「ヨル君っ!!」


 バンッと無遠慮に扉が開く音を聞いたヨルは、頭から被ったタオルで顔を隠したまま音の方を振り返った。その瞬間、ドンッと何かが勢いよくヨルの鳩尾みぞおち辺りにぶつかってくる。


「ウグッ」

「ケガはないっ!? 大丈夫っ!?」


 ──むしろ今のタックルが一番致命傷なのですが。


 思わず本音がこぼれかけたが、ヨルは何とか言葉を飲み込むと抱きついてきたリーヒの肩にそっと手を置いた。ちなみにこのわずかな間にも、リーヒはヨルの体をパタパタと触ってケガの有無を確かめている。


「大丈夫です、ケガはありません」

「じゃあ何でシャツ姿なのさっ!? 顔もタオルで隠して!」

「降り掛かってきたガラス片が残らないように、念のためにシャワーを浴びていただけです。ロゼさんも似たような姿でそこにいるでしょうに」

「そぉよぉ、リーヒ。いくらなんでもアタシの存在ガン無視って酷くなぁい?」


 ヨルは一旦リーヒの肩から手をどけると、まだ濡れている髪をガシガシとタオルで拭いた。その間にヨルまで歩み寄ってきたロゼがメガネを差し出してくれる。


 固く目を閉じたままメガネを受け取り、装着してから目を開くと、視界に飛び込んできたのは広々とした将官用の官舎だった。視線を下げればヨルに抱きついたままのリーヒが心配そうな顔でヨルを見上げている。


「というよりも、登場が遅いわよ、アンタ。もっと早くこっちに来れたでしょう?」


 この部屋はヨルの部屋でもなければロゼの部屋でもない。リーヒの居室である。


 到着報告謁見の会場でガラス片の雨を浴びたヨルとロゼは、ケガこそなかったものの全身細かいガラス片にまみれていた。そのガラス片をそのまま放っておくのも良くないだろうということで、火急速やかに全身を洗い流せそうな場所……リーヒの私室に備え付けられたシャワーを勝手に借りていたのである。


 ──私に部屋の鍵の管理までぶん投げているのですから、設備を勝手に使っても文句を言われる筋合いはない、はず。


 リーヒは普段、隣にあるヨルの部屋に入り浸っていて、こちらの部屋はあまり使っていない。部屋の掃除や消耗品の維持管理をしているのもヨルだ。


 イライザ特殊部隊を設立する時に階級以上の部屋をぶん取ったくせに使わないなどメンテナンスに手間がかかるだけでもったいないと常々思っていたのだが、こういうことがあるとこの部屋はあった方が便利だなとも思うヨルである。


「これでも最速でここまで来たの。厨房に騒ぎが伝わるのがそんなに早いと思う?」


 ヨルが頭に載せていたタオルを肩口まで滑り落とすと、ようやく気が済んだのかリーヒはヨルから離れた。そのままロゼに向き直ったリーヒは苦虫を噛み潰したような顔をしている。


 ──隊長?


 その表情の中に微かに焦りが混ざっていたことにロゼも気付いたのだろう。濡れた髪を肩口から前へ流してタオルで挟み込むように水気を取っていたロゼは、手を止めると真意を図るようにリーヒを見つめた。


「……どういうこと? アンタなら、あれだけのことが起きれば、気配なり皇宮内の『揺れ』なりで異変に気付けたでしょう? 何なら、騒ぎが起きる前に介入することだって……」

「できなかったの。だからこうなってる」

「どういうことですか?」

「ヨルッ!!」


 リーヒが見せた表情にヨルも顔を引き締める。


 その瞬間、部屋の扉が再びけたたましく開かれた。振り返ったヨルは、くずおれるように部屋へなだれ込んできた少女の姿に思わず扉へ駆け寄る。


「キルケーさん!」


 ドアにすがるようにズルズルとくずおれたキルケーは、目元の包帯とローブのフードに顔が隠れていても分かるくらい顔色が悪かった。それでもキルケーはヨルが膝をつくと自ら腕を伸ばしてヨルに縋りつく。


