルトを締めた。

「これからどうする、どこへ向かう?」

 ハンドルを握る高橋が尋ねる。

「駅方面はもうダメみたい」

 スマートフォンで状況を確認しながら言ったのは宮田さんだ。

「人間の多い場所が危険なら、このまま山に入るのは?」

 誰かが提案した。マイクロバスは山の中へと進んだ。木々の間から遠くに街の灯りが見えていたが、やがて何も見えなくなった。こんな時になって俺は何も持たず逃げてきたことに気が付いた。ポケットの中に財布だけ。スマートフォンは多分、テーブルの上に置いてきた。引き出物は椅子の下にあるだろう。隣のサクラを見るとカバンを抱えていた。

「こんな時でもサクラはしっかりしているな」

 俺の言葉にサクラは俺を見た。

「何が?」

「サクラはちゃんとカバンを持って逃げたっていうのに、俺なんてスマホも忘れてきた、何も持っていない」

「紹廸は僕の左手を持っていたよ」

 サクラはさらりとそう言って、視線を前方に向けた。一瞬、サクラの目が細くなった。

「ハッチ!」

 怒声とも似たその声はガンちゃんのものだったと思う。俺も座席の隙間から前を見た。座っていたハッチが立ち上がっていた。その後ろ姿が不自然に揺れていた。前後左右にふらふらと、風にあおられたススキのように揺れている。俺は血の気が引く瞬間というものを自覚した。狭い車内は一瞬でパニックに陥った。

 そのあと何がどうなったのか、はっきりとは分からない。けれどもマイクロバスはガードレールを突き破って谷底へ真っ逆さまに落ちていったことと、シートベルトのおかげで俺の身体は窓から放り出されずに済んだということは確かだった。視界がぐるぐると上下も分からなくなるほど回転した。何度も衝撃が襲ってきて、ガラスの破片や木の枝が無数に飛んできた。大きな衝撃があって、世界が停止したのと同時に、俺は意識を手放した。


「紹廸」

 サクラの声で俺は目を開けた。暗くて何も見えなかった。俺はどうやらシートベルトを命綱にしてほとんど宙に浮いている状態らしい。暗闇の中から誰のものかも分からない呻き声が聞こえていた。

「紹廸、右、右だ。手を伸ばして」

 右へと伸ばした手首を掴まれた。それから腕を掴まれる。唸るようなサクラの声を合図に身体が引っ張られた。俺は窓から外に引きずりだされた。冬の冷たく乾いた空気に鼻の奥がツンと痛かった。

 谷底に落ちたバスは右の側面を天に向けて横転していた。サクラは慎重に俺の身体を後ろから抱えて、苔むした地面にゆっくりと下ろした。俺は身体に力が入らなかった。ガラス片が腕や脚に突き刺さっていた。

「しっかりして」

 サクラは俺を木の幹にもたれるよう座らせた。それからサクラは俺のスーツのジャケットを脱がせて袖をまくった。俺はサクラにされるままになっていた。

「鎮静剤を打つよ」

 そう言うとサクラはカバンから注射器を取り出した。どうしてそんなものを持っているのか、普通ならここでサクラを疑うべきなのかもしれないけれど、身体のあちこちが痛くて、理解が追いつかなくて、そんなことはもうどうでもよかった。サクラなら鎮静剤くらい持ち歩いているだろう、そんなふうにすら思えた。俺の腕に注射針が刺された。

 サクラの肩越しに炎上するマイクロバスが見えた。俺はゴツゴツとした木の幹にぐったりと身体を預けて、森の狭い空を焦がす炎を見詰めていた。

「怖くない、怖くないよ」

 幼い子どもを宥めるおまじないのようにサクラは繰り返して言った。それは俺に言っているのか、それともサクラ自身に言い聞かせていたのだろうか。燃え盛る炎の中から幾重もの断末魔が聞こえていた。俺の腕に刺さった注射器から鎮静剤が体内に注入される。

 人間の上半身の形をしたものが炎に包まれながらズルズルと這い回り、言葉にならない悲鳴を上げていた。あれは高橋か、それともガンちゃんか、ハッチか。

「大丈夫、紹廸は人間だよ」

 今夜は流星群がよく見えるとサクラが言っていた。一月の夜空は煙に覆われて何も見えなかった。俺に鎮静剤を打ち終わったサクラは隣に力なく座り込んで、ふたり並んで炎を見た。サクラの頬から血が流れていたし、ガラス片はスリーピースのスーツのベストを突き破ってサクラの脇腹に刺さっていた。ガラス片を抜くたびに、サクラは顔を歪めていた。

