【Fräulein】

 ヒトという生き物は本当にかしましい上に、愚かだ。


 騒いでもどうにもならないことで騒ぎ、走り回ってもどうにもならないことで走り回る。まるで必死に滑車の玩具がんぐを回し続ける野鼠のようだ。


 帝国軍各隊長がズラリと顔を並べた議場に引き出されたリヒトシュテインは、己に割り当てられた椅子に座したまま、ゆったりと目を閉じていた。


 優雅に足を組み、肘掛けについた左手に頭を預けてうつむきぎみに座しているリヒトシュテインの姿は、傍目には眠っているようにも見えるだろう。喧々けんけん諤々がくがくとした議論……もといただのがなり合いは、そんなリヒトシュテインの頭上を飛び交うかのように展開されている。ここにリヒトシュテインが座っていようがいなかろうが、彼らにとっては関係ないのだろう。


 何せ彼らがここでしたいのは、今後を見据えた建設的な議論などではなく、起きてしまったことに対する責任のなすり付け合いなのだから。


「……おい」


 そんな空間の中で、初めて明確に自分に向かって放たれたと分かる声に、リヒトシュテインはユルリと瞳を開いた。


 顔を向けなくてもそれだけの反応で声は届いていると判断したのだろう。この場における己のは不機嫌ながらもリヒトシュテインのみに届くようにひそめた声で言葉を続けた。


「一体何を考えている」

「何、とは?」


 気だるげに紡がれた声は、甲高い少年のものではない。己の耳に馴染んだ、低い成人男性のものだった。


 この声を己の花嫁が『カスタードのようになめらかで、チョコレートのように甘い』と実に美味しそうな言葉を用いて表していることを、リヒトシュテインは知っている。


 常ならばそのことを思っただけで多少己の機嫌が良くなることをリヒトシュテインは自覚しているが、残念ながら今はそれも効果が出そうになかった。


 それは己がこんなつまらない場所にあえて本性のまま座していなければならないことへの不満からなのか。あるいは傍らにいるのが気に入りの花嫁ではなく不愉快な神の犬であるからなのか。


 もしくはどこぞの馬の骨とも分からぬ輩に、己の庭を踏み荒らされたせいなのか。


「お前はこんな場所に興味なんてないだろうが」


 ジワリ、と色を変えかけた瞳を緩いまばたきひとつでなだめ、リヒトシュテインは不愉快な問いを続ける目付へ視線を投げた。


 リヒトシュテインが本性のままであることに警戒心を募らせているのか、あるいはリヒトシュテインの行動に不信感を抱いているのか、リヒトシュテインが座す椅子の傍らに直立不動で控えた目付は、常よりも深いシワを眉間に刻みながら視線だけをリヒトシュテインに向けている。


「私をこの場に呼び出したのは、お前達の方だったはずだが?」

「お前自身が応えるとは誰も予想していない」

「しかし召集令状は私宛に来ただろう?」


 リヒトシュテインの物言いにギリッとアッシュは奥歯を噛み締めた。聖書を握る指に必要以上に力がこもり、硬い表紙に押し負けた指が変な角度で曲がっている。


 その様に、リヒトシュテインは口元にだけ優雅な微笑みを浮かべてみせた。


 赤く染まった満月を彷彿させる、艶と毒がしたたる笑みを。


「大方お前達は、私の花嫁をこの場に招いて、責任追及のために吊るし上げるつもりだったのだろう。ああいう呼び出しには大抵、が応じるからな」


 静かに、あくまで緩やかに言葉を並べてやれば、視界の端でアッシュがヒクリと喉を震わせたのが分かった。恐らく図星だったのだろう。


 そしてさかしらなこの犬は、それを見破られた暁にはリヒトシュテインがどんな行動を取るかにも、すでに理解が及んでいる。


 それが分かっているからこそ、リヒトシュテインはゆっくりと視線を上げるとアッシュに視線を据えた。カチリと視線を合わせてから表情をかき消し、瞳を本来の色に戻してやれば、たったそれだけで傲慢な神父は喉を潰されかけているかのようなうめき声を上げる。


