【pm 05:15 作戦開始】

 彼女の足音は、とても軽やかだった。弾むように進む歩みは、彼女本来の性格の明るさを表すかのようだ。


 エゼリア帝国第三皇女・セリスティーヌ。今王宮中が総力を上げて捜索しているはずである姫の姿は、なぜか王宮の真っ只中ただなかにあった。


 手の中に黒革の本を持った姫は、皇帝の私室を目指して歩いているようだった。まだまだ人が詰めていてもおかしくない時間帯でありながら、なぜか姫が進む廊下には人影らしき人影が見当たらない。姫自身もそのことに疑問を覚えていないのか、姫は変わることなく弾むような足取りで王宮の中を進む。


 その足が、一枚のドアの前で止まった。


 美麗な装飾が施されたそのドアは、皇帝の私的な居室に繋がる物である。


 姫はその扉を数秒見つめ、耳を澄ますような仕草を見せると、そっとドアに向かって手を伸ばした。コンコンッという軽やかな音がドアから響く。


「お父さま?」


 愛らしい小鳥が囀るような声は、中に父であるエゼリア帝国皇帝がいることを確信している響きがあった。だが部屋の中から応えの声はない。時間帯的にも、まだ皇帝が確実に戻ってきていると断言できるようは刻限ではないはずだ。


「お父さま?」


 それでも姫は確信を持って声をかけると躊躇いなくドアノブに手をかけた。カチャリとドアノブを押せば、あっさりとドアは道を開く。それを見た姫は、さらに躊躇いなく部屋の中に足を踏み入れた。


「お父さま? そこにいらっしゃることは分かっておりますわ」


 室内は暗闇に満たされていた。燭台に灯りが入っていないだけではなく、窓にきっちりとカーテンが降りているらしい。己が伸ばす指先さえ見えないような闇が豪奢な部屋の中に重くはびこっている。


 だが姫の踊るような足取りは変わらなかった。視界など役に立っていないだろうに、それさえ構わず部屋の中に足を踏み入れた姫は、部屋の中ほどまで足を進めるとキョロキョロと首を巡らせる。


「お父さま? どこにいらっしゃるの?」

「あなたのお父様なら、まだお仕事中よぉ?」


 不意に、その闇の中から声が返った。


「だからアタシ達と一緒に、大人しくお父様のお帰りを待ちましょう?」


 姫の体が獣のような機敏さで警戒を露わにする。その瞬間、姫が入ってきた扉はパタリと独りでに閉まった。バッと身構える姫の視線の先でポゥッと淡く光が灯る。


 妖精達が零す燐光の下で妖しく微笑んでいたのは、国を治める皇帝ではなく、闇と遊ぶ魔女だった。闇よりもなお深い漆黒の軍服に身を包んだ麗しき魔女は、ツイッと姫に指先を向けると浮かべた笑みを深くする。


も呼んで、みんなで仲良くやりましょうよ」


 ジリッと姫の足が下がる。


 その瞬間、突如として走った光が姫の視界を焼いた。バッと一斉に灯った松明がはびこる闇を駆逐する。


「ぁっ!! あぁっ!!」


 姫は腕で顔を庇うとヨロヨロと後ろに下がった。その瞬間を、部屋で待ち構えていた者達は決して逃さない。


「Exorcizamus te, omnis immundus spiritus!!」


 聖なる祈りの言葉によって形作られた光の鎖が宙を裂く。


 絹を裂くような絶叫が姫の口からほとばしり、作戦の火蓋は切って落とされた。




  † ・ † ・ †




 本来ならば皇帝の私的な居室である部屋は、今や戦場と化していた。


「omnis satanica potestas, omnis incursio

infernalis adversarii, omnis legio,

omnis congregatio et secta diabolica」


 アッシュが朗々と唱える聖句を受けて、絨毯が剥がされて板床が露わになった床に描かれた魔法陣がまばゆく光を発する。その中心に光の鎖によって縛り上げられた皇女は顎が外れそうなほど口を開き、姫君が上げているとは思えないような大絶叫を上げていた。最初貴婦人らしい甲高い声で上げられていた悲鳴は今や地の底から響くような野太い声に変わっている。悲鳴を上げているのが皇女ではなく、皇女に憑いたモノである証拠だ。


 その光景を、ヨルは壁際に控えるリーヒの傍らから見つめていた。聖書を片手に最前線に立つアッシュと魔法陣を挟んで反対側に立つロゼを感情のない瞳で見据えたリーヒは、皇女の手から本がこぼれ落ちたタイミングで声を上げる。


