ガーベラ

増田朋美

ガーベラ

その日も寒い日であった。いつもどおり蘭は、刺青師として、下絵を描く作業をしていたのであるが。

いきなり、玄関のドアがピンポーンとなって、誰かが来たことがわかった。あれ、今日は予約も入っていなかったはずなのになあと思いながら、蘭は急いで、玄関先に行った。ドアを開けると、一人の女性がいた。もちろん、刺青師のところにやってきたのだから、刺青のことについて聞きたいんだろうけど、なにか様子が変なのである。

「あの、今日は、なにかありましたでしょうか?」

「はい。ちょっと、お願いがありまして。」

と、女性は言った。

「私、望月喜美と申します。ヨシは、喜ぶと書いて、ミは美しいと読みます。」

「はあ、望月喜美さんですが。どうしてここに来たんですか?」

と、蘭は彼女に聞いた。

「はい。どうしても、聞きたいことがありまして。先生に、入れていただいたらみんなの視線も変わるんじゃないかって、思ったんです。」

という彼女に、蘭は、

「わかりました。とりあえず、中へお入りください。外は寒いでしょう。」

と言って、中に入れた。

「とりあえず、お茶でも飲んで、落ち着いてください。」

蘭は、彼女をテーブルに座らせて、お茶を出した。

「あの、こんなところに、お話をしても、どうなのかわからないんですけど。」

と、喜美さんは話し始めた。

「はあ、本当に、刺青を入れるつもりで見えたんですか?」

蘭が言うと、

「はい。そのつもりです。」

と、彼女は言った。

「でも、その顔から判断しますと、極道でもなさそうですし、刺青とは無縁のような気がするんですけど?」

一応蘭はそう言ってみる。

「そうなんですか。やっぱり、刺青と言うと、そういう人じゃないとできませんか?」

と喜美さんは言った。

「はい、といえば嘘になりますが、まず初めに、どうして刺青をしようとおもったのか、その理由を話してください。」

蘭がそう言うと、

「はい。実は先月、乳がんの手術をしました。乳頭直下なので、全部取らないといけないと言われました。そのとおりにすれば、他に何も無いから大丈夫だって言われたんですけど、手術を受けて、片方をとったら、みんなそこばっかり見るんです。片方がぺちゃんこって、そんなにおかしいことですか?みんな私が来ると視線を変えるんですか?だから、刺青をして、そっちの方に視線を向けさせれば、もう胸のところを、見なくなるかなと思ったんですよ。」

喜美さんは悲しそうに言った。

「はあ、えーと、そうですか。」

蘭はそれしか言えない。

「それくらい、乳房がとれてしまったということは、女性にとって重大なことなんですか。」

「ええもちろんです。みんな、そこばっかり見るから、やめてくれと言っても、やめてくれません。だから先生、お願いしますよ。私が二度と馬鹿にされないように、ほってください。そうすれば、胸をなくしても、バカにされなくなると思います。」

彼女は一生懸命蘭に懇願するのであった。

「そうなんですね。わかりました。それでは、何を彫ればいいのか、仰っていただけないでしょうか。申し訳ありませんが、隠し彫りのような、性的装飾は、お断りです。そういう方には彫らないことにしています。」

蘭がそう言うと、彼女は突然表情を変えた。

「そうですか。彫っていただくことばかり考えていて、何を彫るかなんて、何にも考えることはできませでんでした。」

「それじゃあ困ります。何を彫りたいのかは、こちらが決めることではありません。」

蘭がそう言うと、彼女は素っ頓狂に言った。

「ごめんなさい。何を彫るかなんてそんな事は考えていませんでした。こんな人間ではやっぱりいけませんか。」

そういう女性は、どこかパニックになっている雰囲気があった。

「いえいえ大丈夫です。ですが、もう少し落ち着きましょう。刺青というものは消せるものではありませんから、もう少し、慎重にやらないと。入れて後悔したということは、お客さんにさせたくありませんから。」

蘭はそう言って女性を落ち着かせた。

「ああ、ああ、ごめんなさい。何も考えていませんでした。私、日本の伝統的な和彫なんて、何の知りません。ごめんなさい。もう一度本を読むなりして、出直してきます。」

そういう彼女に蘭は、

「いえ、日本の伝統文様の本は、現在あまり出版されていません。あまり詳しく書いた本は、無いということですよ。なので、こちらでお貸しすることもできます。古い本ですけど、伝統文様や、花言葉について詳しく書かれていますから。よろしければ持っていってください。」

