第17話 夕方の校舎

 夕方の校舎というのは、全力の追いかけっこをするのには適したフィールドだと思う。


 何故かと言えば、それはやはり、部活時間であるから。


 もっと言うなら、部活で活用される場所以外に人が居ないからだ。


「あはははは! 楽しいねッ! 追いかけっこ、楽しいねッ!」


 後ろから高笑いしながら、ユイが包丁片手に全力疾走で追いかけてくる。


「キャー! キャー!」


 それに、腕の中のツユリは恐怖心が高まっているのか、身を縮こまらせて涙目で叫ぶばかりだ。


 僕はユイに言う。


「すごいねユイ! 僕持久走でも全国上位なんだけど、よくついてこられるね!」


「愛の力だよ! アキラくん!」


 愛の力らしい。やはり愛の力は偉大だった。


 そんなやり取りを交わしながら、僕ら三人は校舎内を走り回っていた。


 その様はまるで持久走だ。そろそろ校舎を一周してしまう。


「ど、どうするの? お兄ちゃんのスタミナも無尽蔵だけど、このままだといずれ」


「そうだね。何か考える必要がありそうだ」


 僕は言うて全力疾走を10時間続けられるタフネス持ち主なので、僕の愛の力とユイの愛の力だと僕が勝つだろうが、逆に抱えられているだけで辛そうなツユリが持たないだろう。


 そう考えると何だこのもやしっ子は。いっぱい食べさせてあげないと。


「お兄ちゃん?」


「ハッ。ツユリに食べさせる献立に意識が持っていかれるところだった」


「何で?」


 意識を戻して、僕はこの状況の打開に思考を巡らせる。


「あはは♡ 待ってよぉ! アキラくーん♡」


「ふふふ、捕まえてごらん!」


 追いかけてくるユイの様子は、この速度の割には恋人同士の追いかけっこという感じだ。


 そこに辛さは伺えない。耐えていればどうにかなるというものではないだろう。


 つまり撒く必要がある、ということだ。


「ツユリ、何かこう……まきびし風なものとか持ってないかい?」


「持ってる訳なくない? 持ってたら忍者だよそれ」


「確かに。僕は持ってるんだけど、僕のは純正品だから怪我をさせてしまうんだよね」


「お兄ちゃんって忍者なの?」


「……に、忍者じゃないよ?」


「ちょっと動揺した様子になるのやめてもらえる?」


 思い出すのは少し前の春休みのことだ。


 全身関節外しを覚えるために、忍者の秘境を探しあて、忍者の仲間入りを果たしたのだ。


 そして全身関節外しを覚えたので抜けようとしたら、追っ手が掛かった。


 まきびしはそのときの追っ手を撒くときに回収した純正品だ。


「僕のまきびし普通に踏んだら歩けなくなるような怪我をするし、ものによっては毒が塗られてるから本当に良くないんだよね……」


「冗談は良いよもう」


 妹に信じてもらえなくて悲しいお兄ちゃんだ。


 と、走っていると、掃除に使ったものなのか、水入りのバケツを発見した。


 ああ、これで良いじゃないか。


 僕は走り抜けざまに、僕の背後にバケツの水をぶちまける。


「っ!? わ、わわわ!」


 ユイはこぼれた水を前に急停止。しかし僕らはその瞬間にも走り続けている。


「また会おう! ユイ!」


「も~~~~~~~!」


 背後で、ユイのぷんすこ声が上がる。


 ということで、僕らは横道にそれ、無事にユイを撒いたのだった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 さて、時間は夕方の終わり。夕闇の下りる、夜との狭間と言う時間帯になってきていた。


