アルデバランの追想
七町藍路
第一章 アルデバランの追想
「明日世界が滅ぶから、人質になってくれ」と君は言った
サクラと会った。十八年ぶりだった。二月の街は寒さの底で、冷たい夜風に首を竦めて歩く。時折強い風が吹き付けてマフラーがはためいた。なんてことない金曜日の夜だったが、俺の心は浮かれていた。浮かれていたし、少しばかりの緊張があった。
駅前のコーヒーショップ、通りに面した窓際のカウンター席で、寒さを堪えて歩く雑踏をサクラは眺めていた。その横顔にまだ十歳の面影が残っていたから、俺はすぐにそれがサクラだと分かった。
佐倉由汰は小学校の同級生だ。そうはいっても、実際に同じクラスだったのは一年と少しの期間しかない。サクラは三年生の夏の始まりに転校してきて、四年生の秋が深まるより前に転校していった。そんな中途半端な季節の転校生だったにもかかわらず、サクラはあっという間にクラスの人気者となった。足が速くて、頭が切れて、喋りも上手く、顔も良かった。サクラと遊ぶ時は何をしたって退屈しなかった。みんなサクラが大好きだったから、最後の日にはみんなで泣いた。
手紙をくれよ、と俺は自分の住所を書いてサクラに渡した。まだスマートフォンも無かった時代だ。気が向いたらね、とサクラは笑っていたが、その秋の終わりにサクラからの手紙が俺の家の郵便受けに届いた。俺は姉に便箋をねだって、少女漫画雑誌の付録だった可愛らしいレターセットで返事を書いた。宛先は知らない街だったし、サクラの苗字は秋川になっていたけれど、それでも俺にとってサクラはサクラだった。
そうしてサクラとの文通が始まった。サクラの住所は北へ南へ、東へ西へ。苗字は何度も変わった。海外から届いたこともあった。時々写真が同封されていて、俺はそれを自分の部屋の壁に貼った。そうするとまるで、あちこちを旅行したような気分になれた。十八年の間に、世間も俺自身も色々と変わったけれど、結局は今までずっと俺とサクラのやり取りは手紙のままだった。今日の約束も手紙で交わしただけだった。約束と呼ぶのも少し違うかもしれない、サクラからの一方的な招集だ。それだけで間違いなく会えるのか不安だったが、サクラのことだから、間違いなんて無いのだろうとも思った。
「サクラ」
俺は窓をコツコツと叩いた。サクラは満面の笑みを浮かべた。ちょっと待っていろ、とジェスチャーで指示される。俺はコーヒーショップの入り口の脇に突っ立ってサクラを待った。サクラはすぐに出てきた。真っ赤なマフラーがサクラによく似合っていた。
「紹廸、久しぶり」
「すまん、待たせた」
「仕事だろ、お疲れ様」
サクラが俺の名前を呼ぶ時、俺はいつも漢字で呼ばれていると思う。紹廸と書いてツグミチ。どちらも正しい読み方なのだが、どちらもあまり馴染みが無い。初対面の人からは必ずといって良いほど毎回のように読み方を聞かれる。けれどもサクラは小学生の頃からずっと、俺の名前を漢字で書いている。だからだろう。サクラに呼ばれると、それが漢字だと思うのだ。逆に俺は、サクラをずっとカタカナで呼んでいる。サクラが俺にとってサクラであるように、サクラにとって俺は紹廸なのだろう。
「中華で良かった? ここに来る途中で良さそうな店を見掛けてから中華の口になっているんだけど」
「良いよ、勿論。腹減った」
「僕も。餃子食べたい」
俺はサクラに連れられて中華料理屋に入った。小洒落た店だったが気取った感じは無く、入りやすい店だった。サクラと話をしていても十八年の歳月を感じさせないのは、それはひとえにサクラのおかげだろうと思う。サクラは昔から何も変わらなかった。
「サクラ、今は何て名前?」
「今? 村雨。僕の母親は恋多き乙女だからね、乙女って年齢でもないか」
唐揚げと餃子、二人分のビールが運ばれてきた。ジョッキで乾杯する。
