【pm 01:00 アメジュラント/リッツヒルデ通りにて】
エゼリア帝国が都・アメジュラントは、『洗練された貴族の都』と言われている。
だがそれは『王宮を中心とした都の中枢部は』という限定付きであることも、アメジュラントの住人達は知っている。
「美しい都ではあると思うけど、蓋を開けてみると商魂たくましい商人の都だと思うんだよね」
リッツヒルデ通りはその中でも特に繁華な通りだ。王宮からは馬車に乗れば気軽に出向くことができる距離にあるのだが、街の雰囲気は王宮周辺よりもかなり親しみに溢れている。建物の造りや通りの造りは大して変わりがないのに、そこに住む人や行き交う人が変わるだけで街の雰囲気はここまで変わるものなのかと感心してしまうくらい、王宮前広場とリッツヒルデ通りから受ける印象は違っていた。
「ちょっと隊長……! あまり一人で先に行かないでくださいってば!」
所狭しと軒を連ねる商店に、路上には多くの屋台。その間を客が足早に行き交う中をリーヒは小柄な体を生かしてスイスイと進んでいく。そんなリーヒの両手と口の中には屋台で買い求めた軽食やら甘味やら飲み物やらが詰め込まれていた。
──あんな状態で人にぶつかったら……!!
自身もリーヒに押し付けられたホットドッグを片手に、ヨルは必死にリーヒの後を追う。こういう時、サーベルを二本も携帯していると不自由なことこの上ない。
──好きで持っているわけじゃないから余計に鬱陶しい……!
「ヨル君はゆっくりおいでよ。僕は久しぶりの外出を楽しんでるから!」
標準的な成人男性よりも若干体格に恵まれていることも災いして、ヨルは中々人混みの中を自由には歩けない。そんなヨルを人混みの向こうから振り返ったリーヒは、無邪気に瞳を輝かせるとさらに人波の中に突っ込んでいく。
「だから隊長……っ!!」
──久し振りに
様々な事情があって普段のリーヒは行動範囲をかなり狭く絞られている。その範囲の外に出るには、本来ならば部下であるアッシュを伴わなければならない。
だが今はアッシュが別件で出払っていて、緊急の任務が降ってきている。そういった場合に限り、リーヒはヨルが傍にいることを条件にアッシュを伴わずに指定範囲の外に出かけることを許される。
──その条件である私を放置したらダメでしょうっ!!
ついでに言うならば、こんな風に呑気に食べ歩きをしている場合でもない。
リーヒとヨルは緊急任務をこなすために王宮の外へ出てきたのだ。断じて食べ歩きを楽しむために出てきたわけではない。
──『腹が減っては戦はできぬ』などともっともらしく出された言葉を信じるんじゃなかった……!
