を初めて目にした時、何を思ったかなど覚えていない。


 ただ、いけ好かない。


 初めて顔を合わせた瞬間から今に至るまでずっと、その認識が変わっていないという覚えがあるばかりだ。


「……ようやく来たか」


 エルランテ使節団に割り当てられた迎賓棟のほど近く。


 の認識にギリギリ入るか否かという場所で、何をするわけでもなく本性に立ち戻ったままたたずんでいたリーヒは、目の前の闇の中からにじみ出るように現れた男に小さく言葉をこぼした。


 そんなリーヒの声を耳ざとく拾っているのか、男は分かりやすく表情に険を載せる。リーヒをめ付ける視線はどこか気だるげでもあった。今まで取り繕ったように浮かべていた澄まし顔よりも見慣れている分、こっちの方が見ていて幾分か気分はマシだ。


「人をおとなうには、礼儀がなっていない時間なんじゃないか?」


 闇の中から現れたラグニルは、険よりも気だるさが前面に出た声を投げてきた。取り繕うことをやめた素の声音に、リーヒは皮肉を込めた笑みをもって答える。


「我々の感覚で言えば、訪問にはちょうど良い刻限だと思うが?」


 そんなリーヒの言葉に、ラグニルは言葉では答えなかった。ただピクリと、片方の眉がわざとらしいほどに跳ね上げられる。


「端的に言おう」


 言葉でも仕草でも、ラグニルは不用意に踏み込んでこようとはしない。その様は慎重に間合いを測っているようにも、リーヒの様子をうかがっているようにも、……この瞬間を引き伸ばしているようにも感じられる。


 だからこそ、リーヒはその意味のない駆け引きを自らが踏み込むことで終わらせた。


「お前達の目的は何だ」


 単刀直入な言葉の真意は、きちんとラグニルに届いている。


 その証拠に、ラグニルは口を閉ざしたままスッと瞳をすがめた。


「ヨルはお前達がヨルへ向ける執着を『リーヒを同じ土俵に引きずり下ろすため』と推測したようだが。私はそれだけが理由だとは思えない」


 どうせラグニルが積極的に口を開くことはない。


 それも分かっているリーヒは、無駄な時間を省略するために淡々と考えを口にしていく。


「お前達が表に見せている理由付けは全て建前だ。お前達の真の奪取目標物は自身。そのためにわざわざ大公姫に付き従い、世間に姿をさらしてまでこの地にやってきた。違うか?」


 案の定、ラグニルがリーヒの言葉に答えることはなかった。


 ただわずかに狭められ、赤みを増した瞳が、リーヒの言葉を全面的に肯定している。


「お前が懐いたというあの女も、言葉で言うほど愚かではあるまい」


 そしてラグニル自身も決して愚かな男ではない。言葉でどれだけなじろうとも、理性の部分ではリーヒもそれを理解している。


 同じ『四大公爵ヘアツォーク』とはいえ、序列も格もリーヒの方が高い。そのリーヒの領地に無断で踏み込み、『花嫁』に手を出す。その愚行とそこから生まれる余波を十分に理解した上で、ラグニルは今リーヒと対峙している。


『常識』と、公爵としての責務や立場。それらと今回の目的を天秤にかけた結果、ラグニルは今回の目的を取ったということだ。最悪の場合、ラグニルは『黄昏アーベント』と『深更ミッターナハト』の間で戦争が起きても構わないとまで思っているのかもしれない。


