第4話 事件

**


 次の日もその次の日も、冬香は見舞いに来なかった。

 両親はもちろん、仲のいい数人の友人も目が覚めた直後に一度会いに来ただけで、それ以来来ることはなく。

 俺は久しぶりに一人の時間を満喫していた。

 少しだけ嘘。

 一人の時間だ、とテンションが上がったのは最初の数十分だけだった。そもそも病室には娯楽がテレビくらいしかなく、暇だ。

 さらに検査の関係等で規則正しい生活を余儀なくされるため、惰眠を貪る気にもならない。

 下半身は未だに動かないので、軽く散歩に出かけることもできない。

「……」

 もしかすると俺は、結構寂しがり屋なのかな。

 冬香の顔を思い浮かべる。連絡したら来てくれるだろうか。

 いや、でも今呼んでもきっと来てくれないだろうし、万が一来たとしても、気まずくなるだけだ。

 退屈。

 そんな退屈を破るかのように、コンコン、と病室がノックされたのは、怪獣が死んでから三日目のこと。

「はい、どうぞ」

 親かな、冬香かな、と思っていたら、見覚えのあるおじさんが入ってきた。

 俺を轢いたおじさんだ。

「あ、どうも」

 おじさんはあの時よりももっと疲れ切った顔をしていた。足取りはふらふらで、青白い顔のせいで目の下のクマが一層目立っている。

「……大丈夫ですか?」

 心配になってそう聞くと、チッという舌打ちの音が聞こえてきた。

「……」

 舌打ちという行為と、おじさんの気弱な性格や今にも崩れ落ちそうな体調が余りにもミスマッチで、俺は最初、その舌打ちがどこから聞こえてきた者なのかわからなかった。

「……あの」

 怖くなった俺は、俯いているおじさんに声をかける。

 すると、数秒の間ののち彼は「妻と子どもが出ていったんだ」と吐き捨てるように言った。

「えっと」

「だから、妻と子どもが出ていったんだ」

「あ、はい」

 聞こえなかったわけではなくて、どういう言葉を返せばいいのかがわからないから言いよどんだんだけどな。

 ご愁傷様ですとでも言えばいいのだろうか。

「それは」

 どうしてですか? と聞きそうになって慌てて言葉を飲み込む。

 原因なんて一つしかない。俺を轢いたからだろう。

 そして、なんとなくおじさんにシンパシーを感じていた俺は、どういう経緯でそうなったのか想像することすらできた。

 きっとこの人は、止めなかったんだ。

 あの夜の俺のように、自分の妻子に詰め寄られ、その結果何も言い返せず。最後には出ていく二人を止めることすらしなかったんだ。

 おじさんが口を開く。

「お前のせいだよ」

「……」

 いや、その帰結はおかしい。

 俺を轢いたのはおじさんだし、その後妻子を止めなかったのも彼だ。

「いいや、違う。お前だってあの日自分で謝ったじゃないか」

「あの日? いつのことですか」

「目が覚めた日、お前が女と一緒にいるときだ」

 それを聞いて思い出した。

 確かにあの時俺は、こっちこそすいませんと謝った。

「謝るってことは、自分でも悪いと思っているんだろう? なあ」

「……それは」

 それは違う。

 謝ったのは謝られたからで。

 この人が下手に出てきたから、こっちも姿勢を下げただけだ。

 もちろん俺が夜中に出歩いていたことも褒められたことではないが、結局轢いたのはこの人で。

 それに付随する妻子の問題についてまで俺に責任を負わせるのはおかしい。

 そう思ったが、俺は何も言えなかった。

 怖い。ただただこのおじさんに、根源的な恐怖を覚える。

 恐怖が頭を支配していた。

「お前が悪いんだったら、俺ばっかりがこんな目にあっているのはおかしくないか?」

「ちょ、っと待ってください。そもそも俺は痛い思いをした上に、一週間意識を失っていました。もっと言うと未だに足が動かない。ただ夜中に出歩いていた、というだけにしては重過ぎる罰をもう背負っているんですよ」

