そこは、贅を極めた空間だった。


 闇夜を払う、何百、何千とも灯された蝋燭。炎が放つ暖色の光は水晶の装飾がふんだんに用いられたシャンデリアによって拡散され、さらに壁にめ込まれた鏡によって部屋の隅々まで届けられる。


 広々とした空間には、場と同じように贅を尽くした装いに身を包んだ貴人達がひしめいていた。女性は色とりどりの華やかなドレスと煌びやかな宝飾品で身を飾り立て、威厳とともに闊歩する紳士達はそんな華達を皆自慢げに引き連れている。


 耳を澄ませば皇宮お抱えの楽団が品よく奏でるワルツの音が心地良く響き、スンッと空気を吸い込めばテーブルに用意された数々の料理と、中庭に咲く花の瑞々しい香りが鼻先をかすめる。


 神の教えが説く『楽園』というものはきっと、このような空間のことを言うのだろう。


「で、最後に『実に警備がやりにくい空間ですね』って思ったでしょ? ヨル君」


 そんな天上の楽園もかくやという空間に放り込まれたヨルは、傍らから響く声に内心を言い当てられた瞬間眉間にシワを刻んでいた。手にした皿から口へ甘味を運ぶ手を止めないまま声が聞こえる方向へ視線を落とせば、ヨルと似たような状態で会場を眺めていたリーヒがさらに言葉を継ぐ。


「ングッ……『経費の無駄もここまで来ると感動ですね』とか、……ハムッ……『威信を見せつけることを優先したせいで警備がザルすぎます』とか、……ムグムグ……『救いようがない阿呆なんてもはや救わなくてもいいんじゃないですか?』とか。ねぇヨル君、このザッハトルテ、最高じゃない?」

「隊長、……ング……、口の中に物が入っている間は、……ッ、ゴクンッ……口を開いてはいけないんですよ。……このタルトも絶品ですよね。ハムッ……、ムグ、お行儀が悪い」


 会場の片隅でヨルの隣に並んだリーヒの手には、やりすぎではないかと思えるくらいに甘味が山盛りにされた皿が握られていた。ちなみにヨルの手にある皿にも、リーヒほどではないがこんもりと甘味が盛られている。


 二人はこの会場へ到着すると、示し合わせたかのように甘味をガッツリ確保し、この場所に陣取っていた。リーヒが魔眼を使って周囲を幻惑してくれているお陰で、佐官クラスの軍服を羽織った少年隊長と、腰の左右にサーベルを一本ずつ挿し落とした新米軍人というこの場に不釣り合いな二人組がしこたま甘味を頬張っていても、周囲はまったく視線を向けてこない。


 ──隊長としては、周囲から甘味をせしめる必要性がなければ、女性陣に囲まれるのは鬱陶しいばかりでしょうしね。


 ここでいつものように御婦人方に囲まれると仕事にならないというのもあるが、恐らくリーヒのことだ。それ以上に珍しい高級スイーツを心ゆくまで堪能するために、任務にかこつけてここぞとばかりに魔眼を使っているに違いない。


 ──いやもう、甘味でも食べなきゃやってられませんよ、この状況。


 甘味を口へ運ぶ手を止めないまま、ヨルは会場の片隅から全体を眺めた。


 リーヒはアッシュに『手を引け』と警告していたはずだ。だが今この空間には祓魔師達によって展開された結界が厳重に張り巡らされている。明らかに招待客ではないだろう軍服にサーベル姿の軍人達の姿も目立つし、招待客自身も帯剣している人間が多い。


 そうでありながら会場は中庭へ続く窓が全て開け放たれており、各所へ続く扉も大きく開放されている。これではヒトも魔物も出入り自由だ。招待客はエゼリア国政中枢部と使節団主要メンバーとされているはずだが、同伴者も多ければ出入りしている使用人も多い。関係者以外の人間が紛れていても判別は難しいだろう。


 ──形だけ各扉に軍関係者が配置されているようですが、招待状さえろくに確認していない。


 こんな状況では事件など起こしたい放題だ。だというのに皇帝側はイライザ特殊部隊に『あらゆる脅威から守り抜け』とまだ言うのだろうか。


 ──せめてそう言うならば、守られようとする態度をですね。


『ヨル』


 クサクサした内心を絶品の甘味とともに飲み込んでいると、脳裏にキルケーの声が響いた。同じ声がリーヒにも聞こえているのか、同じタイミングでピタリとリーヒの手が止まる。