そもそも、よくお菓子をつまみながら歩いている姿を目撃されるリーヒだが、ヨルが知る限りヒトの食物をリーヒが摂取しても真の意味でリーヒの空腹が満たされることはない。何を食べようが食べまいが、そういった意味でリーヒは常に空腹を抱えていると言える。
今のリーヒの空腹を満たすことができるモノは、世界にたったひとつだけ。
「……」
そのことを思ったヨルは、ふと足を止めると己の手の中にあるホットドッグを見やった。ちなみにホットドッグが握られているのは右手だけで、左手にはジンジャエールの瓶が握られている。どちらもリーヒが屋台で買い求めた物で、一口もリーヒの口には入らないままヨルの手に押し付けられたという経緯がある。
「…………」
足を止め、手の中にある食事をしばらく眺めたヨルは、数瞬だけ逡巡すると押し付けられたホットドッグにかじりついた。周囲を行き交う人を気にすることなくペロリと食べ切りジンジャエールで流し込めば、わずかに空腹を感じていた腹が満たされる。
「やっと食べてくれる気になった?」
飲み切ったジンジャエールの瓶をゴミ箱に放り投げ、手の甲で口元を拭いながら再び足を進めれば、店の入口らしき扉の前でリーヒが屋台で買い求めた肉の串焼きを頬張っていた。通り対して入口が奥まったその場所は、入口扉の前だけ世界が区切られているかのようにポッカリと人がはけている。
「はい、こっちのお肉もどうぞ。美味しいよ?」
「……ですから、こういうことをしている場合では」
「ここが食事をする最後のタイミングだろうからさ」
苦言を呈しながらもヨルは素直に差し出された串焼きを受け取った。こんがりと焼かれて塩と香辛料が振られた肉は、屋台物ながら中々に美味しくて食べごたえもある。
「最後、とは?」
「ここ」
手にしていた串焼きを3本ともヨルに押し付けたリーヒは、右手を上げると肩越しに背後の扉を叩いた。リーヒが背中を預けた扉はガラスが入れられていて、今はその向こうにカーテンが引かれているのが見える。人々が行き交う昼日中だというのに、この店は今開いていないらしい。
「最初の被害者がやってた本屋さん」
その理由をリーヒは実にあっさりと口にした。意識はどちらかと言えば手にした棒付きキャンディの方に向けられている。
「……ここが」
リーヒが『食事をする最後のタイミング』と口にした理由を理解したヨルは、串焼きにかじりついて肉から串を引き抜きながらじっと入口扉に視線を据えた。
当たり前だが、ごくごく普通の店にしか見えなかった。控えめにかけられた看板がなかったら本屋だということも分からなかっただろう。趣きを感じさせる洒落た店構えは、本屋というよりも古美術商や時計屋や……何だかそういった店の方が似合いそうな雰囲気を漂わせている。
「本ってさ、本来ならば、自分で動けるモノではないじゃない?」
リーヒが手にした食べ物はいつの間にか棒付きキャンディだけになっていた。幼子が喜びそうなカラフルな色使いがされた飴にペロペロと舌を這わせながら、リーヒはヨルを見上げる。
「『被害者は本に喰われた』っていうことは、毎回事件が起きるたびに所有者は姿を消しているんだよ。所有者がいなくなれば、本来本は最後に置かれた場所から動けない。だけど……」
「被害者は増え続けている。本は何らかの理由で、持ち主を転々としながら移動を続けている」
「正解」
串焼きを全て咀嚼したヨルは、口の中の物を飲み下してからリーヒの言葉を引き継ぐ。そんなヨルにリーヒは満足気に微笑みながら空の紙袋を差し出した。その袋の中に串を捨てれば、飴を噛み砕いて棒を外したリーヒも用済みになった棒を袋の中に突っ込む。
「本が周囲の人間を魅了して己を持ち運ばせているならば、本を封印すれば事足りる。本ではない何かが本の形に擬態していて己から獲物を求めて移動しているならば、ちょっと厄介だよね」
「本が人を魅了して、人の手を介して移動しているならば、本の足取りが掴めますしね」
