楽園が遠すぎる


 ねぇ紹廸、とサクラが俺を呼んでから振りかぶった。

「天国と地獄ってどっちが先に出来たと思う?」

 サクラの投げたボールは、蒼天に柔らかな弧を描いて、俺のグローブの中に納まった。

「天国だろ」

 俺はボールを投げ返す。サクラは上手くキャッチした。

「どうしてさ」

「そりゃ、昔の人にとっての一番身近な死はきっと、自分の子供が大人になれず死ぬことじゃないのか」

「七つまでは神の子ってやつね」

「自分の子供を早くに亡くしたら、せめてこことは違うどこか幸福な場所に行ってほしいと思うんじゃないか」

「なるほどね、それは一理ある」

 そう言ってサクラの投げたボールは俺の頭の遥か上を飛んでいった。ボールは小学校の校庭を横切るように転がって、シーソーの近くで止まった。フェンス沿いの木々から蝉時雨が降り注いでいた。ボールを拾って振り返ると、サクラがこっちに向かって歩いてきていた。

「休憩にしよう、紹廸。今年の夏はやっぱり暑いよ」

 サクラの提案に乗って、俺とサクラはキャッチボールを切り上げた。

 小学校の校庭を出て東へしばらく歩くと川に突き当たる。ここは川の中流でも上流に近い辺りで、水も綺麗だし、水遊びに適していた。俺たちはコンクリートの橋の下の日陰に入った。サンダルを脱いで水に入る。踝より少し上まで水に浸かった。

「天国が先に出来たとしたら、地獄は天国の対照的な存在として後から生まれたってこと?」

 川の中央へ向かって歩きながらサクラが俺に問う。

「この話、まだ続けるのか」

 俺は近くにあった大きめの石に腰を下ろした。

「良いでしょ、たまには哲学的な話もしようよ」

 サクラが期待した眼差しを向けてくるから、俺は少し考えた。

「地獄は天国の対になるものとして出来たわけじゃないと思う」

「どうして?」

「楽園があるならその反対の場所もあるだろう、とはならないと思うんだよな、俺は。うまくは言えないけど。たとえば取り返しのつかないほど酷いことをされたとき、その相手に対して死んだあとも苦しめって思うこともあるだろう。でも、その死後の苦しみってさ、死後の幸せとは別のところに存在しているものじゃないか?」

「どういうこと?」

「だからうまくは言えないって言っただろ」

 まったく分からないといった顔でサクラが俺を見ていた。俺は不貞腐れたが、もう少し考えることにした。なぜかってそれは、暇だったからだ。

「天国は天国、地獄は地獄、別々に存在していて繋がっていないって俺は思う。だって、天国と地獄が地続きでさ、たとえば何かの拍子に境界線が曖昧になったら困るだろ」

「それは確かに困るね」

「だから天国と地獄は対照的な性質を持っていても、独立して存在しているから、天国があるから地獄があるとか、その逆とか、そういうことじゃないって思う」

 サクラは膝の辺りまで川に浸かっていた。

「それじゃ、勇者と魔王は? 彼らは同じ世界に存在しているでしょ」

 また新しい疑問が出てきた。最近のサクラはこういった質問ばかりを繰り返している。

「魔王が先だろ」

 俺はすぐにそう答えた。どうしてと理由を聞かれる前に言葉を続ける。

「魔王が現れたから、魔王を倒す勇者を選ぶ必要があるわけだろ」

「あ、紹廸の世界の勇者は選別式なんだね」

「選別式って何だ」

「神のお告げとか、王様の命令とかで勇者が選ばれるタイプってこと。ほかにも世界中のあちこちで打倒魔王って立ち上がった人たちがいて、最後まで残って魔王を倒したのが勇者になるってタイプ」

「魔王を倒した者が勇者になるのなら、それこそやっぱり、魔王が先で勇者が後だろ」

 それもそっか、とサクラはあっけらかんと言って笑った。日向に目を向けると、川面は夏の日差しを浴びて眩いばかりにキラキラと輝いていた。近くの雑木林から蝉の鳴き声が届いていた。