「ロゼ!」


 その短い呼び声だけでロゼは躊躇いなく前へ踏み込んでいた。鋭く飛び交う光に構うことなく魔法陣の中に突っ込んだロゼは、皇女が取り落とした本をすくい上げながら魔法陣を突破するとパンッと勢いよく本の表紙を叩く。


「あん、もう! ほんっとアッシュがいるとやりにくいったら!!」


 文句を呟きながらさらに数度本の表紙を叩いたロゼは、そのまま本を魔法陣の中に向かって投げ返す。高い天井に向かって放物線を描くように下から投げ上げられた本には、微かにバラ色の燐光が纏わりついていた。


「来なさい! ヴォルフ!!」


 その燐光に向かってロゼは鋭く言いつけた。その瞬間、バラッと独りでに開いたページの中から聞き慣れた不機嫌な声が返る。


『だーから! 犬みてぇに呼びつけんなってのっ!!』


 全力で返されたヴォルフの声は、すぐに本から溢れ出た悲鳴とも怒号ともつかない声にかき消された。ワンッと不協和音を響かせる声の塊は、ひとつひとつが何を言っているかは分からないくせにその全てが負の言葉を吐いていることはだけはなぜか分かる代物だった。


 本から溢れてきたのは音だけではない。ドロリとあふれた闇は粘液のように魔法陣の上にしたたっていく。中に人影を内包した粘液は光に触れた端から煙を上げて消えていくが、大量に滴り落ちてくるせいで浄化の光の方が粘液に押し負けて消えていく。


 そんな粘液を踏み潰すかのように、ダンッと白銀の狼が本の中から飛び出した。


『全員耳ふさげっ!!』


 牙を剥きながら叫んだ狼は、喉を逸らすと体の底から遠吠えを上げた。落雷のような遠吠えはその衝撃で有象無象が撒き散らす戯言をその存在ごと蹴散らしていく。


「さて、来るよ」


 形を取れなかった闇は、ヴォルフの雷声に消し飛ばされた。粘液の中からこぼれ落ちてきた人間と、その人間に取り憑いた悪魔だけが場に残る。同時に、アッシュが展開していた魔法陣も掻き消されていた。光の拘束から逃れた皇女は多少ダメージを負っているようだが、まだ正気を取り戻す所まで浄化は成されていない。


「チッ! お前達がいるとやり辛い」

「それはこっちのセリフよ!」


 普段は絢爛豪華な家具に囲まれている優雅な空間は今、老若男女姿形は違えども全員悪魔に取り憑かれた人間……『悪魔の書』の被害者達と、イライザメンバーによる戦場と化していた。前線に立つアッシュは開かれた聖書を片手に眉間にシワを寄せ、牙を剥いたヴォルフを従えたロゼは構えた指先に淡くバラ色の燐光を纏わせている。その後ろに控えたリーヒとヨルはそれぞれサーベルを抜いて構え、さらにその後ろには目元の包帯に手をかけたキルケーがひっそりとたたずんでいた。


 ──『悪魔の書』は、書に触れた者にランダムで悪魔を取り憑かせる魔導書。


 アッシュが教会経由で手に入れた情報によると、『悪魔の書』は一種の通路として創られた物であるという。儀式を経ずとも地獄の悪魔達と直通で繋がることができる『門』として機能しており、触れた者は自動的に『生贄』とみなされる。よって被害者達の救出には個々に取り憑いた悪魔を祓う必要性があり、その上で『悪魔の書』の破壊も必要になるという話だった。


 ──『悪魔の書』の主格たる悪魔は、『門の悪魔』。


 数多の悪魔を現世に呼ぶ『悪魔の書』だが、その中にも主格たる悪魔がいる。それが書を『通路』として機能させている『門の悪魔』だという話だ。つまり個々に憑いた悪魔を祓うことができたとしても、この『門の悪魔』を討つことができなければ事件はまた繰り返される。


「アッシュ、ロゼ、一匹たりとも外へ逃すな。ヴォルフ、新たな害虫が涌いてこないように本を見張っていろ」


 手袋の指先を口で引っ張って外したリーヒは指先を抜き身のサーベルに滑らせる。飢えたリーヒの瞳のように深い紅を宿した鮮血は、サーベルの刀身に吸い込まれると刃を血と同じ深い紅に染め上げた。


