第23話 初めての口付け

 拾い上げた木箱を懐に抱え、祐之進は屋敷へと戻ってきた。アオの傷を診に来たらしい文吾が部屋から出てくると庭先に立っていた祐之進に会釈を寄越す。


「文吾、アオの様子はどうなのだ。傷の様子は…」

「へえ、一日おきに薬を塗れば身体の方は時期に良くおなりに…」


 身体の傷の方は…。文吾が言葉を濁した。

それだけ言うと文吾は血のついた布の浮かぶ水桶を抱え、縁側に登って来た祐之進の前をそそくさと退散して行った。


 祐之進は静まり返った部屋の障子に目をやった。この向こうには心身共に傷ついたアオがいる。きっと目が覚めているに違いない。何と言葉を掛けようか、何事も無かったように明るく振る舞うべきなのか。神妙な面持ちで接するべきか。そこに己の見知らぬアオがいると思うと、障子にかけた祐之進の手が開けることを躊躇った。


「若様…」


 その時、声をかけてきたのは浜路だった。


「お帰りなさいませ、中洲の様子は如何でしたか?」

「うん、確かに鎮火はしていたが、火の出る前に怪しい男を見た者がいるとかいないとか」

「まあ、何だか恐ろしい話ですねえ」


 浜路は大袈裟に顔を顰めて見せた。


「まだ詳しいことは何も分からぬから滅多なことを言いふらすなよ浜路」


 お喋りな浜路に釘を刺しながら祐之進の視線が浜路の手の上の盆に注がれた。見れば握り飯が四つと湯気のたつ湯呑みが二つ。

丁度二人分と言ったところか。


「あ。ああ今ですねぇ、朝餉あさげを持って参ろうかと…、ですがちょうど良かった!若様がこれをお持ちに…」


 浜路はここぞとばかりに盆を祐之進の胸元に押しつけた。恐らくは己が帰って来るのを待ち構えていたのだろうが、祐之進にとってもちょうど渡りに舟。「分かった分かった、持って行くから下がっていいぞ」と浜路から盆を受け取り覚悟を決めて祐之進は障子を開けた。


「アオ、おはよう!腹減ったろう?握り飯があるぞ。一緒に食べよう!」


 祐之進は殊更に明るく普段通りに声をかけた。その声は確かにアオの耳に届いていた。だがアオはぼんやりと昨夜見たのと同じ天井を見つめているだけで反応が無い。祐之進が朝方部屋を出て行った事も、下男が傷の手当てに来た事もアオは分かっていた。分かっていながら言葉一つ出てこないのだ。祐之進がこうして己に朝食を持って来てくれたと言うのに、何の感慨も湧いてこない。まるで感情が何処かへ行ってしまった木偶人形でくにんぎょうようになったみたいに布団に仰向けに寝転がっているだけだ。


「傷は痛むか?なに、文吾が大丈夫だと太鼓判を押してくれた。じきに良くなるから心配するな。それに暫くはここにいると良い、私と浜路と文吾だけだからな、何の遠慮はいらないぞ?好きなだけいたら良いんだ」


 アオが何も喋らない分、先程から祐之進は饒舌だった。喋っていないと居た堪れなくなりそうで怖かったからだ。


「握り飯が喉を通らんのなら、せめて温かい茶はどうだ?」


 そう言って、傍の盆から湯呑みを取って差し出してみたがアオの視線はそこには無い。その様子を見るにつけ、祐之進はあれは付け火や火の不始末ではないのだと悟った。考えたくはないが、恐らくアオは自ら命を絶つつもりでその手で火を放ったのだ。


 だが何故?


 これまでも多くの謎を孕むアオであったが恐らくはこの一件も彼は己の心一つに仕舞い込んでしまうのだろうか。

 祐之進は早くも会話が尽きて湯呑みは所在なく盆へと戻された。アオは酷く何かに傷ついていることは確かだったが、その訳を聞くことは祐之進には出来そうも無かった。この静けさに胸が痛む。今アオは何を思っているのだろう。そう思っていた時だった。掠れた小さな声でアオがポツリと言葉を溢した。


「…母が死んだのだ。恐らく俺のせいで…」


「………え?」


「母は病がちな人だった。それなのに…俺が仇討ちなどして心労をかけてしまったのだ」


 祐之進は言葉を失った。不幸を重ねた挙句に母親までもが亡くなったとは。アオの全てを知っている訳ではないが、断じてそれはアオのせいではない筈だ。祐之進はそう思いたかった。


「そんな…そんな風に考えてはダメだ!そんな風に考えていたら己の命が幾つあっても足りぬぞ!ーーだって…」


 だったそれならば鴇忠殿が亡くなった時も、幹尚を斬った時もアオは死ななければならない事になる!その言葉を祐之進は飲み込んだ。


 ああ、そうなのだ…。

 アオはずっと死にたかったのではあるまいか。


 そう思った途端、祐之進の抑えて来た感情が膨れ上がった。


「死んではならぬ!アオ、其方は死んではならぬ!」


 己でも思いがけない行いだった。祐之進は咄嗟にアオの首に縋りその乾いた唇に口付けた。このままではいつかアオまでもがいなくなってしまうのではないかと、そう思った途端に頭が弾け身体が動いていた。恐らく祐之進にはそれは人生で初めての突発的な衝動だったのだ。

 その時、初めてアオの瞳が揺らいだ。己の唇にアオの熱を感じながら、上目に見た彼の瞳の動揺に祐之進はカッと身体が熱くなる。その時になって初めて祐之進は己のした事の重大さに気づいた。咄嗟に口元を押さえた祐之進は慌ててアオから飛び退った。


「…っ!す、すまぬ!」


 己が思うよりその動揺は激しく、みっともなく畳に足を縺れさせながら祐之進は部屋を飛び出していた。













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