 世界が滅んでから九十五回目の今日だ。


 記憶を少し遡って、あれは五月の連休がもう明けてしまうという頃だった。その夜は、星のよく見える空で、俺は休日出勤の帰り道だった。システムトラブルで緊急の呼び出しがあったのが、その前の日のことで、徹夜でトラブルの対応に追われた。どうせ大した用事も無かったとはいえ、休日が潰れたことは苦々しい。行楽帰りの列車で揉みくちゃにされて、ようやく狭いワンルームに帰って、なんとかシャワーだけは浴びて、夕飯は食べずにそのままベッドに倒れこんだ。

 そして次の日の昼前に目覚めると、世界が滅んでいた。

 正確に言うと、世界は滅びかけていて、まだ完全には滅んでいなかった。寝起きのぼんやりとした頭でスマートフォンを見ると、身内や知り合いからのメッセージや着信履歴が山ほど届いていた。何事かと俺は、一番新しい着信履歴だった兄に電話を掛けた。

「紹廸、お前は無事だったか」

 寝ぼけたままの俺とは対照的に兄は取り乱したように焦っていた。何の話かと尋ねれば、ニュースを見ろと言われ、俺はテレビのスイッチを入れた。

 ニュース番組が伝えることには、昨夜、一瞬にして世界から多くの人間が消失したということだった。世界中で何億という人間が忽然と姿を消したのだ。本当に何の前触れもなく、理解が追いつくより先に、目の前にいた人間が消えたのだという。空を飛んでいた飛行機はパイロットを失って墜落し、走行中だった列車や車は運転手を失って衝突した。

 お前は無事だったか、と兄は言った。お前は、ということは、俺以外はどうなったのか。

「ばあちゃんと親父が」

 ダメだった告げた兄の声はあまりにも弱かった。流れるニュースはどこか遠い世界の話のように思えた。

 そしてその夜、また人間が消えた。速報値では、初日に三割程度、二日目も三割程度だという見積らしかったが、それを伝えるニュース番組も、放送を継続出来ているのは二局だけだった。仕事をしている場合じゃなかった。消えた原因も分からなければ、消えた行方も分からない。何ひとつ理解出来ていない人類がパニックになる中、三日目の夜も人間が消失した。そのときに俺がどこで何をしていたかというと、地元に帰るための列車の切符を予約しようと駅に来ていたところだった。全線運休だと繰り返し伝えている疲弊した駅員が、俺の目の前で居なくなって、そのときようやく俺は、消失というのがどういうことなのかを把握した。無差別に消えて半分以下になった人口で、今までと同じ日常が続くはずもなかった。

 四日目。俺は居なくなった友人のバイクを借りて地元に着いた。実家に残っているのは疲れ切った顔の兄と何も知らない生後五か月の甥っ子だけだった。どういうわけか、四日目の夜に消失は起きなかったようだ。

 五日目。営業しているのかどうかも不確かなスーパーでレトルト食品を買ってきた。哺乳瓶でミルクを与えている兄の腕の中から甥っ子が消えた。

 六日目。朝起きると兄が首を吊っていた。冷たくなった兄を床に寝かせた。朝からガスが、昼から電気が止まった。俺はどうすれば良いか途方に暮れた。もう何も考えたくなかった。それでも、兄の遺体をそのままにしておくことは出来ず、裏の畑に穴を掘った。俺は泣きながら穴を掘った。火葬にすべきだったかもしれないが、俺には人間の燃やし方が分からなかった。調べようにもネットは繋がらなくなっていた。いや、方法を知っていたとしても俺には燃やせなかっただろう。出来るだけ深く掘って、兄と一緒に、兄嫁や甥っ子の写真やおもちゃを埋めた。墓標の代わりに、玄関先に置かれていたオリーブの鉢植えを持ってきた。消失があったのかどうか、分からない。

