一瞬、時が止まったかと思った。


『お前がわたくしの手を取ると言うならば、このくだらない争いも、宿、わたくしが今すぐここで、全て消し飛ばして差し上げますわ』


 ──それは、つまり。


 この少女には、できると言うのだろうか。


 エゼリアの闇の君主、リヒトシュテイン・フォン・シュトラウゼをして『凍結』という形にしか持ち込めなかったこの『エゼリアの呪い』を、即時抹消し、ヨルをただの人間に戻すことが。さらにその上でリヒトシュテインとヨルの間に結ばれた『血の契約』を破棄し、ヨルを完全に昼の世界に引きずり戻すことが。


「もちろん」


 一瞬で脳裏を駆け巡った動揺を、今回も少女は正確に読み切ったようだった。


 嫣然とした笑みが、また一段と深くなる。


 甘く、甘く。毒々しささえ覚える百合の香りに、次第に意識が酩酊していく。


「わたくし、この取引に関して、嘘を言うつもりはありませんわ」


 細くて白い、ティーカップより重い物など持ち上げられそうにない繊細な手をヨルへ差し伸べたまま、少女は歌うように言葉を紡いだ。


「わたくしにならば、できましてよ? 『エゼリアの呪い』を破壊することも、『血の契約』を棄却することも」


 甘い甘い言葉を操りながら、少女は優雅に小首を傾げる。その間も、ヨルに差し伸べられた手が揺らぐことはない。


 ──この手を、取れば。


 楽に、なれるのか。自分ばかりに背負わされた荷物を投げ出すことが、ようやく許されるのか。


 決して動かしてはならないといましめていたはずの手が、無意識のうちにテーブルの上から浮いていた。それが分かっているのに、今のヨルにはその手を元の場所に引き戻すことができない。横から、後ろから、危機感をはらんだ声が自分の名前を呼んでいると分かるのに、彼らの声はヨルの意識に届くことなく表層を滑り落ちていく。


 ──だって、選んだって、いいではないか。


 自分にばかり選択肢が与えられないのは、不公平だ。選択肢が与えられても、己に有利な条件を選べないなら、それは選択肢がないも同じではないか。


 人生で初めて与えられた選択肢に、喰らいついて何が悪い。


 甘い甘い言葉に引きずり出されるように、心の奥底に閉じ込めていた本音が暴れ出す。


 だが。


「っ……!」


 それでもヨルは、この甘い言葉以上に甘い声に、すでに底の底まで縛られている。


 カスタードのように滑らかで、チョコレートのように甘い。


 澄み渡るほどに残酷な、『真紅』の声に。


「……嘘を言うつもりがなくても、条件を明確にしないならば、だましているも同然でしょう」


 記憶の底から囁きかける声が耳に蘇った瞬間、意識を酩酊させていた甘い香りがスッと遠のいたような気がした。あるいは無自覚のうちに血の気が下がったおかげで、意識が冴えたのかもしれない。


 ヨルは爪を手のひらに突き立てるようにして拳を握ると、改めてテーブルの上にその手を置いた。感情を排した瞳を改めて少女に据えれば、少女はわずかに笑みの種類を変える。


「貴女は、私を助ける見返りとして、私に何を求めるつもりですか? ただ部下にしたい、というだけではないのでは?」

「さすがは特殊部隊の参謀官。ヒトならざるモノ達との取引の基本をしっかり押さえているのね」


 今、少女が浮かべているのは『敵』に向けるたぐいの笑みだった。仕留められて当然だと思っていた獲物が想定以上に大物であったことを喜ぶ狩人のような、噛みごたえのある獲物の登場を喜ぶ捕食者のような、そんな笑い方を少女はしている。


 その笑みが、ヨルの視線の先で不意に深くなった。


「そして貴方あなたの隊長は、思っていた以上に強引な方のようだわ」

「ヨルっ!!」


 少女の言葉に疑問の声を上げるよりも、ヴォルフの腕に抱きかかえられて椅子から引き抜かれる方が早かった。


 わけが分からないまま世界が目まぐるしく回っていく中、視界の端を突如として走った黒閃が斬り裂いていく。


 ──なっ!?