「おばさん、元気?」
「うん、元気すぎて困るくらい。最近はケーキを焼くのに夢中みたいだ。唐揚げにレモンは絞るタイプ?」
「任せるタイプ」
サクラの母親にはほとんど会ったことがない。授業参観と運動会くらいか。曖昧な記憶の中では、美人で仕事の出来そうな人だった。サクラと目元がそっくりだったように思う。
「紹廸は最近どう?」
「パッとしないけど……まあ、毎日何とかやっているよ」
「家族はみんな元気?」
「それこそ元気すぎて困る。サクラは? 順調?」
「僕はねー、携わっていたプロジェクトがやっと大きく動いたところ。ひとつの節目を迎えたって感じかな」
「これからまた第二部、みたいな?」
「そうなるかな。何事も無く進めば良いんだけど」
それから酢豚と回鍋肉も頼んだ。サクラはよく食べてよく呑んだ。相変わらず話が上手くて、それでいて聞き上手だった。気が付けば俺は仕事の愚痴ばかりだったが、サクラは表情豊かに聞いてくれるから、何でも話せる気がした。実際に、何でも話したように思う。
話したように思う、というのは、その夜の記憶が途中で飛んでいるからだ。
たらふく食べて店を出た。夜風は冷たいが、身体が火照っていたから気にならなかった。
「どうする、サクラ。二軒目に行くか? それともコーヒーでも飲んで帰るか? サクラの泊まっているホテル、確か一階にカフェが入っていただろ」
俺が尋ねると、サクラは悩むように首を傾げた。街灯に照らされた赤いマフラーがやはり、サクラによく似合っていると思った。
「紹廸にちょっと相談があるんだけど」
サクラはどこか言い出しにくい様子だった。
こういう時に、世間一般では勧誘目的だと思うのだろうか。新興宗教、マルチ商法、押し売り、投資、その他諸々。けれどもサクラはそういう奴ではない。怪しい儲け話を持ってくるには、サクラは賢すぎる。宗教なんてもってのほかだ。サクラは神を信じない。
サクラは俺の目を見て言った。
「明日世界が滅ぶから、人質になってくれないかな」
俺は首を傾げた。
明日世界が滅ぶから、人質になってくれ。
俺は頭の中でサクラの言葉を反芻した。酔った頭でも分かる。何かおかしなことを言っているぞ、とフワフワする頭が頼りない警告を発している。
サクラが歩き始めたので、俺は慌ててサクラを追いかけた。赤信号で止まる。サクラはマフラーに顔を埋めて、真っ直ぐに前を見詰めたまま、呟くように言った。
「紹廸が一緒に来てくれると助かる」
そこから先の記憶は曖昧だ。
気が付くと夜行バスに乗っていた。隣のシートにサクラが座っていた。座席を倒して寝息を立てている。窓際の席だった俺はカーテンの隙間から外を見たが、夜の高速道路は一体どこを走っているのか全く分からなかった。
スマホ、とポケットを探ろうとして、妙な重みにふと見れば、俺の右手首はサクラの左手首に繋がれていた。見覚えのある赤。サクラのマフラーが俺とサクラの手首を結んでいる。人質、とサクラは言った。なるほど、と俺が暢気だったのは眠たかったからだ。確かに拘束されていると人質になったような気分だ。ああ、どうやら俺は誘拐されたらしい。
サクラの意図は理解出来なかったが、昔からサクラと一緒の時は退屈しなかった。放課後はどんな漫画もゲームも勝てないくらいの冒険で満ちていた。サクラが転校した後も、俺はいつだってサクラからの手紙を心待ちにしていた。十八年ぶりの再会に、たとえサクラが悪い知らせを連れてきたとしても、それでも良かった。本当のところ、色々と考えたのだ。今までずっと文通だけだったのに、今になって何故、呼び出したのか。
だが、一度としてサクラの真意を読み取れた例しがない。開け放たれたような心をしているのに、何も見えない。けれどもこちらの心は見透かしている。昔からそういう奴だった。そこがサクラの魅力だったのかもしれない。