「キルケー、見極めることはできるか?」

「お任せください、隊長」


 静かに、だがいつになく強い声で答えたキルケーがハラリと目元を覆う包帯を外す。その下から現れた大きな瞳は、オパールのように様々な色を宿して揺れていた。


「主犯、必ず引き出します」


 巫女の魔眼に射抜かれた悪魔達がザワリと揺らめく。その揺らぎに前線に立つアッシュとロゼが緊張を高めた。


「ヨル」


 リーヒの声が、短くヨルを呼んだ。その声はこんな場面だというのに、どこか甘い。


 その甘さを振り落とすように、ヨルは一度目をしばたたかせた。空いた左手でメガネを外し、そっと軍服の胸ポケットにしまう。


「はい」


 トパーズの瞳をすがめたヨルはリーヒを見ないまま抜き身のサーベルに指を這わせる。先程のリーヒを真似るかのようにサーベルに血を吸わせれば、ヨルのサーベルはユラリと赤熱されたかのように刀身を橙に染め上げた。


 その刃を構え、蛇を思わせる縦に瞳孔が裂けた瞳をうごめく悪魔達に据えたヨルは、覚悟とともに言葉を紡ぐ。


「お供致します、リヒトシュテイン様」


 その言葉に、リーヒの口角が確かに上がった。


 それを合図にしたかのように悪魔達がイライザ一行に飛びかかる。瞬きをする間もなく、両者の前線は入り乱れた。


「Exorcizamus te, omnis immundus spiritus!!」

「『白の光 暁の刃 闇祓う退魔の剣 断ち切って 冥府の使者を』!」


 白い光とバラ色の燐光が悪魔の腕を払い落とす。その隙に前へ躍り出たリーヒとヨルの刃が容赦なく悪魔達の首をはねた。


 確かにヨルの手にはサーベルが肉を断つ感触が伝わってくるが、実際に相手の首は飛んでいない。リーヒとヨルの血を吸うことで力を発揮するこのサーベルは、リーヒの配下が鍛えたという退魔の剣だ。刃が主の血を受けている間は『ヒトならざるモノ』しかその刃に掛けることができなくなる。


 リーヒから身を守るために下賜されているサーベルを振るいながら、ヨルは意識して群れる悪魔達と視線を合わせる。操られている人間達は目を見開いているくせにどこか焦点は虚ろだ。中々視線が合いそうで合わない。


 だが、意識して視線を向けていれば、15人中誰かとは視線が絡むものだ。


 ──捉えた。


 ヨルに向かって伸びた爪を振るおうとしていた男の瞳の中にヨルのトパーズの蛇眼が映り込む。その瞬間、男は凍りついたかのように不自然に動きを止めた。その男の腕から先を斬り飛ばしながら、ヨルは返す刃で悪魔の首をはね落とす。


「こら、ここぞとばかりに蛇眼その目を使うのはやめなさい」


 不意に、その視界を大きな手が遮った。こんな時に何を、と視線を上げれば、案の定リーヒが空いた左手をヨルの後ろから回して視界を塞いでいる。


「あんまりその力を使いすぎると、血が蛇臭くなって不味くなる」

「……だから、だよ」


 ヨルは顔を動かさないまま視線だけを上げてリーヒをめつける。その数瞬の間も、ヨルとリーヒのサーベルはそれぞれ襲い来る悪魔達を薙ぎ払い続けていた。


「ここぞという時に使っておかないと、使えないから、この眼」

「……そんなことを言うつがいには、後で仕置きが必要だな」

「何度も言わせるな。俺はあんたの番なんかじゃない」


 ヨルは低く言い捨てるとリーヒの手を跳ね除けた。大きく前へ踏み込み、正面から襲いかかろうとしていた女の胴を薙ぐ。


「俺はあんたの『共犯者』、だ」


 その言葉にリーヒが口元を歪めたのが気配で分かった。だがその変化が笑みからきたものなのか不機嫌からきたものなのかは、判断する隙が与えられない。


「主犯、見つけました」


 鈴を振るような声がヨルとリーヒの気を引く。


 チラリと視線を向ければ、『万物を聞き知る耳』と『万物を見通す目』を備えた巫女は真っ直ぐに一点を指さしている。


「『門の悪魔』が憑いているのは、その男」


 キルケーが指差す先には、身なりがいい紳士が立っていた。他の悪魔達がただひらすら前へ前へと出てくる中、この悪魔だけは腰が引けている。現にキルケーに指先を向けられた悪魔はギクリと体を強張らせると逃げ道を探すかのように周囲へ視線を巡らせた。


「逃げ場などあると思うか?」

「逃さないわよ」


 そんな悪魔の逃げ道を塞ぐように光の鎖とバラ色の燐光が走る。部屋の外周はすでに二人の力で何重にも囲われていて、他の悪魔達は大多数が動けない状態まで追い詰められていた。男はそれでも逃げ道を求めて己と繋がる本を視線で探し求めるが、本に前足を置いたヴォルフは男と視線が合った瞬間鋭い犬歯を剥き出しにして唸る。