「お前達は、本当に簡単に私の言葉を忘れるのだな」


 あえて視線には殺意も不満も載せなかった。


 こいつには、それらを向けてやる価値さえない。


「私を使い続けたいならば、せいぜい私と私の花嫁に敬意を払えと私は常々言っているはずだ。私がお前達に使われてやるかどうかは、全て私の気分次第だともな」


 ゆっくりと、淡々と、恐怖とともに意識に刻み込むように言葉を紡いだリヒトシュテインは、もはや興味は失せたかとばかりに顔の位置を戻した。再びまぶたを閉じたリヒトシュテインは、会話の終了を宣言する代わりに告げる。


「次はない。今度こそ忘れるな」


 ──まぁ、ここまで言ってやれば、これ以上の詮索はされまい。


 リヒトシュテインは胸中で小さく呟くと、アッシュに気付かれないように小さく口元に笑みを刻んだ。


 ──まったく。こんな風に私をこき使うなどとは。


 こんな不敬を考えつくモノなど、世を広く見回してもしかいまい。


 さて、そんな不敬で愛おしい我が花嫁には、どんな仕置きを課してやろうか。


 そのことに思いを馳せた瞬間だけ、リヒトシュテインは己の気が晴れたような気がした。




  † ・ † ・ †




 ──いえ、隊長が軍議に出席することは、本来ごく当たり前の職務なんですが?


 キルケーを中継して聞こえてきた声に、ヨルは思わず内心でツッコミを返した。


 恐らくこのヨルの声もキルケーを介してリーヒにまで届いてしまっているだろう。何なら意識を共有しているロゼとヴォルフにも目の前で聞かれてしまっている。


 なぜ原因となる声を発しているのはリーヒなのに、聞かされているヨルの方がいたたまれない気分にならなければならないのだろうか。常にリーヒの内心を聞き知っているキルケーはともかく、普段はその声を聞くことがないロゼとヴォルフが、生々しくリヒトシュテインの声音で紡がれる艶に溢れた言葉に若干引きった顔をヨルに向けているのが分かる。


 ──聞かれていると分かっているからこそ、聞かせているんでしょうけどね!


 つまりこれはヨルに対する嫌がらせだ。一々気にしていては話が進まない。


 ──何せ私達は、かなり後手に回ってしまっていますからね。


 一行が詰めているのは、廃教会の礼拝堂だった。イライザ特殊部隊に会議室として与えられている場所であり、軟禁場所として用意されている場所でもある。


 歓迎式典の会場で、エルランテ大公姫がエゼリア帝国の軍服を纏った少年に襲撃され、重傷を負った。さらに襲撃犯はエルランテ大公家の重宝である『氷妃の首飾りクラルハイト・ハルスケッテ』を強奪して逃走。大公姫は一命を取り留めたが、襲撃犯も『氷妃の首飾り』も発見されていない。


 事件から一夜明けた今、イライザ特殊部隊は襲撃犯の最有力候補者としてこの廃教会に押し込められている。


 ──まぁ、現行犯としてあの場で取り押さえられなかっただけ、御の字でしょう。


 軍議の場にいるリーヒ、声を中継しているキルケーの両者を介して軍議を盗み聞きしながら、ヨルは何度重ねたか分からない嘆息を再び重ねた。


『この建物はすでに包囲されている!』

『妙な動きを見せれば斬り捨てる!!』

『武器を捨て、両手を頭の後ろに回せ!』


 昨晩、犯行の証拠品とも言える血濡れのナイフと軍服を押し付けられた状態でヨルとリーヒはエゼリア帝国軍の追手に囲まれた。なぜ彼らがあの場所を特定できたのかはいまだ不明だが、部屋に突撃してきた兵でも十人以上、キルケーの話によれば建物は小隊規模の人数で包囲されていたという。


 そんな中をヨルとリーヒが取り押さえられることなく突破できたのは、ひとえにリーヒが魔眼を行使して部屋に突撃してきた人間達の認識を撹乱させ、影伝いに現場から離脱するという荒業を行使できたからだ。リーヒ曰く、あの場に突撃してきた人間達の記憶は『現場にはすでに誰の姿もなかった』という形に塗り替えられているらしい。


