第16話 危うい心と寄り添う気持ち

 一方河原ではさっきからアオが祐之進のまだ知らない過去の話を包み隠さず孫左衛門に打ち明けていた。アオが孫左衛門に語った事は、一つは孫左衛門が聞いた話のままだったが、その後に続く後日談は孫左衛門の心を深く揺さぶった。それを聞かなければ、恐らく祐之進の蟄居ちっきょを解く事も、アオに会わせてやろうとも思わなかっただろう。

 弱々しかった朝の光は、アオが話し終えた時には真上に照り輝いていた。今まで誰にも話さなかったアオの過去。まだ祐之進さえ知らないアオの罪。それらを全て包み隠さずアオは孫左衛門に告白していた。話し終えたアオの落ちた肩に孫左衛門が慰めるように手を置く。


「其方の言い分はよく分かった。其方の苦悩も理解できる。真に不幸な話しだが罪は贖わねばならぬ。だが其方は誰よりも罪の重さを知り、また深く悔いている。許されるべき人間だとわしは思うぞ。其方はまだ若い。其方自身が償えたと思える日が訪れる事をわしも祈ろう」

「勿体ないお言葉…かたじけのう存じます」


 思いがけぬ優しい孫左衛門の言葉にアオは涙ぐみ、深々と孫左衛門に頭を下げたていた。


「村の者が言うように、其方が本物の鬼であったなら、ワシも容赦はせぬつもりでここへ参ったのだ。其方の話が聞けて良かった。して、先程其方は一つだけ願う事があると言ったが申してみよ。どのような事か」

「私はもうすぐにここを立ちます。そしてここには戻りません。祐之進殿にも会う事はないでしょう。先程は衆道の間柄かとお尋ねになりましたね。違うとお答えしましたが心の中ではそうではないのかもしれません。盃も契りも交わさずとも私にとって祐之進殿は大切な友。あと少しだけ、この夏が終わるまで、友として過ごさせて頂きたいのです。

そして私の語った今の話は祐之進殿には…」


 この一夏だけ、血の通う人並な人生を覚えておきたい気持ちが湧いていた。額を砂利に擦り付けて嘆願するアオの姿に浮つくものは微塵も感じられない。孫左衛門とて一縷いちるの情けくらいは持ち合わせている筋の通った武人だった。分かったとアオの申し出に頷いた。


かたじけのう存じます!その時が参りましたら、必ずお知らせ申し上げます!その時はどうぞ、祐之進殿を…っ」


 感情の昂りを堪えきれず、その後の言葉をアオは紡ぐ事が出来なかった。


 アオに会った後、孫左衛門は祐之進に会う事なく江戸へと戻っていった。そして数日後、突然祐之進の蟄居は解かれた。その裏で、父とアオが何を密約したのか知らない祐之進は一抹の疑念はあれど、単純に喜んでいた。


 これで漸くアオに会える!


 アオに逢いたい一心で外に飛び出すと中洲への道々、赤蜻蛉が連なり飛んでいるのが見えた。部屋に閉じこもっていた間にも秋は直ぐそこまで近づいていた事を祐之進は実感した。



「アオ殿!アオ殿ー!」


 土手をかけ下る祐之進の心はアオへと逸っていた。中洲に小さくアオの姿が見えると、思い切り手を振りながら馴染みのある川の道筋を水飛沫を上げて駆けていく。着物がびしょ濡れになっても、夏とは水温の違う川の冷たさも、この時の祐之進には感じなかったに違いない。

 中洲で待つアオもまた、一目散に駆けて来るアオの姿に目頭が熱くなるのを禁じ得ずに待ち構えた。祐之進の心の中にはいつの間にか恋と言う名の花の蕾は膨らんでいた。それは会えない時間に露を含み、美しく花びらを開き始めた蓮の花のようだった。中洲に上がって来る祐之進は少し痩せたように見えた。


「ただいまって言ってもいいか?アオ…」


 息を弾ませる祐之進にアオは温かな眼差しで微笑んだ。


「…お帰り祐之進」


 其々孤独に過ごした虚しい時間が氷のように溶けて行く。アオの両腕が自然と祐之進を迎えようと伸ばされたが、孫左衛門や鴇忠の顔が頭を掠め、複雑な思いに囚われてついぞ抱きしめる事は叶わなかった。


「こんな荒屋あばらや暮らしがそんなに懐かしかったのか?お主も変わり者だな、綺麗な屋敷で美味いものを食って、柔らかな布団で眠れる方が何倍も良いだろうに。好き好んで戻るとは、俺が思っているより馬鹿なのだなお主は」


 心にもない事を言って笑うその心が違う場所にある事を祐之進は知っている。


「アオこそ、そうやってののしる相手がおらずに退屈していたのだろう?可哀想だから戻って来てやったのだ」


 今にもその首に飛びつきたい気持ちで、祐之進も軽口を叩いて笑った。その夜は焚き火を囲んで、離れていた間に起こった些細な出来事をとりとめもなく語り合った。

 浜路の握り飯とアオの釣った魚と互いの笑い声で満たされたが、ここに戻ったらアオに好きだと告げようと祐之進は心に決めていた。なのになかなかそれを言い出せず、ただアオの隣に寄り添って座っていた。黙りこくった二人の間の流れる時間の中。そこに含まれる祐之進の恋心をアオは気づいていたが、それに応えることは出来ない事も同時に良く知っていた。二年前のあの事が無ければきっと何も考えずに、幸せな気持ち一つで抱き合えていたのかもしれない。すまぬと祐之進に心で詫びながら、それでもきっぱりと縁を切れなかった己の弱さが酷く恨めしかった。

 祐之進は祐之進で、アオの気持ちを測り兼ねていた。念者が切腹させられた心の傷が浅いはずがない。なのに急に祐之進を拒絶しなくなったアオ。どこまで自分は踏み込んだらいいのか…。きっとその傷口はまだ塞がってなどいないだろう。それなのに己が出しゃばって告白など厚かましくて出来ようか。だが、一方では例え受け入れてもらえずとも、この気持ちをアオに伝えたいと思う祐之進もまた複雑な思いに揺れていた。


 語り尽くし、いつしか焚き火の前で、二人は折り重なるように眠っていた。真夜中、煌々と照らす月明りにアオはふと目が覚めを誘われた。己のかいなを見下ろせば、寝息を立てる祐之進の閉じられた睫が震えている。あどけない顔立ちの中にはいつか凛々しい美丈夫となるだろう片鱗が見える。あの日雨に濡れて震えていた祐之進の身体を己の肌で温めた事をアオは思い出していた。


 あの時は我ながら大胆な事をしたものだ。もしもあれが今ならどうだったろうか。誓いも節度も約束も鴘忠の事もかなぐり捨てて欲望の赴くままに祐之進を…。


 そう思いかけ、その恐ろしさに息苦しさが込み上げた。アオは祐之進の匂いのする寝床から起き上がるとそっとその身体を手放した。熟れた頭を冷やしたくて外に出るとひんやりとした夜霧が身体を包んだ。そこに座り込み、小屋の華奢な支柱に凭れてアオは無理矢理目を閉じた。朝まだき、御天道様が登るまでの束の間の時間、アオは浅い眠りに落ちていた。眠りの底で、アオは遠い昔に放った己の声を聞いた。



「亡き鴇忠殿の仇!お命頂戴仕つかまつる!ーー御免!」


 そう叫んだその刹那、目の前に散る真っ赤な血飛沫にアオは慄き飛び起きていた。








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