「ヨル、無事っ!? ロゼもっ!!」

「キルケーさん、私達は……」

「聞こえなかったっ!!」


 キルケーの叫びは、胸が張り裂けて血がほとばしりそうなほどに悲痛だった。『聞こえていたならばこちらの無事は把握できているのでは』と首を傾げていたヨルは、その声に思わず息を呑む。


 そんなヨルの様子が分かるのか、キルケーは痛いくらいヨルの腕を握りしめた。


「聞こえなかったの、さっきまで……。式典が始まるまでは、いつも通りだったのに、突然、何かに弾かれたみたいに、何も……っ!!」


 ヨルに縋るキルケーの手は小さく震えていた。もしかしたら巻かれた包帯の下で泣いているのかもしれない。普段は淡々しているキルケーの声が、今は涙でうるんで揺れている。


「怖くて。皇宮が混乱してる声は聞こえてくるのに、ヨル達の声だけ、どれだけ頑張っても聞こえなくて……。リーヒやヴォルフに知らせようと頑張ったけど、それも、できなくて。痛くて、怖くて、わ、私……私……っ!!」

「キルケーさん」


 ヨルはそっとキルケーの背中に腕を回した。歳の割に小さくて細い体を全身で温めるようにスッポリと抱き込むと、苦しそうに引きれていたキルケーの呼吸が一瞬驚きに止まる。


「もう大丈夫です。もう、心配いりませんからね」


 孤児院にいた頃、幼い弟妹分達にしていたように柔らかく抱き寄せて低くささやく。そっと背中に手を当ててゆっくりと撫で下ろす仕草を数回繰り返すと、震えていた細い腕がギュッとヨルの首に回った。


 それでもまだどこか控えめな力に、ヨルはわずかに目を狭める。


 ──こんなに小さな体で、いつも頑張ってくれているんですよね。


「大丈夫です。私も、ロゼさんも、隊長達も、みんな無事です」


『ありがとう』と、様々な感情をその言葉に込めて胸中で呟くと、キルケーの体は一際強く震えた。


 その震えを最後に、キルケーはホゥッと安堵の息をつく。


「ねぇ、キルケーちゃん。それ、いつまでやってるつもり?」


 そこに無粋な横槍を入れてきたのはいつものごとくリーヒだった。肩に羽織った漆黒の軍服とそれよりも深い黒髪、さらにその髪を首筋でひとつに纏めた緋色の組紐を全て纏めて翻しながら振り返ったリーヒは、実に面白くなさそうにキルケーをめつける。


「あのね、いつも言ってるけど、ヨル君は僕のなんだからね」

「ヨル、みんなの」


 対するキルケーはヨルの首に回した腕を見せつけるかのように力を込めた。いつになく挑発的な態度にリーヒの眉が跳ね上がる。


 目を封じていても、キルケーにはリーヒの表情の変化が分かったはずだ。だが普段ならばこの辺りでヨルから自主的に離れるキルケーが、なぜか今日は離れようとしない。


「ヨル、抱っこ」

「はい?」

「腰、抜けちゃって、立てない」


 それどころか、キルケーはリーヒに見せつけるかのようにヨルに甘えてきた。


 一度腕を解いたキルケーは、再度腕を広げて態度でもヨルに抱っこを要求する。自己主張が得意ではないキルケーがこんなに分かりやすく要求を突きつけてくることは珍しい。


 ──というよりも、初めてなのでは?