 仮にあの場でリーヒが大人しく取り押さえられるという道を選んでいたら、ヨルは今こうして呑気に軍議の盗み聞きなどしていられなかっただろう。最悪の場合、ヨルが蛇眼の力で相手の意識を破壊するという方法もあったが、あの暗闇の中で蛇眼が発動するかどうかは賭けになっただろうし、心の破壊という形で蛇眼の力を使うのは加減が難しい。下手をすればあの場で廃人を生み出しかねなかった。


 ひとまず現状、リーヒの機転のお陰でヨル達に表側の捜査の手が届くことはない。


 とはいえ、差し迫った窮地を脱することができたとは言い切れないのが現状である。


 ──隊長が本性で力を振るったことは、国の上層部にも教会にも知られてしまっていますからね。


 元々イライザ特殊部隊は今回の一件に『エルランテ公国本国登城口上がつつがなく終わるよう、あらゆる脅威から守り抜け』という勅命の下に巻き込まれている。


 ヨル達は勅命に従い全力を尽くしたわけだが、その結果は大公姫負傷に重宝の盗難、歓迎式典を潰されたエゼリア帝国の面目は丸潰れと惨憺さんたんたる結果に終わった。皇帝側が散々リーヒからの忠告を無視して暴走した結果の自業自得とはいえ、イライザ特殊部隊が勅命を果たせなかったという事実は事実だ。


 さらにそこに加えて今はリーヒことリヒトシュテインが本性で力を振るったという事実もある。


 リーヒの存在を恐れている国の上層部は、許可なき力の行使をリーヒに許していない。リーヒが皇帝の命に縛られることはまずないし、今までは黙認もされてきたことだったが、今回はとにかくタイミングが悪かった。リーヒの力がエゼリア帝国軍側に向けられたということもあり、皇帝側は今回のリーヒの行動に危機感を募らせている。


 総合して言えば、イライザ特殊部隊への風当たりは現在かなり強い。その結果、ヨル達イライザメンバーは昨日の夜からここに軟禁されていた。ご丁寧にアッシュが結界を強化していったせいで、ヨルは息苦しくて仕方がない。


 ──軟禁される前に、皇帝伝令役のリッツランさんには何とか事情を伝えることはできましたが。


 軍議がこの状態ということは、ヨルがもたらした情報もどこまで報告が届いているか分かったものではない。


 元々『イライザ特殊部隊』は『おおやけには存在しない』と言われている部隊だ。表沙汰にできない夜の住人達に関わる事件を解決するために設立された部隊は、帝国の切り札とされている一方で監視対象を手元に囲い込むための檻としても機能している。


 平素ならば、イライザに向けられる複雑な感情は『未知への畏怖』という形に落ち着く。『手を出せばどんな報復をされるか分からない』という恐怖が効いている分、イライザが皇帝の気まぐれで迫害されるということはほぼない。


 だが今は任務が失敗に終わった上に、リーヒが暴走したとも取られかねない状況だ。常々愚かな皇帝がその事実を前にして鬼の首を取ったかのごとくイライザに難癖を付けてくる可能性は完全にないとは言い切れないだろう。


 ──『存在しない』とされているはずである第三十一番イライザ特殊部隊の隊長を正規の軍議の席に呼びつけた、という事実が、その推測の裏付けになっているような気がするんですよね。


 昨晩の事件勃発を受け、現在事件の解決および皇宮内の警護、今後の舵取りに関して、帝国軍各隊長と皇帝側近、さらに教会上層部まで交えた対策会議が執り行われている。リーヒが出席している『軍議』がその会議だ。


 その召集令状をこの場所まで届けに来たアッシュは、当然のごとくリーヒではなくヨルを議場に引っ立てようとした。常日頃ヨルが隊長付副官の身でありながら皇帝側との繋ぎから書類仕事まで全ての事務仕事を請け負っていることを思えば、確かに今回の会議もヨルが代理で出席してもおかしくはなかったのかもしれない。


