fall into a hole

不可逆性FIG

e__i___e____n.

 つまりは永遠ってこういう瞬間なのだ、と私はサイダーで喉を潤した。

 そよ風に波打つ雑草の緑。柔らかな日差し。水彩画のような青空。小鳥のさえずり。学校をサボった日の正午。そして、私の生まれる前から在った謎の大穴の端で両足をブラブラさせて退屈を満喫している時間。

「静かだなー」

 喧騒のない周囲一帯に、あくびをひとつ漏らす。真昼時にも関わらず、まるで夜を煮詰めたような闇が目の前にぽっかりと広がる大穴を隙間なく支配していた。私以外誰も居ないのはここが恐ろしいからではない。もはや、この町の住人は大穴のある日常に見慣れすぎて誰も興味を持っていないのだ。

 だからこその静寂。

 まあ一応、町役場で立入禁止の区域に指定されてフェンスのバリケードなんかが張り巡らされたのだけど、そんな工事さえもう十年前以上も昔のことである。よって風雨に晒され続けたフェンスはとっくに茶色く錆びついていて、少しの衝撃を加えればぼろぼろと崩れて侵入経路に容易く早変わり。

 日々、感情もなく循環する曖昧な現実から少しだけ距離を置きたい気分になったら、学校の最寄り駅を寝たフリで通り過ぎて、さらに電車で二駅。一人になりたいときには重宝する忘れ去られた聖域なのである。


*****


「三月って繰り返されないものが立て続けにあるから苦手なんだよね」

 放課後の世界は特別だった。誰も居なくなった教室から眺めるグラウンドのうねり。リノリウムの床に乱反射する夕陽と半透明な未来。下駄箱に降り積もった沈黙を洗うように吹き抜ける下校メロディ。

 それから、寝ても覚めても変わらない日常。金魚鉢を回遊しているような焦燥。イヤホンから流れるカラフルな嘘と本当。

 私が生きる世界はフィクションだらけでとても小さいくせに、さらに小さなスマホの画面の向こうには呆れるほど果てしない世界が繋がっている。画面越しには千里眼のようにどこまでだって見渡せるのに、触れられるものはこの短い腕の長さの分だけ。どんなに振り回したって何も触れないのだ。唯一、触れるのは魔法と科学で作られた「世界を覗く黒い窓ディスプレイ」それだけである。


 オレンジに染まった空はゾッとするほど美しかった。不確かなものだらけで満たされた空っぽの教室。足元から奇妙に伸びる私の黒い影。夕方、五時を告げる物悲しいメロディ。

 私は制服のスカートを翻して、教室を後にする。きっと先生は毎日違うことを教卓から喋っている。だけど、何を聞いても同じに聞こえるのは世界がループしてるから? ──いや、そんなことはなくて、単純にこれは私の問題。窓際の席は希望とか絶望とかの破片が常に降り注いできて、つい空の彼方を眺めてしまうのだ。先生の話がつまらないとかじゃないよ、たぶん。

 廊下、階段、下駄箱、上履き、校門、横断歩道と車の往来。

 帰り道、今日は誰かに何かを尋ねられるのかな。不思議なことに私は困っている他人からよく何かを尋ねられる。目的地までの行き方、この電車の終点まであと何駅、お姉さん綺麗な髪してるからカットモデルやりませんか、まあこれはナンパだけど……ああ、そうだ。

 あとは、今日って何月何日ですか、とか。


*****


 気付いたら、今日も謎の大穴のへりに座っていた。

 学校は……サボった。いや、そんな能動的な言い方は良くない。これも、気付いたらサボっていたというほうが自然だった。私の日々は受動的である。こんな私と一緒にされるのは、サボる意志を持ってサボった人にきっと失礼だろう。

 太陽はまだ高く、空は青くて眩しい。そこには何もないという確かな情報に私は安心する。そのついでに口元を覆っていたマスクを外した。ああ、なんて開放感。

 全てのものに因果はあるだなんて私は信じない、信じたくない。祈り、願い、呪い、だけど明確な何かに捧げていないから、きっとそこら辺の道端に転がってると思う。頬にそよ風が当たる。緑の香りを乗せて、昨日ぶたれた私の頬を優しく撫でる。

「信じられる何かがあれば、迷子じゃなくなるかなあ」

 因果を信じれば、私は悪い子になる。何に対して悪いのかといえば、それは親が思い描く「子供」というカタチからはみ出たこと。昨日の記憶と微睡みで思考がぐるぐる空転する。うつら、うつら──。

