その夜、展望バーにて。
天洲 町
22:00ごろ
その夜、男は一人ホテルの十二階のバーに来ていた。煌びやかな夜景が眺められる窓際の席には何組かの男女が並び腰かけ、何か囁きあっているのが見える。それらに背を向けるようなカウンターの席につき、きっちりと髪を固めたバーテンダーとあらゆる種類の酒の瓶とにだけ向かい合っているのだった。白いものの混じった顎鬚を指でいじり、小さくため息をつく。手元のタンブラーで氷が少し融けて薄まったダブルのウイスキーが、静かな琥珀色に輝き、男の寂しさに寄り添っていた。
「お隣、良いかしら?」
右側の視界の外からの突然の声に少しうろたえたが、すぐに取り直して精一杯柔らかく微笑みつつ、どうぞとだけ返した。声の主は男の言葉を聞いているのかいないのか、サッとスツールにつくと化粧で仕上げられた長い睫毛瞬かせ
「すいません、あたしカルアミルク」
と注文を済ませた。
バーテンダーは低く響く声でかしこまりましたと応え、磨き上げられたステアグラスに乳褐色の酒を作りあげると、女に差し出す。それを自分の方に引き寄せ、ちらりと男の方を向くと軽くグラスを掲げる。男はまたしても慣れない笑顔で返した。
「ねえ、ちょっとゲームしない?」
片眉をピクリと上げ、女を見る。
「面白そうだね。乗ろうか」
女は片側の口元をゆっくりと上げ、
「それじゃああたしがこの一杯飲み終わるまでに、あたしを喜ばせられたらもう一杯飲んであげる。それで失敗するまで一緒に飲んであげるっいうルール。どうかしら」
てっきり飲み比べでも申し込まれるかと思っていた男は、虚を突かれた思いで下唇を軽く噛んだ。しかし若い女に気後れしたと思われるのも癪だった。
「ああ、いいとも。しかしさっきから見てると本当に美人だ」
子どもの悪戯を見つけたように、女は顔をくしゃりと潰して小さく笑った。
「なによそのとってつけたようなセリフ。からかってるの?」
グロスで艶やかなピンク色になった唇がグラスに触れる。カルアミルクが女の喉を流れて、男の猶予が目減りした。
「からかってなんかいないよ、率直な感想さ。ただ、若い女の子か何を言ったら喜ぶのかわかんなくてね」
そう言って自嘲気味に笑うと、タンブラーの酒を口に含み、遠い目をして舌の上で転がした。それを女は冷ややかな目で眺め、不満を露わにする。
「ねえ本当はわかってるんでしょ。あたしのこと喜ばせたくないの?」
女が身を乗り出すようにして言う。男はきょろきょろと目を泳がせ、どうしたものかと逡巡した。
「もう一気に飲み干しちゃおうかしら」
そういうとぐいとグラスを傾け、半分ほど残っていたカルアミルクがみるみる残りを減らしていく。男はやれやれと緩くかぶりを振り
「わかった俺の負けだよ」
と、言った。ピクリと女が動きをとめ、男を見つめる。すうっと息を吸い込み、それから吐き出すとと男は意を決したように一言絞り出す。
「結婚おめでとう、詩織」
「ありがとうお父さん」
ほんのり頬の赤らんだ笑顔は、はにかんだ子供のようだった。
その夜、展望バーにて。 天洲 町 @nmehBD
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