『大公姫、会場に入る』


 その言葉にヨルは会場の上座へ視線を投げた。同時に上座に垂らされた緞帳どんちょうの内で人影が動き、スルリと静かに大公姫・アイシャが姿を現す。


 ──こちら、大公姫の会場入りを確認。


『ロゼ達は、今のところ、周囲に異変はないって』


 ヨルの念にキルケーが答える。直に対面していたら、恐らくヨルの言葉に小さく頷くキルケーの姿が見えたことだろう。


 現在、この会場は周囲をロゼとヴォルフが、中をリーヒとヨルが警戒に当たる形で警護されている。キルケーは建物内の小部屋から会場に耳目を凝らしてくれているはずだ。アッシュはリーヒから撤退勧告を受けてすぐ部屋を飛び出していってしまったから今どこで何をしているかは分からない。だが教会側がこれだけ警戒を露わにしているのだから、どこかには詰めているのだろう。


 イライザ特殊部隊が何を言った所で、この本国登城口上はもはや止まらないし、止められない。ならばヨル達も渋々ながら付き合うしかないだろう。


 ──特にエルランテ側にもイライザが絡んでいるならば……って、おや?


 口の中にリーヒ一押しのザッハトルテを押し込みながら大公姫を見つめたヨルは、大公姫の後ろに付き従っているのが見覚えのない従者であることに軽く目をみはった。


 ヨルから聞いていた『従者』の姿がないことにはリーヒの方が早く気付いていたのだろう。行儀悪くフォークの先を噛みしめたリーヒが不思議そうな声を上げる。


「あれは……?」

「容姿から推察するに、大公姫の筆頭護衛官、ノイル・ウォルグレイ少尉でしょう」


 純白のドレスに身を包んだアイシャの後ろに付き従っているのは、岩のような体躯の巨漢だった。短く刈られた灰色の髪と鋭く光る同色の瞳を持った護衛官は、パーティー会場にいるよりも荒野や戦場に解き放っておいた方が似合いそうな猛々しい空気を身に纏っている。エルランテ公国軍の紺碧の軍服を身に纏い、腰には儀礼用の装飾を施したサーベルを下げているが、サーベルを抜くよりも拳を振るった方が強そうな雰囲気さえある男だった。


 ──本来、大公姫の護衛官として資料に記述があったのは、こちらの方なんですよね。


 正規の護衛を引き連れたアイシャは、到着報告謁見の時と変わらない凛とした空気を纏っていた。白一色のシンプルなドレスは、シンプルだからこそアイシャの清廉な美貌を引き立てている。結い上げた髪にも耳元にも飾りらしい飾りはなく、唯一身に付けられている装身具は首元を飾る豪奢なネックレスだけだった。


 ──あれは……


「『氷妃の首飾りクラルハイト・ハルスケッテ』。エルランテ大公が重要な儀式の時にのみ身につける、大公家の重宝だね」

「やはりそうですか」


 ヨルの視線がどこに吸い寄せられているのか、リーヒには分かっていたのだろう。まるで心を読んだかのようなタイミングで差し込まれた言葉に、ヨルはアイシャから視線をらさないまま呟いた。


『氷妃の首飾り』


 お目にかかるのはもちろん初めてだが、ヨルは以前からその存在を知っていた。


 トップに大粒のダイヤモンドがはめ込まれた銀細工の首飾り。全体にふんだんにダイヤモンドが散りばめられたネックレスは、まるでそれ自身が光を放っているかのようにキラキラとまばゆく光り輝いて見える。灯火の赤みがかかった照明のせいで会場全体がどこか仄暗い中、アイシャの周囲だけ星明りがこごったかのように澄んだ光が集っていた。


 その美しさに、周囲の貴婦人ばかりでなく紳士達までもが羨望せんぼうの溜め息をついているのがヨルがいる位置からでも分かる。


 だがヨルはそのネックレスに目を留めても、同じように浮かれた感想をいだくことができなかった。


 ──女性の細首を彩るには、どうにも重たそうな代物ですね。


 そんな感想しか抱けないのは、ヨルにとって重要なのがその美しさではなく、そこに宿った歴史であるからなのか。


 あるいは『ヨル』という存在が、すでにヒトというくくりから一歩はみ出た存在であるからなのか。


 ──『炎帝の聖剣グラナロート・シュヴェールト』は昼の太陽の光を、『氷妃の首飾り』は夜の星月の光を以て、国に降りかかる災厄を焼き払わん。


 今でこそエルランテ大公家重宝として大公の座とともに継承されている『氷妃の首飾り』だが、元を正せばそれはエゼリア皇室の帝位を示す物だった。かつてエゼリア皇室の一員であったエルランテ初代大公が国を出奔する時に『氷妃の首飾り』を持ち出し、以降エゼリア皇室には『炎帝の聖剣』のみが、エルランテ大公家には『氷妃の首飾り』のみが継承されてきたという話だ。