「でかした」


 そんな男の前に、フワリとリーヒは降り立った。顔を強張らせた男がデタラメに爪を突き出すが、リーヒはそれをあっさりと避け、空いていた手で男の喉を掴むとそのまま床に引き倒す。


 制圧にはサーベルさえ必要なかった。片膝で男の胸を踏み、左手で喉を鷲掴みにしたリーヒは、片手でギリギリと男の喉を締め上げならぬっと顔を近付ける。


「お前、新参者だな?」


 リーヒの言葉に、男は悶え苦しみながらもいぶかしむような視線をリーヒに向けた。そんな男を表情のない瞳で射抜きながら、リーヒは淡々と、声が高い時と変わらないトーンで言葉を紡ぐ。


「挨拶もなく私の庭を荒らした。……を知る者ならば、低級霊だってやらない所業だぞ」


 しんと冷えた声で囁きながら、リーヒは容赦なく首にかける圧を上げていく。このままでは取り憑かれた男の方が取り返しのつかないことになりそうだ。


「私はどんな相手であろうとも、私の庭でルールを犯すモノを放っておこうとは思わない」


 そこまで言われてようやく、男もリーヒが何者であるかを理解したのだろう。見開かれた瞳が凍てつき、鬱血した顔に恐怖が広がる。


「あ、あんた、まさか……っ」


 その表情に、リーヒはようやく満足したようだった。うっそりと暗い笑みを浮かべたリーヒは、喉を締め上げる手はそのままに、反対側の手に握ったサーベルの切っ先を男の心臓に向けてあてがう。


公爵様ヘアツォーク……っ!!」


 男の言葉を、リーヒは最後まで聞かなかった。


 サーベルの切っ先が容赦なく男の心臓を貫く。野太い絶叫が上がる中、部屋を取り巻く白い光がより一層力を増した。


「Ab insidiis diaboli, libera nos, domine!!」


 声なき声が呻く。それが断末魔の叫びだと分かる。


 その光の中でリーヒがこの上なく満足そうにわらう様を、ヨルは確かに見た。


「Amen!!」


 光が、弾ける。視界も聴覚も全てが焼かれて、灰と化して消えていく。


「ふぇ〜ん……アッシュ君、ちょっと容赦なさすぎなぁ〜い?」


 その不愉快な光が消えた後、最初にヨルの感覚に触れたのは、高いのに柔らかな声が紡ぐ情けない言葉だった。


「ふん。どうせならお前も一緒に浄化されてしまえば良かったんだ、このけだものめ」

「そんなこと言ってぇ……。アッシュ君だって悪魔憑きじゃな〜い。こんなキッツい浄化を乱発してたら、いつか自分で自分を浄化しちゃうよぉ〜?」

「うるさい。私はむしろそうなってくれた方が本望だ」


 目を瞬かせれば、アッシュの足をゲシゲシと蹴飛ばすリーヒはすでにいつものサイズまで縮んでいた。リーヒに厭味いやみを返すアッシュの顔色は確かに優れず、どことなく足元が覚束ない。人狼であるヴォルフはアッシュが行使した浄化の余波をモロに食らってしまったのか、狼の姿のままグッタリと伸びていた。ロゼとキルケーに影響はなかったのかと視線を巡らせれば、『女性』二人は床に転がされた被害者達の様子をテキパキと確認している。こういう時には案外、女性隊員の方が有能なのかもしれない。


「ヨル!」


 そんなことを思いながら溜め息とともにサーベルを収めたヨルをロゼが呼んだ。ハッと振り返ればロゼの腕の中には一際豪奢なドレスを纏った少女が横たわっている。


 それが誰なのかを察したヨルは、思わず体を強張らせた。そんなヨルを安心させるかのようにロゼが柔らかく微笑む。


「無事だよ」


 その言葉にヨルはほっと息をついた。同時に複雑な内心が堰を切って溢れ出す。


「ひとまずは、一件落着?」


 そんなヨルの手を、いつの間にか隣に来ていたリーヒが握った。アッシュはどうしたのかと振り返れば、とうとう限界が来たのかアッシュは部屋の隅でへたり込んでいる。


「……そうですね」


 そんな、実に『イライザらしい』光景に、ヨルは小さく微笑んだ。


「一件落着、です」


 ひとまず事件を解決できたことへの安堵と、どこまでも割り切れない己の心を自覚しながら。

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