第6話

 ニッコリと微笑むトモヨにはなんの気負いも動揺もない。

 パクパクと金魚のように口を開いたり閉じたりしているアツシを見て不思議な生き物を見るような目で見ていた。

 「な、なぜ、あなたのような人がこんなところに? 」

 アツシはトモヨに誂われていると思った。自分の突拍子もない思いつきをおかしく思ったトモヨが冗談を言っているのだとそう思った。

 だがその一方で納得できることもある。容姿の美しさや魔力の強さはある一定までは努力でなんとなる、しかし高みに登るためにはどうしても血の力が必要だ。逆に言えば血こそがその高みの世界に入門する唯一の手形なのである。

 血でしか手に入らないものを尽くこの目の前の女は持っている。性格的には最悪であろうが性格が最悪だということとクジョウ・トモヨであるということは矛盾しない。だからこそ担がれてると思いつつもこのような言葉が出てきた。担がれてると思っているくせにアツシの中でトモヨはもうほとんどクジョウ・トモヨであるということになっている。

 「もちろんそれをお話してもよろしいのですけど、まずは部屋に帰りませんか?」

 それもそうだと、立ち話する内容ではないとアツシも思った。あのクジョウトモヨが目の前にいる。これがあのクジョウ・トモヨなのか。人は変わっていないはずなのにまるでトモヨがクジョウ・トモヨに早変わりしたような、性格の最悪さもクジョウ・トモヨであるならばなぜか許せるような気持ちにもなってくる。これが立場の違いか、とアツシは自分の平民根性が多少悲しくなってくる。

 部屋に戻ると「どっこいしょ」とトモヨは座り込み缶ビールを開け始める。先程までのアツシなら怒り狂うところであるが今はもうトモヨをクジョウ・トモヨだと信じているアツシは三重に重ねたマスクを付けて、手袋も二重にしていそいそと掃除の準備に取り掛かる。当たり前のように酒盛りを始めたトモヨを無視する。

 狭い部屋だから掃除の手間など大したことはないだろうとたかをくくっていたアツシはすぐさま打ちのめされた。

 拾っても拾ってもゴミが出てくる。空き缶やカップ麺の空き容器は元より、ペットボトルやトイレットペーパーなぜか三巻だけしかない破れまくった漫画本など多種多様なゴミが出てくる。

 せっせと掃除をしているアツシを見てトモヨは「どうせ汚れるからよろしいですのに」なんて言っている。

 しばらく時間が経ち、アツシはようやくトモヨの部屋を暮らすのは無理だがなんとか座るくらいはしてもいいぐらいの部屋にしてみせた。

 トモヨは特に反応を見せなかった。面白くなさそうに缶ビールを飲んでいる。つまみは生ハムをつまんでいる。

 「それであなたは……」とアツシが言いかけると「わたくしの名前はクジョウ・トモヨと申します。貴方が思っているクジョウ・トモヨで間違いないと思いますわ」こともなげにトモヨはあっさりと言い、生ハムを塊で取りもっちゃもっちゃと噛み締める。

 「別にわたくし隠しているつもりはありませんでしたの。正直申し上げてすぐに騒ぎになると思ってましたわ。ですので初めは家名を名乗らずトモヨ、とだけ名乗りましたの」

 生ハムを飲み込みそう言うとビールを喉に流し込み、次はチーズを食べ始める。

 「それでもすぐバレると思いましたわ。わたくし結構有名ですし、目立ちますから……だけども」

 「だけど案外今までバレずに労働者として働けた、と」

 「えぇそうです。皆さん親切にしてくださいましたし、働いてお金を稼いで自分で自分の欲しいものを買えるって面白いですわ」

 トモヨはほほほっとさも愉快といったふうに笑い、新しい缶ビールのプルタブを開けて、その音にうっとりとする。

 「それで、そもそもなぜ貴女ほどのお人が現場仕事なんか、というよりもこのようなところでお一人でお暮らしになっているのですか」

 言葉遣いを改めてトモヨに尋ねると「やっぱりお聞きになりますわよね」とトモヨは苦笑する。

 「わたくし、実はアオイ・ナルヒト様と婚約しておりましたの。これはまだ内々のお話で外には漏らしていなかったのだけども」

 「えっ」と声をあげるアツシを無視してトモヨはぽつりぽつりと話始める。


──────────


 宮中に居るときには信じられないことにクジョウ・トモヨという女は実直であり真面目な勤めをする女であった。

 よく気が利き、親切で年長者にも同輩にも目下のものにも慕われていた。自然評判は高まり、その美貌と家柄の良さと父の多少の政治活動のおかげでトモヨと皇太子の縁が結ばれた。内々の話ではあったがトモヨは皇太子なって婚約者となった。

 父は歓喜し、母は涙した。トモヨも自らが誇らしく。未来の夫であるアオイ・ナルヒトを献身的に支えようと強く心に決めた。

 アオイ・ナルヒトには日課がある。朝まだ暗い時間に馬を駆り、たった一人で遠乗りをする。この日課はまだ少年といっていい頃から続けており、アオイ・ナルヒトの馬術は宮中一ともっぱらの噂であった。

 その日もまだ暗い夜明けには時間があるうちにナルヒトは馬を飛ばした。すると後ろから猛然と一騎追いすがってくるので「なにやつか! 」と誰何したところ「トモヨでございます」と返答があった。

 ナルヒトが意外に思っていると「お供致します」と声が聞こえた。

 「よい! 無用である! 」と答え、ナルヒトは馬足を早める。振り切ってやろうと思った。

 しかしトモヨはぴったりと後ろにはりついてくる。だけではなくまだかなり余裕がありそうで、気を抜くとナルヒトを追い抜きそうになるのをどうどうと馬を抑えているようにも見えた。ナルヒトはこの美しい婚約者にかすかに不快の念を抱いた。

