第42話 雨上がり
「でぃやぁぁぁーーー!!」
喉から放たれた気迫の雄叫びを上げながら、祐之進は刀の峰を肩に低く担ぎ、刃を上に向けた
「構えは一丁前だが隙だらけだ小僧!」
男はそう言うと振り上げた祐之進の脇を斬り上げた。襷掛けにたくし上げた袂が強か裂けて布が散る。
そこから祐之進は防戦一方、人斬り男の独壇場になった。気迫充分の祐之進だが経験値が圧倒的に違いすぎるのだ。あっという間に踏み込まれ、左右から斬りつけられて祐之進が打ち返せていることの方が奇跡だった。
暗闇に刀を交える音と二人の水を蹴る忙しい足捌きの音だけが雨音に混じって聞こえるのみ。水溜りにうずくまっていたアオは居ても立ってもいられない。視界を塞いでいる額の血を必死で拭うと、打ち込まれている劣勢の祐之進がぼやけた視界に浮かび上がる。
危ない!そう思った途端、祐之進の「くうっ…!」と言う呻きが漏れた。その左腕に鋭い痛みが走ったからだ。続け様に肩口も斬られ焼けつく痛みが祐之進の身体を貫き、濡れた着物はあっという間に血に染まった。だが斬った男はその手応えに嬉しそうに嗤っていた。
「祐之進っ!!」
血相を変えたアオが手近にあった石を握りしめ、男に飛び掛かる。
「おのれぇぇ!!」
もはやそこには武士の作法や剣術などと言うものは存在していなかった。この時、斬られた祐之進の箍もきっと外れていたに違いない。斬られた痛みよりも目の前の敵を倒さねばと言う思いに突き動かされていた。
アオが飛びかかると同時に祐之進も最後の力を振り絞り刀を振るった。二人がかりと言う思わぬ攻撃に遭い、男がほんの一瞬躱すタイミングが遅くなったその隙に、祐之進の切っ先が微かだが男の左頬を掠めたのだ。
「!!!」
ついに一矢報いてやった!掠めた程度の傷ではあったが、その頬に一条の刀傷を刻んでやった!
それはすぐに打ち破られるような儚い高揚感だったが気力を振り絞るには充分だった。男にしてみれば簡単に斬れると思っていた相手だった筈。それがちょこまかと己の頬にまで傷をつけたのだ。思いもよらない展開に男は苛ついていた。
「くそッ!何倍にも返してやるぞ小癪な小蝿どもめ!!二人纏めて斬ってくれるわ!」
恐らくはこれで勝敗は決まるだろうと男は思ったに違いない。今の一撃に勢いづいた二人が踊りかかってくるとガラ空きの胴を狙われて横一文字、男が一刀の元に二人を薙ごうと言うまさにその時。男の背後を一陣の風と共に黒い影が駆け抜けた。蹄の音と
「この者を取り押さえよ!」
聞き覚えのある声と共に大勢の捕り方が男を囲んで呆気なく男は取り押さえられた。男は背中を馬上から斬られていたのだった。
「二人とも無事であったか!」
荒ぶる馬の手綱を
呆気に取られている息子の血塗れ泥塗れのひどい有様に孫左衛門は「歩けるか」と声を掛けて来た。
「…は、はい…大丈夫です…」
大丈夫な筈がなかったが、実際これだけ立ち回りが出来たということは二人とも命に関わるような深い傷では無いのかもしれない。それでもここはダメだと言うべきだったのに何故か祐之進はそう答えてしまっていた。
「屋敷に医者を遣わせた。二人で診てもらうがいい。それから娘は無事だ。
見れば捕り方に背負われている美緒の姿がそこにあった。祐之進の肩から一気に力が抜けて水浸しの地面に崩れ落ちていた。
そんな血塗れで脱力している息子を置いて孫左衛門は手綱を返しさっさと立ち去ろうとしていた。こんな時にも父らしく冷たい態度だなと、ぼんやりとその背中を眺めていた時だ。馬上の孫左衛門が肩越しに祐之進を振り返りこう言った。
「良くやった祐之進」
「良くやった祐之進」初めて父に褒められた気がした。だが本当は少しも良くやったと言う気はしなかった。切り結んだ時も圧倒的に押されていた。繰り出す刀はことごとく打ち返された。一矢報いたとは言えほんのかすり傷。あの時父が来なかったらきっと己は死んでいた。
「くそっ!父上にいいトコ全部持ってかれた!」
そう言う祐之進の目からは訳の分からない涙がしとどに頬を濡らしていた。悔しかったのは本当だったし、父に褒められた事も嬉しかった。だがそれ以上に様々な感情の昂りが今頃になって涙となって押し寄せていた。
「……なあ、祐之進、なんで歩けるなんて言ったんだ…」
そんな祐之進の背後から恨めしげなアオの声がした。振り返れば振り乱れた髪に血まみれの顔のアオが生気のない眼差しをどんよりと向けていた。血は止まっていたがまるで落武者のような壮絶な御面相だった。
「アオ!!そうだった!其方は大丈夫では無かったのか!すまぬ!つい…」
アオの身体がぐらりと祐之進の胸元に凭れてきた。
「アオ!痛いっ!痛い痛いってば!」
肩口の傷に寄り掛かられて祐之進は初めて心から本当に痛いと思った。刀傷は浅くとも痛いものは痛かったのだ。ここから二人満身創痍の身体で家に帰らねばならないのかと思うと大丈夫だとついうっかり言ったことが悔やまれてならなかった。
しばらくの間、二人は道の真ん中で互いを支え合うようにして抱き合っていた。祐之進はこんな風にずっとアオに抱きしめて貰いたかった。やっと、願いが叶った筈なのにうっとりどころかこんな状況である事が悔やまれてならない。だが今は少なくとも離れ離れでは無いのだ。腕の中には大好きなアオがいる。
「アオ、帰ってきてくれてありがとう」
「お主が生きていて良かった」
空には満天の星。気づけばあれほど激しく降っていた雨が嘘のように上がっていた。
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