 ヨルを片腕で抱えたまま、ヴォルフは跳ねるように後ろへ下がった。そんなヴォルフの傍らには同じようにキルケーを抱えて跳ね跳んだロゼがいる。


「一体何が……っ!?」


 今更ながらに上げた声は、目の前の光景を認識できた瞬間に途切れていた。


 ──なっ……


 先程までそこにあったはずであるアイアンテーブルが、見るも無惨な鉄屑と化していた。中心を鉤爪で裂かれるかのように引きちぎられたアイアンテーブルは、同じようにえぐられた地面に頭を垂れるかのように切断面を埋めている。


 黒閃の余波に引きちぎられたのか、紅の大傘が姿を消していた。そんな何もかもがひと薙ぎで瓦礫と化した中、変わることなく美しく座した少女だけが、手の中に確保していたティーカップでお茶を楽しんでいる。


 全てを喰い散らしていった風の名残に、少女の黒髪が揺れていた。髪と遊ぶ微風が消えていくのを惜しむかのように、少女は伏せていた瞳を上げ、黒閃を走らせた元へ視線を流す。


 その視線に応えるかのように。


 コツリ、と。ヨルの耳に酷く馴染む足音が聞こえた。 


「レオ」


 ハッとヨルが足音の方へ視線を投げた瞬間、少女は己の配下の名を呼んでいた。その声には依然として笑みが宿っている。


「ルピアを連れて撤退なさい」

「えっ、でも」

「今の一撃でミヤの結界とルピアのジャミング、両方が破られましたわ。これ以上ルピアをこの場に置いていては、ルピアに負担がかかりすぎる」


 少女の呼び声に応えてまばたきひとつの間に姿を現したレオは、少女の指示に目を丸くした。それでも少女の言葉はレオの中で絶対なのか、口先では混乱を示しながらもレオの視線は素早く同僚であるメイドの姿を探している。


 そんなレオの動きを、ヨルも無意識に視界の端で追っていた。そのおかげでレオが慌てたように少女の傍らへ腕を伸ばした瞬間も見えている。


 ──あれは、


 レオが手を差し伸べた先には、少女の影に隠れるようにしてうずくまったルピアがいた。片手を頭に、片手を地面についてペタリと座り込んだルピアは、今にもくずおれそうな体を突っ張った腕で必死に支えている。


 その姿が、力を使いすぎて倒れそうになっているキルケーの姿と重なって見えた。


 ──もしかして、ルピア・オランジェの『能力』は……


『ヨル』


 同時に、鼓膜を震わせることなく、キルケーの声がヨルの頭に響く。


 反射的にキルケーへ視線を投げれば、ロゼに抱きかかえられるように支えられたキルケーが顔を歪ませながらもヨルに意識を向けているのが分かった。まるでルピアを真似るかのように、キルケーの右手がギュッと己のこめかみを押さえている。


『みんなの声、聞こえるようになった』


 ──つまり、キルケーさんの力を封じていたのは、ルピア・オランジェ?


『分からない。でも、廃教会で、言ってた』


 ──『あなたの力は私の力で相殺されています』……でしたか。


 恐らくルピアは、キルケーと同じくテレパシー能力を有している。キルケーが周囲の声を拾おうとする力に自分の能力をぶつけて、キルケーの能力を相殺していたのだろう。


 ──拮抗していた双方の力と、この空間の位相をずらしていた結界、さらには迎賓棟の一角をまとめてひと薙ぎで吹き飛ばすなんて。


 そんな無茶苦茶な真似ができる存在は、この国にひとりしか存在していない。


「撤退ついでに、ミヤの様子を確認してきてちょうだい」


 コツリ、コツリ、という落ち着いた足音は、いまだに響き続けている。その足音がひとつ響くたびに、場の空気が緊張していくのが分かる。


「結界を力尽くで破られた反動がミヤに返っているはず。ミヤに何かあれば、サノが黙っていませんわ。サノがこちらの指示を無視して暴れ出す前に、くれぐれも前線に出ないようにと言い含めてきてちょうだい」