みんなサクラが大好きだった。いつまでも一緒にいられると思っていた。転校するなんて嘘だと思っていた。俺だって、そうだ。別れが悲しくて寂しくて泣いた。学校から家に帰ってもまだ泣いていたので、普段は俺に無関心な姉も流石に思うところがあったらしく、お気に入りのプリンを俺に譲ってくれた。だから俺にとってプリンは今でもどこか切ない味がする。
サクラが今、俺の隣で眠っている。変な感じがした。少なくとも、隣で眠れる存在であるということに、俺は幼稚な優越感を感じて、瞼を閉じた。
「紹廸」
次に気が付いたのは、少し明るくなった車内だった。サクラに揺り起こされて俺は目を覚ました。
「どこ」
「トイレ休憩」
まだ目がショボショボしていた。赤い手錠は無くなっていたが、俺はサクラに引っ張られるようにしてサービスエリアのトイレに向かった。トイレから外に出ると、満天の星空が広がっていた。あれが、オリオン座。あっちは北斗七星。それからあの明るい星が、アルデバランだろう。冬の夜空はすっきりと澄んでいて星を探すのに適していると、理科の授業で習った。その思い出の中にもサクラがいる。火星も冬は地球を探すのにもってこいなのかなと、そう言って笑っていた。サービスエリアの名前はどこか知らない土地だった。北に向かっているのだろうとは思った。調べようとしたが、スマホが見当たらなかった。
サクラは、と俺は辺りを見渡した。サクラはスマホで誰かと電話していた。こんな夜中に話をするのだから、随分と重要なことなのだろう。それは俺が人質になったことと関係があるのか無いのか、詮索しても良かったのだが何となく億劫に感じた。億劫に感じたのは、これがまだ冬休みの延長のように思えたからだ。サクラと一緒なら小学生の頃のあのワクワクした気持ちをまた味わえるのではないかと思った。この誘拐の真相を知ってしまえば、ありきたりでつまらない現実に戻ってしまう。だから、タネ明かしを出来るだけ先延ばしにしたかった。
俺はここで誰かに助けを求めることも出来たはずだ。誘拐されたのだと公衆電話から通報することも出来たはずだ。だが、俺は、寒空の下でサクラを待った。風上で星を探しながらサクラを待っていた。
電話を終えたサクラが僕に気付いて駆け寄ってきた。
「先に戻ってくれて良かったのに」
「どのバスだったか、ちょっと自信が無かった」
俺の言葉は本当だったが、それだけではなかった。どうしてなのかは自分でも分からないが、サクラをひとりには出来ないと思った。バスに戻って、大きな欠伸をひとつ、それからまた目を閉じた。
日の出の頃に、バスは最終目的地に到着した。人生で初めての東北だった。
バスターミナルのトイレで顔を洗ってから、駅前で唯一開いていた喫茶店に入りモーニングを食べた。サクラはトースト、俺は和朝食を頼んだ。
「なあ、サクラ」
「ん?」
「アルデバランって何座?」
「牡牛座の一等星。紹廸は牡牛座だろ、憲法記念日の生まれだから」
「自分のじゃない星座が何月かまでよく知っているな。サクラは獅子座とか?」
「残念、違うよ」
「ヒント」
「一等星も二等星も無い星座だ、でも蟹座ではないよ」
サクラがくれたヒントは俺にとって何の役にも立たなかった。
「それじゃ分からん」
「僕は魚座だよ」
「魚座ってことは、最後だろ、冬の生まれ?」
「冬と春の隙間、春を待ちわびる日だ」
朝食を済ませてコンビニで歯ブラシを買った。またバスターミナルのトイレに戻って歯を磨いて、さて、これからどうするのかとサクラを見た。
「車で移動するよ、あれ」
あれ、とサクラが指したのは駅前駐車場の黒い車だった。
「何の計画も無しに誘拐をするような人間じゃないよ、僕は」
サクラはそう言った。誘拐犯であることは否定しないんだな、と俺は思った。