 ヨルにとってキルケーは可愛い妹分だ。今までヒトとしての居場所を与えられずに生きてきたキルケーにはその分まで幸せになってほしいと願っているし、イライザという仲間ができた今は頼ってほしい。年相応に甘えてほしいとも思っている。


 つまりヨルは、滅多にないキルケーの我が儘に弱い。


 思わずヨルは考えるよりも早くキルケーを抱き上げていた。見た目通りに軽いキルケーの体は、ヨルの腕力でも問題なく持ち上がる。体勢を整えるように少し跳ねると、キルケーの腕が再びキュッとヨルの首に回った。


 ──顔色が戻りませんね。


 チラリと見えたキルケーの口元にはどこか自慢げな表情が浮いていた。だがいまだにその顔は血の気が薄い。恐らく聞こえなくなったヨル達の声を探して無理をした反動が出ているのだろう。


 ──これしきのことでキルケーさんの心が安らぐならば、易いものです。


 ヨルは思わずキルケーの頭をポンポンと撫でていた。そんなヨルの仕草に幸せそうに笑みを深めたキルケーは、表情を一変させるとヨルの肩越しに背後を見やる。


「リーヒ、自分から、ヨルの傍、離れた」


 ヒヤリとした声にヨルは思わずキルケーの視線を追って背後を振り返った。


 そこには先程と変わらずにリーヒとロゼがいるわけだが……


 ──隊長、見たことがない複雑な顔をされていますね?


「リーヒ、ヨルのこと、守ってくれなかった」


 キルケーの視線を真っ向から受けたリーヒは、腕を組んだまま実に難しい表情を浮かべていた。


 無理やり言葉で表すならば『キルケーに不満を抱きながらも、キルケーの言い分は認めている』『その上で部分的に反論を口にしたいが何と言えばいいのか分からない』といった所か。


 その隣に並んだロゼは、キルケーの不機嫌がどこから来ているのか察しているのだろう。『今回はどう考えてもアンタが悪いわよ』と言わんばかりの表情でリーヒを流し見ている。


「リーヒ、悪い。リーヒ、ひどい」

「……キルケーちゃん」

「リーヒ、こうなるかもって、分かってた。だから最近、上の空だった」

「え?」


 キルケーの舌鋒はいつになく鋭いまま鈍らない。


 その切れ味のまま繰り出された言葉に、ヨルは思わずキルケーを見上げる。だが視線がキルケーに合うよりも、キルケーがギュッと腕に力を込めてヨルを抱きしめる方が早い。


「『僕の』って言うなら、ちゃんとヨルのこと守って」


 キルケーがリーヒに怒っているのだと、声だけで分かった。ここまではっきりと怒りをにじませたキルケーの声を、ヨルは初めて聞く。


 だが今はそこに驚いている場合でない。


「『分かってた』って、それはどういう……」


 ヨルはリーヒに視線を据えると疑問の声を上げた。語尾は中途半端に消えてしまったが、説明を求めていることは十分伝わったのだろう。リーヒは深々と溜め息をこぼす。


「……あのね、僕もさすがにここまでやられるとは思ってなかったんだよ? 一発目からここまで暴れられるとは思ってなかったし、ヨル君達が前面に出る場面もないから、少なくとも到着報告謁見の最中は危険にさらされることはないと思ってたんだ」


『本当だよ? 分かってると思うけど』と、リーヒはキルケーを流し見た。その瞳にジワリと真紅が滲むのが分かったのか、キルケーの体が微かに震える。


 それでもキルケーはヨルにしがみついた手にキュッと力を込めるとリーヒに食って掛かった。


「それでも、リーヒ、逃げた。だから、あの場に来なかった」

「だからそれは」

「隊長、一体どういうことですか?」


 このまま二人を言い争わせてもヨルには状況が分からない。それに言い争いはキルケーに不利だ。目も耳も鋭すぎるキルケーをリーヒと敵対させれば、リーヒが無自覚に発する圧でキルケーの体が参ってしまう。