 そろそろ部活も終わる頃合いで、追いかけっこのしづらい状態が出来つつある。


「……さて、抜け出すとすれば今かもしれないね」


 僕らは一番人気のない、理科準備室にもぐりこんでいた。


 隣の部屋で色々やっている理科研究部にも顔なじみが居たので「匿ってくれ」と言ってここに入らせてもらったのだ。


「……お兄ちゃんって、本当に顔広いんだね」


 理科室の椅子に座って、スマホをいじりながらツユリは言った。


「そうかな? 以前僕が人気者だという冗談を言ったけれど、こういうのは本当に、ただの縁でしかないよ」


「だとしてもっ! ……私には、ないものだから」


 スマホを見下ろしながら、ツユリは言う。


 スマホも、見ているようで見ていない。


 あれは、周囲からの視線を遮るためのツールなのだろう。


「……ツユリ」


「な、何……」


 僕は言った。


「もしかして、ツユリってコミュ障?」


「今!? 今気付いたの!? 私が自分で陰キャとか言ったときに気付いてよそれは!」


 目を見開いて叫ぶツユリに、僕は「シー……」と、静かに、のジェスチャーを取る。


「う、ご、ごめん……」


「まぁまぁ、気付かれると危険だからね。でも、僕とは普通に話せているし、問題ないと思っていたけれど」


「……お兄ちゃんだけ。あんなに受け入れて、優しくしてくれるお兄ちゃんだから、こんな風に、自然体になれるだけだよ」


「え、可愛い……」


「~~~~~~!」


 ツユリは照れて、ポカポカと僕を叩いてくる。全然痛くない。


「ごめんごめん。じゃあ、ツユリはコミュ障を直して、友達が欲しいってこと?」


「……別に。お兄ちゃんさえいればいいもん」


「じゃあ、何で僕の顔が広いことを気にするの?」


「それは……」


 ツユリは口ごもる。


「例えユイを排除したとしても、僕を独占できないんじゃないかって不安?」


「……分かんない。でも、それが近い気がする。ユイさんだけじゃない。誰かと仲良さそうにしてるお兄ちゃんは、見たくない……」


 本当に苦しそうにそんなことを言うツユリに、僕は心底嬉しくなる。


 ヤンデレとは、こういうものだ。他の女性は一線を画するレベルで、愛する人を愛する。


 恋敵だけではない。男友達にも、あるいは無機物にすら、嫉妬してしまうほどの愛なのだ。


 そう言う実感が、僕の背筋にゾクゾクとしたものを走らせる。


 僕は囁いた。


「なら、素直になればいいよ」


「え……?」


「ツユリ、僕は何度だって言う。僕は君の敵だ。僕の独占を望む君の敵だ」


 言葉の内容に反して、僕はとても優しく語り掛ける。


「逆に言えば、君はそんな僕に、何をしてもいいんだ。監禁なんて序の口だよ。手錠で足りないなら他のものを用意すればいい。お金が足りないなら稼げばいい」


「……」


「だって、僕は敵だ。敵に配慮する必要なんてないんだよ。僕らは今ユイから逃げるという目的が一致しているから一緒に逃げているだけだ。今この瞬間に、ツユリはユイを出し抜いて、僕を拘束したって良いんだよ」


「あ……」


 ツユリの瞳の中で、何か、固定概念のようなものが開いていくのが分かった。


 ああ、僕は今、敵を強くしている


 それはつまり、ツユリのヤンデレ性と、その魅力を開花させているのに等しい。


「ツユリ」


 僕は呼びかける。


「もっと、欲望に素直になって欲しい。そんなツユリが僕は大好きなんだ。あらゆるものに嫉妬して欲しい。僕を独占したいと望んで、そのために何だってしてほしい。そんなツユリを、僕は愛してるんだ」


「お兄、ちゃん……」


 ツユリの瞳孔が開く。


 そして彼女は、まるで花のように笑った。


「嬉しい……。お兄ちゃん、大好きだよ」


 バチィッ、と胴体に電撃が走った。


 本当にこのタイミングでやるとは、と僕は驚愕とツユリの開花への悦びを感じながら、意識を落とした。

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