 だがヨルはあえてリーヒにこの役を投げた。


『隊長、呼び出されたのはですよ』


 少年の姿に戻って長椅子の上に丸まり、ヨルの膝を枕にしてうとうとと微睡まどろんでいたリーヒは、ヨルからの指名にパチリと目を開いた。


 アッシュが登場してもお構いなしで眠っていたリーヒだったが、一応聞き耳を立てる程度には意識が覚醒していたらしい。


 ヨルを見上げたリーヒは即座に顔に不満を広げると口を開いた。


『ヨル君と一緒ならいいけど』

『どちらか一人だ』


 ──イライザ代表者の召集は、軍議に参加させるためではなく、吊るし上げて全責任をなすり付けるため。私が応じれば最後、最終的に連行される場所は牢獄。ここに戻されることは決してない。


 リーヒの不満に眉間のシワを深めたアッシュがすげなく答えた時点で、ヨルは己の読みが正しかったと確信した。


 アッシュの本心としては、ヨル一人を議場に連れて行きたかったのだろう。だが議場には各隊長が詰めているというのに、隊長を差し置いて副官のみを指名して連れていくのは明らかに不自然だ。だからあくまで『今回もリーヒがヨルに責務を投げるだろうから』という体でヨルを連れ出すという形しか取れなかった。


 だがヨル自身が『隊長はあくまでリーヒなので』と正論を主張すれば、アッシュがその言葉を押しのけてヨルを引っ張り出すことはできない。なぜならば明らかにヨルの主張は正しいのだから。


 さらにヨルとしては『アッシュはあからさまにリーヒの手元からヨルを引き離そうとしている』という印象を引き出せればリーヒが機嫌を損ねるだろうという計算も折り込み済みだ。


 今のリーヒを下手に刺激すればどう動くか分からないという印象は、ヨルよりもアッシュの方が強く感じているはずだ。下手に強気になることはないだろうと踏んでいたが、案の定ヨルの勘は正しかった。


『……ふぅん?』


 議場に詰めた人間が求めているのは、第三十一番イライザ特殊部隊の隊長ではなく、事件の全責任を被せられる体の良い人身御供スケープゴートだ。事件の真相がどうあれ、彼らは捧げられた羊をエルランテに差し出すなり、血祭りにあげるなりして事態を沈静化させようとしているのだろう。


 ──ならばこちらは、羊の代わりに狼を差し出すまで。


『いいだろう』


 ヨルが考えていることは、リーヒにも伝わったのだろう。


 その証拠に、ヨルの膝から頭を上げ、トンッと長椅子から飛び降りた時、リーヒの姿は本性である青年の姿に変わっていた。


『貸しひとつだぞ、ヨル』


 嫣然と微笑んだリヒトシュテインは、反射的に身構えたアッシュに構うことなく悠然と礼拝堂を後にした。


 わざわざリーヒが本性で議場に乗り込んだのはこちらの想像以上に効果があったらしく、贄の羊ヨルが登場するのを今か今かと待ち構えていた議場は登場したイライザリヒト特殊部隊隊長シュテインの姿を目の当たりにして即座に凍り付いたようだった。


『イライザ特殊部隊』の実存を皇帝が明言したことは一度もない。ましてやリーヒの正体など秘中の秘だ。


 だが隊長格ともなればさすがに漠然とした情報くらいは掴んでいるものなのだろう。議場に突如現れ、最後の空席を埋めた正体不明の美青年の素性を正そうなどという愚か者は誰もいなかった。逆にリーヒの正体を知っている皇帝と側近達の顔からは一気に血の気が引いたことだろう。


 そんな流れがあったせいか、事件を防げなかった責任を追求し、イライザ特殊部隊の人間を吊るし上げようとする者は誰も現れなかった。


 ──ひとまず、相手の出鼻をくじくことには成功した。


 さらにリーヒが本性で議場にいるお陰で、キルケーはリーヒの声を拾いやすい状態にある。


 普段キルケーの能力はもっぱら『キルケーと誰か』という一対一の相互通話状態で用いられるが、キルケーの真価は『キルケーという存在を介して複数人の意識を共有させる』という単純なテレパシー能力を超えた使い方にある。


 キルケーへの負担が大きいせいで普段は封印されているこの使用法を、今回ヨルは情報入手のためにキルケーに願った。元よりキルケーも相手側にしてやられっぱなしは面白くなかったようで、気合を入れて仲介役を引き受けてくれている。今はアッシュを除いたイライザメンバーの聴覚と内心が共有されている状況だ。


