第22話 噂


トクン…。

  トクン…。


 心地よい音が祐之進を揺り起こす。いつまでもこうしていたいような暖かくて甘やかな微睡の中から祐之進の意識はゆっくりと浮上しようとしていた。


 温かな手触りのここは何処だろう。

 それに日向の匂いがする…。

 これはアオの匂いだ。


 祐之進は安堵と共に胸の何処かが切なく痛んだ。頬に触れるものの心地よさに、それが何か確かめるように撫でていた手が止まる。


 これは人肌…?


 祐之進が目覚めた場所はアオの胸の上だった。思いもしない場所での目覚めに咄嗟に羞恥した祐之進が身を起した。障子ごしの朝日に晒されたアオの顔を見れば昨晩の悲壮感や苦悶の表情は和らいで、今は静かな寝息を立てていた。


 ああ!そうか。

 昨夜二人で抱き合って泣いているうちにそのまま眠ってしまったのか。


 気恥ずかしい気持ちになりながら、祐之進はアオを起こさぬようにそっと寝床を後にした。廊下に出ると眉尻を下げた情けない顔の浜路が廊下をうろうろとしているのに出会した。


「浜路!何をしているのだ」

「ああ、若様おはようございます。いえね、あの方着物がダメになってしまったでしょう?だから浴衣をお持ちしたんですけど…」

「ならば入ってくればいいだろう」

「だって若様…」


 浜路はアオが怖いのだ。こう言うところだけは憎めない浜路の可愛い所でもある。


「其方は口では強気なことを言うくせに、案外弱虫なんだな」


 そう言って浜路が重ねて持っている浴衣に目をやった。それらに祐之進は見覚えがある。


「…ところでその浴衣は…」

「はい、若様の浴衣です。あの方は若様よりも尺があるので少し小さいとは思いますが、素っ裸よりはマシでございましょう」


 素っ裸…。


 その素っ裸の男の上で己は眠っていたのかと思うと今更ではあったが顔から火が出た。


「は…浜路、ところで中洲の火は消えたのか?」


 アオを連れ出すことに無我夢中であれから中洲がどうなったのか気にかかる。


「それなら文吾が明け方見に行きましたよ…もう火は消えていたそうですが…」


 浜路の話途中で祐之進は縁側に脱いである下駄に足を突っ込んだ。


「…ちょっと!若様?中洲に行くんですか?私を一人置いて行かないで下さいましっ!」

「すぐに帰ってくる。それより浴衣、部屋に持っていってやれ。寝ているから起こさぬように!」

「え?ちょっと!若様…?若様ー!」


 何やら騒いでいる浜路の声を背中に受けながら、祐之進は裏庭を飛び出していた。河原に着くと確かに中洲の火は消えていた。独特の焦げた臭気が漂い、まだ少し燻っているのか所々から細い煙が立ち昇っていた。

 河原では何人かの村人たちが中洲の様子を遠目に眺めてあれやこれやと噂話をしている。祐之進が近づくと、皆ピタリと口を閉じて家老の子息に会釈をした。祐之進も軽く会釈をし返すと、村人に話しかけてみた。


「つかぬことを聞くが昨夜この河原で怪しい者を見なかったか?」


 祐之進はアオを嫌う村の者が火をつけた可能性もあると考えていた。だが村人は互いに顔を見合わせているばかりで誰も何も言わない。そこへ村の治安を任されている五人組の一人である乙次郎が祐之進の元へとやって来た。


「若様!とんだことになりましたよ。さっきから村の者等に話を聞いていたんですがね、昨夜ここいらでは見かけたことのねえ黒い編笠の男が鬼の所を訪ねて来るのを見たそうで、なんでもそのすぐ後に火の手が上がったとか、その黒い編笠の男がどうも怪しいんじゃ無えかって皆で言っていたところでしてね」

「黒い編笠の‥.男?」

「はい。黒い編笠で黒い合羽を着て、ずぶ濡れになりながら中洲に渡って行ったと言うんでさ。それがなんと腰に刀をいていたそうで…渡世人か侍か…とにかくいかにも怪しい男だったそうですよ」

「その男の事、調べているのか?」

「十人組の連中が手分けして探してはいますがね…どうも埒があきそうもありませんで参りましたよ。これが中洲だったから良かったものの、村に付け火をされちゃあねえ」


 その言葉が祐之進には引っかかった。中洲なら良いのか。アオならば焼け死んでも関係はないのか。いや、聞くまでもない。恐らくはそうなのだろう。


「いや、おれはあの野郎がいつかこんな騒ぎを起こすんじゃ無えかって心配していたんだよ」

「他所もんは何を仕出かすか分かったもんじゃないからねえ、鬼の遺体も見つからないって言うじゃないか。まだその辺にうろついているんじゃないのかねえ、恐ろしや恐ろしや!」


 一人が口を開くと次々とアオの事を悪く言う口さのない村人達。祐之進は居た堪れず言い返した。


「アオが付け火をしたと決まっていないだろう!いい加減な事を申すな!それにアオは今、私の屋敷だ!其方らは心配せずとも良い!とにかく、はっきりせぬうちから変な噂を広めてはならぬ」


 そう言うと慄きの表情を見せている村人を掻き分けるように祐之進はその場を離れ川縁へと猛然と歩いた。その後ろ姿から怒りの波動が立ち昇っていた。そう、村人が心配するのはアオの事ではなく鬼が悪さをしないかと言う事だけなのだ。何もしていない心優しき中洲の鬼の事を…。


 岸辺から臨む中洲は遠くから見るよりも更に悲惨な姿を晒していた。ついこの前まであそこでアオと共に暮らしたのだ。その小屋も焼け落ち、竿や魚籠や些細ではあったが二人の思い出の品が焦げて無残な姿で岸辺に打ち上げられている。その中には見覚えのある木箱も流れ着いていた。


「あれは…」


 確かあの箱の中にはアオが大切にしている念者の遺髪が納まっている筈。祐之進は急いでそれを拾い上げた。蓋を開けるとやはりそこには紙に巻かれた遺髪が雅な布に大切に包まれて鎮座していた。それは奇跡的に水に濡れることも焼け焦げることもなく安らかな寝姿で納まっていた。




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