 ヨルは二人の間に言葉で割って入りながらリーヒの方へ歩み寄った。ヨルの問いかけに口をつぐんだリーヒは、面白くなさそうな顔をしながら応接セットへ足を進める。


「今のやり取りから推察するに、隊長には何かが起こると事前に分かっていたということですか?」

「……あー、もう。そう、分かってた。分かってたんだよ」


 ソファーへ身を投げ出すように座ったリーヒは尊大に足を組むとパチンッと指を鳴らす。それを合図にどこからともなくテーブルの上に現れたのは、紅の地に金の縁取りも華やかなティーセットだった。紅茶に夕日を溶かし込んだような上品な色合いのティーセットは、リーヒが個人的にコレクションしているお気に入りだ。


「ヨル君を連れて皇宮に堂々と潜り込もうって考えた時に、どんな形を取ればいいかって、結構悩んだんだ」


 ポットからカップへ勢いよく紅茶を注ぎながらリーヒは唐突に切り出した。色々と言葉が省かれているが、この場にいる人間ならばリーヒがイライザ特殊部隊を立ち上げた時のことを言っているのだということはおのずと理解できている。


 あれは、三年前のこと。


 エゼリア皇帝一族が負う呪いを肩代わりするための生贄『蛇けの砂金』として皇宮に拉致されたヨルは、さらにエゼリアの闇の君主『黄昏の公爵』への生贄としてリヒトシュテイン……すなわちリーヒにも捧げられた。


 それぞれの目的を考えれば決して兼任することなどない……そもそも兼任などできない役目をヨルが同時に負わされたのは、ひとえに当代皇帝が愚かだったからという一言に尽きる。


 だがその愚行によってヨルはリーヒと出会い、紆余曲折からリーヒに気に入られ、命を永らえることになった。『「アベル・“ヨルムンガルド”ネーデル=エゼリアによる皇帝暗殺」という最高の暇潰しをリヒトシュテインに提供する』という条件の下に、だ。


 その契約を履行するためには、まずヨルは皇帝のお膝元……すなわち皇宮に潜り込まなければならない。ヨルがそのことを訴えると、リーヒは『私のための特等席は私自身が用意する。お前はそのボロボロの体が使い物になるようにまずは療養に専念しろ』とヨルに療養を命じた。


 確かに元々痩せ気味だった上に『蛇の呪い』で消耗したヨルの体は、生きているだけで精一杯の状態だった。骨と皮だけに成り果てた体に多少肉がつくまで数ヶ月、さらにリーヒ自身とリーヒの臣下達にしごかれて多少の教養と武術の腕を身につけるまで追加で半年以上、ヨルはリーヒの居城であるディンメルグ城で養育されていた。


 ──思えば、ロゼさんやヴォルフさんと知り合ったのも、この頃でしたね。


 ディンメルグ城に詰めているのは魔物ばかりだったからヒトであるヨルを診察できるモノがいなくて、リーヒと交流があったロゼが医者役として城に招かれたのがそもそもの出会いであったと記憶している。ヴォルフはそんなロゼに乗り物よろしく使われていて、ついでに顔を合わせたのではなかっただろうか。


 ──思えば私の性格が多少なりともまともになったのは、お二人が何くれとなく友好的に接してくれたからですよね。


 体調が回復してからは、ロゼは勉強を、ヴォルフは体錬の面倒を見てくれた。ヨルがいきなり帝国軍特殊部隊の隊長付副官を任じられても何とかやれているのは、あの頃ロゼとヴォルフが鍛えてくれたお陰だ。


 ──まぁ、不本意ながら、剣術の師は隊長御自身なんですけどね!