 いつのまにか断末魔が絶えていた。

「そろそろ移動しようか、紹廸」

 サクラは立ち上がると俺に手を差し出した。俺は、もはや口を利くことも出来ないほどに疲弊していたが、なんとかサクラの手を取って立ち上がった。身体中が痛んだ。意識がドロドロに濁って鈍い。俺はサクラに支えられて森を歩いた。

 森を抜ける頃には夜が明けて、流星群を見ることは出来なかった。振り返ると森の奥でまだ煙が上がっていた。

 俺たちはどこに出たのか。おそらくは山のふもとを走る市道か県道に出たのだと思う。古いアスファルトと錆びたガードレール。朝焼けの中、どちらを向いても人影は無かった。

「サクラ、あれ」

 道の先にバス停と古びた木製の待合小屋があった。俺たちはそこに入り、色褪せたベンチに座った。サクラがスマホでバス停の名前を調べて、それで現在地が把握出来た。分かったところでどうしようもないのだが、少なくともどこにいるか分かっていると、それだけで少しは心強かった。

 俺たちはそこで少しまどろんだ。ボロボロの身体で夜通し歩き続けて体力は限界だった。俺を支えていたサクラのほうが疲れていただろう。身体を寄せ合って暖を取った。血の匂いがした。

 しばらくして目を開けると、俺が横になってベンチを占領し、サクラは俺に背を向けて地面で膝を抱えていた。追い出してしまったらしい。ふと見ると、サクラの手が俺の手を握っていた。

「サクラ」

 俺が名前を呼ぶとサクラは振り向いた。

「寒くないか」

 俺が尋ねるとサクラは目を少し細めて笑った。

「寒くはないよ」

 小屋の外に朝日が降り注いでいた。

「何を見ていたんだ」

「何も。祈っていただけだ」

 サクラはそう答えた。一体、何に祈っていたのか。サクラにも祈る対象がいるのだと俺は少し感心した。

「紹廸は昔からすぐ顔に出る。何に祈るんだって顔をしているよ」

 その指摘はもっともで、俺は考えていることが顔に出やすい。嘘をつくのが下手だし、ババ抜きは弱いし、サプライズの仕掛け人にも向いていない。良いことも悪いことも、全部顔に出てしまう。

「僕は紹廸に祈っていたんだ」

「俺に?」

「そう、紹廸に。紹廸は僕にとって、神様みたいなものだからね」

 サクラの手に力が入った。俺は繋がれた手を見た。

 佐倉由汰と俺は同じ団地に住んでいた。だから幼稚園からの幼馴染で、小学校と中学校はずっと同じ学校だった。サクラは進学校に、俺は近所の普通科に進んだことで高校からは離れたけれど、それでもサクラはしょっちゅう俺の家に遊びに来た。ゲームをしたり、漫画を読んだり、買い物に出かけたり、試験前には勉強したり、俺たちは親友と呼んでも良い。俺の高校卒業も大学合格もサクラが勉強を教えてくれたおかげだ。爪の垢を煎じてもらえと両親も言っていた。俺もそう思っていた。

 サクラはとにかく、出来た人間だった。それこそ天才だった。だからサクラが友達だということは俺の数少ない自慢のひとつだった。サクラの話は時々難しすぎて俺にはさっぱり分からないこともあったけれど、俺はサクラの話を聞くのが好きだった。サクラは賢すぎて、何を考えているのか分からないことのほうが多かったかもしれない。けれど、サクラがすごいやつだと感じる瞬間は、俺にとってはある種の喜びだったのだと思う。

 頭の良いサクラはやはり難関大学に合格して県外に出た。それから大学院に進んだ。俺は地元の国立大学に入って、地元の公務員になって、駆けずり回りながらもなんとか毎日を過ごしている。サクラが帰省するたびに会っていたから、離れていてもサクラのことはだいたい分かるように思っていた。けれどこれは、俺の自惚れだったらしい。