 ──そんな曰くがある代物をこの場に身に着けて出てこれるというのも、ある意味度胸があると言うべきか、何と言うか。


 乱暴にまとめてしまうと、エルランテの祖はエゼリア皇室から『氷妃の首飾り』を持ち逃げしたとも取れる。はるか昔の話とはいえ、ヨルであったらそんな曰くがある物をこんな場所に身に着けて出てくる度胸はない。


 ──どんなイチャモンをつけられて巻き上げられるか、分かったもんじゃありませんからね。


 特に当代の皇帝は、ヨルに言わせれば愚帝だ。どんなイチャモンをでっち上げて難癖をつけてくるか分かったものではない。それがどんな場所であろうとも、だ。


「ラグニルの小僧と『詠人不知ナーメンローゼ』が出てこなかった時点で無駄足だと思ってたけど、案外意味があったかもね」


 リーヒはアイシャに視線を据えたままニヤリと笑みを浮かべたようだった。魔眼を使うために本来の色を取り戻していた真紅の瞳が、その笑みを受けてさらに色を深くする。


 そんなリーヒに、ヨルもアイシャから視線を逸らさないまま頷いた。


「ええ。は明らかに私達の領分です」


 ただの力のない者がまとえば、それはただの豪奢な装飾品。


 だが力ある者が纏えば、それは強力な呪具となる。


 アイシャはどうやら後者であったらしい。今『氷妃の首飾り』が放っている光は、単純にダイヤモンドが照明を弾いたものではなく、首飾りそのものから放たれる祓魔の燐光だ。作用はアッシュが祓いの時に用いる『神の奇跡』に近いが、力の性質から言えば恐らくロゼの『魔女術ウィッチクラフト』がこぼす燐光に近いだろう。


「『氷妃の首飾り』の本来の力を引き出せる使い手。なるほど、確かに『正当なる国主の血筋』だ」


 エゼリア帝国の初代は夜の住人達と交流する力を持ち、彼らの助力を得てエゼリア帝国という国を開いた。その来歴から考えれば、本来ならばエゼリアという国を治めるべきは彼らであるというのが『公爵ヘアツォーク』たるリーヒの見解なのだろう。


「力の属性は魔を祓うたぐいのものです。すぐに何かが起きるとは思いませんが、この場に展開されている結界や、こちらが振るう力にどう影響を与えてくるかは未知数かと」


 リーヒの皮肉を聞き流したヨルは今考えるべきことに意識を向け直す。そんなヨルに一度肩をすくめながらも、リーヒは大人しく梨のタルトを口に押し込んだ。ヨルが修正した話の流れに真面目に付き合ってくれるつもりらしい。


「率直におうかがいしますが、隊長はあの光を間近にしても平気なのですか?」

「あの首飾りを自分の首に巻いて、この姿でワルツを踊ってもいいよ?」


 つまり『まったく平気である』ということだろう。


 ──ということは、向こうの『公爵ヘアツォーク』も同様に影響は受けはしない、ということか……


 一瞬、アイシャがあの首飾りを持ち出してきたからあの二人は席を外したのかとも思ったが、どうやらそうではなかったらしい。


 ならばなぜ、と考えた瞬間、頭の中に直接声が飛び込んでくる。


『私の力も、多分、大丈夫。ちょっと目がチカチカするだけ』

「キルケーさん、くれぐれも無理はしないように」

「ロゼの魔力とも相性は悪くないはずだ。根本が同じだからね」


 ヨルがキルケーに釘を刺すのと、リーヒが考察を述べるのはほぼ同時だった。そのどちらにもキルケーがコクリと頷いたのが、なぜか気配で分かる。


「ならばアッシュさん……というよりも、祓魔師達が振るう力とは相性が良くないのでしょうか?」


 矢継ぎ早に交わされる意見に疑問を差し込みながら、ヨルはアイシャを観察する視線も逸らさない。


 ヨルの視線の先にいるアイシャは、フロアに数歩踏み出した辺りでエゼリアの高官達と言葉を交わしているようだった。そこにいまだにエゼリア皇帝の姿はない。大方、『エルランテの小娘なんぞ、いくらでも待たせておけば良い』とでも考えているのだろう。あるいは昼間の事件のせいで怖気付いて、この場に出てくることを尻込みしているのか。