「あ……」

 マスクを落とした、大穴に。ひらり、と舞いながら闇の底に消えていく。真っ白だから米粒みたいになっても最後まで目で追うことができた。さよならと言うべきなのか迷ったけど、別に喪失感は無かったから声には出さないでおく。

 まだ少し肌寒い三月の風が指先を冷やす。苛立ちを鎮火するために覚えた深呼吸。届かない祈りが散らばったのどかな午後の白昼夢。

 目を閉じて息を吸って、胸が上下する感覚だけを頼りに空を仰ぎ、目を開く。

 はらり、と何かが舞い落ちてきた。逆光でよくわからなかったけど、色とりどりの小さな花びらと誰かの答案用紙だった。そして、私のすぐそばで静かに着地する。

「一年A組の藍川……誰だろう。でもなんで空から……変なの」

 拾い上げてその答案用紙を確認すると、びっくりするくらい赤丸の数が少なかった。これは、きっとどこかの藍川さんがこの大穴に答案を捨てたのだろうか。もしかしたら、この花びらもそのときにはなむけとして撒かれたものなのかな。

「まあいいや」

 そのまま私は酷い点数だった藍川さんの答案用紙を、またしても大穴へと落とす。ひらり──そよ風に舞って暗闇の奥深くに消えていった。今度は言ってみる「さよなら」と。誰かの後悔と秘密を守った私はきっと偉い。

 トサリ。

 今度は質量を持った何かが傍らに落っこちてきた。なんだかこの不思議な現象に面白くなってきた私はそれも手にとって見る。楕円形の球体……これは……。

「うへぇ」

 いわゆるオトナのおもちゃだった。紐の先のスイッチをなんとなく入れてみると、ピンク色がウィンウィン動き出した。なんかよくわからないけど、なんとなく妙に嫌な気持ちになったので反射的に大穴に投げ捨てる。ウィンウィンしながら楕円形は遥か暗闇の底に落下していく。


 それからも、大穴に何かを投げ入れるたび私の傍らに何かが落ちてきた。

 高級そうなマニキュアの瓶。

 折り目だらけの文庫本。

 すすけた写真立て。

 コスプレうさ耳。

 黒い柄の筆。

 睡眠薬。

 ・

 ・

 ・


 色んなものが捨てては降ってくる。

 どれも誰かの大切なもののようで、大して意味のないものにも見えるモノだ。私はこの無意味な循環を退屈しのぎに何度か繰り返した。ああ、そうだ。試しに私物を追加で投げ入れてみようか。とくに理由もなく、そのときの衝動でカバンに付けていた天使を模したキャラクターのキーホルダーを外して投げ入れた。放物線を描いて一緒に落としたのは、造花を包んだ白いウェディングブーケ。

 ひゅるるる、と垂直に落ちていく誰かの想いと、私の思い出。たしか友達とお揃いで買ったキーホルダーだったっけ、まあいいか。もうアノ子もカバンに付けてなかったし。

「意外と思い出があったな」

 あはは、と無意味に笑ってみる。なんだか虚しさだけが残った。あんな安いキーホルダーでも失くすと少し切なくなった。


 そろそろ日が暮れる。まだ空は青いけど、もう少しでオレンジ色に染まるような気配。もうこの遊びはお終い。きっと大穴に落とした色んな人の想いが飽和状態だったのだろう。だから、何かが零れ落ちる。空から戻ってくる原理は、よくわからないけど。

 今度は何が落ちて──。

 ひゅるるる、と音を立てて、バチン! と地面に激突する何か大きなモノ。今までで一番大きいものが降ってきた。

「え、人間じゃん」

 人が降ってきた。死体だったら困るなあ、とか思ってたけれどその人間──ビジネススーツを来た堅物そうな七三分けのおじさんは顔面にかすり傷をいくつも付けながら、何事も無かったかのようにムクリと起き上がる。土埃をササッと払い落とし、周囲を見渡していると当然のように近くに座っていた私と目が合う。目が合ってしまう。

「失礼、お嬢さん。少々お尋ねしたいのですが、今日は何月何日でしょうか」

「え? ああ、ええと……三月×日です」

「ほう、なるほど、もう三月ですか。光陰矢の如し、歳は取りたくないものですな」

 おじさんは遠くの空をじっと眺める。なにか感傷的な溜息を吐いて、小鳥のさえずりだけが沈黙の隙間を埋めている穏やかな時間が過ぎていった。


 それからしばらくの間、空から降ってきたおじさんと私は少しずつ暮れていく空を会話もなく瞳にただ映していた。青空から黄色、そして茜色に染まりつつある風景に包まれながら、おじさんは小さく「さてと」と呟く。

