【pm 05:00 作戦準備】

 は、王宮の中にありながら、誰もに見捨てられた場所である。


「お待たせいたしました」


 ヨルがその場所に踏み込んだ時、その部屋はすでに薄闇に支配されていた。外はまだ淡く紅色を帯びた光に満たされているのに、東向きにステンドグラスを背負ったその部屋は外の世界より一歩早く夜の世界へ踏み込んでいる。


「アッシュさんが王宮に戻ってきました。最終作戦には参加してもらえるそうです。あの店は祓魔師仲間も呼んで浄化したとか。仲間が『悪魔の書』に降ろされた悪魔の名前も特定したそうです」


 皇帝一族が礼拝に使う、王宮内に備えらえた礼拝堂だった。美々しく組まれたステンドグラスはイライザに与えられた廃教会よりも徹底的に磨き込まれているのに、この空間からは信仰も、そこから生まれる圧も、一切感じられない。ただ美しく整えられているだけで、この空間はすでに死んでいるのだ。


「ロゼさん達とも、先程連絡が取れました。ギリギリになりましたが、被害者達が囚われた場所の特定ができたそうです。アッシュさんと連携してもらうように伝えてあります」


 リーヒはそんな中、祭壇にもたれかかるようにして座っていた。一際闇が濃くわだかまる中に座り込んだリーヒは、傍目には眠っているようにも見える。


「そして……、『悪魔の書』の入手をアルノルド・ハーヴェストに依頼した人間……この一連の事件を画策したであろう人間には、私のに心当たりがあるそうです」


 コツリ、コツリと軍靴の踵で石床を叩きながら、ヨルはゆっくりとリーヒに向かって進んでいく。だが皇族が私的に祈りを捧げたり、内々の儀式に使うような礼拝堂は、イライザが拠点にしている廃教会よりもずっと小さい。いくらゆっくり足を進めていても、すぐにヨルの足はリーヒの目の前に行き着いてしまう。


「手配は、すべて完了しました」

「……そう」


 ヨルの足が、リーヒの目の前で止まる。


 その瞬間、リーヒは小さく呟いた。


……」


 リーヒのその言葉が何を意味しているのか知っているヨルは、無意識のうちにコクリと喉を鳴らしていた。その音が、リーヒには聞こえたのかもしれない。


 鮮やかな紅に染まった瞳が、真っ直ぐにヨルを見上げる。


「ヨル君。ちょーだい?」

「……はい」


 覚悟を決めて、片膝をつく形でリーヒの前にしゃがみ込む。まるで従者が主にひざまずくかのように。ヨルの心の震えを表すかのように、両腰に下げられたサーベルが床に擦れて耳障りな音を立てる。


 ヨルの指は、蒼い百合がモチーフにされたイライザの部隊章がかかる軍服の襟元を緩めた。大きく上着をはだけた後には中のシャツも。リーヒの眼前に、普段は完全に隠されているヨルの喉元から肩周りの肌がさらされる。


の思し召すままに」


 その肌に、リーヒの手が触れた。リーヒが肩に羽織った身の丈に合わない軍服が闇に溶けるかのように翻る。


 立ち上がったリーヒはヨルとの距離を詰め、さらされた肌に顔を寄せた。一度ヨルの首筋に触れた唇が、ヨルの言葉を受けてフッと笑ったのが気配で分かる。


「あぁ……甘い」


 その笑みは、果たして本当にヨルの言葉を受けたから浮かんだものだったのか。


 あるいは、を目の前に置かれたことに対する、満足から来たものだったのか。


「っ……」


 その痛みはいつも、初めはやわく、後に鋭く変わる。プツリと首筋に牙が潜り込んだことを自覚した時には、すでに痛みは駆け抜けた後で、全身に巡るのは強烈な快楽に化けていた。


「っ……! ぁ……っ!!」


 己の唇から漏れる息が跳ねる。その息が体から急激に血が抜ける生命の危機から跳ねるのか、あるいは強烈な快楽に跳ねているのかさえ、今のヨルには分からない。


 ただ分かることは、力が抜けていく体を支える腕がスラリと伸びたこと。首筋を撫でる黒髪が変わらずサラリとヨルを撫でること。そしていつの間にかたくましく成長していた体に自分の体がスッポリと囚われていること。


「……ありがとう、


 一体どれだけそうしていたことか。


 不意に耳元を、ベルベットのように滑らかなバリトンの声がくすぐった。


「今日も類まれなる美味しさだった。御馳走様」


 血を啜ると同時に強烈な快楽をヨルに与えていた牙が抜け、ザラリとした感触が一度首筋を撫でていく。与えられる感触に一度体が跳ねた瞬間、深みのある声がクスリと笑った。それを聞いたヨルは意地と気合だけで己を支える腕から体を引き剥がす。