「それに関しては、俺も多額の賠償金をお前の家族に渡す予定だ。痛み分け、プラマイゼロだろ」

 もう理論がめちゃくちゃだった。

 お前の家に爆弾を仕掛けたが、俺は爆弾を手に入れる費用が掛かっているので痛み分けだ、と言わんばかりの暴力的な理論。

 気弱そうなおじさん、というイメージからは程遠い発言だ。

「どうしちゃったんですか、そんなことを言う人じゃないと思ってたんですけど」

「前にお前と会ったときは、そうだったかもしれない。でも今は違う。もう気持ちを押し殺したりはしない」

「……」

 妻子が出ていったことが、こんなに彼を変えてしまったのか。

 いや、違う。

 おじさんの死んだ人間のようにどろりと濁った、ギラギラと輝く瞳を見て、俺は彼に何があったのかを理解した。

「俺はただ、自分がやりたいと思ったことをする。そう決めたんだ」

 この人も俺と一緒で、あの中継を見たんだ。

 怪獣が死ぬところを見て、影響を受けた人なんだ。


 その時、コンコン、と病室の扉がノックされた。

 嫌な予感がした。

 このタイミングで来る俺の知人。心当たりは一人しかいなかった。

 そして冬香がこの場に居合わせるとまずいことになる。そんな未来が見えた。

「ふゆかっ! だ……」

 駄目だ、と言おうとした俺の口がおじさんの手によってぐっと塞がれる。

 まだ筋力の回復していない俺は抵抗できず、ゆっくりと扉が開くのをただ見ておくことしかできなかった。

 俯いたまま部屋に入ってきた冬香が、「あのね、この前は」と言いかけて硬直する。

「は?」

 どういう状況だよ、と言いたかったのだろう冬香との距離を一瞬で詰めたおじさんが、彼女の背中に回って腕で首を絞める。

「今俺、妻が出ていったって言ったばっかりだよね。なんでこういうことをするのか理解に苦しむ。俺に劣等感を抱かせたいのか?」

 どう考えても偶然のタイミングだったのに、暴走した彼にはどんな言葉も届かなかった。

 この世全てが自分を陥れるために存在していると言わんばかりの、過大な被害妄想。

 どうしよう。どうすればいいんだろう。

 両親が来るという連絡はない。看護師さんが見回りに来るのも、次の食事の時になる。

 俺は動くことができない。

 そこで俺にひらめきが走る。そうだ、ナースコールを使えば看護師さんが来てくれる。

 ゆっくりと枕元のケーブルに手を伸ばした瞬間。

「動くな。人を呼んだらこの子がどうなるかくらい想像つくだろ」

 そんな言葉と共におじさんの冬香の首を絞めている手にぐっと力が入る。

 くそっ、どうすれば。

「お前が事故で痛い思いをしたのはわかる。今足が動かなくてつらいのもわかる。でもそれは俺の賠償金でフラットだよな」

「だからそこが……!」

「その上で俺は妻と子どもを失った。なのにお前には彼女がいて。それはおかしいと思わないか」

「……何をするつもりですか」

 睨みつける。

 それくらいしかできない俺が本当に嫌で。

「最終的には、お前たちが二度と会わなければそれでいい」

「……」

「だがまあ、口約束だけじゃ足りないから、ちょっとこの子は借りていくことにするよ」

 じたばたと冬香は腕の中でもがく。

 しかし、もがくたびに首を絞めていない方の手で頭を殴られるのを数度繰り返した結果、冬香は力なくぐったりとしてしまった。

「借りて、どうするんだよ」

「まだ決めてない。とりあえず俺が受けた苦しみをお前にも味わってもらえればそれでいい」

「くそ、やめろよ、俺を轢いたのはあんたが百悪いじゃねえかよ!」

 俺は叫んだ。

 そのまま、上半身だけを使ってベッドから這い出る。

「俺を轢いたことであんたが何を失ったのか知らねえし、知りたくもないけど!」

 ずるずると這いずって、男の方へと進む。