 その判断はリーヒから見ても破滅的で、到底理解が及ぶことではない。


 だがラグニルは現にその選択の果てにここにいる。その部分を否定していても話が進まない。


 だから仕方なくリーヒは『そういうものなのだ』とことにした。


「お前達は、どうやらヨル自身に用事があるらしいな」


 だが『理解してやる』ことと『許容してやる』ことは別物だ。


「その『用事』とやらの詳細を聞いてやろう」


 聞いた上で、叩き潰す。


 言葉にせずとも、ラグニルはそこまで理解が及んでいるのだろう。身を包む空気はどこまでも気だるげであるのに、その奥に確かな殺気が宿ったことが肌感覚で分かる。


「……正確に言うならば、ヨル・ネーデルハウトでなくてもいい。こちらが求めているのは、あくまで器としての『砂金』だ」


 リーヒは無意識のうちに右手を左腰のサーベルのつかにかけていた。その仕草を見たラグニルは、何もない闇の中へ軽く両手を振り抜く。


「ならば別の『砂金』候補でも見つけてこればいいだろう」

は器として規格外だ」


 再びダラリと両側に垂らされたラグニルの手には、気品のある容姿には不釣り合いな大振りのナイフが握られていた。


 その両の得物が数多の魔物の血を吸ってきたことを、……何ならかつてリーヒ自身の血さえ吸ったことがあるということを、リーヒは三百年の時が経った今もきちんと覚えている。


「蛇殺しの儀式を乗り越え、『黄昏の公爵アーベント』と血の契約まで交わした器。その大きさと強固さに匹敵する器を他に見つけることは難しい」


 ヒトであった時代から振るい続けてきた凶器を、ラグニルは真っ直ぐにリーヒへ向けた。


 その強さのせいで先代に目をつけられ、ヒトとしての生を失うことになった原因。その果てに己が忌み嫌っていた存在達の頂点に立つことになった皮肉。


 その象徴とも言える凶刃を今なお迷いなく振るい続ける青年へ、リーヒは冷めた視線を向け続ける。


「お前がまどろっこしい話は嫌いだと言うならばちょうどいい。お前を消せば、あれの奪取もたやすいからな」

「身の程をわきまえろ、小僧」


 そんなリーヒの背後でゾワリと影がうごめいた。具体的な質感を得た影は、リーヒが静かに醸造する殺意を吸い上げ、主の忠実な下僕しもべとしてリーヒの下命を今か今かと待ちわびている。


「誰に向かって口をきいているのか、お前は理解できているのか?」

「お前こそ」


 重力を歪ませるような圧が場にのしかかる。


 だが誰もがひれ伏す圧を前にしてラグニルが浮かべたのは、心底リーヒを馬鹿にした冷笑だった。


「三百年前、吸血鬼になって数日ってところだった俺に右腕を斬り飛ばされて瀕死の重傷を負ったこと、まさか忘れたわけじゃないだろうな?」


 その言葉に、リーヒは答えない。


 それよりも早く、影がラグニルに向かって雪崩打つように襲いかかる。だがラグニルは両の刃でその襲撃を軽やかにさばききった。さらには深く体を沈めた踏み込みでリーヒの間合いへ肉薄する。


 ラグニルの斬撃を、リーヒはサーベルを抜くことで受け止めた。


 サーベルとナイフの刃が競り合う先にある瞳は、いつの間にか冷めたまま深い赤に染まっている。己よりも色が暗い、それこそ乾きかけた血を思わせる瞳からは感情らしい感情が欠落していた。


 これがこの男の本質だと、リーヒは思う。


 たとえヒトであった時代に領主に奉じられていようとも。吸血鬼に転化してからは『四大公爵ヘアツォーク』の末席に叙されていても。


 これの本質が魔物の狩人であり暗殺者であることに変わりはない。


 ──けがらわしい。


 その在り方からして、とリーヒは相容れない。相容れることなど、未来永劫あり得ない。


 一瞬の邂逅でそれだけのことを考えながら、リーヒはサーベルを振り抜いてラグニルを弾き飛ばす。そこに間髪をれずに影を叩き込むが、ラグニルは獣のような俊敏さでその攻撃を全てかわしきった。