 ──とはいえ、大した情報は出てきませんね。


 リーヒが登場した瞬間こそ凍て付いていた議場だったが、リーヒを『そこにいないもの』として扱い始めたことで徐々に調子を取り戻している。責任を全て被せるつもりだったアテが外れてしまった議会は、その苛立ちも合わせて生産性のない怒鳴り合いを続けていた。リーヒは大人しく口を閉ざして与えられた席に座し、聴覚提供役に徹しつつ時折内心でヨルをからかうことで暇を潰しているようだ。


 ──キルケーさんの負担を思えば、そろそろ切り時を考えなければならない状況でしょうか。


 軍議を盗み聞くことで得られた情報はわずかだが、収穫がなかったわけではない。


 一夜明けて、エルランテ大公姫が一命を取り留めたこと。


 しかしエゼリア側を一切信用できないと切って捨てたエルランテ側は、エゼリア皇帝が派遣した医師も護衛も追い返し、自分達に同行させていたお抱え医師に大公姫の命を預けているということ。


 エルランテ使節団に提供された宮殿はエルランテの手勢のみで警護され、関係者達は宮殿奥深くに引き籠もってしまったということ。


 その状態であってもエゼリア側はエルランテ側を国元に帰すつもりは一切ないこと。


 犯人は見つかっていないということ。目撃情報からエゼリア帝国軍に属する『少年』である可能性が高いということ。『氷妃の首飾り』はいまだ行方不明であること。


 ──現状エルランテ側からエゼリア側へ接触はない。しかしいずれ大公姫に代わって指揮を取る者が必ず接触を図るはず。


 大公姫に刃を振るったのは『詠人不知ナーメンローゼ』配下のレオ・オデュニアと名乗る少年だ。『詠人不知ナーメンローゼ』が一時的にとはいえ大公姫の従者を努めていたのだから、彼は間違いなくエルランテ側の手勢だろう。


 つまり今回の事件は、エルランテ側の自作自演だ。エルランテ側は最初からこうするつもりで今回の本国登城口上に臨んでいる。


 ──犯人を摘発するには、決定的な証拠が必要ですが……


 凶器のナイフと返り血に塗れた軍服は、あの場でヨルに押し付けられてしまった。そしてエルランテ側の自作自演である以上、行方不明とされている『氷妃の首飾り』は大公姫の元に密かに返された可能性が高い。


 つまり現在表立って犯人を摘発しようにも使える証拠は一切ない。やるならば夜の住人らしく力でねじ伏せるしかないのだ。


 ──どう追い詰めるべきか考えるためにも、エルランテ側がこんなことを仕掛けてきた動機が知りたいのですが……


 ヨルの考えはそのままイライザメンバー達に共有されている。思考に沈むヨルの顔を見守っていたロゼとヴォルフは同意するように浅くあごを引いた。


 その瞬間、だった。


「いっ……!」


 不意に小さな悲鳴が響き、ヨルの傍らにあった小さな体がフラリとかしぐ。


 同時に意識が共有されていた感覚がフルリとほどけ、脳に直接響いていた姦しい会議の喧騒がプツリと途切れた。


「! キルケーさんっ!?」

「おい、キルケー!」

「大丈夫!? キルケーちゃんっ!」


 ヨルは反射的に腕を伸ばすと倒れかかったキルケーの細い肩を抱き留める。


 ローブのフードを脱ぎ、包帯が巻かれたままの顔を伏せて耳を澄まし続けていたキルケーは、ヨルの腕の中ではっきりと痛みに顔を歪ませていた。一瞬で血の気を失ったキルケーは、震える手をこめかみに添えて頭痛に耐えるような仕草をしている。


 ──力を使わせすぎた……!


「違う」


 もっと早く休ませるべきだったと顔色を失うヨルに、キルケーは即座に切り返した。震える手を伸ばしてキュッとヨルの腕を握りしめたキルケーは、必死に顔を上げると礼拝堂の中を見回す。


「誰かが、私の力、邪魔してる」

「邪魔?」

「パチンッて、弾かれたみたいに」


 その衝撃に痛みが走っただけ。まだ全然中継役はできた。


 言外にそう語ったキルケーは、ヨルの腕に添えた指にさらに力を込めると、張り詰めた表情で一行に視線を巡らせた。


「到着報告謁見の時と、同じ」

「え?」

「私、今、この教会の外の声、聞こえない」

「っ!?」


 ──それって……!