 ──昼間のことと言えば。


「もしかして、到着報告謁見の会場で結界を破ったのは『氷妃の首飾り』の力だったのでしょうか?」

「さすがにそれはないんじゃないかな?」


 ムグムグ、とどこか不明瞭な発音でリーヒが答える。その声に思わずリーヒへ視線を向けると、リーヒは実に行儀が悪いことに口一杯にケーキを頬張ったままヨルに口を利いていた。


「ほら、アッシュ君、言ってたじゃない? 『悪魔召喚に耐えうる結界を指一本で気安く破られた』って。『氷妃の首飾り』にそれだけの力はないし、いくら力を扱えると言っても自身にもそれだけの力はないはずだ。それに……」


 そこで言葉を切ったリーヒは、意味深にヨルを流し見た。その意味は恐らく『現場を見ていたヨル君になら分かるでしょう?』だ。


 その視線にヨルはハッと我に返る。


 ──そうだ。結界を破ったのは、大公姫ではなく『詠人不知ナーメンローゼ』だった。


「未知の力に畏怖したくなる気持ちは分かる。だけどね? ヨル君。畏怖するばかりじゃ、正しい道筋を見誤るよ」


 この局面に至っても、リーヒはまだまだ余裕を失っていない。むしろこの場に『深更のミッター公爵ナハト』と『詠人不知ナーメンローゼ』が出てこないと分かったせいか、先程よりもリーヒの肩からは力が抜けたような気もする。


 その余裕とともに、リーヒはヨルに笑みを向けた。


 毒が滴るかのような、無邪気でありながら邪気だらけで、見目に似合わぬようでありながらこの上なく様になる、妖艶な笑みを。


「まぁ、別に、僕はどちらでも構わないんだけどね?」

「……隊長」


 この笑みを前にすると、思い出す。


 この麗しきバケモノは、決してヒトの味方でもなければ、ヨルの味方でもないのだと。


 リーヒにとって目の前の事象は、すべからく悠久の生に対する暇潰しだ。


 今回は『深更の公爵ミッターナハト』と『詠人不知ナーメンローゼ』という夜の住人が関わっているから本気を垣間見せているだけで、それさえなければあとはどう片が付こうとも……極論を言ってしまえば、そこに関わる事象がリーヒに納得のいく形で片付けさえすれば、あとは両国間で戦争が起きようが、その末に両国が滅びようが、暇さえ潰せればどうでもいいに違いない。


 ──たとえがその騒動に巻き込まれて、命を落とそうとも。


 その過程が面白ければ、リーヒはきっと文句を言わない。この妖艶な笑みとともに、ヨルが破滅へ向かっていく様を特等席から眺め続けるだけだろう。


 その純然たるに、ヨルはフォークを手にした指先に力を込める。同時に、メガネに隠された瞳には隠し切れない険が宿ったことだろう。


 ──お前の楽しみのためだけに、俺が踊ると思うなよ。


「隊長」


『口に食べ物を入れたまま喋るのはお行儀が悪いですよ』と、注意を飛ばすべく、ヨルは口を開く。


 だがそれよりも、会場の空気がサワリと揺れる方が早かった。ヨルはその変化に顔をね上げるが、それよりも表情をかき消したリーヒがアイシャを見やる方が早い。


 ヨルの視線がアイシャを追う。その瞬間、リーヒの手からフォークと皿が落ちた。


 ──影。


 いきなりどこからともなく現れた影が、高官達の間をすり抜けてアイシャに飛びかかる。影から放たれた銀の閃光が、アイシャの首筋を撫でる。


 その『影』がエゼリア帝国軍の漆黒の軍服に身を包んだ小柄な人影で、銀の閃光が振るわれたナイフの残像であると理解できた時には、アイシャの純白のドレスを彩るかのように鮮烈な真紅の花が咲いていた。


 フワリと広がる鉄錆に似た香りをなぜか『甘い』と感じたのは、高位吸血鬼・リヒトシュテインと契約を交わしたことによってヨルの本質が吸血鬼寄りに変性してしまっているせいなのか。あるいはもっと深部までヨルを蝕んでいるいにしえの大蛇の念が、今でもエゼリア皇帝一族の血肉を欲しているせいなのか。