蘭は、本棚から、「日本の花図鑑」と書かれている本を取り出した。

「この本にいろんな花が紹介されてありますから、好きな柄を言ってみてください。」

「ありがとうございます。」

喜美さんは、蘭が見せた本を開いて、一生懸命花を探し始めた。その姿を見ると、大変悩んでいたことがうかがえる。蘭は顧客名簿を出して、望月喜美と書き込んだ。

「じゃあ、その本、お貸ししますから、何を入れたいのか決まりましたら、お電話をください。よろしくおねがいします。」

と、蘭は、彼女に言った。

「どうもありがとうございます。本当に、親切にしていただいてありがとうございました。じゃあ、決まったら、また参りますから、どうぞそのときにはよろしくおねがいします。今の第一希望は、ガーベラかな。あたし、ガーベラが一番好きなんですよ。でも、ここには書いていないのですよね。」

「まあ、その本には、いろんな花が載っています。花言葉も載っていますから、それに合わせて、入れたいお花を決めてきてください。」

嬉しそうにそういう彼女に蘭は言った。

「じゃあ決まったら、お電話くださいね。」

「はい、ありがとうございます。嬉しいです。先生が、そんなに私のことを思っていくれているなんて、本当に嬉しいです。」

彼女は、蘭に頭を下げて、日本の花図鑑と書かれた本を持って、蘭の家を出ていった。

それから数時間後。

「おーい蘭。買い物いこうぜ。」

玄関先ででかい声がして、杉ちゃんとわかる。

「どうしたんだよ。ボケっとしちゃって。誰か偉い美女でも来たか?」

蘭は杉ちゃんにそう言われて、

「そういうわけじゃないけどさ。悩んでいる人が、多いなと思って。」

とだけ言っておいた。

「まあそうだね。特に、蘭みたいな人だと、悩んでいる人に手助けをするような役目だから、そういう人に当たるのかもね。まあ、気にしないで言ってこよう。」

杉ちゃんに言われて蘭は、わかったよ、と言ってタクシー会社に電話した。そして二人はタクシーに乗って、ショッピングモールに向かった。そこまで行くにはさほど苦労はなかったが、ショッピングモール近くにある大通りにつくと、大通りはえらく渋滞していた。おかしいな、今日、道路工事の予定は無いんですけどねと、運転手が言っている。他に道は無いので、しばらくここで待っていることにしたが、車はなかなか動かなかった。タクシーのすぐ近くを、警察官が走ってきたのが見えたので、

「おい!一体何があったんだよ!」

と、杉ちゃんがでかい声で言うと、

「自殺行為です!」

と警官は答えた。

「こんなあっ広げな大通りで自殺なんかするかなあ。こんなところ、周りの人から丸見えじゃないか。それをするんだったら、もっと人通りが無い場所でやるもんじゃないの?」

杉ちゃんが、そう言うと、渋滞の中で、刑事が何人か飛び出してきた。その中の一人が、スマートフォンで電話をしているのが見えた。蘭には、こう聞こえたのである。

「はい身元がわかりました。彼女が持っていたスマートフォンに名前がありました。はい、名前は望月喜美で間違いありません。それで、間違いありません。」

蘭は、それを聞いてびっくりしてしまった。

「望月喜美!あの、僕のうちへ、訪ねてきた女性では?」

「何、お前さん知り合いだったのか?」

杉ちゃんがそう言うと、

「いやあ、僕のうちへ今日、来たんだよ。確か、乳がんの手術をして、胸がなくなったのを悔やんで、それでは他のところに着目してもらいたいから、刺青を入れてくれという話だったのに。すみません、運転手さん、事件現場でおろしてもらえませんか。買い物は、また後で行きますから。」

蘭は、急いでタクシーにお金を払い、その場でおろしてもらった。近くに行くと、車を運転していた運転手が、なにか話しているのが聞こえてくる。何だと思ったら、運転手は、何も気が付かなかったという。ただ、横断歩道があったので、赤信号で泊まろうとしただけだ、女性が、車に飛び込んできたんだと主張していた。えらく真っ赤な顔で話していたから、多分偽りは無いのだろう。

「わかりました。わかりましたよ。」

と言ってなだめているのは華岡だった。

「華岡さん。」

杉ちゃんが、彼に聞いた。

「ああ、杉ちゃんじゃないか。」

華岡は、それに気がついた。

「あの、失礼ですけど、ちょっと教えてくれ。自殺を図ったのは、本当に望月喜美という女性なんですか?」

蘭が急いでそうきくと、

「はい。もちろんです。なんでも、話によりますと、彼女自ら、車に飛び込んできたらしい。なので、俺たちは、一方的な自殺と思ったんですが。」

と、華岡は言った。

「おかしいですね。彼女は、僕のところに来たんですよ。彼女は、刺青を入れることによって、立ち直ろうとしていました。それなのになんで、自ら車に飛び込むなんて事をしたんでしょうか?」