 彼はそんな俺を見降ろす。

 その目をやめろ。

 冬香を離せ。

 いくつもの台詞が頭を駆け抜ける。

 でも、そうじゃない。そんな言葉を彼にぶつけることに意味はない。

 だったら何を言えばいいか。

 俺は息を吸って、叫んだ。

 あの日の怪獣のように、大きな声で。

「いい年した大人が、怪獣の姿なんかに感化されてがんばっちゃってんじゃねえよ!」

 そう言うと男の顔がみるみるうちに歪んで、「うるせえ!」と言いながら俺の頭を蹴った。

 まるでサッカーボール。すんでのところで間に手を挟み、ダメージを押さえる。

 俺はもう一歩這いずった。

「く、来るんじゃねえ!」

 もう一度、サッカーボールキック。

 口の中に血の味が広がった。鼻で呼吸ができなくなる。

 それでも俺は、止まらない。

 蹴られることがわかっていても、止まるわけにはいかない。

 この先に逆転の一手があるわけでも何でもないけれど、ただ止まっちゃ駄目だと思ったから、止まりたくないと思ったから俺は前へと進む。

 男が一歩後ずさった。

 そのまま二歩、三歩と冬香を引きずりながら扉の方へ進む。

「待て……」

「いいや、待たない。お前が大声をあげたから、人が来る」

「冬香を離せよ!」

「いいや。この女が二度とお前に近づかないようにする」

 イカれてる。

 そして、このままだと逃げられる。

 男は冬香を抱えているとはいえ、這いずって移動する俺よりも移動速度は圧倒的に早いだろう。

 俺の足が動けば。

 俺の足が動けば。

 そもそもどうして、俺の足は動かないんだ?

 医者は、身体的な原因ではなく心因的なものだと言っていた。

 俺は、歩きたくないと思っているのか。

 夜中に歩いた結果事故に合った俺は、心のどこかではもう歩きたくないと思っているのだろうか。

 男が扉に手をかける。

 ぼた、ぼた、と血が床に広がる。

 俺の足が動けば。

 そこで俺ははた、と気が付いた。

 どうして足が動かないのか、そんなの簡単じゃないか。

「……かはっ、はっ」

 そうだ。

 そもそも俺は今まで、一度も歩きたいだなんて思ったことがなかったんだ。

 真剣に何かが欲しいと、何かをしたい、と願ったことが、一度もなかったんだ。

 今の俺は歩きたくないわけじゃない。ただ、歩きたいわけでもなかったんだ。

 だから足が動かない。

 だったら今は?

 今、俺はどう思っている?

 俺は今、何をしたい?

「そんなもん……」

 冬香を守りたいに、決まってるじゃないか!

 そのためには立ち上がらなきゃいけない、だから、動けよ足!

「ォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」

 あの日の怪獣のように、俺は吠えた。

 下半身に感覚が戻る。

 びりびりと電気が走ったように、一気に足に力が籠る。

 二週間近く動かしていない貧弱な足。それでもこの一歩を届かせるには十分すぎる脚力。

 とんっ、と前方に跳ねた俺は、扉を開けた男の足を掴んで引っ張った。

「てめぇ!」

 すっころんだ男がじたばたともがいたが、すでにがっちりと足首を掴んでいる。

「すいません! 不審者です!」

 俺は廊下中に響き渡るほどの大きな声でそう叫んだ。

 廊下にいた人たちが一斉に血だらけの俺の顔を見てぎょっとした表情を浮かべる。

 遠くから何にもの男の人が駆け寄ってきたのを見て、俺は気を失った。


 離れていく意識の中で、よくよく考えたらあれだけの人通りがあった病院の廊下を、冬香を抱えたまま突破するなんて無理だったんじゃ。と思った。

 まあ、いいや。

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