【Herzog】

 深い闇の中に、青い燐光が舞っていた。


 その光が窓の外に視線を置いた主からこぼれ落ちているのを見て取ったラグニルは、主が身を置く静寂を乱さないようにそっとささやく。


「お嬢、もう休まないと」


 ラグニルの苦言を受けても、主は反応を示さない。それを『間接的な否』と受け取ったラグニルは、わずかに語気を強めると言葉を続けた。


「現場はあいつらに任せたんだろ」

ミヤが交戦しておりますわ」


 ポツリと、主は言葉をこぼす。だがそれはラグニルに答えるものではない。視線も依然、窓の外に置かれたままだ。


 小さく溜め息をこぼしたラグニルは、仕方なく主の『雑談』に付き合うことにした。


「今のお嬢の姿を見ていれば分かる」


 この燐光は、主の力の具現だ。主が力を振るっていないのに燐光が舞うならば、誰かが主に代わって主から借り受けた力を振るっているということになる。


 ──とはいえ、ミヤがお嬢の力を術の動力源に使うなんて。


 ミヤはサノとともに、主が幼い頃から守役として主に仕えてきたと聞いている。


 物心つく前に実の両親を失ったという主にとって、ミヤとサノは臣下であると同時に父母に等しい存在だ。ミヤとサノも主のことを実の娘同然に思って仕えている。


 そんなミヤがこの状況で主を呪力の供給源に使わざるを得ないとは、中々に戦況は厳しいようだ。


 ──生国を落ち延びることになったお嬢に、唯一従った二人……か。


 主が生きたままエルランテに辿り着けたのは、二人の尽力のおかげだという話だ。実際、ミヤはお嬢を生かすために禁術に手を染め、サノは二人を生かすために命を捨てている。


「状況があまりにもミヤに不利ですわ」

「現場は大教会の中か。とすると相手は」

「あの祓魔師……アッシュ・キルヒライトと言ったかしら?」

「だが俺達の中で術を振るう者を相手取れるのは、ミヤかお嬢だけだ」


 そして今の主を前線に出すことはできない。


 ラグニルはその言葉を飲み込むと、そっと主の横顔を観察した。


 エゼリア皇宮に入ってから、主の顔色は悪くなる一方だ。大きく力を振るったせいもあるのだろうが、原因はそれだけではないだろう。


 ──『神』は奉じられた土地を長くは離れられない、だったか。


 ここは主を奉じる土地ではない。主を奉じる者が傍にはいるが、それだけでは主の器を支えるには足りないだろう。


 神は、神を奉じる土地とやしろ、神を奉じる民が揃って、初めて存在を安定させられる。


 安定を失った神は、もはや『神』とは呼べない。ただの『災禍』だ。


「ここはわたくしを奉じる土地から遠く離れた場所。ただでさえ普段のように術を振るうことは難しい状況ですわ。それが大教会の中ともなれば、ミヤに従う要素そのものが少ない」


 だからミヤは身近な力の供給源として主の力を引いてくるしかなかった。主はそう言いたいのだろう。


「それが分かっているなら、少しでも体を休めて力を養わないと」


 ミヤを責めるつもりなど、最初からラグニルにはない。体調が良くない主に追い打ちをかけるような真似など、ミヤ自身が一番したくないはずだ。そこはラグニルにも分かっている。


 現にミヤはこの迎賓棟に展開していた結界を、周囲を巡る力と皇宮に張り巡らされた術式を利用することで展開していた。


 サノが顔色を変えるくらいミヤが身を削って結界を展開していたのは、何も自分達の存在を周囲から秘匿するためだけではない。長期戦を見据えて、少しでも主の体調悪化を食い止めるべく、あの結界は展開されていたのだ。


「……クロネが焼いてくれるチーズケーキが恋しいの」


 主を休ませるべく、ラグニルは話題を引き戻す。


 だが主からこぼれた言葉は、またラグニルに答えるものではなかった。


「ラズとベルは寂しがっていないかしら? カメロ達に頼んだ任務がそろそろ片付くはず。メリルとネフェルティアはちゃんと言いつけを守って大人しくしてくれているかしら?」


 留守居を命じた部下達の名前を順番に挙げながら、主はポロポロと独白をこぼしていく。


 その言葉を最後まできちんと聞き取ってから、ラグニルはそっと主に問いかけた。


「一旦、お嬢だけでも屋敷に戻るか?」


 ラグニルの問いに、ピクリと主の肩が跳ねる。


 それでも、主は頑なにラグニルを振り返らない。


「レオならできる。何ならルピアも連れていけばいい。クロネのチーズケーキとルピアのお茶で留守番組とお茶をして、しばらく向こうでのんびりしてくる時間くらい、残された俺達だけでも稼げる」

「駄目よ」


 返された声は、凛と響いた。今までの会話で少しずつにじみ出していた弱さが、今の声からは一掃されている。


「それだと、あなた達に何かあった時、すぐに戻ってこれませんわ。宮の伝令符では時間がかかるし、ルピアを残していったとしても、距離がありすぎて声を届けられない」

「でも」

「ラグニル」


 ピシャリとラグニルの名を呼んだ主は、ようやくラグニルを振り返った。真っ直ぐにラグニルを見据える漆黒の瞳の中で、ヒラヒラと花弁が舞うかのように青い燐光が散っている。