 ひとつの可能性に思い至ったヨルは、キルケーを腕にかばうように抱きしめながら視線を周囲へ巡らせる。


 だがヨルが具体的な行動を起こすよりも、廃教会の入口が誰かによって開かれる微かな空気の振動が伝わってくる方が早かった。同じ異常をヴォルフは音で聞いたのか、サッと警戒態勢に入ったヴォルフは入口扉に向き直るように構えると獰猛に牙を剥く。


「すみませーん! おっじゃまっしまーす!」


 続いて響いたのは、確かに昨晩聞いた声だった。


 ──執務室までサーベルを取りに戻る余裕は……ない、ですね。


 迂闊うかつだった。まさかこの場所に敵が真正面から堂々と立ち入ってくるなど、万が一にも考えていなかった。


 ヨルのサーベルはいつも通り執務室に置かれていて、今のヨルは完全に丸腰だ。恐らくリーヒのサーベルも同じように執務室に置かれていることだろう。


 ──足音は二人。……ほとんど音がしないということは、も只者ではないようですね。


 足音は入口に近い部屋の前を通り過ぎ、真っ直ぐにこちらに向かってくる。恐らく向こうはヨル達がこの場所に集まっていることも把握しているのだろう。


「……」


 身構えたヴォルフの後ろに控えるようにロゼも立ち上がって指を構える。ヨルはそっとキルケーを腕から出すと、一歩前に出たヴォルフとロゼの後ろに庇われる位置に立った。そんなヨルの隣に、包帯に手をかけたキルケーが並ぶ。


 イライザメンバーが緊張をみなぎらせているのは、相手方にも伝わっていたはずだ。


 それでも礼拝堂の扉の前で足を止めた乱入者は、礼儀正しく扉をノックすると友人宅を訪れるような気軽さで扉を押し開く。


「お。やっぱいんじゃーん! 返事なかったから勝手にお邪魔しちゃったけど、良かったよな?」


 ヒョコリと顔を覗かせたのは、予想通り昨晩の少年だった。特徴のない顔に愛嬌にあふれた笑みを浮かべた少年は、こちらの警戒も他所よそに実に気楽な態度で礼拝堂の中に足を踏み入れる。


 その瞬間、前衛に立ったヴォルフとルゼよりも先にキルケーの手元が動いた。グッと包帯に手をかけたキルケーは『目』を解放すべく顔から包帯を取り払おうとする。


 だがヒュォッという風切音によってキルケーの手は止められた。


 より正確に言うならば、少年の背後から一足飛びに飛び出してきたメイド服の少女によって突きつけられた、レイピアの切っ先によって。


「っ……!?」

「む、むむむ無駄、です」


 声音は細く震え、どもった言葉は酷く聞きづらい。だがその自信が欠片もなさそうな声音に反して、一瞬でキルケーの眼前に現れた少女の立ち振舞いは、絶対の自信に裏打ちされた洗練された気品が漂っていた。


「あ、あなたの、力は……わ、私の、力で、そ、そそそ相殺、されて、います。だから……つ、つ、使え、ません」


 ──相殺? 力?


 突然の強襲にヨルもキルケーも動くことができない。


 だが不意にキルケーに突きつけられていたレイピアは退けられた。長椅子の背を足場にしながら後ろへ数度跳ね飛んで下がった少女が、何を警戒してそんな動きを取ったのか理解した時には、狼の爪を振り抜いたヴォルフがキルケーとヨルを背中に庇って敵陣に向かってうなり声を上げている。


「おっと、悪いな。ケンカ売りに来たわけじゃないんだわ」


 タンッタンッ、タンッ! という軽やかな足音とともに、あっという間にメイドは少年の傍らに戻った。


 そんな二人を、ヨルはヴォルフの後ろから観察する。


「そこのオニイサンには昨日名乗ったけども」


 ヨル達から向けられる視線が敵意に満ちていることくらい、相手はとうに覚っているはずだ。


 それでも少年は浮かべた笑みを崩さない。


「俺の名前はレオ・オデュニア。こいつはルピア・オランジェ。ともに『エルランテの蒼百合』たる嬢さん……エルランテ公国第三十一番イライザ暗殺部隊隊長『詠人不知ナーメンローゼ』に仕える者だ」