 ナルヒトはある小川の前で馬を休め、馬に水を飲まし自らもその小川で喉を潤そうとすると「なりません! 」とトモヨの声がした。

 トモヨは水筒を持参しており、「こちらをお飲みくださいませ。小川の水など毒であります」とその水筒の水をなかば無理矢理ナルヒトに飲ませた。その水は素晴らしく冷たく、また美味であったが毎日飲んできた小川の水を毒と言われてナルヒトにはまた不快の念が疼いた。

 さらに馬を走らせる。かなり馬を飛ばして、ナルヒト自身も疲労の色が出てきたが後ろにぴったりとついてくるこの婚約者にナルヒトはいつしかライバル心を抱き、必ず振り切ってやろうと固く心に誓っていた。

 しかしそれは叶わず、疲れたナルヒトは馬を止め、ある木の下で休んだ。トモヨは涼しい顔をしている。無性に腹立たしくなり木に成っていた蜜柑をもぎ取り食おうとすると横からひょいとトモヨの手が伸びてきて蜜柑をナルヒトの手から奪い取り「お剥きして差し上げますわ」と皮を剥き始めた。

 ナルヒトはいつになく疲労した面持ちで馬首を宮中に向け、最後の勝負! と馬にも自分にも無理をさせ、駆けに駆けた。

 もうまもなく宮中である。振り返り見てみるとトモヨの姿はない、振り切ったか! と笑みを浮かべそうになるナルヒトであったが捻った首の反対側のすぐ隣から「お迎えの準備をして参ります」とトモヨの声が聞こえたと思うと猛然とナルヒトを追い抜き「殿下のお帰り〜! お帰り〜! 」と触れて回っていった。あっという間に抜き去られナルヒトは愕然とした。宮中一と謳われ自らも密かに馬術巧者だと信じていたナルヒトの自信は打ち砕かれた。

 そのようなことがそれから毎日行われた。何度「無用である」と言い聞かせても「危のうございますから」とトモヨは遠乗りの共をやめなかった。あれほど楽しみだった毎朝の遠乗りがナルヒトには厭わしくなった。

 トモヨは宮中の中でもあれやこれやと世話を焼き、諸人たちは「ほんに気が利くことよ」とトモヨを誉めたが世話を焼かれるナルヒトは自らで出来るこそすら手出ししてくるトモヨを疎ましく思った。

 そしてついにある日、「出仕無用! しばらく顔を見たくない! 自宅に控えておれ! 」と怒声を発した。

 ナルヒトの膳にある魚の小骨を取ってやっていてトモヨはさっと平伏し「お許しを! 」と乞うたがナルヒトな足音を響かせ去っていった。

 自宅謹慎となったトモヨは食事も喉を通らなくなるほどショックを受けた。なぜこのような仕打ちを受けたのか分からなかった。

 わたくしは完璧に殿下に仕えたというのにとトモヨは考え、考え、考えた末にきっと何者かがわたくしを貶める根も葉もない偽り言を殿下の耳に入れ、殿下を謀ったに違い無いと信じた。真実をお耳に入れなければ、そう思うと居ても立っても居られない。

 このときトモヨは精神を病んでいる状態であった。謹慎を命じられていることも忘れナルヒトに会うため、ナルヒトの遠乗りのコースで待ち伏せし、平伏して待った。あの小川の近くであった。

 遠くからナルヒトの駆る馬の蹄の音がする。その蹄の音が常よりも重く聞こえることにおやっとトモヨは思った。思ったが平伏し続ける。

 「トモヨか、なぜここに居る」

 頭上からナルヒトの声が聞こえた。ぱっと顔を上げるとなんとナルヒトの後ろには一人の可憐な少女が乗っている。相乗りしているのだ。

カッと頭に血が上り、「その女がわたくしの流言を殿下のお耳に入れたのでございましょう! わたくしを妬み、あることないこと穢らわしいことを殿下のお耳に入れたに違いありますまい! なれど殿下それは根も葉もない偽り事でございます! 」と叫ぶように言った。

 ナルヒトが怒りに顔を赤く染めるが精神を錯乱させているトモヨは気が付かずさらに続ける。

 「わたくしは殿下のためを思い、殿下に誠心誠意お尽くし致しました。なにがお気に召さなかったのでしょうか? わたくしに手落ちがあったとは思えませぬ! 」

 トモヨは涙をほろほろと流しながら馬上のナルヒトを見上げている。

 先程は怒りにより赤く染まっていたナルヒトの顔はもはやトモヨになんの関心もないような冷めた表情をしている。

 「それだ。そなたのその正しいのは自分一人というその振る舞いがどうしようもなく私を苛立たせる。そなたは私に誠心誠意尽くしたといったがそれは嘘だろう。そなたの働きは常に他人の目を気にして、他人に見せるための働きだ。どうだわたくしは気が利くだろうと周りに見せているだけだ。私に尽くしているのではない、自分に尽くしているのだ」 

 そこまで言うと大仰にため息をついた。

 「そして私の後ろにいるのは遠国から遊びに来た我が従兄妹殿である。そなたのことなどなにも知らぬし知らぬことは口にできぬ」

 そこでトモヨは「ヒィッ」と呻き、自分がとんでもない思い違いをしていたことを知り、顔を真っ青に染め改めて平伏する。

 「我が皇家に連なる者への雑言許しがたし、さらに謹慎を命じた我が意に背きしこと大罪である」

 「よって我がアオイ・ナルヒトの名に置いて、クジョウ・トモヨとの婚約は破棄しさらにクジョウ・トモヨを宮中、さらに帝都トーキョーから追放する! 」

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