第15話 恋煩い
己を顧みろと父は言った。だが何をどう顧ればいいと言うのか。静養で来た田舎に不満タラタラでまともに向き合おうとしなかった事か、浜路の言う事も聞かずに中洲の鬼と親しくなった事なのか。理不尽な村人と衝突した事なのか。省みろと言われたが、そのどれもが心当たりでどれも違うように思える。色々と考えれば考えるほど祐之進の頭は混乱した。
元を正せば中洲の鬼がなぜそう言われているのか気になっただけなのに、彼が思いがけず善人で鬼とは似ても似つかないのに虐げられて、其れが祐之進には許せなかった。それだけなのだ。もしも、省みろと、反省しろと言うならば、それはアオと共に暮らしている事一点のみ。アオを好きになったことが悪いわけではない。
でもーー。
自分は何処に向かおうと言うのか。いったい何になりたいのか。己は恋をしてしまったのか。
ならば…、恋とはいったい何なのだろう。
祐之進の頭の中は様々な思いが逆巻き焦点はぼやけ、混乱を極めていた。
その頃アオの心配の種は盛んに芽吹いていた。父親が来たと言って中洲から連れ出されたきり祐之進は幾日も音沙汰がない。中洲は誰の声もせず、鳥の囀りと川のせせらぎが聞こえるのみで、今頃どうしているのか気にかかる。そう思う一方、これでアオは心の平安が戻って来るのではないかと考えてもいた。
己は元々一人。これで良い。
心からそう。思う気持ちに嘘は無い。嘘は無いが祐之進のうるさいほどの己への干渉が酷く懐かしくもある。僅かでも共に暮らした祐之進との日々は、必死に情と言うものを遠ざけて来た二年間を易々と飛び越えてしまう。断ち切れぬ人の温もりへの執着は平安とは真逆にアオの心を千々に乱れさせていた。
やる気も失せて小屋の真ん中に寝転がり、風に煽られてはためく
だがその前に、許されるならば今一度祐之進の顔を見たい。いつの間にか祐之進の存在と言う爪が深くアオの肉に食い込んでいた。己の心の弱さ故、祐之進を遠ざけ切れなかった。
後悔するにはには遅すぎたのか?
そんな取り止めもなく湧き出ずる思考の泉を掻い潜り、河原の方から馬の
「祐之進か!」
アオは急いで小屋の外に飛び出していた。
だが川の向こう岸にいたのは祐之進ではなく、祐之進に面差しがよく似た侍が馬上でアオに厳しい眼差しを向けていた。
「鬼と言うのは其方の事か。わしは狭山藩が家老、田村孫左衛門という者。
祐之進の父だ!其方と少し話がしたいのだ!」
思いがけない人物の登場にアオは驚いていた。まさか足袋を脱いで袴を捲り、中洲まで来て欲しいとは頼めずに、アオが川を渡って孫左衛門の元へと参じた。
孫左衛門は馬を降りていた。アオと同じ目線で話そうと言う事は、少なくとも真摯に話を聞いてみたいと言う孫左衛門の気持ちの表れでもあった。江戸とこの村とは二十里余り、速馬でこの村に駆けて来ても
「其方の事は家中の者に調べさせた。其方は井上藩、
久しぶりに父の名前と捨てた筈の己の名を他人から聞いた。
ならば他藩にまで轟くあの醜聞を耳にしたと言うことか。
アオの顔から一気に血の気がひいていた。
「あの中洲で寝食を共にしていたと言う事は、
鋭く真っ直ぐに胸を突く孫左衛門の問いに一瞬でアオの足元が竦んだ。
「いえ、違います!誓ってそのような仲にはございません!」
アオは咄嗟に孫左衛門の足元に
「では何故に倅はここで其方と暮らしているのだ」
「それは……、私の不徳の致すところです!祐之進殿は悪くはありません!孤独な侘び住まいの私を祐之進殿が憐れんで下さった。
ただそれだけにございます」
「真にそうか。あのような騒ぎを起こした其方の言葉を信じよと?」
何処までもべったりと張り着いてくる己の罪は、拭っても拭ってもアオから決して離れる事はない。アオはゆっくりと覚悟を決めた眼差しで孫左衛門を真っ直ぐに見上げた。
「ならば、私の話を聞いて下さいますか。その上で一つお願いしたき事があります」
「今日中に江戸にとって帰さねばならぬ故、長くは聞けぬぞ、それでも良いか」
アオは「はい」と言うと、深々頭を下げてから石ころだらけの河原に正座した。
父とアオが河原で会っていることなど露ほども知らない祐之進は、父の言いつけ通り真面目に部屋で書物を相手に残り僅かな夏を惜しんでいた。
「今頃アオは私を心配しているだろうか。どう過ごしているだろう。そう言えばアオは冬もあのような掘建小屋で過ごすのだろうか。
私の方が心配になってきたぞ」
己を顧みるのにもそろそろ飽きてきた祐之進は不甲斐なくもずっとアオのことを考えていた。
「そう言えば、アオの話の続きが気になる。あれからが肝心であったのに、何も聞かずに一生ここで過ごすのか?これでは蛇の生殺しではないか」
いったい何時迄ここに閉じ込めておく気なのか、どう言えば父は納得してくれるのか。祐之進は障子を少し開けて外を見るが、今日何度目か、文吾が箒で綺麗な庭を更に綺麗に掃いていて、祐之進の顔が見えたと思うとペコリとお辞儀をしたのだ。しっかりと文吾は務めを果たしていた。祐之進はため息をつくより他はなかった。会えぬとなれば余計に恋情は募る。どうにかして文吾にも浜路にも見つからずに屋敷を抜け出す手立てはないものか。
ああ。アオに会いたい!
顔を見て、言葉を交わし、其方が好きだと告げてみたい。アオのことを兄者と呼んでみたい。
八畳一間には今にも溢れて行きそうなほどのアオへの恋慕が充満していた。
どうせ溢れるならば、それに乗ってアオの元まで流されて行きたい。
そんな愚にもつかぬ事をずっと考え続けてしまうのだ。会えぬもどかしさに身も心も焦れて焼き付いてしまいそうだった。恋煩いという病に祐之進はすっかり蝕まれていた。
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