 再び名乗った少年は、頭に載せていたキャスケット帽を脱ぐと着崩したシャツとベストに包まれた胸元に押し当てて一礼した。足首丈のザックリした生地のズボンとショートブーツに通された足元という全身と合わせて見ると、雰囲気は暗殺者というよりも郵便配達人に近い。少なくともヨルは街中の雑踏ですれ違っただけでは相手の正体を見抜ける自信がない。


 対してレオの傍らで優雅に漆黒のワンピースの裾を摘み上げて一礼した少女は、どこからどう見てもメイドであると分かる出で立ちだった。


 サラリと背中まで流された髪はヨルよりも色素が薄いオレンジ色で、先程間近で見た瞳は髪に輪をかけて金が強かった。今は左右からこぼれかかる髪に隠れて面立ちが見えにくいが、垣間見えた顔立ちは楚々として整っていたように思える。白いフリルで縁取られたヘッドドレスとエプロンが清楚かつ儚げな印象を与えているが、先程の動きを見るに彼女もレオと同じく本質は『暗殺者』なのだろう。


「『詠人不知ナーメンローゼ』の従者が、アタシ達に何の用?」


 口を開くのはヨルよりもロゼの方が早かった。さらに一歩前に出たロゼの周囲を淡くバラ色の燐光が舞う。


「うちのヨルに濡れ衣着せるような真似しといて、ノコノコこんな場所まで現れるなんて。……覚悟はできてるんでしょうね?」

「おっと。さっきも言っただろ? 『ケンカ売りに来たわけじゃない』って」


 ロゼの低い声にもレオのおどける声は調子を崩さなかった。


 キャスケット帽を被り直したレオは、軽く片手を振るとその手の中に一通のカードを取り出してみせる。遠目ではあるが、ヨルにはそれが青い百合の花が染め抜かれた上に赤みを帯びた焦げ茶のインクで文字が綴られた招待状だということまでが見えていた。


「今回の俺達の役目は、伝令メッセンジャー送迎役コーチマンだよ」


 ロゼの問いに朗らかに答えてから、レオは視線をヨルに据えた。そんなレオにヨル以外の三人がさらに警戒を引き上げたのがヒリつく空気でヨルには分かる。


「偽物の蒼百合達へ、本物の蒼百合からお茶会のお誘いさ」


 ピッとカードを人差し指と中指に挟んだレオは、そのまま鋭く腕を振り抜いた。ただの紙とは思えない鋭さでなげうたれたそのカードを、ヨルは同じように指に挟んで受け止める。


「事情説明、してくれるんだってさ」


 レオの笑みから視線を外さずにいたヨルは、その言葉を受けてから視線だけをカードに向けた。干からびた血を思わせる色のインクで書き綴られた優雅な文字は、確かにイライザ特殊部隊をお茶会に招きたいという旨を記している。


「あんた達がいくら聞き耳を立てようとも、考えを巡らせようとも、動機だけは推測できない。そうだろう?」


 カードから視線をレオに戻すと、レオはニヤリと笑みを深めた。


 レオをチェシャ猫チャシーレ・カッツェたとえるならば、隣に立ったルピアはさしずめ眠りネズミジーベンシュレーファーだ。


 ただ静かにそこにいるだけなのに、彼女は主の正客を問答無用でお茶会に引っ立てる気なのだと、たたずまいだけで理解できてしまう。


「さて、どうする? ヨル・ネーデルハウト」


 答えなど、あってないようなものだ。


 だが。


 ──『虎穴に入らずw e r n i c h t w a g t ,んば虎子を得ず  d e r n i c h t g e w i n n t』、ですか。


 ヨルは一度静かに呼吸をしてから、レオに答える言葉を口にした。

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【web版】真紅公爵の怠惰な暗躍 ~妖精や魔術師対策よりもスイーツが大事~(旧題:Grenzenlos-エゼリア帝国特殊部隊-) 安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売! @Iyo_Anzaki

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