「キッ……キャァァアアアアアッ!!」


 一瞬、理解が追いつかず呆然としたヨルの意識を今に叩き戻したのは、アイシャの近くに立っていたせいで血しぶきを被ってしまった貴婦人が上げた喉も裂けんばかりの絶叫だった。その声に我に返った時には、すでにヨルの腰から己のサーベルを抜いたリーヒが前へ飛び出している。


「っ!? 隊長!」


 ヨルはその後を追わず、その場から周囲を見回した。


 アイシャが襲撃された。軍服に身を包んだ小柄な人影に、至近距離から斬りつけられた。


 純白のドレスを己の血で汚したアイシャは、グッタリとその場に倒れ込んでいる。出血部位は喉から肩の辺りだ。周囲に血が飛び散るくらい派手に出血しているが、即死ではなかったらしくアイシャの胸は激しく上下している。護衛官のノイルが応急処置をしながら医者の手配を叫ぶ声がフロアにあふれた恐慌を突き抜けて響き渡っていた。


 そのアイシャの首に、豪奢な首飾りの姿がない。


「っ!」


 ヨルは即座に焦点をアイシャから襲撃犯の方へ切り替えた。


 だがこれだけ人があふれたフロアの奥で事件が起こったというのに、逃走する犯人の姿も見えなければ、犯人を取り押さえた形跡も見当たらない。警護に当たっていた人間も一体何が起きたのか理解が追いついていないのか、オロオロとするばかりで役に立ってはいなかった。


 ──どうなって……!?


「ヨル君! 外だっ!!」


 並の人間よりも鋭い己の感覚に襲撃犯の気配が引っかからないことに、ヨルは鉄仮面の裏で動揺する。


 そんなヨルの耳に人混みの中から取って返してきたリーヒの声が突き刺さった。ハッと我に返った時には、ヨルの傍らに舞い戻ったリーヒがヨルの手を掴んで廊下へ続く扉に向かって走り出している。


「隊長っ!?」

「特殊能力者だ。恐らくキルケーちゃんと同じタイプ」


 リーヒをして捕らえられなかったのかとヨルが驚きに目をみはった瞬間、リーヒは足を止めないまま低く呟いた。その声にはしてやられたことへの苦みがにじんでいる。


「サーベルが届く直前に、こっちをからかうかのようなタイミングで忽然こつぜんと姿を消した。あれは神にも精霊にも依らない力の使い手だ」


 リーヒに引きずられるようにして走り出したヨルは、己の足に力を込め直しながらその言葉に目をすがめた。


 常人には扱えない力を振るうモノは、その力の由来からいくつかの種類にグループ分けすることができる。


 神に依る力を振るう者が祓魔師エクソシスト。精霊に依る力を振るうモノが魔女。リーヒの魔力やヨルの魔眼も性質は魔女の魔力に近い。


 そしてそれらとは分類をことにしているのが、千里眼や念話といった超能力だ。神にも精霊にも依らないヒトの特殊体質に由来するその力は、どれだけ祓魔師と魔女が結界を張り巡らせようとも縛れるモノではない。キルケーの力がこれに分類される。


「まさか瞬間移動能力者テレポテション!?」

「多分、間違いない。そうじゃなかったら僕らに気付かれずにあんなことを仕出かすことも、僕のサーベルから逃げおおせることもできないはずだ」


 己の任意の場所に、遠く離れた場所から瞬時に移動できる超能力が『瞬間移動能力』と呼ばれるものだ。そんな超能力を持っている人間がいるならば、どれだけ厳重な警備を敷こうとも意味などない。


「大公姫の首から『氷妃の首飾り』が消えていました。襲撃犯が?」

「うん。凶器はナイフ。大公姫を一撃するのと同時に、外れた首飾りを掴んで逃亡した。……チッ、これじゃらちが明かない!」


 今や式典会場は混乱の渦に叩き込まれていた。会場の惨劇を目撃していた参加者は外へ逃げ出そうと出入口に詰めかけ、逆に現場を目撃していない人間は状況を確かめようと中へ押しかけてくる。


 何とか廊下へ出ることには成功したヨルとリーヒだったが、廊下も人でごった返していて犯人を追うどころか身動きひとつ取ることさえ難しい状況だった。成人男性に近い体格のヨルでさえそんな状況なのだ。小柄な少年の体躯で抜き身のサーベルを携えているリーヒなど、サーベルを余計な所に引っ掛けないようにするだけで精一杯だろう。


「隊長……っ!?」


 ついに押し寄せる人並みに負けてリーヒの手がヨルの手首から離れる。


 その感触にヨルが足元に視線を投げた瞬間、ゾワリと周囲を満たす闇がうごめいた。思わずハッと頭上に視線を投げた瞬間、突如足元が泥沼になったかのようにズブズブとヨルの体が床の中へ沈んでいく。


 ──これは……隊長が操る影!?


