第37話 握り飯
平地を見下ろす小高い丘の中腹に伊勢家先祖代々の墓はある。手向ける線香も無く、道端で手折った花だけを供え、アオは墓の下で眠る母に手を合わせていた。気持ちは村へと急いでいても、郷里を立つ前にせめて一度だけでも墓の下の母に親不孝を詫びたかった。
仇討ちをした当初、アオの心はささくれ立っていて誰の言葉も耳に入らず、己一人の心を保つのが精一杯。父や母の気持ちを
「遅くなりました母上、母上の心痛を分かっていながら、自分の思いを遂げることばかりにかまけた至らぬ息子でした。母上が許すと言っても俺は己を許せない。どうかこんな愚息のことなど忘れてあの世では安らかに眠って下さい、母上…っ」
アオは墓の前に座るとその冷たくそびえる墓石の佇まいに胸が詰まった。一頻り地面に額を擦り付けて亡き母へと詫びた。己の周りの死を思うと良からぬことばかりが頭を過ぎる。次には誰が死んでしまうんだろうか。父か祐之進か、そんな風に思うと自分は誰とも交わらない方がいいのじゃ無いだろうかとさえ思う。そんな風に考えてしまうのだと言ったら、きっと祐之進は怒るのだろう。そんな取り止めもない事を頭に巡らせていた時だった、誰かが己を呼びながら山道を早足で歩いてくる気配がある。アオはその何者かに向けて顔を上げた。
「蒼十郎様〜!蒼十郎様〜!こちらにおられますか?蒼十郎様〜!」
それはさっき別れたばかりの島津の声に似ていた。
「はぁっ、ハァッ!やはりこちらにおいででしたか蒼十郎様っ、」
島津は高台を駆け登って来たらしく強か息を切らせていた。
どうしたのかと立ち上がったアオに、島津は紫色の風呂敷包を差し出して来た。
「こっ、コレを…っ!お父上が蒼十郎は恐らく墓にいるだろうから早く持っていけと」
やはりあの時父と目があったのは見間違いでは無かった。それどころか父は己がここに行くだろうことを見越していた。
「コレは…何なんだ…?」
差し出された風呂敷包をおずおずと受け取ったアオが不思議そうにその風呂敷包みに視線を落とした。
「それはご自分でお確かめ下さい、急ぎ戻るよう言われていますので、これにて失礼つかまつりますっ」
生真面目にそう答えた島津は息も整わぬまま取って返すように元来た道を引き返して行く。しばし呆気に取られて島津を見送ったアオだったが、我に帰って改めて風呂敷包に視線を落とした。父が己を追いかけさせてまで手渡したかったものとはいったい何だろう。さほど大きくもなく重くもないその風呂敷包を開いてみると、水の入った竹筒と竹の皮に包んだ物がころりと出て来た。アオはそれが何だがすぐに分かった。手を震わせながら竹の皮を開くとそこには大きく握った真っ白な握り飯が三つ鎮座していた。
「…父上…」
父が女中に作らせたにしても、何も言わなかった父の気持ちがそこに込められているようで、とうとうアオは堪え切れず涙が溢れ出した。腹は勿論空いていた。アオは不細工に泣きじゃくりながらその握り飯に齧り付き必死に口に詰め込んだ。きっと郷里へはもう帰る事はないだろう。そう思うと後から後から涙が湧いて止まらなかった。
その頃、村ではまだ捕まらぬ人斬りに戦々恐々となっていた。外を歩く時は勿論、家の中にいても誰もが気持ちが安らぐ事はなく、畑仕事も滞り収穫を控えた農作物が刈り取られもせずに放置されていた。もうじき冬が来ると言うのに備える事も出来ず、人斬りに怯える村は立ち行かなくなっていた。
アオが出て行ってから五日目の夜の事、とうとう屋敷でじっとしていられなくなった祐之進の屋敷から浜路のキャンキャン吠える声が聞こえてきた。
「若様!なりません!この前も言いましたよね?!夜回りを買って出るなどもってのほかです!若様も見たでしょう?あの恐ろしい男を!まるで熊ですよ熊!そんな熊を相手に若様が勝てると本気で思っておいでですか?!今はアオ殿も居ないのに誰が若様をお守りすると言うんですか?!」
「大袈裟だな浜路。熊ほど大きくはなかったぞ」
「揚げ足を取らないでくださいっ!そんな事を申しているのではありません!」
額に青筋を立てて捲し立てている浜路の傍で、祐之進は黙々と夜回りの支度をしている。そんな祐之進を引き止めようと、浜路かしつこくその腕に手を掛けた。
「祐之進様!若様!行くのはなりません!」
「ええい!煩いな浜路、世話になってる村が大変なことになっているのだぞ!しかも私はこの藩の家老の息子だ!一人だけ安穏としている訳には行かぬのだ!どけ!」
襷掛けで鉢巻を締め込み引き止める浜路の腕を振り切って祐之進は刀掛けから己の刀を腰へと差した。そう、ここでただアオを待ってウジウジなどしては居られない。浜路を守ってここで待てとアオは言ったがあの人斬りを一刻も早く捕らえて村人を安心させたかった。何よりこの事が解決しなければアオの心は波だったままだ。今郷里でアオはどんな思いでいるのだろう。そう思うと祐之進はまんじりとしては居られなかったのだ。
「文吾!文吾!戸締りをしっかりして浜路を頼んだぞ!私は一先ず庄屋の家に行って来る!」
そう言うと、すがる浜路を振り切るように祐之進は屋敷の外へと飛び出していった。
「若様っ!」
今の祐之進はアオと言う歯止めを無くした鉄砲玉だった。アオへの恋慕、人斬りへの憎しみ、己の中の正義。この狭山藩の家老の息子と言う責任感。自分が人斬りを捕らえられると到底は思わないが、例え本当に妖刀だったとしても、今の祐之進には出来る出来ないの問題では無いのだ。言葉にはならない全てのモヤモヤが若い祐之進を突き動かしていた。
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