「そして、我が下僕にして我が主。我が足枷にして我が花嫁よ」


 そんなヨルの視界に、この空間を占める闇のように艶やかな笑みを刷いた秀麗な顔が飛び込んできた。ヨルの血を啜ったことで真紅にトパーズの輝きがにじんだ瞳は、燃え落ちる夕焼けのような色を宿してトロリと甘く蕩けている。


「ヨルの血は相変わらず、チョコレートより甘くてワインよりも私を酔わせてくれる」


 目の前にいるリーヒは、幼子であった時の面影を残したまま、より一層麗しく成長した青年の姿になっていた。外見年齢はヨルよりわずかに上、二十代前半といったところか。そこはかとなく影がある妖艶さを隠すことなくさらす今のリーヒは、いっそ凶悪なほどに美しい。


 これが、普段は秘されているリーヒの本性。


 高貴なるエゼリアの闇の支配者、高位吸血鬼たるリヒトシュテイン・フォン・シュトラウゼの真の姿。


「……っ、手加減するんじゃ、なかったのかよ……っ!!」


 数年前、ひょんなことから、ヨルはリヒトシュテインと『血の契約』を交わすことになった。以降、ヨルはリーヒがこうして本性を現す必要がある時に血を与えることになっている。


「したさ! こんなに私を酔わせてくれる血の持ち主を殺すわけにはいかないからな」


 契約の内容は、主にふたつ。エゼリア皇帝家が交わしたひとつ目と、ヨル個人が交わしたふたつ目がある。


「本当ならば、壊れるほどの快楽でいたぶり抜き、骨の髄まで貪り尽くしてやりたいところなのだが……」


 ひとつ、エゼリア皇帝家はリヒトシュテインを使役する対価として、ヨル・ネーゼルハウトをリヒトシュテインに差し出すこと。


 ヨルの命の全権は、契約が成された時からリヒトシュテインの手の中にある。ヨルはリヒトシュテインに殺されても一切文句は言えない。それがエゼリア皇帝家とリヒトシュテインがヨルの知らない場所で勝手に交わした成約だ。


 そしてふたつ目は、ヨルを介してエゼリア皇帝家がリヒトシュテインに押し付けようとしていた『エゼリアの呪い』を凍結させる対価として、ヨル自身が自主的にリーヒに隷属すること。


 その隷属には、『いずれヨル自身がエゼリア皇帝家を滅ぼすための駒になること』という内容までもが含めれている。


「優しくしてやる、という約束だからな」


 主にして下僕。血のつがいにして互いの生殺与奪の権を握り合う共犯者。捕食者と非捕食者でありながら被保護者と保護者。枷であり、鞘であり、餌であり、刃であり、呪い。


 そんないびつで複雑な感情が入り交じる上に成り立っているのが、イライザ特殊部隊隊長リーヒ・シュトラウゼとその副官であるヨル・ネーゼルハウトの関係性。


 ──自身、この感情をどうしたいのか分からない。


 妖艶に微笑むリーヒに舌打ちで返したヨルは、まだ力が入らない体を気合と根性だけで支えて右腰に下げていたサーベルを抜いてリーヒに差し出す。それを見たリーヒはゆっくりと立ち上がると普段肩にかけているだけの軍服に袖を通した。普段のリーヒでは大きすぎる軍服は、今のリーヒの体には誂えたかのようにピタリとはまる。


 軍服のボタンを留め、襟のホックをかけ、ベルトと剣帯を締めたリーヒは、ポケットから白手袋を取り出すともったいづけるかのように指を通し、手首のボタンをはめた。それだけの準備をしてから、リーヒはヨルが差し出すサーベルを受け取る。


 リーヒの腰にサーベルが収まった瞬間、イライザ特殊部隊隊長の本来の姿が完成した。幼子姿の時と変わらない、紅の組紐でひとつに括られた艷やかな漆黒の髪を翻したリーヒは、白手袋に包まれた手をヨルに向かって差し伸べる。


「さぁ、行こうか、ヨル」


 誘うようにリーヒが口に出した瞬間、部屋に残っていた最後の陽光が消える。


 艶やかな闇は、リーヒが従える領域だ。


「ここからが、我らの領分だ」


 その領分の中に、ヨルもいる。


 そのことを今更噛み締めながら、ヨルは差し伸べられたリーヒの手を跳ね除けて膝を上げた。

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