第35話 月に吠える狼
気は急いたが、襲われたショックで腰を抜かしている浜路と、思いがけない蜻蛉玉の出現に頭と心を掻き乱されているアオを連れ、祐之進はいつもの倍もの時間をかけて家路へと辿り着く。
文吾が皆の為にと粥を作ってくれたが、三人とも食べる気にもならなかった。その夜そのまま浜路は寝込んでしまい、アオはアオで帰ってきてから一言も発せずに暗がりでじっと蜻蛉玉に見入っていた。
「アオ…、大丈夫か?」
同じ部屋にいる祐之進は居た堪れずにそんなアオの傍へと行燈の灯りをそっと寄せた。いつも頼もしいアオの顔が今夜は酷く頼りなさげに見えた。アオは無言で懐から小さな袋を取り出して中から水色の小さな蜻蛉玉を取り出して祐之進に見せてきた。
「これが俺の蜻蛉玉だ。鴇忠殿から貰ったものだ」
祐之進がそれに目を凝らすと水色の玉の中に金色の小さな粒が泡のように浮かんでいる。それがまるで小魚が元気に泳いでいるようにも見え、清々しい水底の風景を切り取ったような美しい蜻蛉玉だった。今の祐之進と同じ年頃のアオは、鴇忠の目にはこんな風に映っていたのか。
アオの掌の上で仲良く並ぶ蒼い玉と水色の玉は鴇忠とアオだ。かつて惹かれ合った二つの魂のような蜻蛉玉。それを見つめているだけで祐之進は胸苦しさを覚えて蜻蛉玉から目を逸らせた。
「俺なりに考えてみたんだ。この蜻蛉玉がどこから来たのか」
徐に口を開くアオの言葉に祐之進の喉がごくりと鳴った。アオの真剣な眼差しがじっと祐之進を捉える。祐之進はアオの次の言葉を待った。
「…刀だ。鴇忠殿の刀から落ちた。そう考えるのがやはり一番自然だ。そして、その刀は…。あの人斬りが持っている。そうとしか考えられん。そしてあの人斬りが持っているとするならば、その刀で…鴇忠殿の刀で無辜の五人の命は奪われたという事なのだ」
そう言うアオの瞳は静かな怒りに震えていた。いや、怒りだけではない。その顔には悔しさや、ものの憐れや憂いすら感じる。
「鴇忠殿は誰よりも高潔な人だった。それが故に死んだのに、その人の刀が罪無き人を斬ったなど、鴇忠殿の無念を思うとどうにも浮かばれん。生きて違うと言えるならば救いはあるが、死んだ者はその汚名を注ぐ事はもはや出来ぬ!」
全身から激るアオの波動が、行灯にともる蝋燭の炎をも揺るがした。
「でも待ってよ、それが本当に鴇忠殿の刀かどうかまだ分からなぬではないか!」
祐之進の心に湧き起こる焦りに気づいて更に焦りが重なって行く。
「だから確かめて来る。俺は郷里に帰ってこの目と耳で鴇忠殿の刀が今どうなっているのか確かめて来る。もう実家とも縁切りの俺が見せられる面など無いが、どうあっても刀の事は知らねばならん。それがここで俺にできる最後の事だ!」
サラリと言い放ったアオの言葉の中に祐之進は聞き捨てならない言葉を聞いた気がした。
「え…? 今、なんて…?」
問われてアオがハッと口を噤み、言い直した。
「俺が鴇忠殿に出来る最後の事だと言ったんだ」
微妙に言い回しを変えられた。そのことが返って祐之進を不安にさせた。
「誤魔化さないでくれ!ここで出来る最後の事って言った…!確かにそう聞いた!もしや何処かに行ってしまうつもりなのか?!」
アオの眼差しが狼狽えて見えるのは見間違いか?当然アオは否定した。
「そんな事は言ってない」
「言った」
「言ってない!」
「言った!」
そう強く迫られてアオはまるで祐之進から逃げるように、部屋の隅に立て掛けてあったボロ笠を引っ掴んで立ち上がった。
「思い立ったら居ても立っても居られない!俺、今からちょっと郷里に戻ってくる」
「アオ!こんな真夜中に何言ってるんだ!」
嫌な予感がする。このまま帰ってこない気がする。恥も外聞も無く祐之進は咄嗟にアオの足に縋った。
「このまま帰って来ない気なんだろう!ダメだ行くな!」
「行かせてくれ!祐之進、必ず帰ってくるから」
「ならば私も行く!」
帰ってくる確証もないアオをこのまま行かせてなるものか。着いて行く気満々の祐之進は慌てて押入れから真新しい草鞋を引っ張り出し、ならば共にとアオの腕を掴んだ。
「ダメだ。お主はここにいろ!人斬りがまだ捕まっていないのに、浜路殿を置いて行くのか?」
「浜路には文吾がいるから心配無い!だから」
「聞き分けてくれ祐之進。約束する。俺は必ず帰る!武士の男なら俺を信じて浜路殿を守ってここに残れ!」
世を捨てたはずのアオ。中洲から出たがらなかったアオ。そのアオが、即決で郷里へと戻ると決めたのだ。鴇忠殿の汚名を濯ぐために。
祐之進は胸騒ぎしかしなかった。祐之進が強く握って離さない腕をアオは思い切り振り払い、最後に「すまぬ」と言い残して部屋から飛び出していった。祐之進が慌てて後を追って庭に飛び出して見たものの、去っていくアオの背中が来るなと拒絶して見えてそれ以上追うことが出来なかった。
「これが永遠の別れでは無い。戻ってくると其方は言った。私は其方を信じているぞ、アオ!」
空を仰げば秋の高い月が波だつ心模様も知らずに煌々と己を見下ろしていた。
ああ、狼が切なく遠吠えしたくなるのはこんな気持ちの時なのか。
こんな時にこんな愚にもつかない事を考える己が祐之進は無性に笑えた。
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