第43話 冬の鳥

「もうこんな事、嫌ですよ?この騒ぎは村だけではどうにもならないって文吾殿が数日前に御家老様に文を出したのが功を奏しましたよ。御家老様が駆けつけて下さらなかったらと思うとゾっとします!もう本当に浜路は命が五年は縮みました。

フフッでも、やっぱり御家老様も若様が可愛いんですねえ人任せにできなくてご自分が江戸から駆けつけるなんてね、あらいやだ!竈の火を見なくっちゃ!若様方、ちゃんと大人しく寝てなくてはダメですよ!全く手のかかる子達ですねえ、ああ忙しい忙しい」


 浜路は延々と喋り続けていた。あの後、祐之進は自分達がどうやって戻り、どのように医者に診て貰ったのか憶えていない。ただ今はこうして暖かな寝床に横たわって静かに目を閉じている。祐之進とアオが布団を並べて寝ている傍で、浜路は一人で勝手に喋り一人で勝手に慌てて部屋を出て行った。


 ああ浜路が何か言っているな。でも良いんだ。今日は煩くない。今がこんなに幸せなんだから。


 祐之進はまだ微睡の中で、ぼんやりとその物音を聞きながら、うっすらとそんな事を考えていた。刀傷が痛み、身体は鉛のように重く全く動かなかったが、夢とうつつの境目を幸せな気持ちでただぼんやりと漂っていた。



ルーピピルーピ…

    …キッキッ

ルーピピルー…



 祐之進の目覚めを誘ったのは聞き慣れない鳥の囀りだった。明るい光が障子越しに降り注ぐ昼下がり、祐之進はずっと微睡の中でこの声を聞いていた気がする。


 ここには人斬りはもういない。


 ようやく村の静けさが戻ってきたような、そんな穏やかさがこの部屋に満ちていた。火鉢の上には鉄瓶がチンチンと音を立てていて、その口から熱い湯気が立ち上っている。祐之進がそれを目で追いかけると、隣で寝ていたはずのアオと目があった。


「遅よう。祐之進、もう昼過ぎだぞ。傷の具合はどうだ?痛むか?」


 布団の上に起き上がって胡座をかいているアオが穏やかな表情で祐之進を見下ろしている。そう言えば以前、中洲で暮らしていた頃にこんな風にアオに起こされた事があった。だがそんな事を話すアオの額にも痛々しい白い布が巻かれていた。


「アオこそ、痛くはないか?」


 布団の中から祐之進はのそりと顔を覗かせた。


「こんなの、平気だ。直ぐに治るさ」

「でもさ、アオ、私はこの傷嫌いじゃないぞ。考えようによっては凄くないか?私たちは若くしてこんなに立派な刀傷があるのだ。迫がつくってもんだろう?」

「ハハ…何を言うかと思えば。戦国時代ならいざ知らず、今は太平の世なのだぞ。刀傷が何の自慢になるか」

「ははは、それもそうか」



ルーピピルーピ…

    …キッキッ

ピルルルー…



「あ、また…」


 他愛もない会話の合間に、聞こえた鳥の囀りにまたも祐之進は耳を奪われた。


「アオ、あの鳥はなんて言う鳥だろうか。ずっと綺麗な声で囀ってる」


 そう言われてアオも耳をすませてみた。夏にはとんと聞かない美しい声で囀る鳥にアオはあああれはと笑みを浮かべた。


「多分アオジという鳥だな。あの鳥がここいらで囀るってことは、もう冬がそこまで来ているってことだ」

「アオジ…?其方のような名前だな」

「アオジは秋から冬にこの辺りで美しく囀って、春になればどこか高い山の上へ飛んでいってしまうのだ」


 そう話すアオの横顔が何故かとても憂いを帯びて見え、祐之進は不意に寂しい気持ちになって布団に置かれたアオの手にそっと己の手を重ねた。その手は払われることも避けられることもなく、アオは祐之進の手をぎゅっと握りしめてくれた。


 ああ、アオも自分のことを想ってくれている。今なら言葉にせずともアオの気持ちが伝わってくる。


 心のどこかに吹いていた隙間風が今は凪いで穏やかで、恋は切ない事ばかりだと思っていたのに今がこんなに幸せだ。時よこのまま止まってしまえ。

 そう思う反面、穏やかな時間を過ごしていながら祐之進の心の片隅には一抹の不安が燻っていた。そう遠く無い未来、自分達はいったいどうなっているのだろうか。このままではいられない事くらいは祐之進でも分かっている。それはきっと遥か先のことでは無いのだ。こんな心の燻りを、祐之進は見て見ぬふりをしている。


 漠然とした気持ちを抱えながらも、この冬は毎日のように降る雪のせいで祐之進とアオと浜路も文吾も屋敷にこもって過ごした。時折は村の誰かが訪ねてきて干した鱈だの芋がらなど冬籠りには大切な食料を分けて行ってくれた。

 今日もまたキュッキュッと雪を踏み締めるかんじきの音が近づいて来て屋敷の裏口で止まった。その足音の主は、少し躊躇しながら裏木戸を叩いた。「ごめん下さい」という声に、浜路が雪の積もった扉を重たく開けた。


「はい、どなた…?」


 そう言う浜路の目の前には蓑笠にたっぷりと雪を纏わせた男が立っていた。よく見ればそれは美緒の父親だった。


「あれ、茂助さん!どうなさいました?」


 そう聞いた浜路の目の前に茂助は赤くかじかむ手をぬっと差し出した。


「おのぉ、これを…」


 その手には油紙に包まれた何かの包みが吊るされていた。


「これを…祐之進殿と……あ、アオ殿に…。娘を探してくれた礼に…」

「ええ?あれあれまあまあ!なんでしょう!ありがとうございます!雪の中お寒うございましたでしょうに!さあ、どうぞ上がってお茶でも飲んで行って下さいましな!…若様!アオ殿!」


 茂助から包みを受け取ると、浜路は奥に居る二人を呼びながら茂吉を家の中へと招き入れようとしていた。


「ああ!いやっ、結構です!美緒が家で待ってますんで!」


 恐縮するように茂助はそう言うと、慌てて帰ってしまったのだった。


「茂助さんが何をくれたのだ?」


 奥から祐之進とアオが出てくると、三人は包を解いてみた。すると中から二足の足袋が現れた。美緒か或いは美緒の母が着ていた着物で丹精込めて作ったのであろう、紺地で絣の温かそうな足袋だった。


「祐之進は分かるが、真にもう一足は俺にと言ったのですか?」


 信じられない気持ちでアオが浜路に聞くと、浜路はそうだと答えた。あれほど忌み嫌われていた中洲の鬼に手作りの足袋。


「アオ!良かったな!其方が悪い奴じゃないって美緒の親父さんは分かってくれたんだ!」


 祐之進はただ嬉しかった。やっと一人だけでも本当のアオを分かってくれたのだ。きっとアオも嬉しいに違いない。そう思って見遣ったアオの顔は弾けるような祐之進の笑顔とは違い、どこか辛そうに見えた。


「…其方…嬉しくはないのか?」

「え?ああいや、そんなことはないよ!嬉しいよ、勿論…!」


 そうぎこちなく笑うアオの顔は、喜んではいたが、何かもっと別の思いに囚われているようだった。

 

 それはいったいなんだろうか。

 

 この日祐之進の脳裏にはそんなアオの笑顔がずっと付き纏っていた。


 何故そんな顔で笑ったのだ、アオ…。










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