「いやあ、それはわからない。とにかく、運転手は交通違反をしたわけでもないし、何もしていないことばかり話すので、、、。」

華岡は頭をかじった。

「そりゃ、運転手さんから見たら、そうでしょうよ。それより、望月喜美さんは無事だったの?」

杉ちゃんが口をはさむと、

「ああ、幸い、急いで病院に運んだから、何も無いそうです。幸い、応急処置がすぐにできたので、大丈夫だとか。」

と、電話をかけていた刑事が、華岡に言った。

「はあ、いい迷惑だ!なんで俺がこんな事されなきゃならないんだよ!」

車を運転していた運転手は、イライラして、そういうことを言っている。

「まあ、どっちも、喧嘩両成敗だ。どちらも、敗北だ。それは、もう、諦めろ。」

杉ちゃんはでかい声で言った。

「とにかく、彼女にあって話をしたい。彼女はどこにいるんですか?」

蘭は急いで華岡に聞いた。

「ああ、とりあえず、怪我の方は大したことなかった。頭を五針ほど縫った程度で良かったそうだ。それで、影浦先生にお願いして、影浦医院に運んでもらいました。」

そう答える華岡に、蘭は急いでまたタクシーを呼んだ。なんですか、こんな時に、なんてタクシーの営業所の人は言っていたけれど、蘭は、そういう事は気にしないのだった。

「それではお願いします。ああそうだ、ついでに、富士園芸によってくれますか。ガーベラを買いたいんです。お願いします。」

営業所の人は、はあ、わかりましたとだけ言った。その数分後、タクシーがやってきたので、杉ちゃんと蘭は、急いでそれに乗り込んだ。タクシーは富士園芸によってくれたので、蘭は急いでガーベラの花束を買った。

「お客さん着きましたよ。」

と、影浦医院の真ん前でタクシーは止まる。蘭は、急いでタクシーにお金を払うと、影浦医院に突進した。

「あの、失礼ですが、急患で、望月喜美という女性が運ばれてこなかったでしょうか?」

と、蘭が言うと、受付の人は、

「はい、いますけど、精神錯乱状態になるといけないので、今、影浦先生と一緒です。なにかあったら、先生を通してから、話をしてください。」

と、いつもの無愛想な感じで答えた。

「わかりました。じゃあ今は面会は?」

蘭がそうきくと、

「はい。今は影浦先生を通してお話をしてください。」

と、受付は言った。

「わかりました。じゃあ、影浦先生に、この花束を渡してもらえませんか。刺青師の伊能蘭が持ってきたと言って。」

「また何を持ってきたんですか。彼女に、それは通じますかね。自ら、車に飛び込んで死のうとした女性ですよ。どうせ、ここに運ばれてくるんだもの、それは、ろくなことが無いのでは?」

受けつけの女性はそういう事を言っている。蘭はそういうところにちょっとかちんと来て、

「そういう態度を取るから、彼女のような人が、助からないのかもしれないじゃないですか。僕は、彼女に、一生懸命生きてくれるように、応援しようと思ったのに。それなのに、ろくなことが無いなんて、そういう事は、やめてもらえませんか。」

思わずそう言ってしまった。

「なんですか。あなたは、新興宗教とか、そういう関係者の方ですか?」

と、ムキになっていう受付の女性に、

「いえ、そういうことじゃありません。彼女は、一生懸命生きようと思って、刺青をしたいと思ったんじゃないかと思います。」

蘭は正直に言った。

「刺青師さん?なんで、そんな極道ばかり相手にするような人が病院に来るんですかね!」

と、いう受付に、

「いやあ、そんなことはない。こいつが相手にするのは極道が全てではないよ。彼女は、重大な事で悩んでいて、それを解決するために、蘭のところに来たんだよ。蘭が相手にするやつというのはね、お前さんたち、医療従事者に、バカにされたり、叱られたり。そういう事して、救いが無い人を、一生懸命助けてるんだ。」