『指導』というよりも『イジメ』やら『可愛がり』と言った方が適切な鍛錬の数々を、ヨルは恐らく一生忘れないだろう。ヨルに『剣術は苦手』というイメージが刷り込まれた原因は、間違いなくリーヒにある。


 とにかくヨルが不本意ながらも比較的穏やかな生活を送っていた裏で、リーヒはどのような形で皇宮に入り込むかを考えていたのだろう。


 一年近く続いた隠遁生活は、ある日唐突に終わりを告げた。


『一週間後、お前はエゼリア帝国軍第三十一番イライザ特殊部隊所属の軍人となる。階級は上等兵だ』


 晩餐には早く、午後のお茶には遅い時刻に呼び出されたヨルに押し付けられたのは、蒼百合イライザを模した部隊章が付けられた漆黒の軍服だった。すでに自分用に誂えた軍服を着込んでいたリヒトシュテインの姿があまりにも様になっていて、無性に腹が立ったことを覚えている。


『隊長はこの私。仮の名は「リーヒ・フォン・シュトラウゼ」。階級は大佐だそうだ。お前は私の副官として「ヨル・ネーデルハウト」と名乗るように』


 これが私の用意した『特等席』


 さぁ、舞台は用意してやった。


 だから存分に踊って私を楽しませておくれ。


 にえでもなく、花嫁でもなく、『共犯者』を名乗る道を選んだヒトの子よ。


 そう言ってリヒトシュテインは、ひどく妖艶に、ひどく甘く笑った。


 ──そういえば、なぜ皇宮に潜り込む手段として『国軍特殊部隊』を選んだのか、その理由を聞いたことはありませんでしたね。


「皇帝にそこそこ近く、自由が効いて、それなりに権力が握れて、生活に不自由しなさそうな立場。秘密を保持できて、それでいて堂々と皇宮を闊歩かっぽできた方が都合がいい。どうすればそんな立場が手に入るか、僕は広く情報を集めさせた」


 そんな都合のいい役柄が果たしてあるものかと、リーヒ自身も疑問ではあったという。


 だがしばらく待っていると、そのはリーヒの元までやってきた。


「『エルランテ公国には、公には存在していない、三十一番目の部隊が存在しているらしい』」

「え?」


 聞いたことがある言い回しにヨルは思わず声を上げていた。だがリーヒはヨルに応えることなく続きを口にする。


「『死神が率いる部隊に所属しているのは、人外の魔物ばかり。彼らは表向きに存在していては不都合な事実を、犯人もろとも消し去ることを使命としている』」


 ティーカップを手に取ったリーヒは、一瞬だけその香りを楽しむように息を吸い込んでから、一口紅茶を口に含んだ。コクリと喉が紅茶を嚥下えんげするまでの数拍、リーヒの言葉が途切れる。


「エルランテ公国第三十一番


 沈黙がとばりを降ろした中に、リーヒの声は静かに落ちた。


「聞いた瞬間『これだ』って思った。噂の出処でどころがエルランテってのも都合がいい。エゼリアは何だかんだと言いながらエルランテを恐れてる。対抗手段が手に入るとなったら、破格の条件で僕達を皇宮に招くと思ったんだ」


 リーヒの読みは当たった。


 エルランテが密やかに抱えていると噂されるイライザ暗殺部隊の存在を、エゼリア皇帝は酷く恐れていた。リーヒが対抗策としてイライザの設立を提案するとエゼリア皇帝は渡りに船とばかりに提案を受け入れ、リーヒの要求をほぼ全て呑む形でイライザ特殊部隊は設立された。唯一の誤算と言えば、目付という名目でじ込まれたアッシュがメンバーに加わったことくらいだろうか。


「今回の本国登城口上に皇帝側が僕達を噛ませようとした時点で、もしかしたらエルランテ側のイライザが関わってくるんじゃないかって予感はしてたんだ」


 カチャリと微かな音を立てながらティーカップは机上に戻された。ユラリと揺れる水面に視線を落としたリーヒの瞳は、深い真紅に染まっている。


「ただ、彼らの存在は僕達以上にあやふやだ。それが意図的なのか非意図的なのかは分からないけれども。……とにかく、そんな曖昧な彼らが国典行事なんていう『公の公』の場に姿を現すかどうか、正直確信が持てなかったんだ。エルランテ側の動きは見張らせてたんだけど、気配も予兆も掴めなかったし」


