【Herzog】

「随分と派手に暴れたらしいな」


 カツリ、という静かな音に紛れ込ませるように、アイシャは唐突に声を上げた。


「ノイルが頭を抱えていた。……あまりあれをいじめないでやってくれ」

「あら、暴れたのは向こうの隊長でしてよ。わたくしは降りかかる火の粉を払っただけ」

「どうせ最初に火をつけたのはお嬢さんの方なんだろう?」


詠人不知ナーメンローゼ』の名で呼ばれる少女は、盤上から黒の騎士シュプリンガーを取り上げながら小さく笑みをこぼす。それだけで返答として十分だったのか、アイシャは軽く肩をすくめた。


「それを言うならば、貴女あなたの方も」


 カツリ、と。また部屋の中に、小さな音が響いた。少女の指によって新たな場所に移された黒の騎士シュプリンガーは、白のケーニヒを射程圏に収めている。


「あの作戦、ノイルに教えていなかったのね」

「教えたら大反対を喰らって、実行どころじゃなかっただろうからな」

「可哀想に。あれの方が死にそうな顔をしておりましたわ」


 チェックシャッハ、と、少女は小さく声を上げた。その宣言に対してなのか、あるいは少女がチクリと口にした嫌味に対してなのか、常に表情が薄い秀麗な顔にわずかに不服そうな色がにじむ。


 全てがとっぷりと闇の中に沈んだ、大公姫の寝室として割り当てられた部屋の中だった。


 常にアイシャに付き添っている心配性な大公姫副官は今、他ならぬ大公姫アイシャの命令によって外に追いやられている。月灯りと小さな蝋燭だけを光源にして、少女とアイシャはチェスシャッハに興じていた。


 寝台から指を伸ばしているアイシャだが、夜着の内から覗く首筋に傷跡らしい傷跡は見当たらない。つい昨日、襲撃犯に斬り裂かれたはずである肌は、どこまでも白く、滑らかだ。今の彼女の姿を見て、彼女こそが昨日襲撃を受けたエルランテ大公姫だと理解できる人間はいないだろう。


「私だって死にそうな目に遭ったんだ。そこはお互い様だと思ってもらいたいものだな」

「自ら命じてやらせた人間と、何も知らされないまま主君が身内にられかけた副官を並べて『お互い様』はないでしょう」

「君の部下は、どちらも優秀だった」


 アイシャのひとりごちるような言葉に、少女はフツリと口をつぐんだ。


 会話が成立しているようで微妙にすれ違うのはいつものことだ。彼女のみならず、彼女の父親であるエルランテ大公との会話も同じ感覚ですれ違う。性格が似ているのか、あるいは大公家の伝統なのか、どちらなのかは分からない。


「殺す側と救う側、どちらが下手を打っても、私は本当に死んでいただろうからな」

「お褒めに預かり光栄だけれども、わたくしの大切な部下を貴女の無茶振りに巻き込むのはやめてちょうだいな」


 だから少女は、賛辞を素直に受け取り、またチクリと苦言を呈する。それに対するアイシャの答えは、また軽く肩を竦めることで返された。


 昨晩のパーティー会場に潜入していたのは、レオだけではない。アイシャのすぐ近くには、エゼリア貴族にふんしたミヤ茶乃サノが控えていた。


 宮は生国にいて右に出る者なしと称された呪術師、茶乃は体術を極めた暗殺者だ。『呪殺宮じゅさつのみや』と『暗殺貴族』が揃えば、周囲の目をあざむきつつ死にかけの人間を蘇生させることくらいはできる。


 加えて、凶刃を振るっていたのはレオだ。かつて海の向こうの霧の都で『インビジブル・キラー』の名を取ったレオは、あの齢にして部隊の誰よりも刃物による暗殺に秀でている。殺さないギリギリを狙って相手の首をさばくのもお手の物だ。


 ──なるべく派手に暗殺を決行しつつ、蘇生もさせろ、なんて。無茶振りにも程がある命令でしたわね。


 同時に、己をダシにしてでも今回のを遂行させようとするアイシャの覚悟を見たような気がした。


「……傷はなかったことにできても、体外に流れ出てしまった血の気を『なかったこと』にはできないそうよ」


 小さく溜め息をついた少女は、アイシャへの小言を口にした。これは宮から聞いた首尾報告であり、この部屋に入る直前、アイシャの副官であるノイルから『お願いですから、これ以上の無茶をしないように殿下に釘を刺してほしいっすっ!!』と泣きつかれた結果口にした言葉でもある。


「極度の貧血状態は、すぐには改善しない。重傷人であることに代わりはないのだから、しばらくは大人しくしていなさいね」

「かくいうお嬢さんの体調は大丈夫なのかね」


 カツリ、という音が、また小さく響いた。アイシャの指によって白のケーニヒが動かされたことにより、少女が指揮する黒の騎士シュプリンガーは王を捕らえられなくなっている。