 俺はサクラを友人だと、それも、一番の友だと思って、そう信じて生きてきた。けれども、サクラにとっての俺は、そうではなかったようだ。

 信仰。

 サクラは俺の、一体全体、どこに神様の要素を見出したのだろうか。俺は平凡な人生を送ってきた。小説にも漫画にもならない、映画化なんてとんでもない。俺の人生は、標準的で一般的で、特別なんてひとつもない。特殊な能力があるわけじゃないし、世界を救いもしない。俺はどこまでも普通の人間だ。サクラのような人間じゃない。

 結局のところ、俺は昔からサクラのことが分からないし、今もまだ分かってやれていないのだろう。分かってやりたいと思う。分かってやりたいとは思うが、分かろうとすればするほど、どんどん遠くなる。

 たとえば。たとえば、ゾンビの襲来で披露宴がめちゃくちゃな中で冷静な判断が出来ることも。たとえば、誰がマイクロバスのカギを誰が持っているのか、それがどこにあるのか分かっていることも。たとえば、後方の座席の右側ならバスが炎上するより先に脱出出来ると知っていることも。たとえば、カバンの中に鎮静剤を持ち歩いていることも。

 俺の中で、サクラに対するひとつの仮説が浮かんだ。たぶんそれは、真実か限りなく真実に近いものだと思う。でも、それを口にしてしまうのは、今じゃないと思った。その代わりに俺は、俺自身に対する仮説を尋ねることにした。

「サクラ」

 俺の声に、サクラは続く言葉を待つように首を傾げた。

「鎮痛剤じゃないんだな」

 緩やかな弧を描いていたサクラの唇が、真一文字に結ばれた。わずかに噛まれたその震えに、必死で耐えようとしているのが分かった。

「俺がゾンビになるのを遅らせているだけなんだな」

 繋いだ手がギュッと握りしめられた。それが答えだった。

「何日分?」

 俺の問いにサクラは黙って人差し指を立てた。俺は頷いた。


 日がもう少し昇ってから俺たちは待合小屋を出た。空腹を感じていたし、いつまでも隙間風の吹く場所に留まっていられなかった。

「さて、どっちへ行く?」

 峠か、それとも市街地か。

「紹廸はどこへ行きたい?」

 どこへ行こうか、と俺は周囲を見渡した。

「海へ行こう」

 俺は答えた。サクラは首を傾げた。

「どうして海に?」

「んー、なんとなく。頑張って歩けばきっと間に合うだろ」

 俺は背伸びをして冬の空気を吸い込んだ。俺たちは歩き始めた。

「小学校の遠足で海に行ったの、憶えているか?」

「三年生でしょ、遠足という名前のゴミ拾い」

「そう、それでさ、あの時、岬の上に灯台が見えただろ?」

「灯台なんてあった?」

「白いやつ。俺、もう一度あれが見たい」

 道を歩いていると、やがて眼下に市街地が見えた。街のあちこちから黒い煙が上がっていた。上空をヘリコプターが連なって飛んでいく。

「映画でよく出てくるさ、学校の校庭に白線とか引いて助けを求めるやつ、あれで救助されないかな」

「学校も病院も無理だよ、大勢が避難して一網打尽だった」

 サクラはそう言った。そっか、と俺は答えた。

「やっぱり歩くのは大変だからどこかで車を手に入れようぜ」

「団地へ帰るの?」

「良いよ、もう実家は。変わり果てた家族に会ったとしても、つらいだけだ」

 しばらく歩いていると畑で脱輪している軽トラックを見付けた。俺たちは車の周囲を見て回った。畑の柔らかい土の上に、逃げだした足跡が残っていた。その足跡を付けた足は、少し離れたところに落ちていた。

「マニュアル? どっちにしても僕は免許を持っていないけどね」

「あー、これはオートマだな、軽トラにしては珍しいか。ちなみに俺はどっちも免許取った」

 ふたりで車を畑から道に押し上げた。俺が運転席に座り、サクラが助手席に座った。

「ひとまずこいつで、行けるところまで行こうぜ」

 俺は車を発進させた。サクラがオーディオを触って、繋がるラジオを探していたが、ノイズばかりだった。

 市街地が近くなるにつれて徘徊しているゾンビを見かけるようになった。まだゾンビの姿がまばらなうちに食料を手に入れておきたかった。俺たちは郊外のコンビニに立ち寄った。荷台の鍬や鎌を武器にしてコンビニに入ると強盗になった気分だった。結局、コンビニには生存者もゾンビもおらず、俺たちは食料を手に入れてまた走った。