 独りごちるように言葉を紡いだリーヒは顔を上げるとロゼへ視線を流した。リーヒの言葉に戸惑いを顔に広げたロゼは、記憶を手繰るように視線を伏せる。


「アタシも、ここ最近特に何かを感じた覚えはないわ。隣人のみんなも、特に変わった様子はなかったし……」

「私も」


 ヨルに抱き上げられたままのキルケーもポツリと言葉をこぼした。ヨルのシャツを握った手にキュッと力がこもる。


「みんなの声が聞こえなくなるまで、本当に、いつも通り」


 ──三人が三人とも、相手が皇宮に入り込んでいることに気付けなかった?


 三人だけではない。恐らくヴォルフもアッシュも気付けていなかったはずだ。


 誰かが何か異変を察知していれば、その情報は必ずイライザ特殊部隊まで伝えられて共有される。イライザ特殊部隊はその『異変』に対処するためにエゼリア皇宮に存在しているのだから。


 行き着いた事実にヨルの背筋がスッと冷えた。同時に、教会で相見あいまみえた少女の青い燐光と深い笑みが躍る漆黒の瞳が脳裏をぎる。


「一体何者なのでしょうか?」


 疑問は我知らず唇からこぼれ落ちていた。


 漠然とした問いに口を開いたのはリーヒだ。


「噂通りなら、隊長は『詠人不知ナーメンローゼ』って通り名の死神だ。『名前のない御方』とか『尊き御方』、あと『エルランテの蒼百合』って呼ばれてるのも多分同じ人」

「死神?」

「文字通り神に類する存在なのか、その力の性質が死神じみた『何か』であるのかは、現状分かっていないんだけどね」


 噂に関してはひと通り調べてあったのだろう。リーヒの説明はなめらかだった。


「昼の世界でも、夜の世界でも、あんまり具体的な噂は流れていない。多分、具体的なことを知ってしまった部外者は、みんな消されてる」


 その言葉に再度ヨルの背筋に寒気が走った。人狼ヴェアヴォルフや黒魔術師に相対しても何も感じなかったヨルが今、噂だけの存在に確かに恐怖を抱いている。


 あるいはその恐怖は、それらしき人物を目撃しているからこそいだいてしまう感情なのか。


「……もしかしてヨル君、それっぽい人を会場で見た?」


 心の揺れは鉄仮面で鳴らすヨルの顔にも滲んでしまっていたらしい。リーヒの鋭い視線がヨルに向かって飛ぶ。


「……大公姫の従者として、ただのヒトにしては若すぎる男女が一人ずつ随行していました。いずれもエルランテ公国軍の、将官クラスの軍服を着ていました」


 ヨルは記憶をたどりながら慎重に言葉を紡ぐ。そんなヨルの些細な変化も見逃すまいとしているかのように、ヨルを見据えるリーヒの瞳が鋭さを増した。


「少女は、黒髪に黒い瞳。外見年齢は私からキルケーさんまでの間。東の血筋を引いているように感じました。……私の見間違いでなければ、彼女の瞳には青い燐光が舞っていたと思います。彼女が指を鳴らした瞬間、教会のガラスが破れたようにも見えました」


 自分の発言に間違いはないかと、ヨルは問うようにロゼを見つめる。その視線の先でロゼが首肯したのを確認したヨルは、リーヒへ視線を戻すと言葉を続けた。


「男性の方は、焦げ茶色の髪。瞳の色は、視線が合わなかったので分かりません。外見年齢は本来の姿の隊長と同年代に見えました。随分華やかな顔立ちをされた方という印象です。どこか……」