「ちょっ!? それ、俺じゃ荷が重すぎる……っ!!」

「申し訳ないけれど、他は皆手一杯ですの」


 高まる圧に、チリチリと全身の毛が逆立つのが分かるような気がした。いまだにヨルを庇うように抱き込んでいるヴォルフの腕が、その圧に細かく震えている。


 そう、圧が自分に向けられているわけではないと分かっているのに、自分達は体の震えを止めることができない。


 だというのに少女は、ひたすらに麗しく微笑んでいた。


「わたくし、虐殺は望んでおりませんのよ」


 今はね。


 笑みとともに密やかに囁いた少女は、一体何を意識してその言葉を紡いだのだろうか。


 少女は独白を最後に軽く片手を上げた。それを合図にレオとルピアが姿を消す。


 同時に、少女は笑みを浮かべたまま、優雅な挙措で椅子から立ち上がった。


「わざわざ御足労いただき、恐縮ですわ」


 足音の方向へ向き直った少女は、小首を傾げながら手の中のカップを示す。


「本来ならば、おもてなしのひとつでもして差し上げるべきなのでしょうけれども」


 同時に、ティーカップを支えていた繊手からは力が抜けた。支えを失ったカップはすべもなく落下し、石畳に叩きつけられて粉々に砕け散る。


「わたくし達の間に、そのようなもの、必要ありませんものね?」


 その悲鳴のように甲高く、儚い音を受けて、なのか。


 あるいは、少女の言葉を受けて、なのか。


 石畳に音を響かせていた主が、歩みを止めた。それまで歩みに合わせてリズミカルに揺れていた軍服の裾も、漆黒の髪も、その上を躍る緋色の組紐も、揃って動きを止める。


 全ての動きが止まると際立つのは、足音の主が醸すこの上ない圧だった。


 だがその圧を一身に浴びている少女は、純真無垢としか言いようのない顔で笑っている。


「ねぇ? 『黄昏の公爵アーベント』」


 その笑みを受けたエゼリアの闇の君主……本性である青年の姿を取ったリヒトシュテイン・フォン・シュトラウゼは、感情が抜け落ちた真紅の瞳を少女に据えていた。




  ✝ ・ ✝ ・ ✝




 フワリと、風が迷い込んできていた。


 この中庭に足を踏み入れた時はその風がどこから入り込んでくるのか分からなかったヨルだが、今はリーヒが破壊した場所から外の空気が流れ込んでいるのだということがはっきりと分かる。


 歩みを止めたリーヒの手には、抜き身のサーベルが握られたままになっていた。少女とリーヒの間合いはいまだ十歩以上残っているが、リーヒがその気になれば十分に少女を消すことができる距離でもある。


「エゼリアの軍上層部も、貴方の喉笛を狙う神の下僕イヌも、大して根性はありませんのね」


 息をするのもはばかられるような緊張の中、先に口を開いたのはやはり少女の方だった。


 口元に片手を添えてクスリと笑った少女は、優雅な響きの声で言葉を続ける。


「貴方を軍議の席に縛り付けておくことさえできないなんて」

「かく言うお前の配下は、随分としつけがなっていないようだな」


 対するリーヒの声からは、常に含まれている笑みが消えていた。感情のたぐいが一切感じられない声は、リーヒが抱いた怒りの深さを逆に浮き彫りにしている。


「主の不在を狙って、所有物に手を出すとは」

「そんなに大切なモノならば、丁重に宝箱にでもしまい込んで、誰にも見せなければ良いのではなくって?」


 少女がリーヒの圧や怒りにひるんだ様子は一切ない。それどころか少女は、そんなリーヒの様子を楽しんでいるようにも、嘲笑っているようにも見える。


 その精神が、ヨルには一切理解できなかった。


 ──一体、こいつはなんだ。


 背筋の震えが止まらない。きっとヴォルフに抱え込まれていなかったら、ヨルは自分の足で立ち続けていられなかっただろう。ヴォルフとロゼがヨルとキルケーを守ろうと気を張ってくれているから、自分達はかろうじてこの場で正気を保っていられるのだと分かってしまう。