その方が逆に厄介なのかもしれない、とヨルは頭の隅で考える。
今回は皇帝の実の娘が被害者になっている。現状命じられたのは『真相追求と事件の抹殺』だが、それが滞りなく遂行されれば次に待っているのは『なぜ第三皇女が巻き込まれたのか』という原因調査だ。
人が『ヒトに害を成す何か』を利用し人を介して事件を起こした場合、どのようなルートで『何か』はどう届けられたのか、その黒幕は、と事件の追加調査が膨大な量に膨れ上がる。対して『悪魔が無差別に行ったこと』で終われば捜査はそこで終了だ。無差別であればそこに理由は存在しないし、悪魔が成すことにヒトの理屈は通用しないのだから調査のしようがない。
「悪魔が作った本なり、悪魔が封印されている本なら、多少僕にも心当たりがある。気配の残滓が残っていれば、僕でも当たりがつけれるかなと思ってここに来たんだ」
うっかりリーヒに漏らしたら『じゃあ事件の真相がどうであれ、悪魔が無差別にやったことにしよっか』と気軽に言われかねない思考をしっかりと胸の奥に封印し、ヨルは小さくリーヒの言葉に頷いた。
そんなヨルを見上げたリーヒは、紙袋の口をひねって閉めると表通りに面して置かれていたゴミ箱に向かって紙袋を投げ入れる。その軌跡をヨルが無意識のうちに追った瞬間、リーヒはパチンッと右手の指を鳴らした。
「じゃあ、行こうか」
リーヒの言葉に応えるかのように、リーヒの背後にある扉からカシャンッと鍵が開く音がした。まるで招き入れるかのように開いた扉を振り返ったリーヒは、そのまま我が物顔で店の中に入っていく。そんなリーヒを溜め息ひとつで黙認したヨルもそっとリーヒの後に続いた。
「ヨル君大丈夫? 中見えてる?」
入口扉にカーテンが引かれた店内は夕暮れを思わせる闇に支配されていた。もちろん店内に人の気配はない。
店構えの
「大丈夫です。暗い場所は比較的得意ですので」
リーヒの声に答えながらヨルは店の中を慎重に進む。口にした通り、ヨルは普通の人よりかなり夜目が効くから視界は極めて良好なのだが、ここでも両腰のサーベルが非常に邪魔だった。いっそ外して傘よろしく店前に立てかけておきたいくらいなのだが、物が物だけにそんなことも言っていられない。
「本屋……というか、本の御用聞き、だったんだっけ?」
小柄なリーヒもさすがに今回は肩に羽織った軍服の袖や裾が棚の中の本に引っかからないか気になるようだった。体に巻きつけるようにサイズが大きい軍服の袖と裾を押さえたリーヒは、棚の中の本を見上げながらヒクヒクと小造な鼻を動かしている。
「はい。この店でも本を売っていたようですが、出入りしているお屋敷や公共施設に依頼された本を納める、という仕事の方がメインだったようですね」
店主の名はアルノルド・ハーヴェスト。新刊既刊、新品中古、奇書凡書、稀少本から大量流通本まで、『本』であるならば何でも扱うという珍しい本屋であったらしい。主な顧客は貴族や公共施設の運営者で、依頼された本を依頼主に納めて対価を得る、という形態を取っていたと調査書には書かれていた。店舗に並んでいる本は、その過程で副産物的に手に入れた本であるという。本の仕入れに行っていない日だけ気まぐれに開けていた店だったようだが評判は上々であったらしい。
「随分古い本まである。腕利きってのは、確かだったみたいだね」
リーヒがそう言うならば本当だろう。何せリーヒは見てくれこそ幼児だが、その実かなり長命かつ聡明であるので。
「いかにも『悪魔の書』が出てきてもおかしくはないし、逆に餌食になるのは不思議でもある……ですか?」
「そうだね。古い本を日常的に扱っていたならば、いわくつきな本の扱いを心得ていて
リーヒはヒクヒクと鼻を動かし続けながら言葉を続ける。顔を巡らせながら周囲のにおいを嗅ぎ続けるリーヒは、まるで餌を探す小型犬かリスのようだ。
「……もしかして、『依頼品』だったのかもね」
