──隊長。


 実際に声には出さず、意識の中だけで低く呟くと、己の肩口で微かにがうごめく気配があった。


 ──がやりたかったならば、事前に一言説明があっても良かったのでは?


『え? なになに? 説明したらもうちょい吸っても良かった?』


 ──私を殺すおつもりで?


 冷え切った声音で答えれば、ヨルの肩口に留まった小鳥がクツクツと低く笑う。……いや、実際に笑い声が聞こえているのはヨルの意識の内だけであって、ヨルの肩口にいる漆黒の小鳥はまるで笑っているかのように身を震わせただけなのだが。


 ヨルは真っ直ぐに前を見据えたまま、心の内だけで深々と溜め息をつく。


 エゼリア上層部とエルランテ使節団幹部が集う会議室。エルランテ側を威圧するためなのか、席についたエゼリア上層部面々の後ろにはズラリと皇帝秘書官が居並んでいる。


 そう、その末端に秘書官達でさえ見覚えがない、新人らしき人物が一人加わっていても誰も注視しないくらいには、エゼリア側は無駄に人員を投入していた。


 ──軍服を脱いでカツラを被っただけで、案外気付かれないものなのですね。


 肩口を覆い隠す長めの黒髪のカツラを被り、秘書官達の中に溶け込む装いに身を包んだヨルは、しれっと会合の会場に潜り込んでいた。


 もちろん、日頃からやり取りをしている顔馴染みの皇帝秘書官、ハルバート・リッツランの協力と、リーヒの幻惑の力があってこその潜入ではあるのだが。


『どれだけすすったら死ぬかくらい、きちんと分かってやってるよ』


 黒髪の中に身をうずめるように潜んだ小鳥をめつけてやれば、まるで愛嬌を振りまくかのように小鳥はヨルの首筋へ身を寄せる。


 あるいはその動きは、服の下から漂うヨルの血の香りを堪能するためのものだったのかもしれない。


『現に今のヨル君はピンピンしてるじゃない』


 ──ピンピンするまでに三日も寝込みましたけどね!


 ヨルの肩口に留まっている小鳥は、リーヒの『影』によって作り出された簡易的な分身だ。リーヒの意識と力の何割かがここに入り込んでいて、ヨルの潜入に力を貸している。


 キルケーを介していないのにリーヒと念話が繋がっているのも、ヨルの存在に周囲が疑問を抱いていないのも、全てはリーヒの分身であるこの小鳥がここにいるからだ。


 さらにリーヒはもう一体、ヨルに似せた『影』をイライザ特殊部隊の執務室にも配置している。ヨルも直にその『影』を見たが、中々に再現度は高かった。


 話すことはできないらしいが、書類仕事を捌いている姿を偽装することくらいはできる。リーヒの本体も礼拝堂の椅子に括り付けられたままだから、傍から見れば二人揃って大人しく謹慎しているように見えるだろう。


 もちろん、いかにリーヒといえども、こんな大技をほいほい簡単には行使できない。


 リーヒがふたつの分身を作り出し、並行して操るために必要な力は、強引に行われた吸血によって補填された。さらに本体は直接的な危機が迫るまで意識が落ちているらしい。


 ちなみに『影』の使用が長引き、リーヒが再び腹を減らした場合、強制献血二回目コースが出る可能性もあるという。


 ──あんな吸われ方を繰り返されたら、こっちの身がたない……っ!


【忘れるな、アベル・“ヨルムンガルド”・ネーデル=エゼリア】


 リーヒが結界の中にヨルを呼びつけた、あの後。


【お前が誰の『花嫁モノ』であるのかをな】


 リーヒの言葉とともに抗いがたい快楽に神経を焼かれた後、ヨルの意識はプツリと途切れた。


 次に目を覚ましたヨルが見たのは、自室の天井と、青ざめた顔でのぞき込むロゼとヴォルフ、それに涙目になったキルケーの姿だった。


 何でも、リーヒに容赦なく血を啜られたことによる極度の貧血で倒れたヨルは、かれこれ丸一日目を覚まさなかったらしい。


 しかもリーヒは昏倒したヨルをそのまま放置していたという。偵察に出向いたロゼ達が廃教会の礼拝堂に戻ってきた時には、石床に転がされたままのヨルの体は芯から冷え切っていた。


 狼の五感を持つヴォルフが真顔で『一瞬、マジで死体が転がってるのかと思った』と言っていたから、相当マズい状態だったのだろう。ロゼ達によって自室のベッドまで運び込まれていなかったら、本当にそのまま物言わぬ死体と化していたかもしれない。


『おいたをしたヨル君へのお仕置きも込みだもん。僕、悪くなんかないもんねー』


 そのことに思いを馳せた瞬間、無意識に殺気が漏れていたのだろう。ねを隠さないリーヒの声に『ツーンッ』とそっぽを向く姿がまざまざと思い浮かんだヨルは、わずかに目をすがめることで舌打ちをこらえる。


 ──隊長がもう少し抑えてくれていたら、私が寝込むことはなかったはずですが……っ!?


