第36話 噂の出処

 村から西へ二十里余り、着の身着のままボロ笠一つを目深にかぶり、アオは郷里への道を黙々と歩いていた。思えば二年前、もう二度と戻ることはないと思いながら失意と絶望と贖罪の思いでこの道のりを父と歩いた。

 その時、息子に縁を切ってくれと言われた父の気持ちは如何許りだったろうか。それでも生半可な思いではないことを理解し、己の気持ちを思って最後には許してくれた父。武士の家において嫡男がいなくなると言うのはどう言う事か、その重さを父は誰より分かっていたはずだ。

 母の葬儀にも行けぬ自分の親不孝を思うと今更見せる顔などあるはずも無い。ましてや己をめぐる色恋沙汰で命を落とした鴇忠殿の両親は、お家お取りつぶしの憂き目にあって自刃した。こんな己が踏める土など郷里にあるはずもないと思いながらも足は郷里へと急いていた。二日二晩ほとんど飲まず食わずで歩き、アオが郷里へと着いたのは三日目の朝だった。

 伊勢家の屋敷の前までは来たものの、その敷居が高すぎてどうにもアオはその門がくぐれない。屋敷に出入りする人影があれば物陰に身を隠し、そうやって勇気を出せぬまま半刻ほど経った頃、アオの背後からそっと声を掛ける者があった。


「そこにおられるはもしや、蒼十郎様では御座いませんか」


 アオが身を竦ませる様に顔を上げるとそれはあの黒い編笠の男と村で噂されていた伊勢家の家臣、島津周作だった。


「島津殿…!」

「こちらに参られるとは、どうされたのですか蒼十郎様」


 縁を切ったと言えど母の死を知らせて来いとの命を受け、島津が中洲に訪れたのは夏の頃。島津家の家臣は皆、父子断絶の経緯を知っている。島津は蒼十郎がここに居るのが信じられないという顔でアオを見た。


「まさかお父上に会いに来られたのか」


 咄嗟にどう答えたものかアオは迷った。だが、ここで島津に会ったのは天の助けのようにアオには思える。


「…ここに帰って来たのでは無いが、どうしても知りたい事があって来た。誰にどう尋ねたものか考えあぐねていたところだ。島津殿良いところで会った」


 島津は鳩が豆鉄砲を食らった様な顔で目を瞬かせた。


「き、聞きたい事?それはどのような事ですか」

「鴇忠殿の屋敷は今どうなっているか知りたいんだ。御取り潰しになって一族離散された後、今は誰が屋敷などの管理しているのだ!」


 大きくなる声に周囲を気にする様に島津が生垣の茂みへとアオを引っ張り込んだ。


「なぜそのような事を今さら気にかけるのですか?」

「刀が、鴇忠殿の刀がどうなっているか知りたいのだ」


 アオも声を低めて島津に尋ねた。だが質問の意図が掴めず島津が怪訝な顔をする。あの中洲の村からここまで来るのには速足でも二日か三日はかかる筈。ここいらは山間地にほど近く、あの中洲の村より一層秋が早い。それなのに見れば身着のままの薄着、慌ててここまで来たのは一目瞭然のなりだった。そうまでしてなぜ刀の事など知りたがるのか。


「刀…ですか。加納家は今は領地を召されて誰も住んではおりませんが、先日誰もいない筈の屋敷で小火騒ぎがありました。その折に蔵に残っていた物が盗まれたとか聞きましたが…」

「なに?!盗難にあったのか?…もしやその時、鴇忠殿の刀が盗まれてはいまいか」

「盗品にあった詳しい内容までは分かりませんが…その、」

「…その?そのなんだ」


 言い淀む島津に何かあるなと確信したアオがなおも食い下がった。


「いや、この様な事軽々には申せませんが…刀について少々妙な噂が立っていた事はあります」

「妙な噂?どんな噂だ?」

「それが…その、」


 アオへの遠慮からか言いづらそうに島津が言い淀んだ時、裏木戸が開いて中から女中が一人外へ出て来た。女中は訝しそうに島津とアオをジロジロ見たが、アオの変わり果てた姿にかつてこの伊勢家の息子蒼十郎だとは気がず通り過ぎて行く。二人は殊更に声を低めた。


「妙な噂とは何なんだ?」

「それが…その、鴇忠殿の刀が妖刀だと言う類の…いやなに、下らない噂でござる」


 島津はごまかす様に笑ったが、アオは真剣に喰らいつく。


「妖刀だと?どんな話しなのだ。詳しく教えてくれぬか」

「…その、お気を悪くなさらないで頂きたいのですが…、ご存知のように鴇忠殿と幹尚殿の一件から加納家は不幸続き、当主様も御内儀も相次いで自刃し、加納家は一門離散、それ故に幹尚殿の血を吸った鴇忠殿の刀には元々怨念が宿っていたのだと噂になった事があるのです。そうでなければあの温厚で清廉な鴇忠殿があのような暴挙に及ぶ事は無かったのではないかと言う噂です。名刀と名高い刀には時々そのような噂が立つもので…」


 「馬鹿な!」と即座にアオが吐き捨てた。確かに鴇忠殿の刀は鎌倉時代から受け継がれた名刀なれど、実際に幹尚を斬り捨てたのは他ならぬ己なのだ。


「そこに居るのは周作か?」


 その時屋敷の門前から島津を呼び止める声がある。二年ぶりに聞く父、兵部の声だった。


「早く中に入れ周作、そろそろ朝儀を始めるぞ」

「は、はい直ぐに参ります!」


 慌ててそう答える島津の影にアオは咄嗟に身を隠した。目深にかぶる笠の陰から垣間見えた父はほんの少しだけ歳をとったように思えた。ふとアオは一瞬父と視線が合った気がした。父もまたアオの視線に気付いた気がした。


「蒼十郎様、やはりお父上には会っては行かれませぬか」


 早口でこそっと囁いた島津にアオは「いいのだ」と頷いて頭を下げると矢庭に身を翻し、己の気持ちを振り切るようにして足速にその場を立ち去った。


「何をしていたのだ?周作」

「いえ、ちょっと…道を尋ねられまして…」

「…そうか」


 そう言いながら島津を伴い屋敷の中へと入って行く兵部の眼差しは、去って行った息子を追いかける落ち葉に注がれていたのだった。





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