そんなリーヒが、不意に鼻の動きを止めた。ニヤリと意味深に笑ってヨルを見上げるリーヒにヨルは思わず眉間にシワを寄せる。
「……一番あってほしくないパターンなのですが」
「まぁ、そうなんだけども。でも、この気配はなぁー」
依頼品。
つまりアルノルド・ハーヴェストはたまたま『悪魔の書』を手に入れたわけではなく、誰かに頼まれて『悪魔の書』を入手した。そして扱い方を間違え、己が餌食とされてしまった、ということだ。
「気配、掴めたのですか?」
アルノルド・ハーヴェストがただの本屋ではなく人からの依頼で本の入手に乗り出すブックハンターであると知った時点から、確かに嫌な予感はあった。
いつの世でも、どんな職業であっても、欲と殺しは混ぜようと思えばいくらでも混ぜられるものだ。
本はどこにでも持っていける。持っていて怪しまれることもない。気軽に贈答もできる。本が人を害するなんて、誰も思わない。本で人を殺せるならば、と考える人間は、腹が黒い人間がうごめく世界にならば掃いて捨てるほどにいることだろう。
──オカルト趣味の人間が、己の趣味のために入手を依頼した、というのならば、まだ平和で良いのですが……
今現在、『悪魔の書』が事件を巻き起こしている、という点がヨルには引っかかる。
悪魔が関わる書、という物が世間にいくつも出回っていることはヨルも承知している。それらをマニアがコレクションしているということも、手に入れたいと躍起になって動く人間がいることも、漠然とだが知っている。
だがそういった書や人間がこうやって実際に事件を引き起こすことは稀であるはずだ。そんな稀な事件が、ただのオカルト本と古書の取り扱いに慣れたブックハンターの間で果たして起きるものなのだろうか、ともヨルは思うのだ。そういう目的のために作り出された、攻撃力の高い本物が事件を引き起こしている、と考えた方が、ヨルとしては腑に落ちるのである。
「古いモノがたくさんある空間にいると、においと念が混ざりやすいから、断定まではできないけれども。何となく、絞ることはできたよ。最有力候補だった場合は最悪だね」
「! それは……」
「ほう? それは初耳だな」
『どういうことなのですか?』と続けようとしたヨルの声は、唐突に響いた第三者の声に遮られた。聞き覚えのある声にハッと入口扉を振り返れば、いつの間にかそこに見慣れた人影が立っている。
「リーヒ・フォン・シュトラウゼ。ヨル・ネーデルハウト。お前達が私の許可なくここにいる理由も含めて、その話、聞かせてもらおうか」
ヨル達と同じ漆黒の軍服に聖職者であることを示すストラを巻いた、三十歳前後の男だった。金の柔らかそうな髪と、切れそうなほどに冷たいアイスブルーの瞳という取り合わせは、彼の出自がエゼリア高位貴族であることを物語っている。首から下げられた漆黒のストラは襟や肩、胸元にあるはずである部隊章や階級章を全て覆い隠していた。手の中に聖書があることも相まって、パッと見ると軍人よりも聖職者としての雰囲気の方が強い。
常に厳しい顔をしている彼だが、今ヨル達に向けられた顔は一段と厳しさが増していた。険をはらむアイスブルーの瞳に見据えられただけでヨルの顔からザッと血の気が引いていく。
彼は、リーヒの部下にして目付。
他のイライザの面々と徹底的にソリが合わない、イライザ特殊部隊所属の身でありながらイライザ特殊部隊を監視する者。
「アッシュさん……!?」
アッシュ・キルヒライト。
『本業』……祓魔師としての仕事が入ってイライザの招集には応じられない、とキルケーが飛ばした伝令に応えなかった最後のイライザメンバーが、なぜか今リーヒとヨルの前に立っていた。
「随分と遅いご登場だねぇ? アッシュ君」
ヨルの向こう側からアッシュを振り返ったリーヒは実に面白くなさそうに呟いた。紅を濃くした瞳がスッと温度を下げていく。
「さすが、お貴族サマは違うわけだ?」
「私の行動に出自は関係ないだろう」
リーヒの分かりやすい
「そう?