と、杉ちゃんは答えた。

「医療従事者にバカにされる?何を仰ってるんですか。あたしたちは、患者さんの事を、一生懸命やっているのに。」

と、受付はそう言うが、

「本当にそうなんでしょうか。それでは、病気の人達が減らないのは、なぜなんでしょうね?」

と、杉ちゃんは言った。

「とにかく彼女にあわせろよ。」

「わかりました。」

受付はそう言って、影浦先生へ、内線ダイヤルをした。しばらくして、影浦先生が、やってきた。

「あの、影浦先生。彼女、あの、望月喜美さんに、話をさせてください。僕達の事忘れてしまったのでしょうか。だって、僕達は、ちゃんと、彼女と話したはずなんです。」

「ええ、そうなのかもしれませんが、やっと錯乱状態から落ち着いたところですので、彼女と話をするというわけには行きません。」

影浦先生は、慎重に言った。

「じゃあ、せめて、彼女に花を渡してくれませんか。これ、彼女が一番好きだと言っていたガーベラです。それをお渡しするだけでも。」

と蘭は影浦先生に詰問するように言った。

「本当に、彼女がそのような事を言ったんですか?」

と影浦に聞かれて、

「はい、間違いありません。彼女はそう話していたんです。」

と蘭は答えた。

「確か、乳がん手術をして、その後遺症ばかり気にしているので、そうしないように、僕のところにきて。」

蘭がそういうと影浦はそれは意外な答えだと言うような顔をした。

「わかりました。それは、僕達も、治療をする上で、大事な資料になりました。彼女を治療するのには、貴重な情報です。ありがとうございます。ですが、また錯乱させてしまうと。」

「まあ、そうなんだけどさあ。彼女を、落ち着かせるのは、たしかに医療が必要なのかもしれませんが、彼女は、一応、人間社会で生きてるわけだからさあ。完全にそれを絶っちまうのは、いかがなものかと思うけど。」

杉ちゃんはでかい声でそういうが、

「ええ、それはわかりますが、彼女を落ち着かせるには、そうするしか方法が無いのも確かなのでして。」

と、影浦先生はそういうことを言った。

「そうかも知れませんが、せめてガーベラだけは渡させてもらえないでしょうか?」蘭はもう一度、詰問するように言った。

「そうですね。本来ですと、警察の方や、弁護士の方が事情を聞くことになると思いますが、彼女はとてもそういうことができる状態では無いのです。警察の方も何回か来ていらっしゃいますが、彼女に関しては、そういう事は、無理だと思っているので、お断りしているんです。」

影浦がそういう事を言うと、蘭も杉ちゃんも大きなため息を付いた。

「結局、精神状態がおかしいと、外の誰かとも、話せなくなっちゃうんですかね。」

杉ちゃんがそうきくと、

「ええ。それ以外に、することはありません。僕達にも、できることはそれしか無いのです。精神状態が落ち着くまで、隔離させるしか。」

と、影浦先生はそういった。

「彼女が落ち着いたら、また話に来てやってくれませんか?」

「そうですか。ガーベラが枯れちゃうんですかねえ。」

杉ちゃんが言った。

「それなら、彼女のことを、ちゃんと人間としてっていうのかな。ちゃんと、相手をしてやってください。彼女は、病院に飼われている家畜じゃありません。ガーベラの花言葉は、希望です。彼女を、もう希望というものはなく、全部を失った人間ではありません。それを、忘れないでやってください。」

杉ちゃんの言う通りにしてほしいと蘭は思った。そういう事は杉ちゃんでなければ言えないような気がしたが、蘭は急いで、

「僕からもお願いします。」

と、影浦先生に頭を下げた。

「わかりました、お花だけでも、彼女に届けることにしましょう。」

影浦先生は、蘭から、花束を受け取った。いいんですか先生、という受付に、

「いいんです。杉ちゃん流に言えば事実は事実であって、何もありません。ただ、彼女にこういうものをくれた人物がいたということは伝えて起きましょう。それは、しなければ行けない事です。」

と、影浦先生は言った。

「ありがとうございます。」

と言う蘭に、影浦先生は、にこやかに笑って、

「いいんですよ。また、彼女が少し落ち着いたら、連絡をいたします。」

と、言った。蘭たちがありがとうございますと言って、病院を後にするのを見送って、影浦先生は、ガーベラを彼女に渡すため、病棟へ戻っていった。それと同時に、

病院の電話がなった。

「はい、影浦医院です。はい、刑事さんですね。ええ。はい。彼女、望月喜美さんは確かに、私達の患者です。はい、乳がん手術をして、助かったのは良かったようなものの、いつまでも落ち込んだままだったんです。ええ、それで私達は、抗うつ薬を投与しました。」

受付は、言われたとおりに、答えを言った。確かに抗うつ薬は、いろんなところで使われているありふれた薬だったが、種類によっては、患者が常軌を逸してしまう言動をすることもあるのだった。

誰のせいでもない。ただ、彼女がそうなっただけだ。




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ガーベラ 増田朋美 @masubuchi4996

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