 この先を続けて良いものかと、ヨルは一瞬言葉を躊躇ためらわせる。


 だが悩んだ末に、結局ヨルは最後まで己の所感を口にした。


「どこか雰囲気が、隊長に似ていました」

「『僕』に? 『私』に?」

「リヒトシュテイン様に」


 今の少年の姿の方にではなく、本性である青年姿の方に、と言外に答えた瞬間、リーヒの瞳がキュッと収縮したように見えた。


 たったそれだけでリーヒを取り巻く圧が増す。


「皇宮の結界に反応しない、に雰囲気が似た、焦げ茶の髪の男……」

「心当たりが?」

「……ある」


 低く答えたリーヒは組んだ足の上に肘をつくと口元を覆うように顎を預けた。険を帯びた瞳はどことも言えない宙を睨みつけている。


「でも、なぜが? を相手に領土を侵す意味がどこにある? 格の違いが分からないほど愚かではなかったはずだが……。それになぜ『詠人不知ナーメンローゼ』と行動をともにする必要性が……」


 低くささやくリーヒの口調は完全に『公爵ヘアツォーク』としてのものだった。無意識のうちに発散される圧にキルケーの体が小さく震える。ロゼまでもがその圧に押さえているのか、リーヒを観察していたロゼの眉間にクッキリとシワが寄った。


 ──心当たりがあるならば、こちらに分かるように説明してもらいたいのですが……


 これは自分が意識を引き戻すべきだろう。ヨルは覚悟を溜め息をに溶かすとリーヒに呼びかけるべく唇を開く。


 だがヨルが何か言葉を発するよりも、扉が三度みたびけたたましく開かれる方が早かった。


「ここにいたのか、リーヒ・フォン・シュトラウゼ」


 聞くだけで眉間にシワが寄りそうな声を聞き間違えるはずがない。


 案の定振り返った先にいたのは、色素が薄い透き通るような金の髪と薄氷うすらいを思わせるアイスブルーの瞳をした軍人神父だった。


「アッシュさん」


 アッシュの服は見慣れない礼服から普段の軍服と漆黒のストラを合わせた姿に変わっていた。ヨル達よりもガラス片の雨が直撃する場所にいたはずなのに、目に入る範囲にはかすり傷ひとつない。それを若干面白くないと感じてしまっても、普段のアッシュの言動を思えば多少は許されるはずだ。


「アッシュ君、僕、今不機嫌なんだけど」

「貴様の機嫌など一々知るか」


 アッシュの方を見ようともしないリーヒもリーヒだが、吐き捨てるように斬り捨てるアッシュもアッシュだ。


 二人が放つ険悪な空気にヨルは思わず一歩後ろへ下がる。その分空いた空間に突撃するかのように、アッシュはツカツカと応接セットへ歩み寄った。さらにはローテーブルの上にバンッと両手が叩き付けられる。


「説明しろ。あれは一体どういうことだ」

「そういえば、予定にない結界を現場に展開して、こっちに余計な手間を取らせたのは君なんだっけ?」

「うるさいぞ。私は私の職務に従ったまでだ」


 ──つまり、教会側も教会側で、独自に『何か』を警戒していた、と。


 アッシュの言葉尻から情報を拾いながら、ヨルは静かにアッシュを観察する。対するアッシュは余程内心が荒れているのか、睨みつけたリーヒしか視界に入っていないようだった。