「ここでしくじるわけにはいきませんの」


 ひたとラグニルを見据える主の視線は強かった。静かな表情には、主の覚悟が滲んでいる。


「こんな機会は、二度とない」


『分かっているでしょう?』という無言の問いかけに、ラグニルは同じ無言で返した。


 青い燐光だけが光源となっている闇の中、闇を見透かすヒトならざる者同士の視線が絡み合う。


 だが『視線で会話をする』というほどの対峙をする時間は、自分達には与えられなかった。


「……っ」


 不意に、チリッと不快な感覚が走った。殺気を感知した時に似たこの感覚は、己の支配領域を誰かが……それもとびきり大物が侵した時に感じるものだ。


 現状、このエゼリア皇宮の中で、ラグニルにここまでの危機感を抱かせるモノなど一人しかいない。


「お客様のようね」


 同じ感覚を主も察知したのだろう。再び窓の外に視線を投げた主は、先程とは打って変わり、口元に好戦的な笑みを浮かべていた。


「こちらが手薄になったと見込んで、『クラルハイト・ハルスケッテ』を狙いに来たのかしら?」

「俺とサノで対処を」

茶乃サノは恐らく、宮に付いていってしまっておりますわ」

「は?」

「いくら宮から待機を命じられていても、相性が悪い場所に出向くことになっても、あれに『宮を一人で行動させる』なんて選択肢は取れませんもの」


『サノはここで待機してるはずだっただろ』と表情だけで訴えるラグニルに、お嬢はクスクスと楽しそうに笑う。こんな状況だというのに、どうやら主は呆気に取られたラグニルの表情がお気に召したらしい。


「とはいえ、いくら貴方あなたでも、一人であれの対処は荷が重すぎるでしょうね」

「言っておくが、お嬢を出させるつもりはないぞ」

「分かっておりますわ。これ以上暴れたら、さすがにお咎めをもらいますもの」


 ラグニルが不満そうに声を上げても、主の笑みは崩れない。そのことにラグニルがさらに顔をしかめた瞬間、主は懐からスラリと懐剣を抜いていた。


 ペーパーナイフかと見紛う小さくて細い刃を手にした主は、ラグニルが止める間もなく左手首に懐剣を押し当てる。


 その刃が軽やかに、何の躊躇いもなく横へ振り抜かれた瞬間、キモノの袖から露出した白い肌に朱色の線が走っていた。


「飲みなさい」


 主が命じた瞬間には、部屋いっぱいに芳醇な血の香りが広がっていた。


 その香りに、思わずラグニルの喉がコクリと動く。


「最近飲んでいなかったでしょう? とやり合うならば、必要なはずですわ」

「お嬢」

「わたくしの血を無駄にしたいの?」


 早くなさい、と、毒を滲ませた甘い声が命じる。


 その声に、ラグニルは逆らえない。三十年前に彼女に出会い、叩きのめされた時から、ずっと。


 もう一度コクリと喉を鳴らしてから、ラグニルは主の元へ歩み寄った。無意識のうちに主の傍らへひざまずけば、主は満足そうな笑みとともに血が滴る腕をラグニルへ差し伸べる。


 主の血は、花のような甘い香りを帯びている。


 百合のように強烈な香りを主張するわけではなく、微かに香る程度の控えめな甘さだ。力ある者の血は一際甘美に感じられるが、ラグニルは主以上に甘美な血の持ち主を知らない。


 ──きっと、お嬢達が恋しがるサクラという花は。


 お嬢の血のように、可憐な香りを漂わせる花なのだろう。


 そんな妄想と、一種の諦観とともに、ラグニルはうやうやしく主の手首に唇を寄せた。決して牙を突き立てることはせず、ただただ滴る血を吸い上げ、その甘さを噛み締める。


「お前も頑固ね。いい加減、牙を立てれば良いものを。お前が意固地に噛もうとしないから、毎回わたくしが手首を切ることになりましてよ?」


 そんなラグニルの様子に、主が意地悪く囁きかける。主の腕に唇を寄せたまま視線だけを上げて主を見遣れば、主は声の調子そのままな微笑みを浮かべていた。


「ああ、それにしても無粋ね」


 まるで酒に酔っているかのようだ。主も、自分も。


 そう思ったのは、主が反対側の手を伸ばして、ラグニルの頬をなぞるように撫でたせいなのかもしれない。


「お前の瞳に、わたくしの青が散る様は」


 ラグニルが吸血をやめ、主の傷口に舌をわせれば、主がつけた傷は跡形もなく消えていく。


 それを毎度名残惜しく感じてしまう自分は、きっとこの血で感じる酩酊感以上に、彼女自身に酔っているのだろう。


 その想いを自覚しながらも、ラグニルはそっと彼女の力に染め上げられた瞳を閉じた。

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