 そのことを視界で確かめるよりも早く追撃の影を繰り出しながら、リーヒは密かに舌打ちをする。


 ──このままではらちが明かん。


 ラグニルの存在が気に入らないリーヒだが、その強さは理解できている。能力だけで比べれば恐れることはないが、ラグニル自身に由来する武力は厄介だ。


 あれは最悪、手にした刃だけでリーヒを殺せる。リーヒが個として存在を把握している中で、唯一そんな所業を成せると認めざるを得ない実力を持った存在だ。


 ──この場で勝敗を決する必要性はないわけだが。


 ここで引き下がるのは面白くない。


「……?」


 そんなことを考えた瞬間、だった。


 認識の端に慣れ親しんだ気配が引っかかったような気がしたリーヒは、無意識のうちにそちらへ意識を向ける。


「っ!?」


 さらにリーヒは反射的にその場所から影を引いていた。


 その瞬間、影が撤退したことで開いた空間を、自分も知っているがはね飛ばされるように転がっていく。


「お楽しみのところ、邪魔をしてごめんなさいね」


 そのが迎賓棟の中に潜入していたはずである己の部下二人であることに気付いたリーヒは、思わず二人が投げ飛ばされてきた方向へ視線を投げた。


 その瞬間カロンッと、この国ではまず聞かない足音が闇の中に響き渡る。


「ラグニル、交代してくださらないかしら?」


 鈴を振るような声とともに、青い燐光が闇に散る。その光の下を極東の民族衣装を着た少女が進み出てくる様は、幻想的であるとも言えた。


 そう、こんな状況でなければリーヒでさえ素直にそう思えたほどに、『詠人不知ナーメンローゼ』の名で呼称される少女は残酷なまでに美しい。


「お嬢……!」


 その光景に我に返るのは、リーヒよりもラグニルの方が早かった。


 その場を動かないまま少女へ顔を向けたラグニルは、血の気の引いた顔で悲鳴のような声を上げる。


「何で……っ!?」

「出ない方がいいということは、もちろん分かっておりますわ。だけども」


 それ、と、少女は己が投げ飛ばしたモノを指し示した。


 その先ではロゼとヴォルフが倒れ込んでいた。地面に投げ出され、数度叩きつけられた後に今の場所で動きを止めた二人は、咳き込みながらも必死に立ち上がろうと藻掻いている。


「わたくしのところへいらっしゃったお客様達は、わたくしがお相手をするには脆弱すぎますわ」


 うっかり存在ごと消し飛ばしてしまいそうで、恐ろしいの。


 そんなことを平然とのたまった少女は、次いでニコリとラグニルへ笑みかけた。


「そちらの公爵ならば、


 まるで花が咲きほころぶかのように。


 虫の一匹さえ殺せなさそうな柔らかさで。風に吹かれれば折れてしまいそうな儚さとともに。


 可憐でたおやかな少女が、無垢で無邪気で害意を感じさせない笑みを浮かべたまま、鈴を転がすような声音で。


 まるで神のように不遜な言葉を、ごく当然のことを口にするかのように声に出す。


「あの子達に虐殺を禁じておきながら、わたくし当人がうっかりで殺してしまっては面目が立ちませんもの」


 同時に少女は優雅に前へ進み出た。


 その足元に躍る影は今宵の闇よりも深い。闇に触れたモノは瞬きの間に闇に巻かれ、次の瞬間には少女を彩る青い燐光へと姿を変える。


「だから、貴方あなたにはこちらの二人のお相手をしてもらいたいの」


 ──何だ、あれは。


 その光景の異様さに気付いた瞬間、リーヒの背筋をゾクリと悪寒が撫で上げていた。


 リーヒの力は影そのものを支配する。少女の周囲に起きている現象も、一見すると似たような力のように思える。


 だが、違う。あれは根本的にリーヒの能力とは次元が異なる力だ。


 ──あれは……


「それに、『直接話をする』という意味では、わたくしが出た方が話が早いと思わなくて?」


 リーヒが見つめる先で、少女は足を止めた。


 その瞬間、少女の顔に浮かぶ笑みが種類を変える。


「お嬢」

「大丈夫」


 すかさずラグニルの静止の声が飛ぶ。


 だが少女は止まらない。発言が問いかけや提案の形を取っていても、恐らく彼女の中で『担当交代』はすでに決定事項なのだろう。


「きちんと小回りは効かせますわ」


 その証拠に、少女は闇の中へフワリと手を差し伸べると己の得物を抜いた。


「っ!?」


 たったそれだけで、場にかかる圧が変わる。


 世界が少女を中心にことわりを組み替える。


 少女がそのを召喚した瞬間、比喩ではなく現実にそれらが起きた。


「女狐に叱られるよりも早く終わらせましょう」


 己の背丈よりも長大な漆黒の大鎌を振り抜き、周囲と自身の瞳の中に青い燐光を散らしながら、少女は好戦的に微笑んだ。


「これで王手シャッハマットですわ、『黄昏の公爵アーベント』」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る