6 旅するエリク家と学園長の手紙
6-1-2 旅するエリク家
「ひ、ひいーっ!」
背後で叫びが聞こえた。ランやマルグレーテを抱いたまま振り返ると、コルンバがよたよたと走って逃げるところだ。
「そういや、コルンバのこと忘れてたわ」
「お兄様……」
腿は縛られたままだ。膝から下だけを使って、間抜けな鳥のような歩き方だ。
「なんだあいつ、うまく立ち上がったもんだな」
なんとか立ち上がり、逃げ出したってわけか。逃げ足だけはあるってのは、考えてみればコルンバらしいわ。
「馬に乗って逃げる気なのかな」
「いえ、ランちゃん……」
マルグレーテは、溜息を漏らした。
「お兄様は馬がお嫌いです。臭いと言って。馬もそんな気配は読み取るので、お兄様の命令には従わないでしょう」
「だよな。それに縛られてるから、乗馬は物理的にも無理だわ」
「曲がりなりにもエリク家の嫡男ともあろうお方が、情けのないお姿……」
後ろ姿を見つめて悲しげに、マルグレーテは眉を寄せた。
「あいつのことは忘れろ、マルグレーテ。もう陰謀は全て明らかになった。これからどこに逃げるにせよ、陰謀に加担したコルンバが家に顔を出せるはずもない」
「そう……ですわね」
地下から脱出し屋敷の扉を開けると、馬が三頭、もう玄関で待っていた。
「わあ、いかづち丸たちが迎えに来てくれたよ」
「ぶるるるるっ」
気のせいか、馬も嬉しそうに見える。俺達の気持ちが伝わったのかもな。
「よしよし。待たせたわね、スレイプニール」
スレイプニールの鼻面を、マルグレーテは撫でた。
「帰りましょう、我が家に。わたくしを救ってくれた、英雄モーブやランちゃんと共に」
ひらりと跨る。
「ああ、わたくし、気持ちがいい。……やはりわたくしは、家に閉じ込もる貴族生活より、モーブやランちゃんと冒険する、外での毎日が好き」
俺の目を見て。
「戻りましょう、モーブ。そして……全て、お父様お母様に説明しなくては」
●
ひと晩かけて、エリク家領地まで駆け戻った。朝方駆け戻ってきた愛娘に、母親は抱き着いた。貴族の妻というのに、誰はばかることなく涙を流して。これまであなたにだけ苦労を押し付けてごめんなさいと謝って。
泣きながら抱き合うふたりを見て、父親は口をきっと結んでいた。そして俺の前まで来ると、礼を言いながら手を差し出した。父親の手を、俺はぐっと握ってやった。
ひと休みしてからその夜は、時ならぬ大宴会となった。ノイマン家自体が幻の存在で、実態はゴーレムの巣窟であったこと、連中は全て倒したこと、そしてコルンバはゴーレムの手先に成り下がっており、どこともなく姿を消したこと――。俺達の説明に、両親は驚きを隠さなかった。
「これでマルグレーテの婚姻契約は無効ですね」
俺が念押しすると、父親は頷いた。
「もちろんだ」
うまそうに、葡萄酒を飲み干す。
「相手が人間でない以上、婚姻という法的定義の対象外だからな」
「マルグレーテは、これでまっさら。法的にもきれいな体のままですよ」
嬉しそうに、母親も付け加えた。気のせいか、俺に向かって言ってくれたようにも聞こえる。
「婚姻契約自体が無効なんだ。別に離縁とか婚約破棄という話じゃない。支度金返還の義務はありませんね」
「モーブ殿のおっしゃるとおりだ」
俺の意見に、父親が同意した。
「あの資金は、我が民草のために用いよう」
「そもそも、返す相手自体がもういないもんね」
「そうね。ランさんの言うとおりね」
母親も楽しそうだ。
「ラン様、食後のケーキはいかが」
テーブルサイドで世話を焼くブローニッドさんも、今晩は楽しそうだ。さっきからずっと、にこにこと微笑み続けている。
「わあ、いいんですか」
「たんと召し上がれ」
ブローニッドさんが目配せすると、エリク家たったひとりの料理人、ヨーゼフさんが、サーブトレイの上のフルーツケーキを切り分け、皿に取って蜂蜜を掛けた。
「ランお嬢様、お待たせしました」
サーブしてくれる。
「わあ、素敵。いい香りですね、これ」
「へい。今晩は特別のお祝い。マルグレーテお嬢様が嫁がれる日のつもりで、腕によりをかけやした」
「ヨーゼフ、縁談の話はわたくし、もう御免だわ」
「これは失礼いたしやした、お嬢様」
テーブルを気楽な笑いが包んだ。
「それに、ノイマン家領地の人々のことがあるわ」
食後のケーキのフォークを置くと、マルグレーテはナプキンで口を拭った。