「ネットは繋がるか?」

 幹線道路をひたすら走る。あちこちに事故の形跡があった。

「ギリギリかなぁ」

「安全地帯があるなら、そこまで送っていくよ」

「紹廸は」

 俺は前だけを見ていた。

「君を失った世界で僕が生きていけるとでも思っているの」

「……じゃあ、サクラは」

 片手でイチゴオレを飲んでから、俺は答えの分かっている質問を投げた。

「サクラは俺を殺せるか?」

「無理」

 サクラは即答した。その答えは俺の予想通りだった。

「僕に紹廸を殺すことなんて出来やしないよ。それが出来るのなら、とっくの昔にそうしている」

 サクラは俺を殺せない。たとえ俺が、ゾンビに成り果てたとしても、サクラは神を殺せない。サクラに出来ることは、俺を一分一秒でも長く生き永らえさせることだけだ。俺に終わりをくれるわけじゃない。

「僕のことは美味しく味わってね。ゾンビといえどもきっと、食べなきゃ飢え死にするよ」

「俺は、百歩譲ってゾンビになることは受け入れるとしても、他人を食い殺したくない。相手がサクラなら、なおさら嫌だ。誰も食わずに死ねるっていうのなら、飢え死にだって大歓迎だ」

 やがて大きな事故現場に着いて、俺たちのドライブは呆気なく終わった。トレーラーやトラックが横転して道を塞ぎ、車では先へ進めそうになかった。

「ちょうど良いや。紹廸、座って腕を出して」

 サクラに言われて俺は縁石に腰を下ろした。袖をまくってサクラに腕を差し出す。サクラはカバンから鎮静剤を取り出して俺の腕に打った。最後の鎮静剤だった。

「海まであとどれくらい?」

「休憩せずに一定速度で歩き続ける計算で十時間ってところかな」

「鎮静剤の効果は?」

「十五時間で効果が薄れ始めて、十八時間を超えると急速に進行する」

 太陽は真上から少し西に傾いていた。ゆっくりと体内に入っていく鎮静剤を眺めながら俺は頭の中で計算した。

「少しは余裕があるってことだろ」

「ゾンビがいる中をずっと同じ速度で歩けないでしょ、休憩も必要だし。それに夜中に歩くのは危険すぎる。冬の日没は早いよ、五時には日が暮れる」

「それじゃあまた車をレンタルするしかないな」

 俺の言葉に、サクラが何も言わなかったから、たぶんこの先で乗れる車は見つからないんだろうと思った。

「それなら自転車だ、一輪車でも良い」

「乗れるの、一輪車」

「冗談だよ」

 鎮静剤が落ち着くのを待ってから、俺たちは出発した。

 歩いて、休んで、走って、また休んで、自転車を手に入れて走って、また休んで。サクラの言った通り、俺たちには休憩が必要だった。ゾンビから逃げながら進むのは大変だったし、バスの落下で負った怪我が何よりも厄介だった。時折サクラは脇腹を押さえて苦しそうな顔をしていた。

 日が沈むころにはふたりともへとへとに疲れていた。道沿いの小さな喫茶店を今夜の寝床に決めた。サクラが地図アプリで現在地を確認する。

「残りあと半分弱だね」

「タイムリミットは日の出の前だろ。夜が明ける前に出発しないと間に合わない」

「自転車なら二時間はかからない距離だよ。せめて日付が変わってからにしよう」

 ソファー席を並べてベッドにした。

 サクラと昔のことばかり話した。クラスで飼っていた金魚のこと、修学旅行のことや、文化祭のこと、協力してどうにかクリアしたゲームのこと、留守番で作ったカレーのこと。どうでも良いことばかり思い出して、そのどうでも良いことが、ひどく愛しい時間だったと思えた。やがて浅い眠りに就いた。

 アラームより先に俺は目を覚ました。暗いはずの店内が、妙にぼんやりと見えた。右目を閉じる、真っ暗だ。左目を閉じる、はっきりと見える。俺はサクラのスマホで時間を確認した。鎮静剤を打ってからまだ十五時間は過ぎていない。

