第11話 押しかけ女房
「私は大したことはないが、
そう聞かれて大したことはないと言うアオの顔は、あちこち擦り傷が出来、痣には血が滲んでいた。
「私よりも悲惨じゃないか!今薬を持ってくるから」
屋敷へと戻ろうとする祐之進の腕をアオは引き留めた。
「良い、必要ない。お主が無事ならばそれで良い」
そうアオが言った後、何故だか二人とも黙りこくってしまった。先に沈黙を破ったのは祐之進だった。
「アオ、いやアオ殿。其方に…いったい何があったんだ。どうして中洲なんかで一人で暮らしているんだ?」
「……簡単には言える話ではない。それに殿は要らない。呼び捨てにしてくれ」
「でも…」
「祐之進。中洲にはもう来るな。俺は今夜それを言いに来た」
「…どうして」
「どうしても」
風もないのに祐之進の中を風が駆け抜けた。
「今までありがとう。そしてすまなかった」
それだけ言うと、アオが灯した提灯の灯りが遠ざかって行くのが滲んで見えた。言いたいことは沢山あるのに、どれも言葉にはならない。祐之進はアオの背中を呼び止める事すらできなかったのだ。草を踏む音が遠ざかり、祐之進は一人、夜のしじまに取り残された。
悲しくはなかった。これはアオが一方的に押し付けた結末だ。何一つ自分は納得していないのにアオの言いなりにはならない。何故だか祐之進はこれで終わる気がしなかった。この聞き分けのない子供のような強固な執着の正体が何なのか、この時はまだ祐之進には分からなかった。
「若様!なんて事を!浜路は許しませんよ!」
翌朝の浜路の第一声がこれだった。
「文吾!文吾!早く若様をお止めして!」
浜路は下男の文吾の袖を引っ張りながら祐之進の寝所まで引きずって来た。右往左往するばかりの文吾の前で、祐之進は大きな
「止めても無駄だ。私は今日から中洲で暮らす事にした。このままでは引き下がれない!せめて私の納得する答えが得られるまでは帰ってはこない!」
祐之進は昨夜のうちに中洲で暮らす事を決めていた。こんな中途半端にアオから放り出されるなんてどうしても嫌だった。せめてアオに何があったかどうしても知らずにはいられない心境だった。そんな祐之進の傍らで浜路は青筋を立てて怒っていた。
「昨日浜路が言った事何一つ分かって下さらなかったのですか!こんな馬鹿な事お止めください!」
祐之進が狐狸に荷物を一つ詰めれば浜路に放り出され、また詰めては放り出され、二人は愚かしいその行為を繰り返した。
「もういい!こんなもの持たなくとも暮らして行ける!アオだって最初は何もなかったんだ!」
最終的には短気を起こした祐之進は荷物を放り出して屋敷を飛び出していた。
よもや祐之進がこんな決意を固めて中洲へ来ようとしているとは知る由もないアオは、昨夜の祐之進との別れ際の事を考えて心ここににあらずだった。釣り糸を垂れてはいるが、さっきから魚が引いているというのに一向に引き上げる様子もなく、己の心模様のような複雑に綾なす水面をただぼんやりと見つめていた。
訳あって今まで人を遠ざけていたものを、祐之進に限って何故許してしまったのか己の心に問うていた。自分と関わっても良い事など一つもないのは分かりきっている。それどころかこれ以上親しくなればお互いこの先にあるのは苦しみだ。これで良かったのだと繰り返し己に言い聞かせていた。
…だと言うのに、これは幻だろうか。
「おはよう、アオ!」
己の隣にはいつの間に居たのか笑顔で川面を共に覗き込む祐之進が座っていた。
「うわあっ!なんだお主は!何でここにいるんだ!!」
祐之進が近づいて来た気配は感じなかった。暫しアオは思考が停止した。
「アオ、ほら魚が引いているぞ」
「え?!あ!」
慌てて竿を引き上げたが魚は寸での所で逃げられてしまった。勢い余って立ち上がったアオが驚愕の面持ちで祐之進を凝視した。
「お主、何でここにいるんだ!俺は昨日もう来るなと言ったはずだぞ!」
「私もここに住む事にした」
「はあ?!何を言っているんだ!そんな事俺が許すと思うのか?帰れ!」
「帰らない!」
「か・え・れ!」
「帰らない!」
お互いに対峙して一歩も引き下がる気配は無く、実りのない押し問答が永遠と続いた。祐之進は口をへの字に曲げ、アオはアオで怒髪天を突くような形相だった。
「ここは其方の土地じゃ無いだろう?勝手に住んでいるのだから私だってここに住んでも良いはずだ!」
「自分が暮らすのに精一杯なんだ!お主の面倒を見る気はないぞ!」
「面倒を見て欲しいなどと言って無い!嫌なら私の事など放っておけば良いじゃないか!」
食い下がって来る祐之進の放つ言葉はどれも正論に思えてアオは二の句を告げられない。だがハイそうですかと素直に納得するわけにもいかず、アオは最後に捨て台詞を吐いてそっぽを向いた。
「お主は早く大人になりたいとか抜かしているくせに、やることは聞き分けの無い子供じゃ無いか!お主がここまで頭が悪いとは思わなかった!勝手にしろ!」
祐之進はきっと直ぐにこんな環境に耐えきれずに逃げ出すはずだ。アオはそう軽く考えていた。だがこの日から家老の息子が中洲の居候になってしまったのだ。
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