リーヒの厭味は留まるところを知らない。ある意味これはいつも通りのことなのだが、どうやら今のリーヒは虫の居所が悪いらしい。恐らくヨルと二人で自由気ままに捜査をしていた所に天敵からの横槍が入ったことが相当面白くないのだろう。
──皆さんが揃った所ではロゼさんやヴォルフさんに任せている所があるから忘れがちですが、何だかんだ言ってアッシュさんと一番ソリが合わないのは隊長なんですよね……
イライザ特殊部隊は、ヒトならざるモノに対処するために編成された部隊であると同時に、国の手に余る『はみ出しモノ』達を監視するための場所でもある。その監視者として配属されているのがアッシュだ。
そもそも祓魔師は『ヒトならざるモノ』を神の御名の下に祓うことを本義としている。祓われるモノ側である
──アッシュさんが名ばかりで実力がなければ、『歯牙にもかけない』という方向性で私達の方が受け入れることもできたのでしょうが、……厄介なことに相当な腕利きですから、それもできませんし……
「まぁ、そんなことはどうでもいいよ」
この狭い店内でリーヒとアッシュがやり合うことだけは回避させなければ、とハラハラしながら二人のやり取りを見ていたヨルの前で、リーヒが小さく溜め息をついた。下からアッシュを見上げる瞳は相変わらず冷めていて拒絶の色が強いが、ここでやり合っても仕方がないと理解してくれたらしい。
「で? 何でこのタイミングでここにいるの? どうせそっちも『悪魔の書』の関係で動いてたんでしょ?」
リーヒの物言いにアッシュの眉が跳ねる。だがアッシュもアッシュで己が抱える任務をリーヒの言葉で思い出したらしい。
『なぜ私がこいつらに己の任務について明かさなければならないのか』と分かりやすく顔をしかめていたアッシュだったが、ここで情報共有をしておいた方が己の利となると判断できる冷静さはあったのだろう。いかにも渋々といった体でアッシュは口を開いた。
「昨晩遅く、教会経由で通報があった。規模が比較的大きい悪魔崇拝者のコミュニティが確認されていて、その集団に最近活発な動きがあるとな」
『悪魔崇拝者』という言葉にリーヒの顔がピクリと動いた。何か気になるところがあったのかもしれない。
「巷で噂になっている『悪魔の書』もそのコミュニティによって見出された物かもしれんという話になった。コミュニティ参加者の名簿が見つかったんだが、ここの店主の名前もあった。ほぼ黒だ」
「では、『悪魔の書』は、本物の……」
思わず呻くように呟けば、アッシュは小さく頷いて同意を示してきた。
だがそんなアッシュにリーヒは鋭く切り返す。
「コミュニティが成立した時期と、店主がコミュニティに参加した時期は? 事件前、店主がコミュニティを抜けようとした動きはなかったの?」
その言葉にヨルはハッと目を見開く。
アルノルド・ハーヴェストはどんな本でも入手し、依頼主に納めるブックハンターだった。誰かがアルノルド・ハーヴェストに『悪魔の書』を依頼したのだとしたら、アルノルド・ハーヴェストだったら本を手に入れるために悪魔崇拝コミュニティに参加することくらいはやってのけただろう。『悪魔の書』が本物で、アルノルド・ハーヴェストにコミュニティ参加の証拠があっても、アルノルド・ハーヴェスト自身が悪魔崇拝者であった証拠にはならない。
そして今最も重要なことは『悪魔の書』の詳細を知ることであって、アルノルド・ハーヴェストが悪魔崇拝者であったかではない。多少は関係しているが、アルノルド・ハーヴェストが悪魔崇拝者か否かを判断したいのは祓魔師として動いているアッシュだけだ。
「……なぜそんなことを、私がお前に教えなければならない?」
「忘れたの? 君は祓魔師である以前に『エゼリア帝国軍第三十一番イライザ特殊部隊』の隊員なんだよ」