「サクラ」

 俺はサクラを揺り起こした。サクラは眠そうだった。

「右目がおかしいんだ」

 サクラはスマホのライトを俺の顔に当てた。眩しい。

「進んでいるの」

「右目だけ暗くても目が利く」

 俺は笑った。いよいよ怪物になるらしい。

「暗闇でも見えるから、出発できる」

 サクラは呆れたように大きなあくびをした。寝癖で髪の毛が跳ねていた。いつも完璧なサクラには珍しいことだったが、こんな油断した姿を知っているのは幼馴染の特権だった。完璧なサクラも、油断したサクラも、どちらだって素のままのサクラだった。俺はそう思う。

「じゃ、行こうか」

 穏やかな声でサクラは言った。俺たちは海を目指した。

 夜明け前の冬の海は真っ暗だった。東の果てがわずかに白み始めていた。灯台は海へと光を送り続けていた。その灯りを目印にして、俺たちは岬へと向かった。左目を瞑ると遠近感覚が不確かになったが、暗闇の中を歩き回っているゾンビの姿はよく見えた。ゾンビは俺たちを視認していないようだった。この右目は、完全にゾンビとなる前の猶予期間にだけ与えられた能力らしかった。

 灯台の周りは静かだった。崖下には黒い海がうねっていた。俺の呼吸は荒く乱れていた。空腹とは異なる飢えを感じ始めていた。もう時間が無いのだという自覚があった。

「ゾンビになる前に、人間のままで俺を殺してくれと頼んだって、サクラには無理だろ」

「無理だよ」

「それなら選んでくれ。俺に殺されるか、俺と心中するか。どっちが良い? 俺に殺される場合は絞殺だな、サクラを殺して俺もすぐに死ぬ」

「僕は紹廸を人殺しにはしない」

 サクラは両手を空に広げた。満天の星だった。

「終末に心中なんて、なかなかロマンチックな終幕じゃないか。ここからふたりで身を投げて終わりにしよう」

 絶望的な終わりだというのに、清々しい気分だった。これがゲームだったとしたらクリアにはならないのだろう。どうにかあと数時間を生き抜けば、ふたり揃って救出されるのかもしれない。あるいは、どこかの分岐で選択を変えれば、サクラだけでも生き残ることが出来るエンディングだって迎えられたかもしれない。それをサクラが許容するかどうかは別として、そういうエンディングは用意されているかもしれない。

 でも、俺たちはここで終わりにする。

「飛び降りる前に聞いても良いか」

「何でもどうぞ」

 サクラの手を引いて岬の先端に向かいながら、俺はサクラに尋ねた。

「サクラにとっては、これが何回目の終末なわけ?」

「そんなのもう数えていないよ、数え切れないもの」

 ずいぶんあっさりとした声でサクラは答えた。

「つらくはないか?」

「そうだねぇ……つらくないと言えば嘘になるけれど、でも、やるべきことはひとつだけだから、それが分かっているから平気」

 海を背にして俺たちは立った。俺はサクラの手を強く握った。サクラの手が握り返した。

「次の終末でも、俺を見付けてくれるか?」

「当たり前でしょ。だから紹廸も、僕を待っていて」

 俺は、サクラのことを分かってやれないが、分かってやりたいと願う。サクラを突き動かしている俺への信仰の理由は、もはや戻れないほど遥か遠い過去の終末にあるのだろう。その無数の終末を俺はひとつも知らないし、この終末のことも忘れてしまうのだろうけれど、最後の最後に迎える終末にはサクラの献身が報われてほしい。ハッピーエンドがあってくれ。そうじゃなきゃ、こんなの、あんまりだ。あんまりじゃないか。

 サクラが繰り返し迎えている終末が、なかなか覚めない悪夢か何かで、これがどうか嘘であってくれたなら、手を繋ぐサクラが諦めたように泣きそうに、それでいて、ひどく満たされたように笑うこともないのだと思う。

「なるべく早く迎えに来てくれ。サクラを知らない人生なんて、きっと退屈だろうから」

「任せて。紹廸を見付けるのは得意なんだ」

 夜明けの闇にサクラの笑い声が響いた。

「せーのっ!」

 声を合わせて俺たちは海へと身を投げた。ああ、サクラ。俺はお前を救いたいよ。遠くなる夜空に、星がひとつ流れた。

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