「ノイマン家がモンスターであったと判明し、今は管理者が居なくなっている。移動裁判所に沙汰を仰いで、エリク家で一緒に管理して差し上げてはどうかしら」
「そうだな、マルグレーテ。さっそくそうしよう」
父親はうんうん頷いている。
「頭が良くて決断力のある、いい子に育った。私自慢のひとり娘。さすがはエリク家嫡女だけある」
「お父様、それですけれど……」
改めて、マルグレーテは背筋を伸ばした。
「エリク家を離れさせて下さい。よろしくお願いいたします」
頭を下げた。
「わたくしは、ヘクトールで多くを学び、モーブやランちゃんという、生涯の友とも出会いました。わたくしの心は、荒野を見ています。冷たい風がびゅうびゅう吹き荒れる荒野を。わたくしの魂に挑んでくる荒野を」
「ふむ……」
父親は黙ってしまった。ブローニッドさんが注いだ香り高いお茶を、静かに味わっている。
「お父様、お願いします」
重ねて、マルグレーテが頭を下げた。
「勘違いするでない、マルグレーテ」
苦笑いしている。
「反対などしておらん。ただ感慨に浸っておったのだ。……野の猫を追っては転んで泣いておった我が娘が、これほどたくましくなったのかと」
ちらと俺に視線を投げる。
「はて、誰のおかげかな……」
「お兄様も居ない今、エリク家を後にすることには、大きな心残りもあります。ですが――」
「気にするな、マルグレーテ」
父親は、マルグレーテの瞳を見つめた。
「コルンバはどちらにしろ廃嫡だ。だからといって、今さらお前に重圧を押し付ける気はない。……なに私も年寄りではない。まだ十年や二十年、最前線で領地を経営してみせるわ」
「お父様……」
「エリク家領地はモーブ殿のご尽力で、地力を回復した。宙に浮いた巨額の支度金もある。それにおそらく、ノイマン家領地が編入される……。エリク家は、これから第二の黄金時代を迎えるのだ」
力強く言い切った。
「これほどやりがいのある時代はない。男として、心が躍るわ」
瞳が輝いている。
「それに私の体力が落ちる二十年後には……」
マルグレーテを見て微笑んだ。
「お前の子が事業を引き継いでくれるやもしれんしな」
「わ、わたくしの……子供……」
マルグレーテの頬に、さっと朱が差した。もじもじと、左右の太腿をこすりつけるように動かしている。
「赤くなるな。それも冗談だ」
父親は、豪快に笑った。
「お前の人生だ。好きに生きるがよい」
「お父様……」
マルグレーテの瞳から、すっと涙が落ちた。
「あ、ありがとうございます」
「それに勘違いしてはいけませんよ、マルグレーテ」
マルグレーテ同様、母親も背筋をきちんと伸ばし、膝の上に手を乗せている。
「ここがエリク家なのではありません。指輪を継承したでしょう。あなたの行くところ、そこがエリク家なのです。エリク家とは領地や家屋のことではありません。エリク家嫡女の赴く場所、そここそが真のエリク家なのです」
「お母様……」
「あなたの人生、そしてエリク家は、その指輪の相手と共に旅するのです。この屋敷はね、もはやエリク家ではないのよ、マルグレーテ。ここはね……」
優しく微笑んだ。
「いつの日か、あなたや連れ合いのお方がなにかに疲れ切ったとき、魂を休めに戻る、ふるさとですよ。あなたはエリク家に戻るのではない。あなたを包んでくれる、森と泉の優しい自然に抱かれに帰るのです」
「あ、ありがとうございます。も……もったいない。わたくしにはもったいなさすぎるお言葉です……」
涙がぽろぽろとこぼれた。母親の瞳にも、ランの瞳にも、涙が輝いている。ブローニッドさんやヨーゼフさんまで、もらい泣きしている。ヨーゼフさんなんか意外に涙もろくて、コック服の袖はもうぐしょぐしょに濡れている始末だ。
「さあ、まだ夜も早い。もう少し聞かせておくれ。お前やモーブ殿、ラン殿の冒険の数々を」
「はい、お父様……」
ナプキンで涙を拭うと、マルグレーテは話し始めた。あの懐かしい、夏の遠泳大会のことを――。
●大団円に思えた深夜、モーブは独り、アドミニストレータの発言を振り返る。そこには、どう考えても解けない謎、大きな矛盾があった……。次話「ゲーム時空の異変」、明日公開!
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