アッシュが知りたい情報と、リーヒが欲している情報は、近いが微妙に焦点が違う。アッシュの方は焦点が店主に据えられているが、リーヒの方の焦点はあくまで『悪魔の書』そのものだ。そのすれ違いが今リーヒが口にした質問に繋がっているのだが、教会からの連絡で祓魔師として動いていたアッシュはその辺りの事情を知らない。
「僕達がここに遊びに来たとでも思ったの?」
しかしその辺りの事情をリーヒは説明するつもりがないようだった。焦点の違いを認識していながらも意識のすり合わせをすることなく、あくまで『任務』で疑問を押し通すつもりであるらしい。
「これは皇帝陛下より直々に降された『任務』。そして任務に従事している間、君は僕の部下だ。アッシュ・キルヒライト少尉」
リーヒは真正面からアッシュを見据えた。紅に染まった瞳はアッシュを見上げていながらアッシュのことを見下している。リーヒが放つ圧に店内の闇までもがザワリとうごめいたような気がした。
「質問に答えろ。アルノルド・ハーヴェストはコミュニティ成立初期から所属していたメンバーだったのか?」
──気がした、だけじゃ、ない。
己の胸の内で零れた声に、ヨルの喉が勝手にゴクリと揺れた。
まるで王侯貴族が、床にはいつくばる農奴を玉座の上から見下ろすかのような。
今のリーヒが発するプレッシャーはそれに匹敵するようなものだった。店内の闇も空気もリーヒは完璧に支配下に置いている。リーヒが一言命じれば、店の中の闇がアッシュを襲い、骨も残さず食い尽くす……そんな妄想が脳裏をよぎるほど、今この空間には緊張が張り詰めている。
「……アルノルド・ハーヴェストがコミュニティに参加していたのは、ここ半年の話だったらしい」
そのプレッシャーをアッシュも感じたのだろう。
元よりアッシュはエゼリア国内でも指折りの祓魔師であるという噂だ。いくら気が強くても、己の不利を察知できない人間ではない。
リーヒの本性を知っているアッシュならば、余計に。
「一時期積極的に顔を出していたという話だが、『悪魔の書』を手に入れてからはパタリと顔を出さなくなったという話だ」
「……なるほどね」
アッシュから答えを得たリーヒはスッと瞳を閉じた。たったそれだけで闇を震わせていたプレッシャーがフッと霧散する。
「何となく、事件に目星がついた」
「えっ!?」
「行くよ、ヨル君。もうここから得られる情報はなさそうだ」
「た、隊長!?」
瞳を伏せたまま、リーヒはツカツカと入口扉に向かって進む。
その進路を、アッシュがふさいだ。
「説明をしろ」
短く、圧のある言葉が落ちる。
「お前達が追っている事件について。分かったことについて。そもそもお前達が私の許可もなくここにいることについて」
「僕が君に対して説明責任がある事柄は、何もない」
対するリーヒはそんなアッシュを見ることさえなかった。紅に染まった瞳は伏し目がちで、顔は真っ直ぐ前に向けられている。
そんなリーヒの態度にアッシュの瞳が凍てついた。
「……勘違いをするな、リーヒ・フォン・シュトラウゼ。お前がこうしていられるのが誰のお陰なのかをよく考えろ」
「君こそ何かを勘違いしていないか? 僕達が追っている事件について君が情報を得ていないのは、招集に応じなかった君の自業自得だ」
淡々と紡がれる言葉に聖書を握るアッシュの手に力がこもる。ヒリつく空気にヨルは我知らず息を詰めた。
「そして僕がこうしてここにいられるのは、全面的にヨル君のお陰だ」
一際、リーヒの声が冷えたような気がした。
己が作り出す冷気を身に纏い、その空気の中に身の丈に合わない大きな漆黒の軍服を翻したリーヒは、ゆっくりと顔を上げるとアッシュのアイスブルーの瞳を見上げる。