 意識こそ丸一日で何とか回復したヨルだったが、血の気を失ったことと石床に転がされたことによる体の冷えは回復しなかった。ロゼから安静と保温を命じられたヨルはベッドから出ることを許されず、昨日まではヨルの寝室が会議室代わりに使われていた。


 とはいえ、状態の悲惨さに対して二日という短さで回復ができたのは、まだぎょうこうと言える範囲だろう。それもロゼが薬と特性スープを作り、ヴォルフが狼の体で温もりを分け与え、キルケーが付きっきりで看病してくれたからに他ならない。


 ──この一件が片付いたら、きちんとお礼をしなくては。


『えー、僕へのお礼は? 働き詰めなヨル君が休むきっかけを作ってあげた僕へのお礼は?』


 ──うるさい、事の元凶。


 脳内でわめくリーヒをスパッと切り捨てながら、ヨルは目の前の景色に意識を集中させた。


 リーヒの所業に今でも怒りは続いている。だがなぜリーヒがわざわざヨルを痛めつけるほど血を啜ってまで二体の『影』を作り出したのか、その目的は理解できた。


「貴殿らはどれだけ大変なことをしでかしたのか、状況を分かっておられるのかっ!?」


 不意にエルランテ側の一番上座についた大男が怒声を張り上げた。ダンッと振り下ろされた拳を受け止めきれなかったのか、間に置かれたテーブルがミシリと嫌な音を上げる。


「貴国の人間によって我が国の重宝を奪われただけではなく、殿下のお命さえ危うい状態なのだぞっ!? 貴殿らはこれらのことに対し、どう責任を取ろうと言うのだっ!?」


 声高に怒りを叫んでいるのは、大公姫筆頭護衛官のノイル・ウォルグレイ少尉だ。大公姫の命が危うい今、使節団の指揮は彼が預かっているらしい。


 肩書きは『筆頭護衛官』となっているが、実際の立ち位置は大公姫の副官に近いのだろう。エルランテ側の面々はノイルが主導権を握っていることをすんなり受け入れている雰囲気がある。


「この期に及んで皇帝自身が出てこないというのもどうなんだっ!? 貴国はどれだけ我々をコケにすれば気が済むのだっ!!」


 大公姫が公衆の面前で襲撃を受けて数日。


 今日のこの場は、あの惨事が発生してから初めての会談だ。


 本来ならばエゼリア皇帝とエルランテ大公姫の会談になるはずだった場だが、今はそのどちらもがこの場にいない。エルランテ側の最高幹部はノイル、エゼリア側は皇帝秘書官筆頭がノイルの対面の席に座し、その隣に宰相が並ぶ布陣だ。


 リーヒが強引にヨルから血を啜ってまで分身を作り出し、ヨル自身と己の分身をこの場に送り込んだのは、この会議をヨル自身が直接見聞きするために他ならない。


 ──がこの場に直接出てくる可能性は限りなくゼロに近くとも、すでに二回もキルケーさんの力を弾かれていますからね。


 リーヒは元々、周囲の監視下にある廃教会にヨルの分身と己の本体を置くことで視線を集め、ヨル自身とリーヒの分身を密かに暗躍させようという心づもりでいたらしい。


 そこにロゼ達からこの会談が行われるという情報がもたらされ、ヨル自身が潜入することになった。


 主な目的は、エルランテ側の動向と主張から今後彼らがどう動くつもりなのかを探り、対策を模索することだ。


 ──なるべく魔力や魔法のたぐいに頼らず潜入したいと考えた時、外見的に潜入に適しているのが私しかいなかった、というのが、私自身が潜入することになった理由なんですがね。


 エルランテ大公家は、エゼリア皇帝家が失ってしまった『夜の住人』と交流する能力を現在でも継承しているという話だ。大公姫が『詠人不知ナーメンローゼ』を従え、『氷妃のクラルハイト・首飾りハルスケッテ』に祓魔の燐光を灯せていたという事実がそれを証明している。


 つまり、大公姫は『夜の住人』の存在を見破り、その力に対抗するすべを持っている存在だ。そんな人間が相手側にいると分かっている以上、それらに類する力に頼って潜入捜査をしていたら、いつ衆目の面前で正体を暴かれるか分かったものではない。


 現にキルケーのテレパスにはすでに対策が打たれており、それが有用に働くことが実証されてしまっている。不安要素を排するためには、ごく普通の変装に留め、一番破られる恐れが少ない力……リーヒの分身を保険につけるというのが一番確実な手段だった。


 ──大公姫自身が出てこなくても、側近筋にその力を持つ人間がいても何ら不思議はない。


 何せどこの国でも上級貴族は大抵が国主筋と血縁関係にある。大公姫以外の人間も十分に警戒してしかるべきだ。


 そのことを思い返しながら、ヨルは目の前で繰り広げられる会談に耳目を集中させる。


 ──エルランテ大公姫が出てこないのは、当然のことではありますが。


 この場に皇帝がやってこないという事実を、ヨルはこの部屋に潜入するまで知らなかった。


 恐らく秘書官筆頭と宰相、そして皇帝自身で最後まで出席の是非が協議されていたのだろう。この場に最後にやってきた秘書官筆頭と宰相が皇帝をともなっていないことに気付いた瞬間、エゼリア側の面々がわずかに動揺していたことは空気の揺れで分かった。