 その戦況を見つめてから、少女は静かにアイシャを見やった。対するアイシャは盤面に視線を落としていて、少女の方は見ていない。


「こちらの公爵の攻撃を無効化するのに、力を使っただろう」

「鎌は抜いておりませんわ。ご心配なく」

「とはいえ、君が力を振るうのは、こちらの皇宮に入って二回目だ」


 すげなく言い捨てたつもりだったが、アイシャは引き下がらなかった。そんなアイシャの物言いに、少女は不快感を隠すことなく目をすがめる。


「この旅に君を同行させると通達した後、イライザ暗殺部隊の人間から、代わる代わる内密にを受けた。皆、言葉は違えども『お嬢さんに無茶をさせたら許さない』という内容だったよ」


 初めて聞く話ではあったが、想定外というほどのことでもない。恐らく留守番を言いつけられた面々が八つ当たりも込めてやったのだろう。


 少女の部下達の本質は、皆『暗殺者』だ。相手が王宮奥深くに住まう大公姫であろうとも、『忠告』を届けるくらいならば簡単にできただろう。


 少女を慕ってくれる部下達の顔が、脳裏に順繰りに浮かんだ。その瞬間だけ少女は、慈しみにあふれた柔らかな笑みを浮かべる。


 そんな少女に、アイシャは淡々と、だが心底痛切な思いがこもった声をかけた。


「あまり無茶はしないでくれ。君がエルランテの君の屋敷に帰り着くまでに倒れるようなことがあれば、私はその場で君の部下達に暗殺されかねない」

「その場合は、骨のひと欠片かけら、髪の一筋さえ、国に帰ることはできないでしょうね」


 クスクスと笑いをこぼすと、アイシャはようやく顔を上げた。常に表情が薄いアイシャだが、今はその瞳がひどく真剣であることが分かる。


 少女は見せかけの笑みを引っ込めると、代わりに優美に笑ってみせた。己の本質が滲む、夜露に濡れた毒花を思わせる笑みを。


「安心なさって。そうはならないように、わたくしはここに『砂金』を求めてやってきましたのよ?」


 その上で少女は、盤上の駒に手を伸ばした。ジッと少女を見つめ続けるアイシャから視線を逸らさないまま、黒の女王ダーメを戦場へ引きずり出す。


「わたくしは『砂金』、貴女は『グラナロートシュヴェールト』」


 コトリ、と。王手を指す音も、他の駒を置く時と同じように静かに響いた。


「お互い、目的のモノが無事に手に入ると良いですわね」


 少女はニコリと無邪気を装って微笑む。


「そうだな」


 その瞬間だけ、応えるようにアイシャが微かに唇の端を持ち上げた。


「こんな機会はそうそうないだろうからな」

「ええ、お互いに」


 穏やかな声音で答えた少女は、そのまま静かに席を立つと身を翻した。そんな少女をアイシャは引き留めない。盤上に置かれた視線は、一体自分は何が原因で負けたのかと興味深そうに戦況を考察している。


 ──変わりませんわね、昔から。


 己の弟子でもある大公姫の姿を横目で見つめてから、少女は部屋を後にした。


「……さて」


 寝室から居室へ抜け、さらに廊下へ出る。途中ですれ違ったノイルに『もうアイシャの傍に戻っても大丈夫だ』と声をかけてやってから、少女は自分達にてがわれた部屋へ戻るべく廊下を進み始めた。


 廊下に敷き詰められた毛足の長い絨毯は、少女の足音を全て吸い取ってしまう。微かな衣擦れとくぐもった足音しか聞こえない空間は、ひどく静かだった。


 その静寂の中にふと、アイシャの声がよみがえる。


『君がエルランテの君の屋敷に帰り着くまでに倒れるようなことがあれば……』


「……大丈夫」


 小さくこぼした言葉は、きっと震えていなかったはずだ。


 そうでなければ、ならないのだから。


「大丈夫、大丈夫ですわ」


 己に言い聞かせる言葉は、『深更の公爵ミッターナハト』の耳にも、『暗殺貴族』の耳にも、従順なメイドのテレパシーにも届いていない。少女がそう望めば、世界のことわりは少女の力を前に全て死に絶える。


「わたくしは『詠人不知ナーメンローゼ』。わたくしは『エルランテの蒼百合イライザ・エルランテ』。わたくしはエルランテ公国軍第三十一番イライザ暗殺部隊隊長」


 自分にしか届かない声音で、少女は繰り返し呟いた。


「そう、だから……全部全部、大丈夫」


 まるでその言葉が唯一のよすがなのだと、すがりつくかのように。

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