ヨルのトパーズの瞳にリーヒの紅眼の魔力は効かない。同じように、アッシュのアイスブルーの瞳にもリーヒの紅眼は効かない。
だというのにアッシュは、視線が合った瞬間体を凍りつかせて息を詰めた。ヨルがいる位置からリーヒの表情は見えないのに、なぜかリーヒの今の表情が分かるような気がしてヨルの息も自然と詰まる。
「私をエゼリア帝国が使えるのは、ひとえにヨル・ネーゼルハウトの存在があるからだ」
リーヒはきっと今、その整った顔に何の表情も浮かべていない。
リーヒの周囲の空気が一際温度を下げる時、その
そしてリーヒの容貌は、そんな無表情の時が一番美しい。
「国と神の威を借る偽善者。
淡々と、だが触れるもの全てを斬り捨てる鋭さで言い捨てたリーヒは、そのまま足を前に進めた。その歩にアッシュの体が自然に下がる。
目の前に開いた道を進んで入口扉を越えたリーヒは、扉を押さえたまま背後を振り返ると顎をしゃくってヨルを呼んだ。その仕草でようやく我に返ったヨルは慌ててリーヒの後を追う。
「……くれぐれも、あれの手綱を離すなよ」
アッシュの前を通りすぎた瞬間、その声は聞こえた。
声の方へ視線を流せば、苦々しくすがめられたアイスブルーの瞳が見えた。アッシュとヨルの背丈はわずかにアッシュの方が低いかといったくらいだから、目線の高さがほぼ同じになる。店内が狭いこともあり、アッシュの瞳はいつになく近い位置からヨルのことを見ていた。
「同じ『金と
その瞳に、視界にわずかに入った金髪に、その声に。
ドロリと、ヨルの心の奥底で黒い何かがうごめく。
「違う」
応えるつもりなどなかった。
だというのに気付いた時には拒絶の言葉が口をついている。
「私は、あなたと同じ『金と薄氷』などではありません」
アッシュの瞳に映り込んたヨルは、オレンジが強く出た金の髪と、スクエアフレームのメガネの奥にトパーズの瞳を隠した青年の姿をしていた。その姿を確認して、ヨルは己さえ意識しない心の奥で自分自身が安堵していることを自覚する。
だというのにアッシュは、何かを推し計るかのように瞳をすがめた。
「あぁ、そうだ、アッシュ君」
だがアッシュが次に何か言葉を発することはなかった。
グイッとヨルの手が引かれ、ヨルの瞳はアッシュの前から強制的に引き剥がされる。二人の間に割り込んだ声は相変わらず冷めていて刺々しい。
それでもヨルの手を取った小さな手は、大きさに相応しい柔らかな熱を帯びていた。
「祓魔師として人々を魔から守りたいという気持ちが君にあるなら、この店に並んだ品物、片っ端から浄化した方がいいと思うよ。かなりいわくつきの物が多いから、下手な人間に流れたら今回の模倣犯が生まれかねない」
ヨルの手を取り、無理やり店の外に引きずり出したリーヒは、ヨルを背に庇うと再びアッシュと対峙した。振り返ってリーヒを見遣ったアッシュもまた、分かりやすく眉間のシワを深める。
「あと、次にイライザから招集がかかったら、無視をしないことだね。君が追ってるヤマは、僕達の手中にある」
それだけを言い捨てるとリーヒは身を翻した。手を繋がれているヨルも必然的にアッシュから離れることになる。背後でアッシュが何かを叫んでいたような気がしたが、リーヒはさっさと人混みに飛び込むとあっさりとアッシュを撒いてしまった。アッシュもアッシュで追いつこうと思えば追いつけたはずだから、あえて二人を追おうとは思っていなかったのだろう。
「た、隊長、どういうことですか……っ!?」
背が小さなリーヒに手を引かれているヨルは前のめりになって人混みの中を進む。メガネが顔から落ちていかないように空いた左手でメガネのブリッジを押さえて人混みの中を進むヨルの姿は、さぞ滑稽に人々の目に映っていることだろう。
「事件に目星がついたとか、アッシュさんに店内の品の浄化を指示したこととか……っ!!」
