第39話 最悪
祐之進が啜り泣く声を頼りに林を分入って行くと、下草の生えた茂みが不自然にカサカサと動いているのが見えた。
「美緒殿?美緒殿か?」
そう問いかけながら、祐之進は意を決して茂みを分けて顔を突っ込んだ。美緒だった。美緒は濡れた大きな瞳で祐之進を見上げて来た。
「良かった!美緒殿だな?父上が心配しているぞ、さ、早く戻ろう」
一先ずは安堵しながら祐之進は美緒に手を差し伸べた。美緒は泣きじゃくりながら差し出された手に捕まっておずおずと茂みから立ち上がった。だが捲れた着物から覗く二つの膝小僧から血が滲んでるのが見える。
「転んじまったのか?そりゃあ痛かったな。どれ、見せてごらん」
血はもう止まっていたが、肉色に捲れた皮膚が痛々しい。祐之進はすかさず己の額の鉢巻を外し、手早く少女の両膝をきつく縛った。
「帰ったらちゃんと洗って雪の下を貼ってやる。そうすればじきに治る」
雪の下は昔からその葉が火傷や擦り傷に効くとされていて、祐之進の屋敷の裏庭にはそれが嫌と言うほど群生していた。「歩けるか?」と祐之進は美緒の手を引いたが膝が痛むのか上手く歩けそうにない。仕方なく祐之進は美緒を背負っていく事にした。
「それにしても美緒殿は何故あんな所にいたのだ?」
祐之進の華奢な背中でも今の美緒には頼もしい背中だった。美緒は泣きじゃくりながら小さな声で「猫ちゃん」と言った。
「猫ちゃん?」
「猫ちゃんを追いかけてたら転んだの。そしたら熊がいて…怖くてあそこから出られなかったの」
「…そうか、それは怖かったな。でももう大丈夫だぞ、早く帰ろうな」
そう言ったものの、祐之進は内心ゾッとしていた。こんな人里に本当に熊など出るだろうか。たまに獣と遭遇することはあっても大概は猪や鹿や狸の類だ。本当にそれは美緒の言うように熊だったのだろうか。もしやそれは、熊は熊でも今皆が探し回っている例の人斬り熊の事ではあるまいか。早く帰らねば。祐之進の焦りとは真逆に重くなっていく背中に祐之進の歩みは遅くなっていた。
そんな時、運悪くポツポツと林の木々に雨粒の当たる音がし始め、それはあっという間に林の中が煙るほどの激しい降りになってしまった。
「美緒殿、大丈夫か?もうすぐ家に着くぞ、濡れてしまうがこのまま行くぞ?」
本当なら何処かで雨宿りをしたいくらいの土砂降りだったが、こんな物騒な時に美緒連れてうろうろなどしていられない。祐之進は濡れた下草に足を取られながらもようやく林から一本道へと一歩抜け出した。
その時だった、激しい雨音をつん裂くような男の悲鳴が響き渡った。驚いた祐之進が道の先で目撃したのはパッと宙に舞い上がった血煙だった。それは離れて立っていた祐之進の足元へもパラパラと雨に混じって降り注いだ。
一瞬何が起きたのか祐之進は分からなかった。だが鼻につく血臭がこれは人斬り現場なのだと祐之進に突きつけて来る。どっと道に崩れ落ちた男の傍には斬り立ての刀から血を滴らせた男が立っていた。熊のような黒く大きな塊がゆっくりと祐之進の方へと向き直る。祐之進の目が見開いた。
ーー人斬り!!ーー
篠つく雨が耳を塞ぐその中で、美緒を背負った祐之進と人斬りは向かい合って立っていた。
一方、父の握り飯と水のお陰で歩く意欲が再び湧いて来たアオは、気がかりを残して来た村へと急いでいた。気がかりとは勿論祐之進と人斬りのことである。あの後、人斬りが捕まったのならそれで良いが、あの猪突猛進な祐之進がどうしているのか無性に気に掛かって仕方ない。
共に暮らすうちにアオは祐之進の事が手に取るように分かるようになっていた。己のいない間に浜路殿を困らせてはいないだろうか、それよりも自分が人斬りを捕まえてやるなどと息巻いて一人で突っ走っているのではないか。いやきっと祐之進の事だから危なっかしい事になっているに違いない。そう思っただけでとても休んでなどはいられなかった。
嫌な予感ほど的中するもので、隣村の街道に差し掛かった頃、すれ違う二人の人足達の噂話が耳に入ってきた。
「お前、隣村の話し知ってるか?」
「ああ知っているともまさ!あれだろう?人斬り熊が山ん中をうろついてるって話しだろう?」
「そうそう、それさ!三人斬ってから五日にもなろうってのにまだ捕まらねえっていうじゃねえか!」
「毎晩山狩りの明かりが綺羅星みてえに黒い山に散らばって見えてさぞや綺麗だろうなあ」
「馬鹿め!何を呑気な事言ってるんだよ!そのうちこっちにまで人斬り熊が逃げてこないとも限らねえんだぞ!」
「は〜!それもそうか!嫌だねえ、くわばらくわばら!」
その話にアオは確信したのだ。祐之進は絶対に山狩りに加わっている筈だと。
「クソっ!こいつはまずいぞ!」
アオの足は自然と駆け足になっていた。アオの心配は当たらずとも遠からず。その日の夜には最悪の窮地に祐之進は立たされる事になったのだから。
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