 ──真正面からリヒトシュテインに喧嘩を売って、こんなに平然としていられるなんて……


「本来、そういうモノなのでしょう? 吸血鬼の『花嫁』というものは」


 少女がほがらかに言い放つと、リーヒはスッと瞳をすがめた。怒りの深さのせいなのか、あるいはヨルの血を摂取しないまま立て続けに本性に立ち戻っているせいなのか、リーヒの瞳は常よりも深く澄んだ真紅に染まっている。


 ──他者の『花嫁』に手を出すのは、本来であれば禁忌中の禁忌であるはず。


 手を出せば、相手は存在を根本から抹殺されても文句は言えない。


 そうヨルに教えたのは、他でもないリーヒだ。


 ──それにしても、そこは一般的な吸血鬼と同じなんですね、隊長も。


『花嫁』とは、吸血鬼と『血の契約』を交わした人間のことだ。吸血鬼側と人間側、どちらの性別がどうあろうとも、契約を交わした人間側が『花嫁』と呼び習わされるものであるらしい。


 求められた時に無条件で我が身を差し出すことを対価とし、吸血鬼に願いを叶えてもらう。ザックリと簡単に言ってしまえば、『血の契約』はそういうモノだ。


 吸血鬼は、己の『花嫁』に強い執着を持つという。その執着の形は伴侶としてのものであったり、親や子、主や所有者と様々であるらしい。だが総じて吸血鬼が己の『花嫁』を囲いたがることに変わりはない。


 少女が口にした『丁重に宝箱にでもしまい込んで、誰にも見せなければ良い』という発言は、そんな事情を何もかも把握した上で出たものだ。


「異常だわ、こんなの……」


 ロゼが囁く声が微かに聞こえた。その声も震えを隠せていない。


 そう、異常。その一言に尽きる。


 相手はリーヒの不在を狙って、ヨルにリーヒとの『血の契約』を破棄させるような取引を持ちかけた。それが一発でリーヒの逆鱗を踏み抜く行為であるということを承知の上で、だ。


 エゼリアの闇の君主にして、四大公爵が一角『黄昏の公爵アーベント』にここまで真正面から挑みかかるなど、愚行の極みとしか言いようがない。


 ──いっそ、衝突を避けられるならば、私の方が尻尾を巻いて撤退してしまいたいくらいなのですが……


 きっと、その選択肢さえ、今のヨルには許されていない。


 何せヨルは、知らぬ間に争いの目の中心に置かれてしまっているのだから。


「それを承知の上で、お前はヨルに手を出した、ということか? 『詠人不知ナーメンローゼ』」


 スルリと音もなくリーヒの腕が上がり、サーベルの切っ先が少女に据えられる。


 だが少女はそれでも身構える素振りを見せなかった。先程のリーヒの一閃は少女も見ているはずなのに、少女はおろか傍らに控えた青年さえもがリーヒに対して構えを取らない。


「どうやらお前が傍らに置いている小僧は、お前の無知をいさめることさえできない無能のようだな」

「無能? 誰のことかしら」


 リーヒの怒りの矛先は、少女のみならず青年にも向けられたようだった。


 その言葉を受けてようやく青年の瞳がリーヒに据えられる。緩く開かれたまぶたの下から現れた瞳は、髪よりもわずかに赤みが強い、濃く煮出した紅茶を思わせる色味をしていた。