 本能的に暴れ出しそうな体を理性で必死に抑え込み、沈み込む感覚に抗うことなく体を任せる。


 視界が闇に閉ざされ、聴覚から音が消えるまで瞬きほどの間もなかった。水の中に突き落とされたかのようにたゆたうヨルの肩に、不意にヨルよりも大きな手のひらが添えられる。


『このまま襲撃犯の元まで向かう』


 次いで膝裏にも腕が回った感触があった。


 頭に直接響く声は、常に聞いている少年のそれではない。深く、低く、ベルベットのような艶を帯びた成人男性のものだ。


 ──まさか会場でしこたま甘味かっ喰らってたのって、時に俺の血の代わりに甘味で蓄えた力で本性に立ち返るためだったのか!?


 己が今どんな扱い方をされているのか覚ったヨルは、内心だけで舌打ちを放った。実際に舌を鳴らさなかったのはそんなことを気にしている場合ではないと分かっていたのと、水中にいるのに似た感覚に反射的に息を止めていたせいだ。


!』

『位置、特定しました。誘導します』


 リーヒが操る影の中にいても、界を貫き万物を見通す目を持つキルケーには何ら問題はないようだった。


 先程までと変わらずクリアな声が響いた瞬間、周囲を取り巻く影が急速に蠢く。どうやら己自身とヨルを影に同化させ、影伝いに襲撃犯を追撃するつもりらしい。


 夜は、世界の全てが影に沈む時間だ。たとえ月と星が夜空を照らしていようとも、夜の君主たるリヒトシュテインの行く手を阻むものなど存在しない。


 瞬間移動能力でどこへ逃げ込もうとも、夜の闇そのものから逃げ出すことなどできはしない。


『見つけた』


 ほどなく低い笑みを含んだ声がヨルの脳裏に響いた。


 その瞬間、体が浮上する感覚を覚えたヨルは反射的にきつく目を閉じる。そんなヨルの姿がこの闇の中でも見えているのか、ヨルの体を支える腕に力が込められた。


 だがその腕は闇が弾けて夜気がヨルの頬を撫でた瞬間にはヨルの体を放り出す。その展開も予測していたヨルは、空気を吸い込むと同時に目を開き、両手と両足で四つ足をつくように床に着地していた。


 ──ここは?


 影から抜け出した先に広がっていたのは、闇に沈んだ空き部屋だった。調度類が一切置かれていない部屋は、空気が淀んでいてほこりっぽい。雰囲気は物置に近いが、部屋の広さと物のなさから考えて、今は使われていない舎殿の一室だろう。


 そんな風に冷静に状況を分析するヨルの頭上をリーヒのサーベルが薙いだ。巻き起こされた剣風は影を纏い、その軌跡の先までをも巻き込んで斬撃を繰り出していく。


「のわっ!?」


 その攻撃に、耳慣れない声で悲鳴が上がった。『悲鳴』ではあるがその声はどこか間延びしていて余裕を残している。


 リーヒの、いやの斬撃を前にしてそんな呑気な声を上げられている時点で、相手は十分にだ。


「ちょっ、ちょい待ち! あんたら今一体どこから現れて……っ!? のわぁっ!! ちょっ、問答無用っ!?」


 サーベルを振るうリーヒは、本性である二十代前半の青年姿を露わにしていた。少年時の面影を残しながらも凶悪なまでに美しく成長した顔に表情らしい表情はない。ただ闇の中に炯々と真紅の瞳を輝かせたリーヒは、その長い手足を存分に活かし、黒髪と緋色の髪紐を優雅になびかせながら、容赦なくサーベルを振るい続ける。


 ヨルは態勢を低く保ったままリーヒの邪魔にならない場所まで下がると、リーヒの攻撃対象に視線を向けた。


 ──少年?