「そんなに念入りな計画を練ってきたのか」
「何せ、今日世界が滅ぶからね」
サクラの運転で俺はまた知らない場所へと連れられた。サクラはカーナビを設定しなかったので、目的地は分からなかった。車は市街地を抜けて山のほうへ向かっていた。徐々に道路脇の雪が増え始めた。サクラのことだから冬用タイヤなのだろうと思った。
「なぁ、サクラ。質問」
「どうぞ」
ラジオからはローカルのニュースと天気予報が流れていた。雪は降っても昼前には止むらしい。世界が滅ぶなんてニュースは無かった。そもそも、滅亡の予兆があればもっと問題になっているはずだ。だが、サクラは世界が滅ぶのだと、何の迷いも疑いも無く、そう言うのだ。
「俺を人質にすることと、世界が滅ぶことに、何の関係があるんだ」
「ん? そりゃあ、組織は民間人には手を出せないからね」
「組織? まさか反社会的なやつじゃないだろうな」
「あはは、そんなまさか。僕は比較的良心的な一市民だよ」
俺はシートを少し倒した。鈍い色の雲が空を覆っていた。そりゃ、いつかは世界も滅びるだろう。その日が今日であるとサクラはどうして確信しているのだろうか。なぜ、サクラだけが知っているのだろうか。組織というものと世界の終わりにはどんな関係があるのだろう。
「だけど、それなら別に人質は俺じゃなくても構わなかったんじゃないのか」
「んー、そう言われるとちょっと困るなぁ」
サクラは本当に困ったような声で言った。言葉通りに困ったのだろう。
「誰でも良かったわけじゃないよ」
「ということは、俺は人質に選ばれたってこと?」
「そうなるね、おめでとう」
めでたいことなのかはさておき、組織から逃げるために一般人の俺が必要だったということだろう。俺はそう解釈した。サクラの交友関係の中からなぜ俺が選ばれたのかはわからないが、俺は適度に好都合な存在だったのかもしれない。
「サクラ、お前、何したの」
「何って?」
「何かをやらかしたから組織に追われているんじゃないのか」
「うーん」
サクラの横顔が少し笑っていた。
「まだ何もしていないよ。今から行くの」
楽しそうにも見えたし、どこか、苦しそうにも見えた。いよいよ本当に、どうしてサクラが俺を人質に選んだのか分からなくなった。
「行くって、どこに」
「世界の終わりの向こう側」
サクラは笑ってそう言った。あるいは、寂しそうだったのかもしれないと、後になって思い当たった。
道の駅に寄った。駐車場の隅に除雪された雪が積まれていた。
「ここが最後の休憩だから」
車から降りようとして、あまりの寒さに開けたドアをすぐに閉めた。
「どうした?」
「寒い、ありえないくらい寒い。凍死する」
忘れていたよ、とのんびり言って、サクラは先に車を降りた。どうするのかと見ていたら、トランクを開けて、大きな紙袋を取り出した。その紙袋を持って助手席のドアを開けた。
「はい、防御力アップだ」
そう言ったサクラはまたトランクのほうに戻っていった。俺は渡された紙袋を開けた。パーカー、フリース、手袋、帽子、スノーシューズ。ずっしりとした紙袋からは防寒具が出てきた。俺はスノーシューズの底を見た。二十七。俺の靴のサイズと同じだった。偶然か、それとも必然か。
「ズボンの下に防寒のインナーは要る?」
サクラの声に俺は慌ててスノーシューズを履いた。ぴったりだった。
「いや、要らなさそう」
スーツの上にフリースを着て、さらにパーカーを羽織る。スキーと言うよりも、雪山へ登山に行くような格好だった。スーツのスラックスだけがアンバランスで浮いていた。
トイレを済ませて、売店を見て回った。気の良いおばさんがつきたての餅をくれた。俺とサクラはお汁粉を買って、静かに降り積もる雪を眺めながら食べた。
「今更だけどさ」
温かいものを食べて、サクラの鼻の頭が赤くなっていた。