リーヒが何かを掴んだことは事実だろう。だが本当に目星がついているかは分からない。突如現れたアッシュへミスリードを誘うためにあえてカマしたハッタリかもしれないし、何ならあの場でアッシュとこれ以上顔を突き合わせていたくなかったから発しただけの意味のない言葉だったのかもしれない。
とにかくヨルには、今のリーヒの内心が一切読めない。
「分かったことがあるのはホント」
人混みに紛れ、リッツヒルデ通りから抜け出たリーヒは、人混みがはけたのを確かめてから足を止めてヨルを振り返った。横道に抜ける細い路地の入口に立ったリーヒは、ヨルの手を取ったままヨルを見上げる。その瞳はすでに感情を取り戻していて、色も禍々しさが抜けた紅茶色に落ち着いていた。
「だから一回、王宮に戻ろうか。落ち着いて話がしたいし、出動に向けて準備もしたいから」
「準備……ですか」
任務が降された時から避けられないだろうなと覚悟はしていたが、ヨルは思わずその言葉に顔をしかめる。そんないつになく内心が素直に顔に出たヨルにリーヒはクスリと笑った。
「大丈夫。手加減してあげるから」
「……手加減する、しないの話ではないですよ、あれは……」
「してるしてる、してるって! 本気でやったらもっとすごいんだからね!」
ヨルの素直な反応がお気に召したのか、リーヒはアッシュと遭遇したことなどコロッと忘れたかのように機嫌良く笑う。そんなリーヒの様子にヨルの肩に最後まで残っていた強張りがスルリと溶けた。
「では一度、キルケーさんに向けて伝令を飛ばしましょうか」
「あ。キルケーちゃんに伝令を飛ばすなら、ついでに訊いてくれないかな?」
「何をですか?」
ヨルと手を繋ぎ直したリーヒはヨルに寄り添うように足を進め始める。そんなリーヒに連れられて足を進めながら、ヨルは問いを口にした。
そんなヨルを、リーヒはいつになくキリッと引き締まった顔で見上げる。
「『マカロン買って帰るけど、プレーンとチョコとフランボワーズなら、どれが一番好き?』って」
「……は?」
「シャトルレーゼ、この近くなんだって」
一体何を言っているのか、と考え、その名前が今朝出た菓子屋の店名だということを思い出す。どうやらリーヒは今朝言っていた通り……いや、今朝は『仕事が終わったら』と言っていたから、むしろそれを前倒しにして、有言実行とばかりに気に入ったマカロンを購入するつもりでいるらしい。
「王宮に戻ったらちょうどお茶の時間だもん! キルケーちゃんとの情報共有ついでにお茶を楽しんだっていいじゃない!」
「隊長……」
自分達は今、第三皇女の命がかかった極秘任務に着任中のはずだ。情報共有ついでであっても、決してお茶をするような余裕などないはずなのだが。
「それにこれは、準備の一環でもあるから」
思わず深々と溜め息をついたヨルの腕をブラブラと振りながら、リーヒは畳み掛けるように言い募る。
「ヨル君にしっかり食べさせるのは僕の仕事だし、いつ何時でもお腹を満たしておくことは、ヨル君にとっては立派な仕事じゃない?」
額に添えていた手をずらしてリーヒを見遣れば、リーヒは無邪気な笑みの中にわずかにあの妖艶さを潜ませていた。闇と紅い満月を思わせる、あの笑みを。
本性を垣間見せる笑みに思わず言葉を詰まらせたヨルは、しばらく逡巡してから渋々言葉を返す。
「……言いようによっては、そうなのですが」
「ほらね! じゃあ決まり!」
ヨルの言葉にニコッと無邪気に笑い返したリーヒは『早く早く!』とヨルの腕を引く。
上手く言いくるめられたような気がしてならないヨルは、追加の溜め息をこぼしながらリーヒの先導に従ったのだった。
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