第31話 千之助騒動(三)

「祐之進!」


 それはほんの数秒の出来事だった。無花果の葉の間を落ちて来る祐之進を受け止めようと、アオが両腕を目一杯伸ばしながら木の下へと走り込んだ。


 ざざん!!


 その腕の中へと落ちてきた祐之進をアオは無我夢中で抱き止めたがそのまま勢いよく木の幹に激突し二人とも地面へと倒れ込んだ。驚いて叫び声も出ず立ち竦むだけの千之助はようやく我に帰ると兄を呼びながら駆け寄った。


「兄上!兄上!大丈夫ですか!兄上!」


 落下の衝撃にアオの腕の中で身を固くしていた祐之進がゆるゆると薄目を開けた。アオを下敷きにしていると分かると慌てて起きあがろうとするが、アオは祐之進をきつく抱きしめたまま動かない。


「アオ!すまぬアオ!」

「兄上!大事ないですか?!兄上!」

「私はなんとも無い!だがアオが…っ!アオ!しっかりするのだ!アオ!」


 兄を心配する千之助の傍ではアオを心配する祐之進が血相変えてその身体を揺さぶっている。ようやく薄ぼんやりと目覚め始めたアオの両腕が祐之進をゆっくりと手放そうとしている。霞む視界が次第に祐之進の顔にはっきりと焦点が合った。


「…祐之進…、お主…なんとも無いか…」

「大丈夫だ!すまなかったアオ!其方こそ大丈夫か!」


 腕の中から這い出した祐之進が己に縋りながら心配する声にアオの意識は完全に浮上した。


「祐之進!…お主大丈夫なのか?!」


 ハッと目を見開いたアオは両手で祐之進の頬頬を包み必死の目をしてその顔を眺めた。


「良かった、無事だったか!どこもなんとも無いか!腕は?足は!」


 額から強か血を滲ませているのは自分だと言うのに、アオは祐之進の腕や足に触れて無事を確かめ、何とも無いと分かるとようやく安堵のため息をつきながらその身体を抱きしめた。


「全く、肝が冷えたぞ!あんな柔な木になど登るとは」


 そう言われればそうだった。いつもはきちんと判断出来たはずなのに、あの時は考えが及ばなかった。


「額に血が…!」


 アオの額に滲む血を見つけると、泣きそうな顔をして祐之進は己の着物の袖口を押し当てた。


「…兄上…」


 その場には千之助も心配して立っていたと言うのに、まるで見えていないかのような二人。その姿がなにを物語っているのか、幼い千之助にも言葉にせずともはっきりと分かったのだった。

 アオの額の傷は出血ほど大したこともなく、知ればきっと大騒ぎをするだろう浜路にはこの出来事は伏せられた。





「まあ!おじさん伊勢の方からから来なすったんですか」


 冷たい風が吹き始めたこの日の夕暮れ時、大きな背負子を背負った行商人が屋敷の軒下を借りて一服していた。親切心で茶など出す浜路に行商人は抜け目なく商売の品々を見せて来た。縁側に得意げに並べられたのは各地の特産品ばかりではなく、化粧道具や京の都の半襟など、女の気を引くものもある。

 その他にも遠くてお参りに行けぬ人達のためにと有名な寺や神社のお札やお守りなどもあり、御多分に洩れず物見高い浜路は伊勢神宮のお札と匂い袋、その他いくつか値の張る物を買い求めた。気を良くしたのか行商人は帰りしな、おまけだよと言って夏に売れ残った幾許かの線香花火を紙に包んで浜路へと渡した。ちょうどその時である、カラスの群れが近くの木から一斉に飛び立ち、一瞬空が真っ黒になった。


「こりゃあ凄い数のカラスだなあ」


 不穏な空に首をすくめた行商人は「それじゃあどうも」と言ってカラスを引き連れるように去って行った。




「いえねえ、その行商人ってのがまたイイ男で、ついつい見惚れて色々と買わされちゃいましてねえ」


 昼間の出来事が尾を引いて、いつもよりも静かな夕餉の席で皆が黙々と食べる中、浜路だけが浮かれ気味にその行商人の話をしている。やれ顔が市川團十郎に似ているだの、いややっぱり尾上菊五郎に似ているだのと、役者絵でしか見たこともないのに嬉々としてお喋りしている浜路はまるでまだ小娘のようだ。ふと思い出したように浜路は袖の中から薄紙に包まれた線香花火を取り出して、はい。と千之助に手渡した。


「うわ綺麗!」


 包みの中から出て来た色とりどりの線香花火は長手牡丹。色とりどりの薄紙で細くこよられた綺麗な線香花火だった。それを見るやあの出来事からずっと何処か浮かない顔の千之助の表情が一気に華やいだ。


「兄上が江戸に行く前は夏に良く二人でやりましたね兄上!」

「うん、私も随分と久しぶりだ」


 そう言って祐之進も千之助も互いの顔を見合わせて笑う。その時その二人の顔を見ていたアオは、初めて兄弟の楽しそうな視線と気持ちが重なり合ったように思えた。


 やがて夕餉が終わると三人は庭先へと降りてきた。秋だと言うのに花火とは、どうせなら夏の盛りにしたかったとぼやきながらも祐之進はいそいそと自ら桶に水など用意し、千之助は皿に蝋燭を立てて縁側へと持って来た。三人は桶を囲むようにしゃがんで夏を見送る気持ちで長手牡丹に火を着けた。ふわっと炎が立ち昇りすぐにそれはくるくると丸まって、やがてジリジリと言いながら小さな炉が先端で赤々と膨らんで行く。


「玉が大きい奴ほど金玉もデカいんだぞ〜」

「キャハハ!見て見て!おれ兄上より大きい!」

「ほ〜ら、俺の方がもっとデカいぞ〜」

「〜〜そんな事初めて聞いたぞアオ!くだらぬ嘘を教えるな!」


 どんなに大人びていても背伸びをしても、三人ともまだ二十歳にも満たない子供達。屈託ない笑い声がこの夜庭に満ちていた。やがて線香花火の熱く熟した三つの小さな太陽は、互いに切磋琢磨するようにバチバチと華々しく火花を飛ばして弾け散り、やがては菊の花びらがひとひらふたひらと散る風情で終焉を迎えて行くのだった。その美しく散る火の粉を瞳に映しながら、アオはぼんやりと呟いた。


「線香花火ってのは何だか人間臭いと思わないか?生まれて命を燃やして生きて生きて生き抜いて、そうやって短い一生を静かに終えてくんだぜ?」


 そんな事を言うアオの憂いを帯びた横顔は、線香花火なんかよりずっとずっと凛々しく美しく祐之進には眩しく見えた。



 チュン…


「あ、落ちた」


 一番最後まで命を燃やした千之助の火の玉が水に落ちた。

その瞬間、賑やかだった庭先に再び夜の静けさが蘇ってきた。

その妙にしんみりとした空気に包まれながら千之助がぽつりと言った。


「…兄上、おれ、明日帰るよ」














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