 七日、八日、と時間だけは過ぎて、行く当てもなく町を歩いてみたが、もう他人の気配が無かった。畑の井戸とレトルト食品でしばらくの間は食いつなぐことは出来そうだった。けれど、生きていたところで何になるのかとも思った。しかし、俺が兄の後を追うことはなかった。消失がどうなったのか俺には知るすべが無かった。俺はまだ残っていた。

 サクラがやって来たのは、一か月が過ぎた頃だった。確か、三十三日目だ。まだ誰かが残っているかもしれないという僅かな希望を託して、俺は河川敷でひとり、狼煙の代わりに枯草を焼いていた。燃え盛る炎を見詰めながら、こうやって兄を火葬すれば良かったのではないかなんてことを考えていた。けれど、やっぱり俺には出来そうになかった。

「紹廸?」

 突然名前を呼ばれて、一瞬、幻聴だと思った。反射的に振り返ると、堤防の道に自転車にまたがった人の姿があった。逆光になっていて、とっさに誰か分からなかった。見えていたとしても、名乗ってくれなければ分からなかっただろう。

「僕だよ、サクラだ」

「サクラ? 佐倉由汰か?」

 サクラは自転車を放り出して、滑り落ちるように俺の元へ駆け降りてきた。ボサボサになった髪と髭なんて俺の記憶にはない。サクラは小学校の同級生だった。俺たちは手を取り合った。久しぶりの人間、それも知り合いとの再会に、俺は涙をこらえることが出来なかった。

 俺たちは河川敷から町の中心部のほうへと歩きながら話をした。サクラの住んでいた方面は、工場地帯が爆発したのだという。鉄道はもとより道路もほとんどが使い物にならず、ここまでずっと自転車で走ってきたらしい。

「おかげで足の筋肉がついたよ」

 冗談めかしてサクラが言ったが、顔には明らかな疲労が見えた。

「僕の家族が無事じゃないってことは、三日目でもう分かっているんだ。でも、それでもやっぱり実家に寄りたい」

 町にはもう誰も居なかった。最初のうちは見掛けた犬や猫も、近頃は姿を消していた。毎日、町を放浪するときにはいつも、ホームセンターから持ってきたドッグフードやキャットフードをあちこちに撒いておけば、次の日には無くなっていたけれど、いつのまにか食べられないままに蟻が群がっているだけになった。動物たちがどこへ行ったのか行方は知らないけれど、森の中かどこかにある動物たちの国で仲良く楽しく暮らしていてくれたら良いと思う。まあ、そんな国は俺の妄想に過ぎない。

 サクラの実家も例外ではなく、鍵が開けられたままの家の中には、誰ひとりも居なかった。リビングのテーブルの上に、老眼鏡と読みかけの本と、中身の蒸発した湯呑みが残っていて、サクラは肩を震わせて泣いていた。庭の鉢植えは枯れていた。

「俺の家に来いよ」

 俺の提案にサクラは俺を見ずに答えた。

「生きていて何になるの」

 そう言ったサクラの言葉は、もっともなように聞こえた。生きていたところで、この世界はもうどうにか出来るレベルじゃない。孤独なまま、突然の消失に怯えながら生きていくくらいならば、自ら死を選んだって誰にも責められないだろうと思った。責める人間も、もう残っていないのだから。

「死にたいなら、それでも良いと思うよ。でも、最期は俺に看取らせてくれ」

 兄の顔が俺の脳裏をチラついた。笑った顔と疲れ切った顔が交互に思い浮かんだ。冷たい肌の温度を思い出した。

「家族はみんな消えた。五日目に甥っ子が消えて、限界の来た兄貴が首を吊って死んだ。朝起きたら、兄貴が冷たくなっていた。仕方の無い選択だとは思う、理解している。でも、出来るならば、最期の瞬間は一緒に居たかった。最期まで一緒に居たかった。そのことだけは少し、怒っているんだよ、俺」

