第30話 千之助騒動(ニ)

「それは真ですか!兄上!」


 案の定、千之助は兄に勢いよく詰め寄ったが、図星を指されて激しく動揺した祐之進は口籠ったまま顔を赤く染めている。これでは答えずとも何をか言わんやの風情だ。この居た堪れない雰囲気を振り払うように、こんな無神経な暴露をかました浜路を祐之進は叱り飛ばした。


「浜路!余計な事を言うな!」


 叱られた浜路は「あれ違うんですか」と眉尻を跳ね上げながらすっとぼけ、朝餉の膳を片付けながら言い逃げるようにその場を退散していった。

 シャボンの薄い膜のような繊細な事柄だった。触れるか触れないかと言う微妙な距離をようやく保っているような二人だった。それなのに訳も知らぬ弟や面白半分の浜路に掻き乱されて二人は居た堪れない気持ちだった。まだその場の空気の行間を読むと言う心得の無い千之助は尚もぐいぐいと祐之進に答えを迫る。


「兄上答えられないのは何故ですか!浜路の話が真実だからですか?よりによって何故このような者と兄上が…」

「黙れ千之助!」


 追い詰められた祐之進が我慢ならずに叫ぶのと、アオの手が千之助の口を塞ぐのとが同時だった。


「おのれ!なにを…むっ」

「何を馬鹿な。あれは浜路殿の冗談だ!祐之進殿が俺などに懸想しているはずがないであろう。くだらぬ事で騒ぎ立てて兄上を困らせるな」


 アオはそう笑いながら冗談めかすように、「なあ?」と祐之進に首を傾けたが祐之進はと言えば「ああ…うん…」と心ならずも答えてはみたものの、その胸の内は複雑だった。


 泣くほど好きなくせになぜ自分はそうだと答えられないのだ。

何故そうだとアオも言ってはくれぬのか。


 その場を丸く収める為のアオの機転なのだとは分かっていても、煮え切らない自分にもアオにも腹が立った。久しぶりに弟に会えた感慨よりも、今の祐之進にはアオとの事が重要であり、むしろ二人の時間をかき乱す千之助の出現を疎ましくさえ思うのだ。千之助が兄を慕ってまとわりつけばつくほど苛立ちは募り、同時にそんな弟に優しくできない自分に苛立ちを覚えた。




「はあっ…」


 浜路に言われ、庭にたわわに実った無花果をもぎながら、祐之進はため息ばかりついていた。庭先では千之助がかなり躍起になってアオと相撲をとっている。そんな光景を見るにつけ思い出すのは幼い時分に良くこうして千之助と相撲をとっていた事だ。二人兄弟で生まれてからずっと千之助の遊び相手は祐之進。祐之進から見ても遊び相手は千之助だけだった。少し大きくなって祐之進が剣術道場へ通うのにも、手習に行くのにも何かと自分の後ばかりついて来た。父と江戸に行く時などは行くなとぐずって祐之進の足を抱え、それを宥めるのに難儀した。

 そんな千之助が久しぶりに兄に会えたかと思ったら、大好きな兄の隣には自分の代わりに見知らぬ少年がべったりと張り付いていたのだ。アオを面白く思わない千之助の気持ちも祐之進には分からなくはない。せっかくこうして危険を顧みず短い休みに己を訪ねて来た弟に優しく出来ずしてなんとする祐之進。心の中で己をそう叱咤する声がある。相撲を取る弟を見るにつけ、そんな気持ちがようやく湧いて来たのだった。


「おい、千之助!ちょっと一休みしてお前も無花果を採ってみるか?甘いぞ」


 そう言って祐之進は千之助の手元に大きな赤い無花果を放った。


「うわあっ!美味いですね!大きくて甘い!」


 無花果を齧り付いた千之助は口をベタベタに汚しながら祐之進の元へと駆けて来た。


「そのザルいっぱいに無花果を採れとの浜路の指令だ。赤くて膨らんで少し頭が割れ始めたものをもぐのだぞ」


 そう言う足元には既に幾つか無花果の入ったザルが置かれている。採れ安い所は千之助に残し、祐之進はもっと高い所へと手を伸ばす。上手に採れた弟に、上手いぞと褒めながら、祐之進は気になっていた事を尋ねてみた。


「父上の元でちゃんと頑張っていると聞いているが、何か不安な事でもあるのか?」

「…不安だらけです。兄上にはまだ遠く及びません」


 プチプチと無花果を毟っては雑に籔に放ると祐之進にそっとやれと言われて千之助は難しげに眉を寄せた。その表情には何処か翳りが見えた。


「どうした、まだ半年ではないか。そうそう上手く私の代わりが務まって仕舞えば三年間頑張った私の立場がないではないか。いずれは必ずお前は兄よりももっと立派になれるぞ千之助」


 その言葉に嘘はない。ついこの前までは兄としての自尊心が邪魔をしてそんな事は口にも出来ずにいたものを、ここに来てアオに会ってこんな風に言えるようになったのだ。だがそんな兄の言葉に何故か千之助の表情は曇った。


「もう半年です、兄上。お役目よりもわたしは兄上の方が気にかかります!いったいいつお戻りになるのですか?」

「ーー分からぬ」

「なぜ分からぬのですか?お身体がまだ思わしくないのですか?」

「そうではない、案ずるな」

「ではなぜ…!」


 十一歳ではお役目が荷が重いのか、ただ里心がついたのか千之助は兄にもやもやした気持ちをぶつけていた。答えにくい質問を重ねてくる千之助にまたしても祐之進の心が波だった。


「父上のお許しがなければ帰れぬのだ!」

「ならば、ならばわたしが父上に兄上は元気だとお伝えすればーー」

「くどい!」


 ピシャリと言った。以前の帰りたい自分とは違うのだ。アオとずっとここで暮らしていたいと願う祐之進には、今や父の帰って来いと言う一言が恐ろしい。そんなヒリヒリとした会話がなされていようとは思わぬアオは、庭の真ん中で、並んで無花果をもいでいる二人の姿を微笑ましげな顔で眺めていた。


「いいから黙ってお前は下の無花果を採れ、私は上の方を採る」


 苛立ち紛れに祐之進はそこから逃げるように一際高い場所へ登ろうと無花果の枝へと足をかけて登り始めた。


「あいつ、まさか無花果の木を登る気なのか?!」


 元々頑丈に出来てはいない無花果の木である。登り始めたのは良いが、無花果の枝は先端へ行くほど柔らかくなる。木を登っていく祐之進にアオは不安を覚えて身構えた時だった。ポキリと実に軽い音と共にその身体がぐらりと木の幹から離れた。その刹那、祐之進の身体は虚しく無花果の葉を掴んだまま真っ逆さまに落下した。









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