「紹廸は逃げなくて良かったの?」
サクラは俺を見て尋ねた。その目が不安そうに揺れていたから、俺はサクラの望む答えを返そうと思った。
「逃げる理由も思い付かないし。何より、ここで逃げたら、ひとりになるだろ、俺が」
俺の返事にサクラは何も言わず、雪に目を遣った。ひとりになるのはサクラも同じだろうけれど、俺はひとりになりたくなかったし、俺が、ひとりにしたくはなかった。
サクラがタイヤのチェーンを装着している間に、俺はここまでの道程を思い返していた。十八年来の文通相手を連れ出して、夜行バスに乗って、用意していた車でドライブして、防寒具も準備して。たとえばこれから自殺をするのならば、手が込みすぎている。もっと簡単で楽に自殺する方法なんて幾らでもあるだろうし、心中相手だって、ネットで募ればすぐに見付かる時代だ。
紹廸が一緒に来てくれると助かる。サクラはそう言った。信号待ちの交差点で、消え入りそうなほど弱々しい声で、真意を悟られまいと俺の目を見ずに、サクラは確かにそう言った。誰でも良かったわけじゃないと言った。俺じゃなければ駄目な理由があるはずだ。
俺じゃなきゃ駄目ならば、俺が一緒に行くしかない。行くっきゃないだろう、サクラと一緒に。これはまだ俺たちの放課後だ。あの日々の続きだ。
道の駅に別れを告げて、俺たちはどんどん山の中に入っていった。
山道を進む。道路には轍が無い。すれ違う車も無い。俺たちふたりだけがこの世界に居るようだった。時々、ラジオが乱れていた。途中、うたた寝をした。夢を見た気がするけれど、思い出せなかった。時計を見ると昼前だった。世界が滅ぶのは今日らしいが、滅亡は昼過ぎだろうか、それとも夜だろうか。天気予報の通り、雪は止んでいた。
広い場所に出た。雪に埋もれた看板は、登山道と書いてあるのが辛うじて読めた。どうやら登山客用の駐車場らしい。夏には多くの登山客が訪れるのだろうが、この雪では誰の姿も無かった。サクラは車を止めた。
「ちょっと歩くよ」
サクラが車を降りたので俺もそれに続いた。サクラは雪山に慣れているようで、迷わずに進んでいく。不慣れな俺はその足跡を辿った。サクラの足は俺よりも小さかった。
登山道を進んでいるつもりが、いつのまにか道を外れているようだった。流石に俺はサクラを呼び止めた。
「サクラ」
サクラは振り向いた。首に巻いた赤いマフラーは白い世界で目印になった。
「道、これで良いのか?」
「合っているよ、大丈夫。何度も歩いた道だから」
そう答えるとサクラはまた進み始めた。サクラは一体何のためにこんな山奥まで何度も通ったのだろう。これからサクラを追ってくる組織とどんな関係があるのだろう。俺はサクラのことを何も知らなかった。だが、知ってしまうことを心の奥底で恐れていた。
完成してしまえば終わるのだ。誰にでも心を開いているようでいて、けれども本当のところは謎ばかりのミステリアスなところに憧れていた。敵か味方か物語の終盤まで分からないキャラクターのようで格好良かったからだ。サクラのことが分かってしまったら、あの鮮やかな思い出まで変わってしまうような気がして怖かった。
雪山は静かだった。風もほとんど無く、動物の気配も無い。あまりにも静かで、本当はもう世界が滅んでいて、俺たちふたりだけが生き残っていると言われても、それはそれで現実のように感じられた。けれども、これから世界が滅亡することに対しての現実味が増すわけではなかった。
「この先だよ、紹廸」
サクラの指し示す先に洞窟がポッカリと口を開けていた。
「はい、懐中電灯」
差し出された懐中電灯を受け取った。
「大丈夫なのか、クマの巣穴だったりしないか?」
「冬眠中だよ、クマもコウモリも。出会っても刺激しなければ平気」