 サクラは恨めしそうに俺を見た。唇を震わせて、とめどない感情を必死に堪えようとしていた。三度ほど深呼吸をして、それからサクラは言った。

「荷造り、手伝って」

 窓の外に梅雨入り前の晴れた空が広がっていた。サクラの荷物を俺の家に放り込んで、俺たちは日が暮れる前に風呂を済ませようということになった。

 町の郊外にある温泉施設は風呂の問題を解決してくれた。蛇口をひねっても何も出ないが、湯船は源泉掛け流しの湯が溢れ出ていた。

 素数、とサクラは言った。

「素数って何が」

 俺は髪を洗いながら、背後で広い湯船を独り占めしているサクラに尋ねた。

「僕、ここに帰ってくるまで、あちこちを通ってきたでしょ、だから紹廸よりたくさん消失を目撃しているわけだけど」

「消失の日が素数ってことか?」

「僕が観測してきた範囲ではね。四日目は何も無かったでしょ、六日目も」

 そう言われて俺は、これまでのことを思い返した。六日目のことは分からないが、四日目は確かにサクラの言う通り、消失は無かったように思う。

「今日は三十三日目だから、消失の日じゃない」

「次の素数は?」

「三十七、その次は四十一」

 でもね、とサクラは続けた。

「一回の消失で残っている人口の三割が消えるという仮定で計算すると、次でこの世界の残りの人口は、始まりの日の一パーセントを切るよ」

「仮にスタート地点でこの国の人口が一億二千万人だったとして、今は何人残っている計算になる?」

「残数一パーセントだとすれば、百二十万人だね」

 百二十万という数字に、俺は案外多いのだと思った。

「案外多いと思った? でも実際のところ、分母は世界人口だし、間接的な死者も多い。僕が途中で通った場所も、工場や発電所の火災で町が丸ごと焼け野原になったところもあったし、暴動になっていたところもあった。親がいなければ子供は生きていけないし、病人もそうだ。紹廸のお兄さんみたいに自殺する人も、もちろん。実際にはもう、百万人も残っていないと思う」

 サクラの言葉に、少なくとも衣食住には困っていない俺は、ずいぶんと幸運だったのだと思い知った。仮に百万人の生存者が居たとしても、国中の四方八方に散らばっているのだから、サクラと再会出来たことも幸運だ。何より、今日まで消失を逃れてきたことが、幸運なのだろう。


 九十五日目、計算をしてみると、この国に残っているのは、一万人も居ない。みんなどこかで元気に暮らしているだろうか。ひどく遠い世界の話だった。

「サクラ」

 川の流れに魚を探しているサクラを呼んだ。

「そろそろ帰って野菜を収穫しよう」

 サバイバル生活もこの頃になるとかなり充実してきた。太陽光発電が無事な家を見つけたり、あちこちの畑の世話をしたり、キャッチボールをしたり。不便ながらも毎日が自由研究のようだった。

 きっと、俺ひとりでは出来なかった生活だ。サクラが居なければ今頃俺も、兄の後を追っていただろう。梅雨が明けて季節が真夏になっても、サクラはまだ俺と一緒に居てくれた。毎日のように花や果物を兄の墓に供えてくれる。どんな人だったかサクラに尋ねられたことがある。

「母さんに似て愛情深い人だったよ」

 兄が生きるには、果てた世界は苦しいものだったと思う。両親や妻、祖父母、そして息子。目の前で大切な人たちが消えてしまって、それでも気丈にふるまうなんて無理だ。明日に希望を抱いて生きろなんて、とてもじゃないけれどそんなことは言えない。ここではないどこかへ向かったのであれば、そこで家族と再会してほしい。そして、その場所がどうか、せめてこの世界よりも幸福な場所であることを祈る。