「わたくしに、吸血鬼にとっての『花嫁』が何たるかを教えてくれたのは、ラグニルでしてよ?」

「自身も『花嫁』を持っていながら、他人の『花嫁』に手を出すことを『花嫁』に許すとはな。小僧は戦争でも御所望なのか?」

「あら、残念。わたくしとラグニルは、主と『花嫁』の関係ではなくってよ?」


 だがあくまで青年は口を開かない。リーヒが青年に向けた言葉までもが少女によって叩き落される。


 その言動は、さらにリーヒを苛立たせたようだった。リーヒの手に握られたサーベルからキリッと嫌な音が上がる。


 ──らしくない。


 その空気に、ヨルは嫌な気配を感じた。リーヒと少女が醸す圧から覚える恐怖とは種類が違う『嫌な気配』に、ヨルは思わず息を詰める。


 ──向こうがわざと怒りを煽っていることには、隊長だって気付いているはず。その挑発に、こんなに簡単に隊長が乗せられるなんて……


 今のリーヒは完全に冷静さを失っている。こんなリーヒを見るのは初めてだ。


 ──まさか。


 そこまで考えが至った瞬間、ヨルは小さく息を呑んでいた。


 ──まさか、初手で私にやたらと執着を見せたのは、


 この状況を作り出すため、だったのではないだろうか。


 リーヒが席を外した瞬間を狙って『花嫁』に手を出せば、リーヒの逆鱗に触れることになるのは目に見えている。


 常に余裕を崩さず、常に上から、全てを『暇潰し』とみなして観劇のごとく眺めるだけの『黄昏の公爵アーベント』を、同じ盤上に引きずり出そうと目論んでいたならば。高い場所にしつらえられた椅子から、自ら立ち上がらせて、自らの足で盤上にまで降りてくるように仕向けたかったならば。


花嫁ヨル』という存在は、『黄昏の公爵アーベント』にとって、唯一にして最大の釣り餌フックとなったはずだ。


 ──何とかして流れを変えないと……!


「ラグニルは、わたくしの従者。あくまで主はわたくしの方ですわ」


 何か手段はないのかと、ヨルは震えを押さえきれない体を叱咤して周囲に視線を走らせる。


 だがヨルがきっかけを掴むよりも、少女がさらに怒りの燃料をリーヒに注ぐ方が早い。


「教えたとは、あくまで知識として、口頭で、ということ。早とちりはやめてちょうだいな」

「……四大公爵の末席を穢しておきながら、自らが仕える立場に立つとは」


 常よりも低い声は、静かでありながら厳寒の雷のような響きを帯びていた。殺意は真っ直ぐに少女と青年に向けられていると分かるのに、まるで直接声に打たれたかのようにヴォルフとロゼの肩がビクリと跳ねる。


「そこまで堕ちたか『深更ミッターナハト』……!」

「堕ちた、とは心外だな。『黄昏アーベント』」


 その声に、初めて耳にする声が応えた。


 リーヒよりも低く落ち着いた声音は、しっとりと心地よく耳に馴染む。リーヒの声が上から為政者としての圧を加えるものであるならば、青年……『深更の公爵ミッターナハト』ラグニル・バスクリットの声は、ジワリと心に染み込んで、相手に自覚させないままその意識を奪い去っていくような、そんな人心掌握に優れた領主の声音だった。


 ようやく口を開いたラグニルは、真正面からリーヒを見やると不意に笑みを浮かべる。淡く口元に浮かべられた笑みは、彼が仕える主が浮かべたものとよく似ていた。


「お前も一度、うちのお嬢に叩きのめしてもらえれば、己の立場ってものが分かるんじゃないか?」


 ──マズい。


 ラグニルの言葉で、場の緊張が振り切れる。


 そう感じた瞬間には、リーヒのサーベルが振り抜かれていた。容赦のない一閃に、ヨルの五感は役目を放棄する。


『……っ、閣下!』

「閣下、これ以上はおやめください! 閣下っ!!」


 もしかしたらヨルは、一瞬気を失っていたのかもしれない。


 次にヨルが目を開いた時、ヨルとキルケーはまとめてヴォルフとロゼの後ろに庇われていた。狼の姿に立ち戻ったヴォルフが巨体で一行を隠す壁となり、その影からロゼがバラ色の燐光で壁を作り上げている。ハッと傍らに投げ出されたキルケーの様子を確かめると、キルケーは完全に意識を失っているようだった。