 ──腰抜けなのか、あるいは。


『大公姫自身が来るはずのない会議など、臣下に任せておけば良い』とお高く止まっているからなのか。


 ヨルに言わせれば、どちらであっても愚かとしか言いようがない。


「……大公姫のご容態は、いかがですかな?」


 ノイルから叩き付けられる怒声をまばたきひとつで受け流した秘書官筆頭は、慇懃無礼を絵に描いたような態度で口を開いた。


 今までの一切の発言を無視される形になったノイルから、ギリッと歯を食いしばる音が上がる。


「貴殿らに伝える必要はない」

「慣れぬ地で危篤患者の手当てなど、そちらの侍医殿も苦労をなされる。色々と足りていないだろう。やはりこちらの御殿医に任せるべきでは?」

「この状況でお前達に殿下のお命を預けられるわけがないだろうっ!!」


 ──言っていることは、ごもっともですが。


 傍から見れば、エゼリア側の策謀、あるいは不手際によってエルランテ次期大公の命が危うい状況に陥っている状況だ。ここでみすみす大公姫の身柄をエゼリア側に預けてしまえば、今度は医療ミスを偽って大公姫を暗殺されかねないと考えるエルランテ側の思惑も理解できる。事情を知らない人間からすれば、筋が通るのはエルランテ側だろう。


 だがヨル達は、この事件がエルランテ側の自作自演であるという内情を知っている。そこを踏まえて考えれば、恐らく大公姫は無事であるはずだ。


 ──となると、エルランテ側が次に主張してくるのは……


「我々はこの件に関し、厳重に抗議させていただく」


 振り下ろされたまま微動だにしないノイルの拳にまた力が込められたのか、ミシッ、ギシッという鈍い音とともに重厚なテーブルが傾いでいく。その様に壁際に居並んだ皇帝秘書官達が動揺しているのが気配で分かった。


「この暗殺未遂事件と窃盗事件、捜査はどうなっているのです? 解決の目処は?」

「鋭意捜査中です」

「まさか、犯人をかくまっておられる、などということはあるまいな?」


 低く、恫喝どうかつするように紡がれた言葉に、席についたエゼリア高官達が不愉快そうに眉を寄せる。中には口の中で『無礼な』と呟きを転がした者も、舌打ちをこぼした者もいたようだ。


「そんなことをして、我らに何の得があるというのだね?」

「貴殿らが命じてやらせたことだとしたら、十分匿うに値するだろう」


 真正面から斬りかかるような言葉に、今度こそエゼリア側の空気がザワリと揺れた。


 だが批難の声が上がるよりも、バキッと鈍い音が場の空気を凍て付かせる方が早い。


「アイシャ殿下は、我がエルランテ公国、唯一の継嗣けいしであられる」


 拳ひとつでテーブルの分厚い天板を粉々に粉砕してみせたノイルは、真っ直ぐに秘書官筆頭を見据えたまま、うなるように低く告げた。


「貴国はその唯一の継嗣をわざわざ貴国まで呼び付けた挙句、式典会場で危害を加えた」


 さしもの秘書官筆頭と宰相も、目の前で唐突に披露された暴力には命の危機を感じたのだろう。引きる表情を誤魔化しきれていない二人は、血の気を失ったまま、ただただノイルを見つめている。


「ここまでされて、我が国が黙っているとでも?」


 ──まぁ、そうなりますよね。


 ノイルの圧と同調するように殺意を醸すエルランテ側と、その圧に押し負け、物理的に首を絞められたかのような顔を隠しきれていないエゼリア側。


 その両者を気配を殺したまま観察しながら、ヨルは考えを転がし続ける。


 ──いくら本国と従国という関係にあっても、この状況で黙っているのは逆に不自然だ。


 エルランテ側は現在、エゼリアに宣戦布告をしても正義を主張できる立場にある。エルランテの外交事情に関してヨルは明るくないが、周辺国家に協力を要請すれば打算と義侠心から手を差し伸べる国も出てくるだろう。


 ──命の対価には命を。ならば重宝の対価には……


「殿下のお命は必ず我らが侍医殿がお救いする。だからまずは、奪われた重宝への償いを願おうか」


 ヨルが冷静に視線を注ぐ先で、机を割った拳を引き戻したノイルは殺意を緩めないまま言い放った。


「『氷妃の首飾り』と窃盗犯を貴国が引き渡さないと言うならば」


 真冬の雪空を思わせる灰色の瞳が、獰猛な光を湛えて秘書官筆頭を見据える。


 肉食獣が獲物に喰らいつく直前には、きっとこんな瞳をしているのだろう。


 ふと、ヨルはそんなことを思った。


「賠償として我々は『炎帝の聖剣グラナロート・シュヴェールト』の譲渡を主張する」

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