 道端でひっくり返っている蝉を避けて歩いた。

「そうなるとやっぱりさ、魔王ってすごいよね。勇者は、魔王が居るから魔王を倒そうと立ち上がったわけだけど、魔王は世界を征服しようって自分から立ち上がったわけでしょ。そう考えると魔王のほうが勇者よりもカリスマがあるんじゃないの」

「まだ続いていたのか、この話」

 サクラの話には、もはやほとんど意味が無い。俺の話だって、そうだ。今はただ、ふたりで終末までの時間をなんとなく過ごしているだけだ。夏休みの延長のような日々は、やはり消失という大きな終わりがあって、けれども、その終わりがいつ訪れるものか分からないから、先延ばしにされた終幕に向かって、だらだらとした時間が流れている。目的はない。町を復興させようというつもりはない。どれほど生活を便利にしたところで、消失が来ればそこで終わりだ。予告があれば、それを締め切りとして張り合いのある生活を送れるかもしれない。もう終わりだと分かっていれば、悔いのない日々を送れるのだろうか。それとも、パニックになってしまうのだろうか。

 サクラと一緒に、十数回の素数の日を迎えたが、俺たちのところに消失はやって来なかった。限りなくゼロに近づくだけで、ゼロにはならないのであれば、俺たちは割り算の余りのようなもので、もう、世界の終わりからは弾かれてしまったのだろうか。

 それなら、消失した多くの人間のほうが幸運で、残された俺たちは不幸なのではないかと思う。みんながどこかに行ってしまったのに俺たちだけが置き去りで、いつまでも終わりに焦がれるような生き方なんて、あんまりじゃないか。

「確かに悪の組織のほうが、目的がしっかりしているというか、信念や情熱があったりするけどさ」

「しぶといものね、魔王。ラスボスってみんな何度も形態を変えてくるでしょ。すごい執念だよ」

「勇者だって何度も謎に強化されるだろ、精霊の加護とか伝説の剣とか。まあ、目的と手段はどうであれ、努力しているのは勇者も魔王も同じか」

「結局のところ、やっぱり魔王は報われないんだね。魔王に厳しい世界だ」

 サクラの結論はそこに落ち着いた。

 たぶん、もう終わりにしようとどちらかが言えば、俺たちふたりの世界はそれで終わるのだと思う。でも、お互いに相手をひとりには出来ないと、まだ生き続けている。俺たちを生に縛り付けている約束はひとつ、最期を看取ることだけだ。それがいつだって構わない。今夜でも、明日でも、来年でも、あるいは、昨日であっても。

 俺が先に死んだら、サクラに明日はやって来ないだろうという予感がある。けれども、もしかすると、サクラが死んだって、俺の明日は続いていくかもしれない。漠然とそう感じる。また変わらない日々が、どこまでも続いていくような、ありきたりな日々が、漫然とした時間だけが、消失の訪れる瞬間まで延長されるだけだ。

 世界の終わりが俺を避けて通り過ぎるのだとしたら、俺は、いつまで俺のままでいられるのだろうか。サクラが居なくなっても俺は、俺のままでいられるのだろうか。

 畑のトマトやキュウリを収穫した。歪な形の野菜は、俺たちが生き延びている証だった。

「紹廸は、さ」

 サクラは麦わら帽子が似合わない。

「どうして今日もまだ生きているの」

 夕飯の献立や、明日の予定を尋ねるのと同じ程度の調子でサクラは俺に尋ねた。

「サクラが居るから?」

「それは後付け。お兄さんが死んで僕がここに来るまでの間ずっと、ひとりで生きていたわけなんだから」

 俺はオリーブの鉢植えを見遣った。

「このまま後を追うのは違うように思ったから」

「違うっていうのは、そんなことをお兄さんは望んでいないってこと?」

「どう言ったものかな」

 麦わら帽子の下で汗が流れる。

「実際に消失の瞬間を目撃しても、やっぱり俺には失った実感が無くて。けど、埋めるために兄貴を運んでいたとき、その重みが、心に突き刺さった。それでようやく俺は、実感が湧いたんだ」