 そこまで広くない部屋の中、リーヒのサーベルから放たれる斬撃を跳ねるように避け続けているのは、ヨルよりも数歳歳下かという見目の少年だった。焦げ茶の髪に同色の瞳をした少年は特に特徴らしい特徴もなく、下町の人混みに紛れ込んでしまえばすぐに埋没してしまいそうなごく平凡な容姿をしている。


 だが今その少年は右手に血濡れたナイフを、左手に血しぶきが飛んだ『氷妃の首飾り』を手にしていた。纏っている軍服は微妙に体の線に合っていない。普段軍服を纏う人間ではないということが、そんな微かな違和感から分かる。


「えっと、あんたが『黄昏の公爵アーベント』だよな? 何か雰囲気がラグニルさんにそっくりだし」


 ──この少年が襲撃犯で間違いない。


 相手の目的も所属も分からないが、状況的にそのことだけは間違いない。ならばこの少年はどんな手段を用いてもここで確保すべきだ。


 ヨルは少年から注意を逸らさないまま二人の会話に耳を澄ます。


 右手はサーベルの柄に、左手はメガネにかかっていた。ヨルが『蛇眼』を使うことにリーヒは難色を示すだろうが、この際そんな小言は聞いていられない。


「……お前、そんな口を叩くということは」


 対するリーヒは少年の言葉に興を引かれたのか、サーベルを操る腕を一旦止めた。少年の出方を探っているのか、真紅の瞳が少年に据えられたまま軽くすがめられる。


 そんなリーヒに何を思っているのか、少年は真正面からリーヒを見つめ返すと無邪気な笑みとともにポンポンと言葉を続けた。


「わ! そういう顔をするとますますラグニルさんにソックリだわ! 『四大公爵ヘアツォーク』ってさ、顔が良くないとなれないのか? それとも『四大公爵ヘアツォーク』になると顔面にイケメン補正がかかるとか?」


 少年の言葉にリーヒは答えなかった。ただ瞳にはっきりと険が宿り、口の中で小さく舌打ちがこぼれる。


 ──……! この少年、リヒトシュテインの魔眼が効いていない……!?


 そんならしくない不機嫌の発露に内心で首を傾げたヨルは、ようやくそこでさらなるに気付いた。


 リヒトシュテインの言を信じて良いならば、彼は真祖に名を連ねる高位吸血鬼だ。ひとたびその魔眼に魅入られてしまえば、抗うことは誰にもできない。常の『リーヒ』の姿ならばまだしも、本性たる今の姿でリヒトシュテインが意志を込めて発現させた魔眼に抗うことは、恐らく主と存在が同化しかけているヨルでも難しいことだろう。


 だがそれを、少年は何てことないとばかりにやってのけている。さらには余裕のある態度で種明かしまで始めた。


「あんたの存在はラグニルさんから聞いてたからさ。うちの嬢さんとミャーさんとルピアとラグニルさん当人と……まぁ、俺らの総力を結集させて魔眼対策はさせてもらったんだよね! 後ろの砂金君の蛇眼も多分効かないよ? うちの蛇眼遣いの蛇視も跳ね除けられたし!」

「……お前の目的は?」


『まぁ! 実証実験も俺がやらされたんだけどね! 失敗したら、俺その場で死んでたんだけどね!』と続いた戯言ざれごとに、もはやリーヒは耳を貸さなかった。スッと空気を張り詰めさせたリーヒの後ろで、ヨルも密やかに緊張を高める。


 ──この少年は、私が『蛇避けの砂金』であることを知っている。


 建国の時からエゼリア皇帝一族を苦しめ続ける呪い。その存在自体は祖を同じくしている以上、エルランテ側が把握していてもおかしくはない。


 だがその難をエゼリアが同族から生贄を差し出すことで乗り切っていることも、当代の贄がヨルであることも、エルランテ側は本来知るよしなどないはずのことなのだ。


「発言から推察するに、お前は『詠人不知ナーメンローゼ』の配下の者なのだろう。仮にもエルランテ側であるはずのお前が自分達の国の次期おさたるエルランテ大公姫を襲撃し、今、私にそのような口を叩く」


 目的が見えてこない敵に、リーヒとヨルは揃って警戒心を募らせる。その空気を察したのか、少年は対面してから初めてスッと口をつぐんだ。


 だがその顔に躍るイタズラ好きの猫チャシーレ・カッツェのような笑みは、消えるどころかリーヒが言葉を重ねれば重ねるほど存在を深めていく。


「お前達は一体何を目論み、私の領地に立ち入った?」

「俺はただの使者さ、『黄昏の公爵アーベント』。嬢さんの考えは、嬢さん本人があんた達にきちんと説明する。俺の仕事は」


 その笑みが、不意に消えた。


 いや、正しく言うならば、笑みは残したまま、少年の姿が消えた。


 だというのに声だけが、ヨルの耳元で響く。


「あんた達が嬢さんとちゃんと会ってくれるように、露払いをすること」

「っ!?」


 それが異能力や魔法のたぐいで届けられた声ではなく、本当に耳元間近で囁かれた声であるのだと気付いたヨルは、反射的に横っ飛びに体を逃がしていた。


 だがそれよりも一瞬早くヨルの両肩に何かが降りかかる。反射的にへ手を伸ばした瞬間、ネチャリと不快な感触がヨルの手に伝わった。


 ──え?