「このまま力をふるい続ければ、ヒトの身はちません、閣下っ!!」


 臣下としての呼び方でロゼが声を張り上げる。


 だがロゼの声はリーヒに届いていないようだった。容赦なく荒れ狂う影が、ロゼが展開するバラ色の燐光を削っていく。


「……っ!!」


 両腕を前にかざして構えるロゼの体が、ジワリと地面を削りながら後ろへ押しやられていた。その前に控えたヴォルフの体も、ジワジワと押し込まれているのが見て取れる。


 ──どうにかして止めなければ……!


 このままでは迎賓棟ごとヨル達の存在が消し飛ばされる。


 しかしこの状況では、ヨルとて取れる手段はない。


 ──どうすれば……!!


 内心で苦く呻いたその瞬間、だった。


 不意にパチンッという鋭い音が響き渡り、荒れ狂っていた圧が全て掻き消える。


「えっ」


 今まで掛かっていた圧が一気に消えたせいで、ロゼとヴォルフの体が前へつんのめる。


 だがヨルにはそこを気にかけていられる余裕はなかった。


「……っ!!」


 ヨルは考えるよりも早くヴォルフとロゼを迂回して前へ飛び出していた。そんなヨルに気付いた二人が慌てて声を上げるが、ヨルはそれを振り切るようにリーヒと少女の間に割って入る。


「これ以上の争いは、双方に益を生みません」


 リーヒを背中に庇うように飛び込み、少女に立ち向かう。そんなヨルの姿にリーヒが目を丸くしているのが気配で分かった。


「あら」


 対する少女は、少し困ったように小首を傾げた。


「背を向ける方向は、そちらでよろしくって?」

「ええ。間違っていません」


 少女の腕は、ヨルの方へ……先程までの状態ならばリーヒの方へ差し伸べられていた。その手のひらは緩く握り込まれている。


 恐らく少女は先程、リーヒへ向かって指を鳴らしたのだろう。到着報告謁見の場で、結界を吹き飛ばした時と同じ動きだ。


 少女はその指のひと鳴らしで、荒れ狂うリーヒの影を消滅させてみせたに違いない。それを示すかのように、少女の周囲には深い青色の燐光が花弁のごとく舞っている。


「わたくしの実力は、今の一撃で証明してみせたつもりだったのだけれども」

「ええ。貴女が取引に関して嘘を言っていなかったということは、十分に分かりました」


 恐らく、この少女には本当にできるのだ。『エゼリアの呪い』を破壊することも、リーヒとヨルの間で結ばれた『血の契約』を棄却させることも。


 それを理解した上で、それでもヨルは迷いなく少女を見据えた。ヒヤリと冷えた視線には、敵意に近い感情が載っているはずだ。


「その上で私は、貴女との取引をお断りさせていただきます」

「理由を教えていただける?」

「貴女は嘘は言っていなくても、公平フェアではない」


 ヨルの言葉に、少女は一瞬だけ考えるような素振りを見せた。


 言いたいことは分かる。『ならば「黄昏のアーベ公爵ント」は貴方に対して公平だったのかしら?』だ。


 ──あの時、他に選択肢はなかった。それは事実だ。


 それでももし、あの瞬間にヨルがリヒトシュテインと目の前の少女、取引相手をそのどちらかで選べたならば。


 ──それでもきっとは、リヒトシュテインを取引相手に選んだはずだ。


「あらあら、まさかフラれてしまうだなんて」


 ヨルに問いかけるような視線を向けていながらも、ヨルが自分になびくことはもはやないと少女には察しがついたのだろう。


 緩やかに腕を下ろした少女は、困ったような微笑をゆっくりと変化させていく。


「それでは、取引の代わりにゲームはいかがかしら?」

「ゲーム?」

「そう。あるいは賭けと言っても良いかもしれませんわ」


 微笑の下から現れたのは、挑みかかるような表情だった。今まで浮かべていたどの笑みよりも猛々しく笑いながら、少女は宙に向けて軽やかに腕を振る。


「貴方達、これをお探しではなくって?」


 少女が宙から掴み出すかのように手にしたのは、ヨルにも見覚えがある首飾りだった。キラリと光を弾く豪奢な首飾りは、日の光の下で見てもどこかヒヤリと冷たさを感じさせる。