サクラに続いて洞窟の中をしばらく進むと、ここが鍾乳洞だと分かった。そして、そこに人工的な道が続いていることにも気が付いた。かつては防空壕だったのだろうか。それにしては人里から離れすぎているようにも思えた。懐中電灯で周りを照らしてみても、この鍾乳洞がどれほどの大きさなのか把握出来なかった。
「紹廸はさ、人質が自分じゃなくても良かったんじゃないかって僕に聞いたよね」
冷たい鍾乳洞でサクラの声が静かに反響した。
「誰でも良かったわけじゃないってサクラは答えただろう」
「うん、誰でも良かったわけじゃない。紹廸じゃなきゃ駄目だった」
道は少しずつ下へ、下へと続く階段になっていた。
「紹廸さ、僕の手紙に返事をくれただろ?」
「そんなの、みんな出したんじゃないのか」
「ずっと返事を書き続けてくれたのは紹廸だけだったよ。僕の名前が何度変わっても、住所が何度変わっても、紹廸は手紙を送ってくれた」
「それだけの理由?」
「そう、それだけ。完全で、完璧で、馬鹿みたいな理由だろ。でも、それだけが、僕にとってのすべてだ」
道の先は行き止まりだった。サクラは足を止めた。
「どの世界でも紹廸だけは変わらずにいてくれたから」
サクラは壁に手を当てた。よく見ると、そこには暗証番号を入力する電子キーが取り付けられていた。俺は懐中電灯で周囲を照らした。明らかに新しい人工的な空間だった。
ゴゴゴ、と音を立てて行き止まりの壁が動いた。開いた壁の先にまだ階段が続いていた。サクラが進んだ。この先がどうなっているのか不安だったが、ここに置いていかれるのも嫌だったので、サクラを追った。階段を降りて、降りて、ようやく下まで辿り着いた。そこには頑丈そうな扉があった。ホイールのハンドルが付いた金属製の扉だったから、その扉の先がとても重要で、そして安全な場所だということが分かった。
「紹廸に謝らなきゃいけないことがあるんだ」
「誘拐したこと?」
「それもそうなんだけど」
サクラはハンドルを回して扉を開けた。次の瞬間、サイレンが響き渡った。辺りが赤く点滅する。
「何、何だよ?」
「ああ、これのせいで組織が追いかけてくるんだよ。でも、他の警報は切ったけれど、この警報だけは切れなくてさ、通電しているって証拠だから」
慌てる俺とは対照的にサクラは冷静で余裕そうだった。扉の先は、意外にも小さな部屋だった。四畳半もないだろう。その小さな部屋の真ん中に大きな箱があった。棺のように見えた。
「はい、これ。餞別」
サクラは俺に自分の赤いマフラーを握らせた。俺はサクラとマフラーを交互に見た。
「ほら、入って」
「入るって?」
背中を押されて俺は箱の前に立った。それで、分かった。この箱、棺、いや、機械が何なのか。映画で観たことがある。
「これって……コールドスリープ?」
「うん、そんな感じだね、クライオニクス」
「……つまり俺は、今から冷凍保存されるということか」
「どうしてって顔をしているけれど、それは僕が最初に言っただろう。明日世界が滅ぶからって」
そう言い終わるより先に、サクラは俺の足を掬って無理矢理に俺を箱の中に入れた。
「サクラ! お前!」
「だって、誰かがスイッチを押さなきゃいけないだろう。運が良ければまた会えるよ」
サクラが箱のフタを閉じた。本当に棺桶に入れられたみたいだった。顔の上の部分だけがガラス張りになっていた。サクラが俺を見ていた。俺はフタを殴り、壁を蹴ったが、もうどうにもならなかった。
ばいばい、紹廸。
サクラがそう告げたのが分かった。
ああ、だから。一緒に来てくれると助かるなんて言ったのか、サクラ。お前じゃなくて俺が助かるために。
薄れる意識の中で、サクラが笑っているのを見た。寂しそうな、泣きそうな、それでいて、これ以上はないほどに満たされた笑顔だった。
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