 頬を伝う汗を手の甲で拭った。指先に野菜の青臭さが染みついているように感じた。

「それで、何と言うか、消失を逃れている俺には、自分の思うまま自分の望む方法で死ねるというチャンスが与えられていると思った。何の前触れもなく、準備も覚悟も出来ないままに消えてしまった人たちは、きっと、自殺という選択肢すら選ぶ時間が無かっただろう。だから」

 五時を過ぎても世界はまだ明るい。熱を帯びた風が吹き続けていた。

「だから、俺が自殺を選ぶのは、不公平だと思った。それだけだ」

 俺の答えにサクラは俺を見詰めて間延びした声で、そっかぁと言った。

「紹廸の言うことも分かる。ズルいって思う人もいるよね、きっと」

「サクラはどう思う」

「僕? 僕はねぇ」

 サクラは少し右に首を傾げた。

「紹廸が居るから、僕は生きているんだよ」

「お前だってそれは後付けだろ」

 俺は呆れて言ったが、サクラは口角を上げた。

「後付けなんかじゃないよ、僕は、紹廸を見付けるために戻ってきたんだから」

 サクラは夏の日差しの下でも肌が白い。赤くなってすぐに元通りになるタイプだ。こんがりと焼けてポロポロと皮が剥がれ落ちる俺とは対照的だった。

「大丈夫だよ、紹廸は。僕の観測では少なくとも、五百二十三日目の消失は回避する」

 そう言ったサクラの言葉に俺は、どこを見れば良いか分からずに、隣家の生垣に巻き付いて咲く凌霄花の鮮やかなオレンジ色を見た。ああ、楽園が遠すぎる。

「俺は、昔からお前のことを分かってやれなかったけれど、今はこれまでで一番、お前のことが分からないよ」

 麦わら帽子がサクラの顔に影を落としていた。それが俺には翳りに見えた。きっと同じように、俺の顔にも影が落ちていただろう。

「紹廸、明日は準備をして、明後日は海へ行こう」

 収穫した野菜を井戸水で洗っているとサクラが提案した。この町に海は無い。幹線道路で繋がる隣町が海に面している。サクラはそこへ行こうと言った。

「僕はそろそろ新鮮な魚が食べたいよ」

 生鮮食品はとっくの昔に腐った。レトルトと畑の収穫物だけが俺たちの食糧だった。料理らしい料理もしていないし、最後に泳ぎ回る魚を見たのは何日前のことだっただろうか。

「別に構わないけど、俺は魚をさばけないからな」

「そもそも僕たちに釣れるかな」

 まぁいっか、とサクラは笑った。

「時間だけはあるんだ。気長にいこうよ」

 俺の手の中のトマトは嘘みたいに真っ赤で、まるでそこだけが別世界のようだった。

 サクラの言うことの何が本当で、何が嘘なのか、俺には分かりかねる。俺が一年以上も消失を回避し続けるというのは、事実なのか冗談なのか、それとも気休めなのか。何にせよ、少なくとも俺は今日までずっと消失から外れてきた。それが幸福なのか不幸なのか。消えるその瞬間に答えを出せるのだろうか。俺のことだ、きっと答えは出ないままに終わるだろう。

 魔王は何度も姿を変えて己の望みを果たそうとする。それは分不相応な望みなのか、願ってはいけない非望なのか。魔王こそが、報われるべき努力が報われることなく散った、願いの成れの果てなのだろうか。サクラは目を細めて俺を見ていた。やっぱり俺は、お前のことを分かってやれないよ。

 空を仰ぐとカラスたちが山へ向かって飛んでいた。やはりまだどこかで動物たちが暮らしているような気がした。そこは俺には辿り着けない楽園なのだと思う。俺のための場所ではないのだろう。

「夕飯にしよう、サクラ」

 俺たちは野菜を抱えて家に帰った。

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