「っ!? それは……っ!!」


氷妃の首飾りクラルハイト・ハルスケッテ


 大公姫が襲撃を受けた際に強奪され、今もなお犯人ともども所在不明となっている、エルランテ公国の重宝。


 襲撃犯がナイフを振るった際、血にまみれ、破損していたはずである首飾りは、何事もなかったかのように少女の手の中で静かに光り輝いている。 


「この本国登城口上に臨むにあたって、あの女狐……エルランテ大公姫アイシャ殿下は、エルランテ公国の完全な独立、もしくはエゼリア帝国の威権の失墜、どちらかを為すことを目標としておりますわ」


 ティーカップ以上に重い物など持ち上げられなさそうな細腕で、少女はいかにも重たそうな首飾りを悠々と掲げていた。まるで花冠を持ち上げているかのように軽々と、そして気安く公国の重宝を手にした少女は、首飾りに一切気を払うことなくヨルにだけ視線を注いでいる。


「その目論見を阻止し、本国登城口上を常の形で終わらせる。それが為せれば貴方の勝ち。わたくしはこの首飾りを貴方に返却し、襲撃事件に貴方達が無関係だったことを大公姫側から主張させて、そのまま大人しくエルランテに帰りますわ」

「為せなかった場合は?」


 ヨルの鋭い切り返しに、少女は悠然と笑みを深めた。その笑みの中には、確かに少女が『死神』と呼称されるだけの凄みが見える。


「貴方の身柄は、わたくしのものになる」


 少女の発言に、背後に立つリーヒが再び殺気立つのが分かった。それをヨルは振り返ることなく、リーヒの手元を押さえることで止める。


「ヨル」


 ヨルの後ろ手でサーベルを握る手を止められたリーヒは、非難するような声を上げた。恐らくリーヒにはその動きだけでヨルの考えが読めたのだろう。


 ──ここまで後手に回らされた以上、この賭け自体がこちらに不利だ。だが、それでも。


 ヨル達はこの勝負を受けるしかない。


 断ったところで、大公姫襲撃犯の最有力候補がヨルであるというエゼリア上層部の判断は変わらない。ヨルの身柄がエルランテに売り渡されるのは、正直言って時間の問題だろう。


 ならばこの勝負に勝利を納め、エルランテ側から冤罪を晴らしてもらうしか道はない。


 何より、足掻かないまま唯々諾々と沙汰を待つなど、ヨルの主義に反する。


「この賭け勝負、嘘も偽りも隠し事もないのでしょうね?」

「嘘も偽りも隠し事も、あるかもしれないし、ないかもしれない」


 挑みかかるように少女を見据えるヨルに、少女は楽しそうに目を細めた。その表情と軽やかな言葉から、何が嘘で何が真実であるのかを計ることは難しい。


「ただ、提示した条件には、嘘も偽りもありませんわよ」


 ただ目の前に投げ出された言葉の重みを量り、そこから裏を読むことならば、ヨルにも多少はできる。


 ──条件を履行する意思はある、か……


 今のヨルが信じるに値すると思えたのは、その部分だけだった。ここに呼びつけられてからのやり取りを振り返ってみても、この一点に関してだけは本心だと踏んでいいのかもしれない。


「……分かりました」


 諦めるように、あるいは挑みかかるように、ヨルはその言葉を口にした。


「その勝負、お受けいたします」


 その瞬間、賭けの成立をはやし立てるかのように、強く風が吹きすさぶ。


 自身のオレンジ色の髪と、少女の黒髪が視界を乱す中、その最奥で少女が嬉しそうに笑みを深めたのを、ヨルはどこか冷めた瞳で見据えていた。

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