ep.55 指切り
古いラップトップPCに、ディスクを挿入する。
カラカラと光学ドライブが回る音が聞こえてくる。
「……やっぱりPCからだと読み込めるデータがある」
「じゃあ、やっぱりこのディスクから、過去にいけるんですか」
「ああ、多分当たりだ。この3年前の日付になっている.exeのファイル……これから戻れると思う」
「……気をつけてくださいね。なつ海ちゃんと一緒に、待ってますから」
「えっと。んー、ごめん。なんて言って見送ればいいかわからないんだけど。わたしのことより、兄さんは……自分と沙織さんのことを優先してくださいね」
「なつ海、俺はもう誰かのために誰かを犠牲にはしないよ。そのために戻ったわけじゃないんだから」
「でも……」
「でも、とかはナシ。じゃあ行ってくるわ」
ファイルにマウスポインターをあわせて、ダブルクリックで起動させる。
大きく鳴る光学ドライブの音と、PCファンの排気音。
その瞬間、あのときと同じ、強い痛みを胸に感じた。
「兄さん!」
胸を抑えて屈んだ俺を、なつ海がその小さな肩で支える。
苦しい……けど。あのときとは違う。
俺のことを心配そうに見るなつ海と由依ちゃんがいる。だから俺は気丈に笑みを浮かべた。
「沙織を迎えに、行ってくるから待っててくれな」
いまにも泣きそうな顔をした妹が小さく頷いたのが見えた。
***
波の音が聞こえる。
寄せるときに砂を巻き込む軽い音と、返す際の強い水音。
そのくり返し。
俺は、橋の上にいた。
島へと通じる唯一の道筋だ。
100メートルほどの短い橋を渡れば、そこが目的地だった。
日暮れの海は黄昏色に染まっていた。島の奥には鳥居の黒い影が見えた。
そして、俺は一回り小さくなった自らの掌を見た。
――戻ってきたのか
3年前のあの日に。
周りを見渡しても、人は誰もいなかった。
なつ海は……。
いまが夕暮れ時ということは、事故まであまり時間がないということだ。
スニーカーで踏む浜はざり、ざりと音を立てる。
浜の砂は小さな貝殻が集まったもので、足がとられて上手く進めない。
俺は、なつ海を探して走った。
そして、遠くに見えた鳥居までたどり着いた。
その柱に寄りかかり、座り込む少女がいた。
小学生のときの、まだ幼いなつ海の姿だった。
いつもの三角座りをした体勢で、顔を埋めて泣いているようだった。
「なつ海。こんなところにいたんだ。海も満ちてきてるし、危ないから帰ろう」
「……やだ。お母さん達のところに帰りたくないもん」
そうだ、思い出した。
なつ海が泣いている理由。確か好きな子との相性を占うのが怖かったという、そういう子供らしい理由だったと思う。
「そんなに、泣くくらい好きなやつがいるのかよ」
「……お兄ちゃんには関係ないでしょ!」
「お前が振られたら、俺がもらってやるから泣き止めよ」
その言葉は今思えば残酷なもので、決して叶うことがない子供じみた約束だったのかもしれない。
今になったらわかる。なつ海の想い人が、俺だということに。
「それって、ほんと?」
顔を上げて、俺のことを上目遣いに見つめる。
その顔は少し不満げで、まだ機嫌が悪いのが見て取れた。
「ああ。ほんとだ。だから一緒に、帰ろう」
「じゃあ、指切り」
そう言って幼いなつ海が、小指を差し出してくる。
俺は自分の小指を動揺に彼女に差し出そうとした。
そのときだった。
『嘘つきなお兄さんだね』
銀髪の少女がいた。
夕日に染まる羽織られた千早。そのしたには白衣と赤い袴。
巫女のような様相をしたその存在は、間違えなくあくる日の水月だった。
「水月か」
――
水月が唱えたその言葉は、この島に伝わる古き神話の一節だった。
たしか、神格を得た弟が兄を溺れさせる、そんな話だった。
その瞬間、強い風が吹き、満ちた潮が俺達の足元まで迫ってくる。
水位はみるみるうちに上昇していく。
「なつ海! 手を伸ばせ」
俺は急いでなつ海の手をとり、引き寄せる。
幼いなつ海の身体は震えていた。
「お兄ちゃん。ごめん。わたし……大変なことしちゃった」
「……なつ海が望んだことだったのか」
水月は静かに微笑む。
そうか……。
なつ海の事故は不注意なんかではなく、彼女自身の願いによるものだったのか。
理由はもうわかっている。なつ海は自身の叶わぬ恋を呪ったんだ。
そして、その純粋な想いをただ水月は受け入れた。
ただそれだけだったんだ。
なつ海の俺への気持ちは、それくらいに強いものだったのだろう。
そんなことにも気づかずにいた俺は、その報いを受けるべきなんだろう。
「ごめんなさい。ごめんなさい! わたしが悪かったの。お兄ちゃんはなにも悪くないの。だからやめて。お願いします。お願いします」
なつ海が叫ぶ。
腰が浸かるほどの海水。
なつ海が溺れないように俺は、その手で強く抱きしめる。
――では、代わりに差し出す覚悟はある? 貴女の魂を
駄目だ。応えちゃいけない。
濁流が身体を飲み込む。
息ができない。
海水に流されているのがわかる。
このままだと、なつ海が隠り世に引きずり込まれる……。
やめろ。俺が代わりにいくから。なつ海を助けてくれ。
そう強く願った。
「違う……神様にただ祈るだけじゃ、駄目なんだ」
それじゃ、未来はなに一つ変えられない。
伸ばした右手が掴んだのは船を停泊させるためのロープだった。
左腕でなつ海の身体を抱きかかえながら。沖に流されないように右腕の力で堪える。
永遠にも思える時間のなか、俺はなつ海を強く抱きしめていた。
***
「神話の中でも、弟は兄を殺せなかった。山幸彦と海幸彦の物語の結末と同じだね。なつ海ちゃんとキミは兄と弟じゃなくて兄と妹なわけだけど」
馴染みのある少しハスキーな声。
優しさを孕んだその声の持ち主が誰なのかはすぐにわかった。
「……沙織?」
「こんなところまで、迎えに来るなんて。ほんとにバカね」
仰向けに寝転んだ川縁。
天の川がどこまでも夜空に続いていた。
青い髪が俺の顔にかかって少しこそばゆく感じた。
覗き込む彼女との距離は、始まりのときよりも近くて、それだけで愛しく思えてしまう。
「ここは……時の河、隠り世なのか? そうだ、なつ海は…‥」
「ここにはいないけど。無事よ。キミが守ったの」
「そうか……良かった。これで現象は止まるのか」
こくん、と沙織は首を縦に振った。
それでもその表情は少し曇って見えた。
「でも、乃愛さんが……」
確証があったわけではないけれど。
俺がなつ海を救うことができたのだから。大丈夫だと思った。
「乃愛なら、きっと大丈夫だよ。――なあ、水月」
「言ったよね神様は万能じゃないって。だから、源乃愛の結末はキミ自身の目で見てくれば良い」
「現し世に、帰れるんだな」
「……また、寂しくなるね。君と一緒にいた夏は、ボクにとっては良い退屈しのぎだった」
「そうか、帰れるのか。――でもその前に、最後に語ろうか」
――Re;summer、最後のメインヒロイン、水月のシナリオを。
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