 その感触を確かめてから初めて、フワリと鉄錆の香りがヨルを包み込む。明らかに不快な類のにおいであるはずなのに、ヨルの本能が『甘い』と歓喜する、あの鮮血の香りがヨルの鼻先をくすぐった。


「ヨルッ!!」


 意識が一瞬、その香りに引き付けられる。


 だが『主』の声はたった一言でヨルの意識を自分へ引きずり戻した。ハッとヨルが我に返った時には、ヨルの耳に直接声を吹き込んでいた少年はヨルの傍らから姿を消し、再びリーヒと対面する位置に立ち位置を戻している。


「俺の名前はレオ。レオ・オデュニア。『エルランテの蒼百合』に仕える『インビジブル・キラー』。ま、最近は『運び屋ヘルメス』っていう洒落しゃれた二つ名で呼ばれることも増えたけども」


 おどけたように名乗りながら、少年は今までの言動には似つかない優雅さでリーヒに一礼を向けた。その胸元に添えられた手の中から、シャラリと『氷妃の首飾り』の端がこぼれ落ちる。


「っ、待て!!」


 その光景を見た瞬間、ヨルの体は無意識のうちに前へ出ていた。まるでそれを予想していたかのように、ヨルの足が何かに引っかかる。


 ──こんな時に何が……!


 苛立ちながらも、ヨルの視線は己の足元に向いていた。


 その瞬間、夜目が利くヨルの目はそれが先程まで少年の手に握られていた凶器のナイフであることに気付く。


 ──そういえば、


 なぜ先程の自分は……そして今も、こんなにも鮮血の香りに包まれているのだろうか。


「また会おうぜ、ニセモノのお二人さん」

『ヨル! 逃げてっ!!』


 ──キルケーさん?


 チェシャ猫のような笑みを残して、少年の姿は不意に掻き消える。


 その瞬間、少年が消えたことによって生まれた空白を埋めるかのようにバタバタと近付いてくる足音が響いた。ヨルとリーヒがキルケーの絶叫の意味を理解した時には、すでに部屋の扉が外から荒々しく開かれている。


「お前が大公姫を襲撃した賊だなっ!?」


 サッとカンテラが差し出され、その光に目眩めまいがした。


 だがその光を受けてようやく、ヨルは己が立たされた状況を理解する。


「……っ!?」


 ヨルの肩に着せかけられ、ヨルの手に不快な感触を残したのは、少年が着ていたはずである軍服の上着だった。ヨルが纏っている物と同じサイズの軍服は、鮮血の香りを振りまくだけではなく、羽織ったヨルの体にもジワジワと鮮血を染み込ませていく。


 ──ハメられた……っ!!


 足元には血にまみれたナイフ。肩には返り血が付着した軍服。


 あの場にいた人間は皆、大公姫を襲撃した犯人を『漆黒の軍服を纏った少年』とだけ記憶しているはずだ。突然の強襲撃に混乱した現場は、襲撃犯の詳しい容姿や髪の色など些末なことなど覚えていないに違いない。さらに嫌なことに、あの少年とヨルは背格好や年齢が元から似ている。


 ここがどこなのか、詳細な場所は分からない。だが移動時間から言って皇宮内であることは確かだろう。


 今宵の皇宮で血に濡れた軍服とナイフを持っている人間がいれば、それは十中八九襲撃犯だ。ヨルが犯人を追う側であれば、まず以ってその部分は疑わない。


『俺の仕事は、あんた達が嬢さんとちゃんと会ってくれるように、露払いをすること』


 エルランテのイライザ暗殺部隊が何を目論んでいるのかは、現状さっぱり分からない。


 ただ分かるのは、彼らがこの国にやってきた時から今までずっと、イライザ特殊部隊が彼らの手のひらの上でずっと踊らされているということだけ。


「この建物はすでに包囲されている!」

「妙な動きを見せれば斬り捨てる!!」

「武器を捨て、両手を頭の後ろに回せ!」


 言い逃れが通用しない状況に、噛み締めた奥歯がキリッと不快な音を立てる。


 そんなヨルの傍らでは、抜き身のサーベルを手にしたままのリーヒが、冷めた瞳でこの茶番劇を眺めていた。

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