「ずいぶん長居をしてしまったようです。お嬢さん、私は行くよ。落下点と着地点の座標ズレを修正しなければ」

「あの、おじさん」

「ん、何かね?」

 訊きたいことは山のようにあった。それこそ、この大穴に関すること全て。なぜだろう、このおじさんはその全てを知っている気がする。タイムトラベラー、宇宙人、それとも神様。どれも正解のようで、どれも正解からは遠そうだった。現実と非現実。日常と境界線。永遠と明後日。聖域と白昼夢。

 でも、私はそれを訊いて何を思うのだろう。繰り返される日々から逃避した私に「答え」は今、必要なのかそれすらわからない。大穴を見つめながら、次の言葉を探す。──そして、ふと見つかる。

「顔、大丈夫? 絆創膏もってるからあげる」

「そういえば顔が痛いと思っていました。なるほど、怪我してたとは……お嬢さんに言われるまで、そんなことにさえ気が付きませんでしたよ」

「はい、どーぞ。これ今、流行ってる猫のゆるキャラ付き絆創膏、可愛いでしょ」

「すまないね。それにしても、こんな見ず知らずのおじさんを気遣ってくれるだなんて、君は心の優しいお嬢さんだ、ありがとう。──もうすぐ日が暮れる、君もそろそろ帰ったほうがいい、それでは私は先に」

 そう言って一礼すると、おじさんはスーツのネクタイをキュッと締めて大穴から街の方面へと歩いて去っていく。


 夕暮れの大穴に残された私。

 再びの静寂が辺りを支配する。聞こえるのは、そよ風に揺れる雑草のさざなみだけ。大穴に落としてしまった私のマスクから、巡り巡って人間を大穴からこぼれ落とした。よくわからない妄想のような現実。でも、世界って案外そういうもの。思ったより雑に出来ている。だから、希死念慮さえも曖昧でいい。

「……なんだ、落ちても死ねないのね」

 ふいに私がそう声に出した瞬間。不思議なことに涙が一筋、頬を伝って流れ落ちた。今までどんなに死ぬことを考えていても、涙なんか一粒を出なかったくせに。

 冗談のような出来事によって目の前の世界から死の気配が否定された。

 ずびっと鼻をすすり、私は大穴のへりから立ち上がる。どうしてかわからないが、「ありがとう」と言ったおじさんの言葉が頭の奥に何度もリフレインしていた。優しくしたら、優しくされた。そんなシンプルなことが心に沁み込んでいった。私に足りなかった何かが満たされていった、そんな些細な一言によって。

 つまりは永遠ってこういう瞬間なのだ。心にどうしようもなく焼き付いてしまった、風景、音、温度、手触り、匂い、声、言葉、祈り、それと、もしかしたら救い。

 もうすぐ夕陽が沈んで夜の帳が下りる。その前に私はここから出よう。だって、おじさんが心配してくれたから。

 世界が終わらないなら、私だけが終わればいい。そう思っていた。だって、この街には死がぽっかりと口を開けて存在しているのだから。──そう思っていたのに、この深い暗闇の底のどこにも死は無かったのである。

「ばーかばーか、ふぁーっく!」

 強めの悪口を空に放り投げた。そうしたら、不思議と心が軽くなった。溢れた涙は乾いていた。

 私は制服のスカートに付いた土埃を払う。どこかで耳にしたような適当なメロディを鼻歌に乗せて、帰り道を歩き続ける。立入禁止の看板と錆び付いてボロボロの金網をくぐり抜ける。痛みの引いた頬に三月の風がすり抜けていく。送電線から伸びる五線譜が街へと繋がっている。


 そうして、世界と少しだけ許し合えたような気がした私は、ハリボテだった永遠を謎の大穴の片隅に置いていくことにした。

 三月の夜風はやっぱり冷たい。

 家も、学校も、自分も、諦めるのはまだ早いかなって踏みとどまった。町外れに謎の大穴があるように、空からいきなりおじさんが降ってくるように、世界の輪郭が曖昧なままでも許されているなら、私の姿だってきっとまだ曖昧で、ぼやけて映っているに違いないから。

 そういう時間を拾い集めて、永遠は紡がれていくのかもしれない。きっとまた明日も半透明の未来を、木漏れ日の隙間から見上げている。淡い空想に微睡む、そんな日々だ。



〈了〉

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