は一体何だ。悪魔召喚に耐えうる結界を指一本で気安く破る存在など聞いたこともない」

「僕だってやろうと思えばできるけど?」

「うるさいっ!」


 アッシュの両手が再びテーブルに叩きつけられる。ティーセットがわずかに跳ねてガチャンッと不快な音が響くが、リーヒの不貞腐れた表情はわずかにも揺らがなかった。


「今晩には初回の歓迎式典だ。あれをもう一度相手にすることになるんだぞ! 分かっていることがあるならばさっさと吐け!!」

「は? この状況で式典は続行されるんですか?」


 口を挟むつもりはなかったのだが、思わぬ言葉にヨルは思わず内心を口に出していた。ヨルの声を聞いた瞬間、ギッとアッシュの視線がヨルへ飛ぶ。


「『今度こそ我が国の威信を示すべく、万全の警備をせよ』と陛下と猊下げいかは仰せになられた。次こそ失敗は許されん!」

「アッシュ君だけでしょ、それ」

「リーヒ・フォン・シュトラウゼ!!」


 目があっただけで人を射殺せそうな視線はしれっと紡がれた言葉によってリーヒへ引き戻された。


 自分だけならばいくらでも相手をするし、何ならそれにかこつけてメガネを外すこともやぶさかではないヨルだが、今はキルケーを抱っこした状態だ。キルケーまであの視線にさらされることを思うと、今のリーヒは中々にファインプレーだったと思うヨルである。


「……はぁ。教えてあげてもいいけど、あんまり意味はないと思うよ?」


 一方リーヒは溜め息をつくと投げやりに口を開いた。相変わらずアッシュを歯牙にもかけない態度にアッシュはさらに声を荒げる。


「何だと!?」

「あれは、教会君達の手に負える存在じゃない」


 だがその怒りはいつになく冷えたリーヒの言葉を前にフツリとかき消された。ハッと我に返ったアッシュを視界にも入れないまま、冷静にティーカップを手にしたリーヒは酷く優雅に紅茶を口にする。


「ヨル君と僕の推測が正しいならば、大公姫が連れてきたのはエルランテの『イライザ暗殺部隊』だ。隊長は『詠人不知ナーメンローゼ』の名で知られている少女の姿をした死神。そして」


 その静寂の中に、リーヒは淡々と言葉を並べた。


「同行している男は、『四大公爵ヘアツォーク』が一角、ラグニル・バスクリットだろうね」

「……え?」


 こぼれ落ちた間抜けな声は、一体誰のものだったのだろうか。


 ──いや、だって、でも『四大公爵ヘアツォーク』って……


「名前の通り、『四大公爵ヘアツォーク』と呼ばれる存在は四人いる。称号はそれぞれ『黎明モルゲンロート』『蒼天タッカー』『黄昏アーベント』『深更ミッターナハト』。互いに近付きすぎると領土争いが起きるから、普段は散っていて顔を合わせることもない。ラグニルの小僧は『深更の公爵ミッターナハト』の名を持つ吸血鬼で、領土はここよりもっと南……エルランテの北方の森、つまりエゼリアとエルランテの国境辺りだったはずだ」


『吸血鬼で「公爵」といえども、は真祖に連なる者ではなく、ヒトから転化した存在だがな』とリーヒは冷めた表情のまま続けた。その淡々とした言葉を聞いているだけで、リーヒと『深更の公爵ミッターナハト』の関係があまりよろしくないことが何となく分かってしまう。


は成り上がりだ。真祖に連なる者として生まれた私とは心底気が合わない。……ただ、転化した瞬間、己を転化させた王を半ば本能で殺し王に成り代わったその実力と、300年に渡り『深更の公爵ミッターナハト』の座を守り抜いてきた手腕を私は評価している」


 空になったティーカップをリーヒは優雅にテーブルへ戻した。リーヒの手を離れたティーカップは、カタリとも音を鳴らさない。


「ラグニルの小僧は、間違いなく私と名を並べることを許された実力者だ。あんな子供だましの結界が効くものか」


『同格の吸血鬼』という言葉をリーヒはあえて口にしなかった。だが発言の内容が正しく理解できていれば、そう言われているに等しいということは自ずと分かる。


 その事実に言葉を失うアッシュを下から眺めて、リーヒはどこか満足げに鼻を鳴らした。浮かべられた笑みは、少年の姿に似つかわしくない艶を滴らせている。


「悪いことは言わない。手を引け、神の威を借る偽善者よ」


 そして紡がれる言葉には、隠しきれない牙がのぞいていた。


「さもなくば向こうは、容赦なくお前達の首を刈り取りにくるだろうよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る